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茂木先生の天皇に関する解説です。天皇の謎を10代の頃から40年間に渡り探求してきた茂木先生。その40年間で知り得たことをここで共有してくださいました。天皇はどこから来たか?文庫版『政治思想マトリックス』(PHP)6/5発売https://amzn.to/43RmWXM『日本人が知らない!世界史の原理』(ビジネス社、宇山卓栄先生と共著)https://amzn.to/48rUyMN『日本思想史マトリックス』(PHP研究所)https://amzn.to/46oZz8lyoutu.b
「大和と日本」の謎:その37◆「日本国」と「倭国」の併合中国の歴史書『旧唐書』には「倭国伝」と「日本伝」の2つが別国扱いで記述されている。そこには「日本国は倭国の別種なり。その国は日辺にあるゆえ、日本をもって名をなす」と記されている。つまり「倭」と「日本」は別の国だったと認識していたのである。「倭国伝」は「倭国は古の倭奴国なり」と始まり、末尾は648年の記事で終っている。これに対し「日本伝」は、「日本書紀」などの記述と矛盾せず、飛鳥・奈良時代の大和政権のことであることがあきらか
2024年6月28日今日の気分は?頭に浮かんだ今日のうれしかった気持ちを書いてみましょう昨日が誕生日だったので嬉しい。今日うれしかったことうれしかったことを写真と一緒に共有してみましょう列島の文化は、中国の倭族と似ている。湖北省恩施土家(トゥチャ)族苗(ミャオ)族自治州宣恩県の彭家寨景勝地では、古めかしい木造高床式住居「吊脚楼」と初秋の棚田が情緒あふれる風景を織りなしている文明の母は米作じゃなくて麦作というイメージを決定的にしたのは、古代中
「大和と日本」の謎:その36大嘗祭は、天皇陛下が即位後初めて新穀を皇祖・天神地祇(てんしんちぎ)に供えられ、親(みずか)らも召し上がり国家・国民のためその安寧と五穀豊穣などを感謝し祈念される祭祀で御一代一度の特別な新嘗祭である。皇室の祭祀の中でも、古来より最も重要なお祭りとされてきた。神社庁では、大嘗祭について、以下のように説明している。大嘗祭で最も重要な儀式は、その年に国内で採れた新穀を、天皇陛下御親らが皇祖・天神地祇に供し奉り、国家・国民の安寧と五穀豊穣に感謝し、また将来もそ
こんにちは、元気ですか(・・?卑弥呼は◯◯族だった!同盟国扶余に嫁いでいた【邪馬壱国】卑弥呼は◯◯族だった!同盟国扶余に嫁いでいた【邪馬壱国】ご覧いただきありがとうございます💗📖この動画の参考書籍📖鹿島曻著書「倭人興亡史」「邪馬壱国興亡史」石原道博著書「新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝」房玄齢等著書「晋書」東洋文庫「三国史記1新羅本紀」佐治芳彦「邪馬臺国抹殺の謎」鈴木武樹著書...www.youtube.com
邪馬台国論争ジャワ、スマトラ説先日、久しぶりにバザーに行って、本を2冊(まぼろしの邪馬台国・宮崎康平著、失われた九州王朝・古田武彦著)買ったが、嬉しいことに本の中に内田吟風氏の邪馬台国に関する古い新聞(朝日新聞・1975.01.27と思われる)の切り抜きが挟まっていた。内田氏は神戸大学名誉教授(アジア史)を務められた方で、邪馬台国に関して「ジャワ、スマトラ説」を唱えておられた。そこでさらに南下して朝鮮より五千キロの地点に邪馬台国を探し求めると、ここはまさにジャワ、スマトラの大スンダ
いよいよ倭人が大陸に渡って。倭連邦を構築するその歴史と合流するのですね裏で起きている歴史への介入との合流も着々と進んでいるようですねということはやはりトランプは本部に匿われていると言うことですね
【ゆっくり解説】倭国は日本とは全く別物!?日本人の祖先「倭人」の真実とは?【ゆっくり解説】倭国は日本とは全く別物!?日本人の祖先「倭人」の真実とは?このチャンネルでは「古代史」をテーマに配信しています。ぜひチャンネル登録して動画を待っていただけると嬉しいです!▼チャンネル登録http://www.youtube.com/channel/UCYZWHBb5eDop_fhMFK9qAkA?...youtu.be
