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本日お昼12時、2026年最初の合戦イベント「甲州征伐」がついに終戦を迎えました!!その結果、勝利を手にしたのは織田軍でした!!まずは参戦されたすべてのみなさま、大変お疲れ様でした!軍功の経過を振り返ってみると、初日は織田軍がリード、翌日は一転武田軍が10万前後リードを保つ中で戦況が明けました。が、その翌日には織田軍が再逆転してそのまま一回目の両軍同時総攻撃を迎えます。総攻撃終了時の軍功差はたったの5,000(!)、そのまま織田軍がほんの少し優勢な状況で推移しますが、
織田信長は武田討伐へと先発した嫡男・信忠に対し、執拗なまでに自制を促す書状を送り続けた。それは勝頼侮りがたしという畏怖の表れであった。だが、信忠は美濃から信濃の地へ踏み込むや、父の危惧をよそに破竹の勢いで伊那谷を駆け抜ける。その姿はまさに若き日の信長を彷彿とさせるものであった。一方、これを迎え撃つ勝頼は要所に親類衆を配置し、信濃を決戦場と定めて自身は諏訪の地に本陣を据えた。何の因果か、そこはかつて“諏訪四郎”の名で将として歩み始めた自らの原点であった。信長の後継者として自らの手で武田を
長野縣護國神社⛩️大鳥居⛩️社号標⛩️第二鳥居⛩️参道に提灯が並べられていました🏮拝殿護國神社の前身となる招魂社は、信濃国では戊辰戦争の犠牲者を祭るため、明治元年(1868)に松代藩、岩村田藩、須坂藩に建立され、その後、田口(奥殿藩)、上伊那(高遠藩)、諏訪(諏訪藩)、信濃(長野市)の4つの招魂社が建立されたが、日清・日露戦争の犠牲者を祭るため、昭和9年(1934)には全県的な招魂社の造営が計画されるに至った⛩️昭和13年(1938)11月、戊辰戦争で亡くなっ
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その28.隣政寺です。豊丘村の泉龍院から天竜川を渡って、高森町山吹にある普門山隣政寺りんしょうじ(天台宗)にやってきました。下伊那の旅の最後の訪問地です。天正元(1573)年に創建されたお寺です。寺号標の向かいに駐車スペースがあります。参道の脇には古びた石仏があります。巨大な冠木門のような二本の杉の間を抜けていきます。山門は普門山の扁額の掛かる大きな楼門です。山門手前の左右にも石仏があり
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その27.泉龍院です。瑠璃寺から東へ行き、天竜川を渡って豊丘村に入り、県道18号から右にそれた所に池康山泉龍院(曹洞宗)にやってきました。駐車場は左の細道から境内に入った所にあります。2階の扉の周囲や欄間にたくさんの彫刻が見られます。よく見たら鶴は飛び出ていました。1階の欄間の彫刻は透かし彫りになっていました。山門の左には六地蔵や不動明王などの石仏が並んでいて、右には白山権現が祀られたお社がありま
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その25.不動滝その26.瑠璃寺です。飯田市の大宮諏訪神社から県道15号を北上して高森町に入り、大島川に沿って中央アルプスの山の方に入っていくと、道路の終点に不動滝の駐車場があります。手前にも駐車場があるので、そちらは第2駐車場といったところでしょうか。車止めのすぐ先に、いい感じの手作り看板がありました。大きな足跡が。熊でしょうか。舗装された道を歩いていきます。この足跡は、もしかすると雪男
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その24.大宮諏訪神社です。今日は下伊那の旅3日目です。飯田市街地の宮の前にある大宮諏訪神社にやってきました。鳥居の左に入った所に駐車場があります。石鳥居と銅鳥居の間の社号標は明治43(1910)年に奉納されたものです。右の方には東から入る鳥居がありました。参道の先の石段を少し上ると大きな随神門があります。屋根には諏訪梶の葉の神門がついています。山門の右には若宮三社大明神や牛頭天王や蚕玉大明
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その22.慈恩院その23.福島てっぺん公園です。開善寺からR151を北上し、天竜川を渡って、豊丘村神稲にある補陀山慈恩院(曹洞宗)にやってきました。平安時代末期に創建された古刹です。県道18号から少し入った所にあり、寺号標の横に駐車場があります。寺号標の横には六地蔵、後ろには○○大権現とか大黒天と刻まれた石碑があります。石段の上の山門は西日を正面から受けて、山号の書かれた扁額もよく見えました。山
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その20.安布知神社(智里)その21.開善寺です。浄久寺からR153を1km程東へ行くと、同じ駒場地内の阿智第一小の裏に安布知神社があります。石造の鳥居に木造の扁額が掛けられています。参道の途中には小さな石橋がありました。鳥居からまっすぐ続く石畳の参道は、道路をまたいで更に先へ続きます。この道路を右へ行くと信玄火葬塚の方へ行けるようです。根羽村横旗で亡くなった信玄がこの地で火葬された、とい
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その18.安布知神社(横川)その19.浄久寺です。阿智神社奥宮で安布知神社をGoogleマップで検索したところ、県道89号を西へ行くようになってました。中央道園原ICの手前から県道109号に入って細い道を北上し、本当に大丈夫かと不安になった頃鳥居が見えてきた安布知神社に到着しました。横川峠の手前の小さな集落にあります。鳥居の横には学校がありました。大正10(1921)年に開校した智里西小学校横川分校の跡で、
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その16.阿智神社前宮その17.阿智神社奥宮です。平谷村からR153を北上し、昼神温泉に入るとR256沿いに阿智神社前宮の鳥居や社号標が建っています。天八意思兼命が孝元天皇5(BC210)年に天下って、阿智の祝部の祖となったと伝わる式内社(論社)ですが、神社の創建は不明です。鳥居とホテルの間を恐る恐る抜けて、更に細い坂を車で上っていきます。途中に庇が出ている所があるので車高の高い車だと当たりそうでした。
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その13.若宮神明宮その14.信玄塚その15.諏訪神社です。瑞光院のある新野からR418を西進し、平谷村でR153を南下していくと、取手バス停の後ろに若宮神明宮があります。取手バス停の少し手前を左にそれて、細い急坂を下ると取手集落があります。駐車場はないので集落から上る石段の斜向かい辺りの路肩に車を止めていきます。石段の上の鳥居には若宮神社の扁額が掛かっていました。鳥居の先にも石段が続きます。
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その11.古城八幡神社その12.瑞光院です。尹良神社からR151を南下し、阿南町に入ると神社の看板があり、それに従って細道を下ると古城(ふるじょう)八幡神社があります。駐車場はなさそうだったので、すぐ横の墓地の一角に車を止めました。踏面が15〜20㎝程の石段を上ると木造の鳥居があります。貫が柱を貫いていませんが両部鳥居のような立派な鳥居です。石段の先はほぼ平坦な道になります。すぐ先の右側に次の石段が見
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その10.尹良神社です。大山田神社から川をはさんですぐ南に尹良(ただなが)神社があります。細い道に入っていくと神社の前に広場のような所があるのですが、草むらになっていたので、車は入口に止めていくことにしました。石段の手前の草が深いようだったので、左に回り込みます。鳥居に左右に石碑がありましたが、よく読めません。鳥居の前からは中央アルプスや飯田方面が見えました。鳥居の先には石段がまっすぐ続いて
