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君子(46)君子は諸を己に求む子曰わく、君子は諸を己に求む。小人は諸を人に求む。衛霊公第十五仮名論語236頁4行目です。伊與田覺先生の解釈です。先師が言われた。「君子は、自分を反省して過があれば、まずその原因を自分にもとめるが、小人は人に求める」この章で、君子は「君子は諸を己に求む」と出てきます。君子は、自分を反省して過があれば、まずその原因を自分にもとめるという事です。「君子は諸を己に求む」・・・「諸」は過ちの原因とし、発生した問題の原因をできるだけ自分の行動に求
心学「聖賢人」聖人や賢人の聖賢たる所以は何か、聖人や賢人も人間としては完璧ではない。若い頃に強い主張で人と衝突することも、悪評を受けることもあったかもしれない。しかし、それらを乗り越えて、多くの人々に、その思想や教えを広め、現在の世まで続いている。聖賢の書を学び、世に尽くした偉人も多い。聖賢人の心が現在まで生きている。心から発した思想や教えには強い力が隠れている神仏や神話ではなく、生きた人間たちである。歴史から学ぶことが多く、人生
心学「勝敗」勝敗の結果は突然天から降っては来ない。勝敗の種があり、それぞれに関わる人達の心に、植えられ、言動によって育ち、芽を出し、花を咲かせ、実を結び、「現実」を創る。大勝の種、大敗の種、それぞれに蒔いた時期、育てた経過がある。それを分析せずして、社会や環境などの他に求める、それではまた同じ結果を招く。特に大敗の場合は細かい分析が必要である。大勝は驕ることなく、次に備える慎重な言動が必要。勝敗の原因は一方的ではなく、四方八方から
心学「出来る」心から力が出て来れば「出来る」。心から力が出て来なければ「出来ない」。出来る、出来ないとは、自分の心に因る。出来る人間は心の力が出るように日々努める。出来ない人間は心の力が出ないように日々努める。出る努力と出ない努力の質量は同じ。どちらの方向に心を進めるのかである。北に進む距離と南に進む距離は同じでも、やがては風景や気温に差が生じる。出来ないとは怠けることではなく、出来ないように心が努めているだけである。出来な
******************************我々はいろいろな本を読んだり、趣味を持ったりするけれども、案外人間をつくるという意味での学問修養は、なかなかやれないもので、とにかく義務的な仕事にのみ追われて、気はついていても人格の向上に役立つような修養には努力しない。少し忙しくなってくると、そういうことを心がけることはできにくいもので、地位身分のできる頃に悲しいかな自分自身は貧弱になる。安岡正篤(まさひろ)******************************
目が覚めたら朝いつものように起きて相方を送り出して🐱たちといてふと思った昨日までは行く気満々だった素材博欲しいカシミヤの糸ブルーフォックスの糸ヤクの糸いやいや天井から下がっている洗い済み原毛の袋めぇ~めぇ~めぇ~~~あと100万回生まれ変わらないとニットにならないかも猫又になれるほど修養を積んでいないのできっときっと残って人を困らせるだろうと想像すると家で編むことを優先しようかな立春過ぎてやっぱりお
君子(41)子路、君子を問う子路、君子を問う。子曰わく、己を修めて以て敬す。曰(い)わく、斯(か)くの如きのみか。曰(のたま)わく、己を修めて以て人を安んず。曰(い)わく、斯くの如きのみか。曰(のたま)わく、己を修めて以て百姓(ひゃくせい)を安んず。己を修めて以て百姓を安んずるは、堯・舜も其れ猶(なお)諸(これ)を病(や)めり。憲問第十四仮名論語224頁3行目です。伊與田覺先生の解釈です。子路が君子の条件について尋ねた。先師は「自分の身を修め、人をうやまうことだ