邪馬台国候補地いよいよ最後の謎、伊都国を「ソウル」と」仮定した時、邪馬台国、投馬国、狗奴国はどこか?ここで「伊都国」から先は放射説を思い出してもらいたい。邪馬台国:伊都国から水行10日、あるいは陸行1月投馬国:伊都国から水行20日狗奴国:女王国の南始めに邪馬台国について考えてみよう。伊都国から邪馬台国まで南へ水行10日というが、当時の倭人の船で1日平均どのくらいの距離が航行できるか全くデータがないので、その距離を把握しようがない。さらに、水行が沿岸航行なのか、河川
いずれの御時にか「光る君へ」まひろと出会った男は果たして倭人か宋人か。おまえは蓮舫か。早く宮廷絵巻を見たいのだがその前にとりあえずまひろはおっさんと結婚しなくてはならないか。日曜日夕方のスーパーあちらでもこちらでも行く先々で子供が押しているカートにぶつかりそうになる。子供が蛇行しながらカートを押してその横で父親がヘラヘラしているパターンが多い。もう私怒りました。こういう輩には直接注意したところで意地悪なババアとしか思われな
※これ聞いたことがない人が多いと思うんですが、日本史としてはなかなか重要な話です。今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリなんですが、たいへん地味な話で、しかもオカルトにはほとんど関係がないので、古代史とか、こういうのに興味がある人以外はスルー推奨です。さて、何から話しましょうかね。みなさんは、日本が古代において「倭国」と呼ばれていたのはご存知だと思います。『後漢書』の東夷伝には、「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」と出てきます。「西暦107年、倭国
邪馬台国論争パプアニューギニア②【序】いわゆる邪馬台国論争における重要なポイントの一つが「パプアニューギニア」にある様に思えます。具体的に中国史書を元に見てみます(原文は記事末に掲載しています)。後漢書には「倭は韓の東南の大海の中にあって、楽浪郡から12000里の距離にある」と記されています。楽浪郡(現在の平壌辺りだとされます)から5130km(427.5m×12000里)、「韓」の東南の大海の中にあるのはパプアニューギニア付近だと考えられます。三国志(魏志倭人伝)には
華北平原に住んでいた倭人低地(山東)の東夷(夷=委)が倭人、人方高地(山西)の委人が巍(魏)、鬼方倭は稲玉を持って低く踊る様嵬は高いを意味する高宗伐鬼方。三年克之。殷の高宗(武丁)は鬼方を討伐し、三年してこれに勝利した。『易経』既済篇殷は鬼方、人方を攻撃していたが、殷もまた衣(夷)なり。夷人は良い着物を来ていたから衣人とも云い、(本来は)物腰柔らかく委と云う。鬼方は古羌であり、印欧語を話していたとも云われるが、匈奴の前身とする説もある。匈奴は断髪文身、夏后氏(夏王朝)末裔。
邪馬台国論争「倭の奴国と日本」【魏志倭人伝の女王国の場所】魏志倭人伝には、倭は帶方郡の東南の大海之中にあって、郡から女王国までは12000里だと記されています。倭人在帶方東南大海之中自郡至女王國萬二千餘里魏の時代の1里は434mだとされますので、帯方郡の東南方向で5200km(434m×12000里)の距離に在るのは、現在だとパプアニューギニア付近と言うことになるかと思います。奴国も倭の中の1つの国ですから、奴国もやはりパプアニューギニア付近にあったと考えられます。
「大和と日本」の謎:その6◆「倭人」と「邪馬台国」と「狗奴国」「邪馬台」の読み方は「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」である。邪馬台はヤマト、後の「倭」「大和」なのである。中国人による表記である邪馬台国の時代も日本は「二本」だった。大和朝廷が成立前の書である『魏志倭人伝』では日本人のことを「倭人」(わじん)と呼んでいるが、この「倭人」というのは、中国で用いわれた日本人の古称で、広く東方の異民族をさすともいう。「倭人」は、狭義には中国の人々が名付けた、当時、「倭国」に住んでいた民族または
