ブログ記事16件
(神奈川県横須賀市長沢)今日は9時頃起床、午前中室内で運動し、昼頃から海辺へ出て「一人キャッチボール」をした。海辺の公園の壁にボールを投げて自分でキャッチする遊び。なんだか急にやりたくなって、数年ぶりにグローブをはめた。それほどハードではなく適度な運動になるのがいい。まあ、この炎天下なので100球くらいで汗だくになり、家に戻ったが…。でも、波音を聞きながらの一人キャッチボールは実に気分がいい。また時間が出来たらやってみたい。「香天」(岡田耕治主宰)8月号に「抄出柳田
朝起きたら叔母から電話。足くじいたから夕方畑作業手伝ってくれと。実家の片付けも落ち着いてきて、一人で過ごす時間に変化がなくなってくると、気持ちが下がる。だから、こういうのは有り難い。昼間は原稿書き。教育について、考えていることを書いている。本になるかもわからないからさっさと書きたい。本にならなくても、文章化することは無駄なようで頭の中が整理されるので大事。昼飯は、真野にある「レストランこさど」。ここは、旅館に併設されているようだ。キレイで上品な店内で美味しくいただいた。夕方
俳句を作ったことはある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう↑こんな格好の俳人はいまでもいるのか?こういう格好が似合う背景は、将棋、茶道辺りでは雰囲気的に適合すると思いますが。俳句句会でこんな人居るの?俳句を作ったことはありません。川柳を作っています。五七五の十七音を定型とした短詩文芸。俳句…俳諧のの発句(第一句)が独立した物なので季語、切れ字がある。や、かな、けり。川柳…口語。俳諧連歌の付句が独立した物。下の句(七七)が無くてもおもしろおかしく
■8月19日は「俳句の日」「俳句記念日」。「は(8)い(1)く(9)」の語呂合せから、俳句の楽しさ・奥深さ・季節感の大切さなどを知ってもらい、夏休み中の子供達にも俳句に親しんでもらうため、正岡子規研究家・俳人の坪内稔典氏らが提唱し、俳句作家の上野貴子氏が主宰する「おしゃべりHAIKUの会」(世田谷区三軒茶屋2-54-3-204)が1991年に制定した。江戸時代に俳諧が流行し、松尾芭蕉(1644年~1694年11月28日)によって五・七・五の発句を重要視した。作品のうちでも有名な句として「
(神奈川県横須賀市長沢)俳諧連歌が盛んにおこなわれるようになった室町時代末期、「前句附け」というのが流行ったそうだ。「5・7・5・7・7」の形式の内、下句「7・7」が「お題」として出され、それに前句(5・7・5)を付ける、という遊戯的なものだ。例えば、切りたくもあり切りたくもなしという「7・7」のお題を出し、それに各自がアイデアを出し、「5・7・5」を付けるのである。例えば、俳諧の祖の一人と言われている「山崎宗鑑」(やまざき・そうかん)は、ぬす人をとらへ
10月27日(日)に始めて「武生の町屋」を公開したところ大勢の人にきていただきありがとうございました。JR武生駅から歩いて7〜8分のところにあります。帳場格子長火鉢銭場算盤文机硯燭台松尾芭蕉の弟子各務支考より文台を授かった上坂嵐枝を初代として17代までの宗匠の掛け軸など。離れ
今日は、三角バッグの本体と、内袋を縫い付けました。次は、上部のヘリに巻き革を付ける作業です。5mmの両面テープの助けを借りて、まず、内袋側に、皮テープを貼り付けました。最近ミシンの調子が悪いので、内側を先に付け、表側に折り返して、革が重ならないようにもう一度縫い付けました。本職なら、一度に縫えるのにね。残りは、革ベルトを作って、カシメで止めるだけ。適当な美錠が無いので、仕事はしばし中断です。本日の俳諧連歌。かなさんに教わった祢の漢字がここにも。「夜も須可ら
今日は、青の裂き織り地に、接着芯を貼り、4枚に分割してから、革帯を使って、縫い合わせました。底も革にしたので、外側部分を1枚に仕立てました。反対側は、見えませんが、底板・底鋲付けにいつも苦労するため、先に付けてみました。今回の底鋲は、ねじ式なので、ミシンをかけにくいようなら、いつでも外すことができます。ところで、昨晩は思いがけず嬉しいことがありました。山口の方でかな書道の先生をされている「かなさん」から、メッセージが届いたのです。なお、ブログはこちらおとといの
こんばんは、今日の神戸は、今晩になって雨がひどくなってきました。いつ台風の被害が出るのか分からないので、買い物に出かけなくてもいいように、前日に買い物をしました。思ったよりキャベツが足りなかったので、お好み焼きに入れたものは、なんとピーマン。でも、ピーマン入りのお好み焼きって、美味しいですね。意外な発見でした。本日の仕事は、「三角バッグ」に使う皮革部品を断つこと。底・肩ベルト・ヘリ巻き・中央の帯などです。青の裂き織布を使う予定ですが、幅が狭いので、横でつなぎ
秋の手織りの作品展のテーマ「三角」。ブログを読んでいただいた方に、アドバイスもいただきました。こちら月うさぎさん、有難うございます。着るものより、どうしてもバッグが作りたくなる私。やっぱり、これしかありません。いつものように、カレンダーで、作ってみました。「三角に見えなくもない?」でしょう。横から見ても、まちの形が三角。底からつまみ上げたところも三角。肩紐は、一本にして、美錠で止めるつもりです。徳島からやってきた息子一家は、徳島といえばこれよねという、「なると金時
今日、午前中にテレビを見ていたら、ゴーヤを使った料理を紹介していました。その一つ、「ゴーヤのかき揚げ」が、美味しそうなので、それに使う「紅ショウガ」は、ひょっとして梅酢で漬けるの?調べていくと、新生姜を梅酢に漬けるだけでいいそうです。ゴーヤが苦手な誰かさんをそそのかして、「梅酢ならあるし。」と、紅しょうがを漬けることに。瓶のふたが閉まらないほどいっぱい生姜を入れたのに、梅酢を入れると、空気が抜けて良い感じ。いい色です。結局、今日は「ゴーヤーの、チンジャオロースー
朝一で、梅干しを取り込みました。これを梅酢にくぐらせると、一応完成です。丁度良い蓋つきの陶器の入れ物が無いので、ガラス容器に入れました。柔らかくて、美味しそうに見えます。もう一瓶あります。赤い梅酢は、そのうち長芋にでも使うつもりです。モミ紫蘇は、もうしばらく乾燥させて、ふりかけにする予定です。暑くてげんなり。糸の方の手織り布を眺めるだけで、何もできず。ご先祖様の俳諧連歌の古文書の勉強は、頑張ろうかな。長い間、これが全く読めませんでした。「さみだれの」じゃあない
京都アニメーションへの放火事件は、アニメーションに詳しくない私にとっても、とってもつらい出来事です。阪神淡路大震災の時に、長男の知り合いの友だちが、生き埋めになったお母さんを助けられないうちに火の手が迫ってきて、火事で命を落とされたと聞いたときに、感じたショックと同じくらいの衝撃でした。毎朝、テレビで「なつぞら」を観ているので、まるで、そこが被害にあったかのような気持ちになったのは、私だけでしょうか。震災という災害なら、人の力の及ぶものではないけれど、今回は、
先日来、入院している母のもとを訪ね、ことのほか元気に話す様子に安心して帰ってきました。家に着くと、マンションの新しい住人になった方から、ご挨拶が届けられていました。蕪村庵のおかきです。近頃は、筆の文字とにらめっこする毎日ですから、思わず惹き付けられたのが、包装紙に載せられた俳句です。きっと、蕪村庵ですから、与謝蕪村の俳句でしょうね。ここ3週間ほど、いろいろな書物をひっくり返したお陰で、読めましたよ。ご先祖様の、俳諧の先生、与謝蕪村の句?親切に、絵が添えられています
近畿もようやく、昨日あたりから梅雨に入りました。梅雨と言えば梅干し。あれから保存袋の梅は、良い感じに梅酢が上がってきています。今年は、柔らか梅ができそうな予感がします。残りの梅も色付いて、すっかり黄色くなったので、冷凍庫に入れていましたが、24時間たったので、先ほど氷砂糖と交互に漬けて、梅シロップ作り準備完了。夏の間梅シロップを楽しむには、2キロは必要です。ところで、俳諧連歌を読みとくのに、かなり苦戦しています。漢字用の草書体の本、仮名用の草書体の本、漢和辞典
先日の日曜は、歌の会が2つ重なってしまいました。結局、美術館でコンサートのチケットをいただいていたので、そちらに参加することにしました。こちらは、神戸市東灘区の世羅美術館です。昨年の今頃もコンサートが開かれましたが、土砂降りの中、美術館に向かった覚えがあります。今年の近畿は、まだ梅雨入りせず。この日も曇り空の中、「雨の庭」というテーマで、Salondemuseeのコンサートが開かれました。始まりは、ショパンのノクターンです。吹き抜けの会場の2階からピアノ演奏が
「すてきにハンドメイド」の6月号に、手縫いで着物リメイクが、載ってたので、参考にして作ってみました。ブラウスというより、チュニックでしょうか。解いて洗ったのですが、まだ張りのある絣です。手縫いというテーマでしたが、途中からミシンを使ってしまいました。縦じまの経糸の色が活かしたかったので、手織りを22㎝に切断し、5枚横に連ねてわっかにして中に入れました。ボートネックでしたが、本のように1㎝幅で縫い返したら、首回りが少し窮屈なので、ほんの少し広めに開けました。裾周りか
伊賀上野城から北西へ100m程の神社に来ました神社名;平井神社所在地;三重県伊賀市小田町131【主祭神】八重事代主命・菅原道真菅原道真公ゆかりの梅が大宰府より飛来したという縁起をもち飛来天神とも称されてます永禄11年(1568)伊賀国守護職仁木長政の招きにより吉田兼右が京都より上野丸山の新城の地鎮祭を執行されたそうです江戸初期には俳諧連歌の座の中心とされる文化の香りの高い神社である明治3年(1870)の大洪水に遭い明治10年