心学「後悔」故事に「後悔先に立たず」がある。過ぎた事は戻しようがない。しかし、自分の本性がそのままならば、また同じ悔いの原因を創ることになる。「後悔先に立たず」を「後悔先に立てない」に、心を改め、その誓いを心に命じ、実践継続する。心に後悔の種を蒔いた時点で、気がつかない人が多い。放置すれば育つのも自然の道理。この道理は善悪に関係なしに働く。心学の修養に「自省」があり、面倒でも自省を繰り返す。自己の道理を監視してこそ、道から外
心学「教養」仁徳高き教えを学び、心を養う。人生の出来事から人として道の教えを学び、自分にとって必要な心を養う。教養は持って生まれたものではなく、幼少期、青年期、壮年期、老年期、それぞれに応じた日常の教えを学び、人間的に必要な心を養う。教養がないとは出身や学歴ではなく、人生の中に生じる教えを素直に受け取り、自分の心を成長するための修養であること、それらを無視や蔑ろにして、自分自身の心を大切にしない人の心を言う。教養とは全
名字の言最高の弁論とは?【名字の言】www.seikyoonline.com安原稔安原稔-「いいね!」2,915件·190人が話題にしています-27年5月より、玉野市議会議員を退職し、宇野地区連合自治会会長として地域のボランティアに取り組んでいます。www.facebook.com安原稔安原稔-「いいね!」2,915件·190人が話題にしています-27年5月より、玉野市議会議員を退職し、宇野地区連合自治会会長として地域のボランティアに取り組んでい
平安な心を得るには?思いやりの心は4つあります「四無量心」(しむりょうしん)と言います慈(じ)相手の幸福を願い、楽を与える心悲(ひ)相手苦しみを抜いて救い出す心喜(き)相手の幸福を見て喜ぶ事捨(しゃ)相手にした良い事を忘れる事の4つを表しますこの世のルールである「相互の助け合い」が分かり、心が「四無量心」を持って相手と接すれば、結果として素晴らしい関係が生まれると
中国古典の一つに『呻吟語』がある。作者の呂新吾は、明の時代に政府の高官として活躍していた。だが、時の政治を批判したことで弾圧され退官。その後は著述と講学に励んだとされる『呻吟語』は、呂新吾の約30年にわたる修養を病気に例え、悩み苦しみながら真理を求め抜く中で生まれた“呻き”を本にまとめたことから、名付けられたという同書の一節に「主張すべきときには、一言一言に気迫をこめて主張する。それでいて、感情を高ぶらせることもないし、粗雑になることもない」とある。それこそが弁論として最高である、と(
「話し上手」になりたいと思う人は多いと思います。「話し上手」になると、自分の考えを相手にうまく伝えることが出来、納得してもらえる。説得できる。「立て板に水」弁舌が達者で、よどみなく流れるようにしゃべることですが、これが長けている人に憧れますよね。しかしそれが長けていることで、・相手を言い負かす。・威圧する。・批判や悪口を言う。・洗脳する。・嘘やおべんちゃらを言う。など。心が伴わない話し上手は、自分の考えを押しつけたり、自分の欲に使う危険性をはらみ、不徳
いかなる人間としても幸福を冀わない人はおりません。幸福こそ実に人間最初にして最後の目標であるからです。幸福を得ようとする為の学問であり修養であり努力であるのにかかわらず、満足に掴む人はどれだけいるでしょうか。大部分は幸福を獲得しようと思い続けつつ、かえって不幸の境遇にあり、解決の喜びを遂げる事なくして不帰の客となるというのが一般の現実です。それならば幸福を得るという事はそんなに難しいものでしょうか、私は違うと言いたいです。そもそも幸福とは、病気貧乏闘争、この三代
【努力は一つの習慣】本多静六氏の心に響く言葉より…さて世にはまた、自分は今不遇の身にあるから努力しないが、風雲一度際会すれば大いに活動するなどという人もあるが、このような人はとうてい成功する見込みのない人である。もともと努力は一つの習慣である。慣れてしまえば何の苦しみもないものだが、慣れないうちは苦しいものだから、現在の仕事に怠惰な人はたとえ急に得意の位置に置かれることがあっても、一時は努力するがたちまち苦しくなって努力が鈍り、ついにはその位置を失うに至るであろう。人は境遇に支配されて