聖徳太子ゲマトリア④「小笠原諸島」南洋踊りは小笠原諸島で見られる踊り。大正末から昭和初期にかけて、当時日本の委任統治領だった南洋諸島(サイパンなど)へ出かけたジョサイア・ゴンザレスが、現地の踊りを父島に持ち帰ったのが始まりとされる。(Wikipediaより抜粋)【俀王・阿每多利思北孤は誰か】聖徳太子は皇太子としての即位が、西暦593年5月15日、退位が622年4月8日で、中国では隋の時代(581年-618年)と概ね一致します。太子は、蘇我馬子(大臣)、推古天皇との協力体
那須遺体遺棄が逮捕者が芋づる式だ安定の拾い画像この手のジャンルは勘違いされて認識されるが社会の摂理の視点から見たら営業してきた請け負った奴が1人で中抜きしたから芋づる式に発注者まで発覚したのじゃないか??善悪の視点を持ってくる馬鹿多い世の中だが邪魔だから苛めてやれ!!を銭出すスポンサーが居るんだろうスポンサーは足付くとケチ付くのを嫌うので法外報酬を準備なのだろう…単純な話実行する最終作業員が順当な報酬貰って入れば下請けに出した中間もケチ付かなかった中間が欲だして中抜きしたか
・・・・・オオオ!一発でわかる!日本のむかし。一つ賢くなりました・・・・・私の歴史私説もよろしく『トロイ戦争のその後』最近、ブログを書いているとなんか変だなあと思う。好き勝手に書いていたつもりだったが、自由でなくなりつつある。であるから、また心を入れ替えて書きたいように書き…ameblo.jp
邪馬台国論争ラピタ人②「台湾」【序】ラピタ人は、「高い航海技術を持っていた台湾の原住民の一部が南下していき、パプア原住民と混血して生まれた人々」であり、そして彼らは「パプアニューギニアを起点として、東(東南、東北)へ向かい、現在のメラネシア、ポリネシア、ミクロネシアへと移住していった」というのが、前回記事の要約になります。したがってラピタ人の祖先は台湾とパプアの原住民だと考えられます。このことを念頭に、台湾の原住民について見てみたいと思います。画像と記事は関係ありません
邪馬台国論争ラピタ人【序】前回までの記事で魏志倭人伝が記述する「帶方群から萬二千餘里の位置にある女王国」がパプアニューギニア(もしくはビスマルク諸島)であり、朝貢を行った倭人がポリネシア語、マオリ語を話す人々であった可能性に付いてみました。以上を念頭に以下では、パプアニューギニアにはいかなる人々が住んでいたのか?を考えてみたいと思います。キーワードは「ラピタ人」となります。画像と記事は関係ありません【ラピタ人】ラピタ人(Lapita)の祖先は、「元々は台湾にい
邪馬台国論争パプアニューギニア【序】前回の記事で旧唐書が、倭国のある場所として記述する「京師(現在の西安)から一萬四千里の新羅の東南の大海の中」は、現在だとパプアニューギニアおよびビスマルク諸島に該当する可能性があることを見ました。倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中では他の中国史書の記述も見てみます。<魏志倭人伝>倭人、在帶方東南大海之中。自郡至女王國萬二千餘里魏志倭人伝では、「倭人は帶方群の東南の大海之中にあって、女王国までは12、000里」
倭地温暖前回の付けたし記事倭人伝に、倭国の風俗を述べた後に、「有無する所、儋耳・朱崖と同じ」とある。後漢書(5世紀撰)にも、「その地は、おおよそ会稽・東冶の東にあり」に続いて「朱崖・儋耳(たんじ)と相近しゆえにその法俗多く同じ」と記してある。謝氏は「相近しというのは、風俗が近いというより距離が近いという意味である」とする。謝氏によると、「魏志倭人伝に見られる儋耳・朱崖は海南島にある地名であり、海南島は今は広東省に属するが、その昔は中国辺縁部の異国的な地であった。九州より