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その8.龍嶽寺その9.大山田神社です。入登山神社から東に2km程の所に萬松山龍嶽寺(臨済宗妙心寺派)があります。所在地は入登山神社と同じ下條村陽皐です。ナビ通り行こうとしたら、民家の軒先をかすめて細い道に入ってしまったので、赤子石を回ってきました。広い駐車場の端の日陰に車を止めました。道路側の方から境内に入ります。この八大龍王鐘楼門のところには正徳3(1713)年に再建されたと書いてありました。正徳3
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その6.金野諏訪社その7.入登山神社です。今日は下伊那の旅の2日目です。泰阜村金野にある金野諏訪社にやってきました。駐車場の向かいにある急な階段を上っていきます。両側には手すりがついていました。途中で角度の変わる階段の一番上に鳥居があります。正面に社殿が見え、左は集会所のようです。石碑が並んでいる上に、小さな祠が覆屋に納められていました。拝殿や幣殿は菱格子がつけられて、引戸は格子戸になって
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その5.信濃宮神社です。野々宮神社の少し南に行くと、上蔵集落の端に信濃宮神社があります。神社の上から車で行こうとしたのですが、畑の脇の道が細く、どこかでハマってしまいそうだったので、下から行くことにしました。鳥居の注連縄が低すぎるので、隣の坂を上ります。軽四駆で行けそうな緩やかな坂が続きます。道の山側の方には大きな石が点々と続いていました。折り返すと、今度は低い石垣になっていました。さっきのは元々
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その3.福徳寺その4.野々宮神社です。分杭峠からR152を南下し、小渋川の手前で県道253を左に入っていくと、大鹿村大河原に福徳寺本堂があります。最近整備されたようで、境内全体が砂利敷きになっていて、駐車場や綺麗なトイレもありました。後醍醐天皇の皇子で天台座主であった尊澄法親王が南北朝分裂に際して還俗し、宗良(むねよし)親王となって信濃に下向して、天台宗寺院医王山福徳寺として建てたことに始まると言われています。
2025年6月長野県下伊那エリアのパワースポットを巡ってきました。その1.分杭峠その2.磁場坂です。長野県下伊那郡は中央アルプスと南アルプスに挟まれた松川町と大鹿村以南の地域で、R151・152・153が南北を貫いています。一番東側のR152を高遠の街から南下していくと分杭峠があります。ここは高遠と大鹿村の境界です。是より北高遠領。大鹿村は幕府の天領だったのに対し、高遠は17世紀末以降は内藤家が治めていました。分杭峠から入る林道の入口にゲートがあります。右に歩行者用
各城記事にリンクしています福島城三留野愛宕山城山村代官屋敷妻籠城(木曽郡南木曽町吾妻)南本城城松岡城大島城
この国は、国土が広いがために、、、、「一宮」の神社ですらも、、、、境内を回るのに、、、、歩いて、6時間も掛かってしまった、、、(;・∀・)単純に、神社の境内を散歩しただけなんですよ、、、でも、多分、平安時代だと、日本一の国面積で有ったのでありましょう、、、神社境内だけを歩いただけなのに、、、6時間も歩かされようとは、、、想定外でした。それも、「うみ」を隔てて、上と下と、春と秋を、歩いて見て、、、いやはや、平安時代のこの国の巨大さを、かなり、物語っている。いやはや、一つの神社
仕事を21時に終えて、家に帰ってきたら、固定資産税の請求書が届いていた。あれ?少し固定資産税が減ったかな?土地の価格が下がっているのか?な?トドの地元は、どうにもならない田舎だからな。明治34年9月印刷局制の価格表記封筒。この使用例も、明治35年3月の使用例。やっぱりもう少し早い使用例、できれば明治34年12月中の使用例が欲しいねぇ。差出の消印は信濃国穴山、明治35年3月23日の丸一印。穴山は、今の長野県茅野市内にあるのかな。あて先は千葉県(下総)の船橋。船橋の到着印
