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真宗寺4月4日午後島崎藤村の飯山訪問~1回目から3回目の取材の目的とその概要~いままでの記述のおさらい~飯山再発見のための連載~151藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回2島崎藤村は「大江磯吉」をモデルにした作品を書きたいと長期間準備をしていた。島崎藤村は、藤村が最初に飯山を訪れたのは、明治36年9月。来飯の目的は、飯山高等小学校訓導の清水謹冶から保科百助のことを取材するため。保科百助は、明治24年長野師範学校を卒業し、飯山尋常小学校訓導として着任。同じ年に清水謹冶は、飯山市
藤村が教師を勤めた小諸義塾飯山高等小学校訓導清水謹冶は~大江磯吉を講師に招いた保科百助の飯山時代のことを話した~飯山再発見のための連載~118藤村が飯山へ来たのは4回以上4島崎藤村が「破戒」の取材のために飯山へ来たのは何回か?小諸義塾女子学舎」の生徒であり、大家の娘である白檮山いそじと、その友人三村喜乃を、飯山へ送り届けることは口実であり、藤村の本当の狙いは飯山小学校の訓導清水謹冶と会い、清水謹冶から保科百助の飯山小学校追放の経緯を聞くことだった。この藤村の飯山行きは、白檮山いそじ
雪の飯山市ノ口保科百助~飯山小着任一ヶ月にならないのに~信濃教育会支部設立総会で2つのテーマで発表~飯山再発見のための連載~66小説「破戒」の舞台と飯山8白檮山いそじが「~島崎藤村先生の小説「破戒」を拝見した時、破戒の主人公の丑松さんは,清水先生をお書きになられたものだ」とすぐにに分かった。と、言っていること.清水謹冶も、「~破戒は、自分が島崎藤村に話してやったことで構成されている」と、述懐していていいた。白檮山いそじが「破戒の丑松が清水謹冶だと思った」と清水謹冶が「破戒は、島
清水謹冶が学んだ外様小学校跡地「教員の質の向上を目指し全郡の教育職員を対象に講習会を開くべき」~提案したのは小野彪次郎校長~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~24明治25年、飯山町を中心とする信濃教育会下水内部会は、教育の質の向上のために、大きな講習会を計画した。下水内教育会役員会の議事録には、この講習会を提案したのは小野彪次郎校長だと記してある。小野校長は、「当下水内郡は長野県の北方に位置し、他郡の刺激を受けることが少なく、ために教育事業の不振を招いている。教員の質の向上を
長野県下の学校に配られた保科百助の長野県地学標本左から3番目が飯山北高校のもの百助と清水謹冶・森繁吉の関係は~『破戒』のなかの丑松と同僚銀之助等の関係を思い起こさせる~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~22保科百助は、清水謹冶や永江小学校の代用教員となっていた高野辰之なども含む下水内郡下の若い教員達に大きな影響を残しつつ、わずか1年で飯山尋常小学校から転任した。「飯山時代の保科先生」の中に清水謹冶は「ある問題で校長と議合わず、明治25年(1892年)6月終に小県郡東塩田小学校に
清水謹冶が学んだ旧外様小学校校門着任1ヶ月にもならないのに~下水内教育会全体会で2つのテーマで発言~保科百助保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~20明治24年に長野師範学校を卒業し、保科百助の最初の任地である下水内高等小学校に着任し、高崎歩兵隊での6週間の現役徴兵服務を終えて、飯山尋常小学校での勤務が始まったのは5月中旬であった。長野県の一郡一校の設置せよとの方針に基づき、下水内高等小学校が設置されたものの、独立した校舎がなく、事務室と、2年生と4年生の授業が、百助が勤務する飯山尋
写真上清水謹冶の生家があった外様中条写真下清水謹冶が学んだ外様下水内高等小学校跡保科百助と清水謹冶は~飯山尋常小学校では同僚であり、真宗寺では同宿の間柄~影響を受けた~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~19保科百助は、明治24年(1891年)4月、飯山尋常小学校に着任した。ただし、校長に挨拶しただけで、生徒に紹介されるいとまもなく、当時、師範学校新卒の教員に課せられていた6週間の現役徴兵服務による高崎歩兵第15連隊に入営した。同じ4月、清水謹冶も、下水内高等小学校を卒業
保科百助百助は、3等給の俸給を持って最初の任地飯山尋常小学校へ赴いた~県知事宛に建白書を提出~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~19百助は、この仕組みの改善のため、学友と共に学友会を組織し、校長浅井一の上京中に「俸給平等建白書」を提出した。教頭、主事等がその不穏な行動に気付いたが、建白はしが、同盟休校などの示威行動を含まぬ以上、何ら不穏なことはないと、百助は次のように言って一歩も譲らない。~学力成績も重んずべき筈のものには相違なきも、ただそれのみにて卒業生の全人格を判定すべき標
真宗寺のある通り通称25m道路清水謹冶は、外様出身~下水内高等小学校を卒業。16歳で飯山尋常小学校の代用教員に~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~14飯山町長も務めた清水謹冶後に、石の狩人と呼ばれる「保科五無斎」保科百助は、明治24年(1891年)4月長野師範学校を卒業し、飯山尋常小学校首席訓導に着任しました。一方、井出孫六の石の狩人「保科五無斎」に登場する清水謹冶も、下水内高等小学校を卒業し、同じ年の4月、代用教員として採用されました。清水謹冶少年は、その年の3月。飯山町
真宗寺真宗寺の同宿森繁吉も~保科百助が亡くなった後~「保科五無斎を偲ぶ」~百助は禁酒会員~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~13真宗寺には、保科百助や清水謹冶ともに森繁吉が同宿していました。その森繁吉も、保科百助が亡くなった時の「保科五無斎を偲ぶ」という記録の中で、真宗寺の百助のことを次のように書いていると言います。~当時の保科君は殊勝にも早旦起床して冷水摩擦をしたり、柔軟体操の二三節をやってから読書三昧に入るを例とした。少しの暇あれば読書にふけり、広く群書を渉猟した。その励精
清水謹冶や保科百助が下宿していた真宗寺当時の真宗寺は昭和27年5月18日飯山の大火で焼失清水謹冶と保科百助が繋がりました~勤め先も下宿も一緒で~百助の影響を受けました~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~11保科百助が、飯山尋常小学校へ着任直後に、6週間の高崎歩兵15連隊への入営研修の間に、清水謹冶という飯山外様出身の清水謹冶という少年が、下水内高等小学校を卒業し、飯山尋常小学校の代用教員として入ってきていた。この清水謹冶は、保科百助の影響を受けて長野師範に学び、飯
教会で牧師に英語を学び~将来アメリカに渡りたい~と言う願望を持っていた~長野師範時代の百助真宗寺の梁山泊保科百助井出孫六さんの『石の狩人「保科五無斎」』に描写されている保科百助保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~9長野師範学校の4年間。いや1年落第したのを入れると5年間、保科百助がどのような学生であったのか、当時の名物教師浅井列が後年回想しているように「その生徒時代はこれと頭角を現すほどのことも記憶せざれど、一寸余人とは異なりし所ありしかと思わる」程度の印象をしかとどめてはいない。
真宗寺~蓮華寺の石碑蓮華寺では下宿を兼ねた~小説破戒の冒頭部分~なぜ真宗寺が下宿業を兼ねていたのか~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~6島崎藤村の「破戒」、井出孫六の「石の狩人保科五無斎」、畑守夫の「物語高野辰之」などなどに、真宗寺が登場し、その真宗寺で下宿した人たちの名前が数多く出てきます。寺で下宿するということは、あまり想像できないのですが、これには理由があったのです。~明治4年に学制が発布され、「一般の人民必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期
飯山尋常小学校真宗寺には、保科百助、森繁吉、本多銀次、小野彪次郎などが下宿していた~小説「破戒」に登場する面々保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~5下水内教育会の明治24年の研究会の議事録などを含めた、井出孫六さんの調査考察から、、保科百助が、飯山尋常小学校へ勤務し、真宗寺で下宿していた一年ほどの出来事が、島崎藤村の小説「破戒」に出てくる飯山尋常小学校の学校内の描写、蓮華寺での丑松などの日常の描写そのものなのです。下水内教育会の議事録からは、新進の首席訓導保科百助の活躍ぶりが分かった
石の狩人「保科五無斎」飯山尋常小学校着任半年~最多得票で「下水内教育会の理事」に選任されました~保科百助~保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~4井出孫六さんは、一年あまり飯山尋常小学校の主席訓導として務めた、保科百助の足跡を調べるために下水内教育会を訪ねました。保科百助は、明治24年に長野師範学校を卒業し、下水内教育会の新会員となりました。当時は、「教育談会」の名残りのためか、毎月定例会が開かれ、会員のだけかが研究発表を行うしきたりだったそうです。石の狩人「保科五無斎」には、「