邪馬台国論争「日本と新羅の祖」【新羅の祖】新羅の建国は前57年で建国の祖は、姓を「朴(ぼく)」、名を「赫居世(かくきょせい)」、王号を「居西干(きょせいかん)」という。赫居世は、卵から生まれ13歳で即位したとされ、重臣に「瓠公(ここう)」という倭人(瓢を腰に下げて海を渡って来たと伝承される人物)がいる。一方で日本側の伝承(「新撰姓氏録」右京皇別条)では、新羅の祖は稲飯命(いないのみこと)で、彼は鵜葺草葺不合命(うがやふきあわせずのみこと)の子で、神武天皇の兄にあたるとされる。両者
日本文化はレイヤー(多層or多重)構造になっていて、それぞれがある程度融合している混合文化的なものだと思います。どのような構造かというと、おおざっぱなものですが、とりあえず考え付いたのは以下のようなものです。第10層=明治~現在(欧米近代)文化第9層=江戸時代(鎖国)文化第8層=戦国~安土・桃山文化第7層=鎌倉~室町(南北朝)時代文化第6層=平安時代後期文化第5層=奈良~平安時代初期文化第4
この期に及んで、まだこの状況を放置するのは、日本を滅ぼそうとしているか、3次元空間自体を消し去ろうとしているかのいずれかです歴史に介入している流れは既に進行していて、それに基づくと、倭人は太平洋からその東にある大陸、更にはアトランティスに及ぶ広大な地域に分布するホモエレクトスである
おはようございます!今朝もふと。。湧いてきた疑問について私なりの思いつきをここにメモっちゃう。今日は「平和」この文字がふわっと湧いてきた。そもそも日本とは。。🤣言葉とは。。文字とは。。なんぞや?どっからきたんや。。。これ、子供の時からずーーーっと解消されない?(はてな)。文字の成り立ちやらは学校でやったけどその文字、言葉の音の元のもとが気になって。。とりあえずここのくだりは脇に置いておこうか。。。😆(ながくなるからね)そうそう「平和」漢字だけ見ると、「ひらたい
「NHKスペシャル古代史ミステリー第2集ヤマト王権空白の世紀」が放送されました。が、私としては物足りない内容です。そう感じた方も多いと思います。最近朝鮮半島でも発掘が進められ、東アジア各地の人骨のゲノム解析も行われるようになりました。昔のというより今の教科書では、『稲作・鉄器・漢字は朝鮮半島から』となっています。この番組もこれが前提でしょう。しかし、ゲノム解析では漢人と倭人との混血が朝鮮民族であり、対馬海峡をはさんで倭人の国々があった、稲作も鉄器も海を越えて倭人が朝鮮半島に伝えた、と
古代史ミステリー(NHK3/24放送)の第2集「ヤマト王権・謎の五王」を、先週に続いて見ましたが、あまりに杜撰で雑な番組編成に呆れてしまいます。テレビの画面タイトルには「空白の世紀」となっていて、出演者たちのセリフにも3世紀の卑弥呼以後、5世紀の所謂「倭の五王(生野先生の考察では6人!)」に至る間の4世紀が謎だと言っているのに、番組で紹介される内容はほとんど5世紀のことばかり。(つまり、謎だから口を閉じるってかぁ)文献史料で卑弥呼の後継者である臺与が266年に「晋」に朝貢して以来約1
埴輪餘王族の祖先は、遊牧民のスキタイと東アジアへ移動して来ましたから、スキタイの風習を倭国に持ち込みました。神武記(倭武大君時代)神武天皇の身長は3m15cmとされ創作人物です。「長髄彦と遂に決戦に勝てそうにも無い時黒雲が空を覆い、叩き付けるように雹が降ってきた」雹の倉を見たことがあるか。私は•••雹を、•••戦いと、戦争の日の為に蓄えた」。ヨブ38章22、23節高倉下命、高倉山(天香具山)の由来「金色の霊鵄が現れ、彦火火出見尊の弓の先に止まり、稲光のような
日本が百済を支配していた証拠?古代日本の権力層の墓の装飾品、首都圏で初めて発見2024.03.071500年余り前に、日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していたという事実が明らかになった。最近、彼らが墓に使う葬儀用品として使用されたと推定される日本の特産土器が相次いで確認されたためだ。地中の文化遺産を発掘し、調査する機関である大韓文化財研究院は6日、漢城(現ソウル市)に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦1