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『秀吉・秀長兄弟の父について(筑阿弥とは?)』『秀吉・秀長兄弟の父について(弥右衛門とは…❓️)』『信長と信勝(父信秀の躍進と三河経略の推移について)』『信長と信勝(兄弟の実家である織田弾正忠家とは…ameblo.jpさてさて…信長・信勝兄弟の抗争についての前段階の話が…結構長引いてしまっていますね😅続きです☺️美濃の斎藤道三と駿河の今川義元との両面作戦が行き詰まり…兄弟の父である信秀は苦境に陥っていました🆖道三と義元は連携して北と東から尾張を
読んだ面白かった漫画レイリ原作:岩明均漫画:室井大資(作品概要)黄昏ゆく武田帝国と勃興する織田軍団の血戦のはざまで、数奇な運命を生きる少女・レイリを描く戦国時代劇。戦国末期、長篠の戦いにおける武田の敗残兵を追う織田の首狩り隊の巻き添えで11歳にして全ての家族を失った主人公の少女・レイリは、岡部丹波(岡部元信)に拾われ、彼を命の恩人と崇敬し、自分を守るために死んでいった家族達と同じように「いつか誰かの盾として死にたい」と思う「死にたがり」の少女として剣の腕を磨
先日、城山八幡宮に行ってきました。城山八幡宮は末森城の跡地に創建されました。末森城は織田信長の父信秀が築いた城ですが、死後は信長の弟織田信行(信勝)が末森城主となったそうです。宮内のパネルにお市の方が穏やかに過ごしたと書いてありました。由緒ある場所なんですね〜縁結びが有名みたい。良いご縁がありますように〜♡今回伺ったのは、お家のお正月飾りをどんと焼きで納める予定が、うっかり忘れていて💦こちらで納めてもらいました🙇♀️納料は100円です。無事納めることができてほっ
<篠木三郷などの位置図>:筆者作成信長の弟の信勝は、弘治2(1556)年に稲生の戦い(【稲生の戦い】参照)で信長に敗れた際、信長から赦されていたが、岩倉城主織田(伊勢守)信安と結び、再び信長に背いた。裏で美濃の斎藤義龍が糸を引いていたことは確実である。信勝は永禄元(1558)年3月18日に信長の直轄領である春日井郡篠木三郷(しのぎさんごう)を横領するため、守山に龍泉寺砦を築いた。そして岩倉城主織田(伊勢守)信安は清須城近辺の下の郷村(清須市春日下之郷、清須城の北2キロ)に放火した
えーと、まさかのフレポイント召喚で信勝が来るとはサクッと回して5枚そろえて再臨させました見てください、とても★1にはみえない豪華さツイッターで信長との合成画像が出てたんですがめっちゃ合成うまい人だったのかぴったし合ってたんですよ運営さん、本当にありがとー
こんにちは。いつも「イイネ!」ありがとうございます。フレポガチャを回しまくっています。ノッブ・・・じゃなかった、信勝が排出されると聞いて、これは絶対法具マにするまで回さなきゃでしょ?って、使命感に・・・(←★4はまぁ嬉しいし、排出量も多いので、あとで礼装をデコりましょう。さておき、信勝ですよ!信勝。わーい!信勝キターーーーーー!!いらっしゃーい。さて、法具5まで回すぞぉ~ということで、法具マにしましたぁ~(満足)ごめんな、うちのデアには魔王の姉上しかい
今日はウインクの日。ウインク得意?苦手?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようウインクとかやった日には、妻『・・・キモっ』とか言われそうなので苦手です(笑)こんにちは、橘カナデです(*´ω`*)FGO熱が冷めつつある今日この頃。ようやく新規イベントが始まりましたね。ぐだぐだ邪馬台国?ぐだぐだ終わったんじゃないのか…orzその辺も含めて今回もぐだぐだです(^_^;)注目は斉藤さんより卑弥呼よりも信勝くんでしょうかね。宝具はNP配布と信長限定で強化、そし
こんにちは🐾~(=^・^=)~🐾ココロンです。2020年8月8日きょうの一番の目的は「勝頼の墓参り」戦国の混沌とした時代、血で血を洗う生々しい激戦があったであろう、その地に、どうしても行かなければいけなかったのです。そう、先日、8月1日檜原村で信玄公とその子女、松姫に「勝頼の供養もして欲しい」と切願されていたからです。勝頼、終焉の地「景徳院」甘茶や岩塩で、身を整え皆で心ひとつに、その地に向かいました。
毎週、家族で楽しみにしている「麒麟がくる」。今日放送の信長が信勝(信長の弟)を殺したあと、土田御前(信長と信勝の母)から「わたしの大事なものを全て奪っていく」と(↑多少セリフ違ってたらすみません)信長を激しく罵倒するシーンをみて娘が言った一言。「信長もシンデレラみたいやったんかな?」と。ん?ん?ん?一瞬、言っている意味が分からなかったけどどうやら、信長にとって土田御前がママ母だと思ったらしい。だから、こんなにも罵倒されていると。なるほど〜子供の感性は豊か。何だか、
大河ドラマ「麒麟がくる」第18話「越前へ」画面に現れる色の意味を勝手にいろいろ想像して楽しんでいます(^^)前回、美濃を出て越前へ向かうことになった明智家一行。先導するのは、帰蝶から遣わされた伊呂波太夫。その頭に巻かれた布は、山道の景色に溶け込む緑、水色、ベージュ。髪を結っているいつもの赤い紐は、今は、光秀側であることを表すかのような水色。今回のもう一ヶ所の色あわせは、織田信勝の紺色の衣装、信勝と通じる斎藤高政の鎧の青、その背後に控える今川の青色初めて訪れた
織田信長の弟は、信長公記では「織田勘十郎」とだけ記されています。彼の諱(実名)は、後世に作られた系図では「信行」となっていますが、同時代の史料には信行という名前はなく、本人が信勝、達成、信成などと署名した文書が残っています。少なくとも彼が生前に信行と呼ばれたことも名乗ったことも記録にないようです。なので、近年では彼は「織田信勝」と書かれるようになっており、「麒麟がくる」でもこの名前を採用しているわけです。信行、という名前は、司馬遼太郎や国盗り物語で育った世代の人間にとっては馴染み深いもの
信長の弟・信勝(信行)の居城は現在の名古屋市千種区にあった尾張末森城。この城は信勝の居城という他に、父・織田信秀が亡くなった城でもあるし、妹・お市の方(浅井長政の妻)も過ごしたといわれる城です。遺構は都心にしては見事な空堀が残り、曲輪跡などよく分かります。また最近では豊富な御朱印(御城印)が密かに話題です。個人的には古地図デザインの御朱印がオススメ。>>尾張末森城の詳細ツイッターでは近日中の歴史イベントやプチ戦国ネタをつぶやいています。>>ツイッター登録はこちらフェイスブッ
信長の、弟・信勝殺害ですが。「麒麟がくる」では、帰蝶があからさまに示唆していましたね。帰蝶の同母弟ふたりは、高政に「病気だ」と騙されて呼び出され、殺害されています。容疑は「尾張の帰蝶と通謀した」という件です。帰蝶が糸を引いていたのは、ある程度、事実です(このドラマでは。もちろん、史実じゃあないでしょうけど)。だから今度は逆に、美濃の高政に唆された信勝を、病気と偽って誘きだしなさい、と帰蝶が信長に提案する、ってのは、このドラマとしては、ごく普通の流れ、といえるでしょう。それが「信勝に会って
信長が、だんだん変わってく信勝の嫉妬からかそれとも帰蝶か少なからず信勝が持ってきた「水」は毒がもっている