本多静六氏の心に響く言葉より…さて世にはまた、自分は今不遇の身にあるから努力しないが、風雲一度際会すれば大いに活動するなどという人もあるが、このような人はとうてい成功する見込みのない人である。もともと努力は一つの習慣である。慣れてしまえば何の苦しみもないものだが、慣れないうちは苦しいものだから、現在の仕事に怠惰な人はたとえ急に得意の位置に置かれることがあっても、一時は努力するがたちまち苦しくなって努力が鈍り、ついにはその位置を失うに至るであろう。人は境遇に支配されてはならない。かえ
心学「人を観る力」人を観る力のある人間は、人が失敗する前に助言や忠告を話す。人を観る力のない人間は、人が失敗した後に助言や忠告を話す。人は観る修養としては、まずは自分の心を観る。自分の考えが成功するか失敗するかを判断する。自分の考えがこの先どのような現実になるか、観る力があるのかないのか判断する。観る力に欠ける時は無理のない計画を立てる。何事も自分を知ることから始まる。その自分で最も大切なのは自分の心である。時折、自分自身と
私事になりますが、1月11日に弓道で新年射会がありました。挨拶が遅れました。利用者祐天寺です。実は私は弓道をやっていて、弐段持ってます2026年初めということで、まず、先生による「矢渡し」と呼ばれる演武が行われて、みんなで見ました矢渡しを、弓道を全く知らない人に説明するのは難しいですがふつうは矢渡しは、射手(いて)と、第1介添え人、第2介添え人の3人で行われるものです。今回は昔は1人で行われていたそうです。記憶違いはありますが昭和48年ころに弓道の教本の規定が変わり矢渡しは3
おはようございます!香月です。いつもお読みいただき、ありがとうございます。今日は、「自由」という言葉について、少し違った角度から考えてみたいと思います。私たちは今、かつてないほど自由な時代を生きています。何を信じてもいい。どんな生き方を選んでもいい。誰の意見にも従わなくていい。表面的には、そう見えるかもしれません。しかし一方で、こんな感覚を抱いている人も多いのではないでしょうか。・自由なはずなのに、不安が消えない・選択肢が多すぎて、決められない・自分で選んでい
1月29日《小才と大才》安岡正篤一日一言amzn.to/44SSm1Q小才が利くと、それで好い気になって、大才にならぬ。結局は、策士策に倒るということになってしまう。むしろどちらかと言うと愚、少々頭も悪く、小才も利かぬような人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い。あいつは少し馬鹿だと言われる人間が、賢いなどと言われる人間の企て及ばぬ人物になる。
おはようございます!香月です。いつもお読みいただき、ありがとうございます。今日は、少し踏み込んだテーマについてお話ししたいと思います。それは、なぜ今、人は「考えられなくなっているのか」という問題です。ここで言う「考えられない」とは、知能や学力の話ではありません。・すぐに答えを探してしまう・自分で判断する前に、誰かの意見を見る・正しいかどうかより、炎上しないかを気にする・違う意見を受け止める余裕がなくなるこうした状態が、私たちの日常に、当たり前のように入り込んでいます
人は生涯、修養の途上にある。この渋沢栄一の言葉は、静かでありながら、人生の全体を貫く深い覚悟を私たちに語りかけてきます。修養とは、知識を詰め込むことでも、肩書きを積み上げることでもありません。自分の心を磨き続け、人としての在り方を問い続ける営みです。そしてそれは、若いうちに終わるものではなく、生きている限り続いていく道なのだと、渋沢はこの一言に込めました。現代を生きる若者は、早く結果を出すことを求められがちです。周囲と比べられ、数字や評価で測られ、失敗すればすぐに価値がないかのように感じてしま
ただし悲しいことに、「かいほう」が利得、金銭、名誉、自己承認、他者支配欲求などと強く結びつくと、そのド真中には、知性と理性をかなぐり捨てた、先祖返りしたような弱肉強食の原始的で粗暴で暴力的な真赤な、あるいは真黒に輝く穢れたエゴだけが現れてくる。そのようなエゴが現れている様を仏教では我執、執着と言い、そこから快、不快、怒り、嫉妬、不安などの煩悩が生まれ、人はより苦しむと考える。もしその苦しみから本当に脱したいならば、瞑想などの修養を通じて執着から離れ、「私」を超えていく必要がある。修
おはようございます!香月です。いつもお読みいただき、ありがとうございます。突然ですが、少し立ち止まって考えてみてください。私たち日本人は、何を拠り所に生きてきたのでしょうか。法律でしょうか。制度でしょうか。評価でしょうか。もちろん、それらも大切です。しかし日本の歴史を振り返ると、社会を支えてきた本当の土台は、もっと静かで、目に見えないものでした。それが、修養であり、道徳であり、人としての在り方です。日本では古くから、「立派な人
「余計な言葉が、関係を壊す」現代は、言葉があふれる時代です。朝起きてから眠るまで、私たちは数えきれないほどの言葉に触れ、また自分でも言葉を発しています。SNS、メッセージアプリ、会話、投稿、コメント。思ったことをすぐ言葉にできる便利さは、同時に人間関係を壊す危うさもはらんでいます。『論語』は二千年以上前の書物ですが、この現代の状況を見通していたかのように、言葉について何度も深く語っています。孔子は多弁を戒めました。「巧言令色、鮮し仁」という言葉があります。口先がうまく、愛想のいい態度の人には、本
おはようございます!香月です。いつもお読みいただき、ありがとうございます。なぜ今、「人間力」がこれほど問われているのか?その背景にある時代の変化と本質的な問題について、少し丁寧にお話ししたいと思います。私たちは今、「便利さ」や「効率」への追及が極限に近いところまで進んだ時代を生きています。AIの進展、情報技術の高度化、瞬時に正解らしきものへアクセスできる環境。一見すると、人類はかつてないほど自由で、合理的で、快適な時代に入ったようにも見えます。し
心学「心の資質」心に仁が欠けると人間関係に円滑さがなくなる。心に義が欠けると人間関係が薄れて来る。心に礼が欠けると人間関係に傲慢さが出る。心に智が欠けると人間関係に問題を起こし易い。心に信が欠けると人間関係に溝が出来やすい。「仁・義・礼・智・信」の五徳を学ぶことは、それぞれが欠けないように修徳を積むことは、日々の学問修養であり、実践と継続である。自分で自分の進展が観えない時は、人の五徳を観て学ぶことである。心の修養や教育は自らが行
⸻1.自己啓発書という概念の成立🧩自己啓発書とは、読者自身の思考・行動・価値観の変化を通じて、人生の改善を促す書籍群を指す。この概念は近代以降に成立したが、その源流ははるか古代にまで遡る。自己啓発という営みの本質は、「他者による教育」ではなく「自己による修養」にある点に特徴がある。ここで重要なのは、知識の伝達ではなく、行動変容を目的とする点であり、これは教育書や哲学書との決定的な差異である。この構造を理解することは、なぜ自己啓発書が時代ごとに異なる顔を持つのかを読み解く鍵となる
【注意】今日は怪しい話をするので、そういうのはちょっと…と仰る方はここから先はどうかご覧にならないようにお願いいたします🆖よろしいですか私のブログをご覧いただいている方はご存知かと思いますが、私も妹も霊感があります。母もそうだったし母方の親戚もみんなそうなので、おそらく遺伝です。怪しすぎるので私と妹はいつも家族にも話さず、2人の間だけで情報共有しています。そんな私達ですが妹はこれまでかなりハードモードな人生を送って来たのに較べ、私はピンチに遭っ
★★★★★致知本号の巻頭の藤尾秀昭社長の特集の言葉よりさて、本誌も創刊四十八年。今日まで歩ませていただいたのは、多くの先達に恵まれたからである。特に本誌の骨格を大きくし、土壌を深く豊かにしてくれた五人の先達がいる。二宮尊徳、安岡正篤、森信三、平澤興、坂村真民の五大哲人である。おや、安岡正篤先生、森信三先生、平澤興先生、坂村真民先生四人のお名前は致知を読み始めたころからあったと思うが、いつの間にやら二宮尊徳も、しかも筆頭に挙げられている。五大哲人から致