元禄3年、幕府は松代藩真田家に信濃国高遠領全域にわたる検地を命じた。松代藩は、家老望月監物を惣奉行に総勢714名を27手に分けて検地を行いました。高遠検地は、完備された検地条目にもとづき、これ以前の検地を御破算にして幕府が私領にたいして行った本格的な検地でありました。この検地で高遠藩は、3万3千石となり明治維新まで続きました。また、幕府の検地は、高遠検地条目に準拠することになりました。このように、高遠検地は歴史的に評価される重要な検地でありました。高遠領内一部村落の
【問題】信濃国の国衆である大嶋氏・片切氏・赤須氏らを総称して、次のうち何と呼んだか?【選択肢】武川衆春近衆九一色衆津金衆【正解】春近衆【解説】信濃国伊那郡の春近領という地に勢力を張った大嶋氏・片切氏・赤須氏・飯嶋氏・上穂氏らは春近衆や春近五人衆などと呼ばれる。後に武田氏に組み込まれた。
山の中の道「中山道」から続くこの北国街道において、、、「海の宿」と言いたくなる気持ちは、、、撮っていて、少し分かった。重要伝統的建造物群保存地域「海野宿」この風情に、「海」を連想できるのは、本当に、「中山道」、「北国街道」あるいは、「甲州街道」ちょっと北になるが「羽州街道」の方々なら、分かって頂けるかも、、、わかるかなぁ~(*'▽')「山が見えない事」を。北国街道とは、「信濃国」を貫くのだが、、、、当然の如く、「信濃国」=「長野県」とは、「山の国」どんな街でも、絶対
今まで、国分寺やら、国府やら、「科野国」のお話をしてきましたが、この国の田んぼを抜けて、その地に、出くわしてみて、我が他国の民ですらも、山の民の気持ちを、大いに感じてしまいました。山の民たちは、交通発展していなかった時代、、、、山の民には、それを、「絵」と「伝説」と「商人からの又聞き」でしか、知らなかったであろうことを、、、でも、想像を膨らませれば、、、多分、こうなのだろうと、思ったに違いない。で、、、「地名」には、残る。海野宿と小海線今ですら、長野県、それも、中部のエリアから「海
上田市街地の「旧北国街道」を歩いていたら、、、すげー「神」にお会いしてしまった。至って普通に、江戸時代の街道筋が残る「上田」で、歩いていたら、、、まぁ、見た目は、至って普通の神社なのですが、、、、神社の名称が、、、凄いんです!!!科野大宮社いや、この神社の名称に「すごい!」って、思える人は、私のブログをしっかりと、読んで頂いているのでしょうね~それも、この国のかつての「国名」まで、名乗っている!!!!「しなの」国と言うのは、現在は、「信濃」の漢字が付されていますが、、、平安時
あなたの国の首都は、どこですか???(*'▽')私も、あなたも、この日本フォントが読めるところを見ると、「東京」とお答えいただけることだろうが、、、信濃国民たちよ、、、、貴方の国の首都「府中」は、どこですか?長野、松本と、お答えの方々、、、申し訳ありませんが、「平安時代」以前の「歴史」をもう一度、ご勉強ください。「信濃国分寺」上田駅の一つ隣の駅「信濃国分寺駅」国分寺は、現在、江戸時代の再建で、「善光寺衆」が再建したとされているそうです。で、、、、平安時代からの「国分寺」が
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡今回は田舎に行くと食糧難民になると言うことを実感しました。諏訪大社上社前宮から下社春宮の間がちょうどランチタイムでした。吉野家でいいか。と思ってましたが、甘かった。そもそも食べるお店がない。吉野家のようなチェーン店すらない。お宮門前も平日ということでほとんど閉まってます。だんだんコンビニすら目に入ってこない。そんな中、やってそうなお店を発見し突入。「HOLZしもすわ店」。大きな喫茶店でした。山賊焼きドリアを注文しましたが、これがメッチャ美味しかった
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡信濃国一之宮「諏訪大社下社春宮」御柱です。拝殿右側に「一之御柱」一之御柱の後ろに四之御柱拝殿左側に「二之御柱」「二之御柱」の後ろに「三之御柱」結びの杉四社全ての御柱を拝ませていただきました。ありがとうございました。では、(*^-^*)ノ~~マタネー