「麒麟がくる」では、登場人物の呼び名が「我々が今まで知っていた名前」とは違う(つまり、司馬遼太郎の小説とは違う)というのが、わりと沢山あります。織田信長の弟は、「織田信行」だと思っていましたが、実はこの名前で署名した文書はないらしい。この弟は何度も名前を変えているらしいけど、この「麒麟がくる」では「信勝」です。そのほうが理屈に合う、というのも、「柴田勝家」は最初は弟の配下で、勝の字もそのとき貰ったものと考えられるからです。斎藤道三の息子は、我々は「斎藤義龍」だと覚えていましたけど、これは大間
<稲生の戦い図>画:筆者5月末に那古野城の林兄弟が信長の弟の信勝を擁立して信長に反旗を翻したことで(【林秀貞の信長暗殺未遂】参照)、信長と信勝の武力衝突は決定的となり、8月22日、信長は於多井(おたい)対岸の名塚に砦を築いて佐久間(大学)盛重を入れて那古野城に備えた。これに対し、23日には柴田勝家が兵1,000、林美作守が700を率いて名塚に迫った。23日の大雨で於多井川は増水していた。そのため、柴田・林の軍は渡河を躊躇していた。しかし翌24日、信長は清須より兵700を繰り出し、
<織田信安>画:筆者信長の後ろ盾となっていた斎藤道三の死(【長良川の戦い】参照)は、隣国尾張にも影響し、尾張上四郡を支配する「岩倉織田家」当主・織田(伊勢守)信安が斎藤義龍と呼応し、清須近くの「たん原野」の村に放火した。「たん原野」がどこなのかは分からないが、おそらく現在の一宮市丹陽町一帯であろうと言われている。放火された仕返しに、信長は大良からそのまま(【大良(おおら)の戦い】参照)岩倉織田家の領地に攻め入り、岩倉付近の領地を焼き払ってから清須へ帰城した。一方、尾張下四郡を支配
<三河野寺原の戦いの頃の尾張・三河の図>作画:筆者【尾張の情勢】この頃の信長を取り巻く情勢としては、東から今川の侵略をうけ、南の海岸部には一向宗がおり、北には上四郡を支配する織田伊勢守家があった。また家臣の中にも、品行方正な弟の末森城主織田信勝を支持する勢力がいた。<斯波義銀>画:筆者また清須城には尾張守護がおり、信長はその守護を守る立場という地位を利用して権威を保っていたという側面がある。3年前に清須城で起きたクーデターの時(【安食の戦い(中市場の戦い)】参照)に信長の
【星崎・根上奪還】天文24(1555)年2月(22歳)天文24(1555)年2月5日、鳴海城主の山口左馬助に同心した笠寺台地の星崎・根上の者を花井右衛門兵衛に糾明させ、その所領を没収した。これによって信長は一応、笠寺台地の今川勢力を尾張から駆逐することに成功し、5年後の桶狭間の戦いでは清須から南下して善照寺砦まで障害なく進軍することができたのである。<笠寺台地と桶狭間古戦場>作図:筆者【信勝、信長への対抗心を鮮明にする】天文24(1555)年5月頃(22歳)ところが3か月後の
天文23(1554)年11月16日に信長は自らを「上総守」と称し、20日には「上総介」と改めた。『信長公記』によれば、これらの受領名はあくまでも自称であり、朝廷から正式に任官したものではなかったという。守護所もある尾張中心地の清須を奪取したことに次いで、自称とはいえ受領名を称したことは、この頃から領国支配に係わる文書が増加することと無関係とは思われず、戦国大名としての経営基盤が固まりつつあることを窺わせる。この頃、弟の信勝は達成(みちなり)に改名している(たびたび改名しているので本稿で
土田(とだ)御前(信長と信勝の実母)のとりなしもあって、信勝は命を救われますが、ふたたび叛意を抱き、信長に誅殺されます。勝家は秀貞とともに赦されましたが、干されました。パージされたのです。その間、勝家は黙々と忠勤に励むしかありません。そして、信長が足利義昭を奉じて上洛を遂げる永禄十一年(1568)になって、ふたたび勝家が織田軍団の武将として登場してきます。当時、京は三好一族が支配していました。勝家はその三好一族の石(いわ)成(なり)友通(ともみち)の籠る勝龍寺城