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土津神社の御朱印土津神社奥之院の御朱印由緒書土津神社のご祭神である保科正之公は江戸幕府二代将軍・秀忠公のご落胤初代将軍・徳川家康公の孫三代将軍・家光公の異母弟🧐家光公と四代将軍・家綱公を輔佐し幕閣に重きをなしました🧐敬内義外の精神を中心に据え會津藩政、江戸幕政に臨み力によって押さえつける武断政治から信頼関係に基づく文治政治へと転換し二六五年に渡る徳川幕府の礎を築いた🧐参道入口社号標土津神社/奥之院全体図保科正之公に関する史料正之公は、寛文12年(167
こんにちは〜まだ4月だというのに、半袖でも過ごせる陽気の福島県です昨日、稲の苗が届きましたこの白い不織布で被ってるのが稲の苗箱です稲の赤ちゃんたち元気に大きく育ちますようにそして今週もお出かけ〜猪苗代町に行ってきました土津神社さまです早朝の白い鳥居と満開の桜気持ちが洗われるようでしたうちの方は桜が終わってたので、思いがけず満開の桜が見れて嬉しい手水舎わぁ華やか〜土津神社は初代会津藩主保科正之さまをお祀りしています↑↑↑私も最近知りました拝殿で手を合わせてお詣り
☆主は変わってもそこに咲く桜の花*天下一・高遠(たかとう)の桜(伊那市)高遠城址1500本の「コヒガンザクラ」その美しさと南アルプスを望む眺望は”天下一”二代将軍・徳川秀忠には、三代将軍となる「家光」のほか、側室に男児がいたが、極秘裏に信州・高遠城で育てられていた。家光は、将軍になってから始めて、弟の高遠藩主「保科正之」の存在を知る。
今日は風が強かったですねタイトルにあるとおり、本日は猪苗代町まで走って来ましたが、往路は、心が折れそうになるほどのキツい向かい風でした。走らなくちゃよかったかな?とも思いましたが、今日走らないと、猪苗代町の桜もピークを過ぎちゃうかな?と考え、ちょっと無理して走って来ました。今日も写真多め、文章少なめのブログです朝8時半に自宅を出て、国道49号線経由で猪苗代町へ向かいます。それにしても風が強かった!場所によっては向かい風だったり横風だったり、走りにくいことこの上ありませんでした
会北史談会の定期総会が来る29日午前10時から喜多方市の喜多方プラザ二階の会議室で行われますが、そのときに私が「会津白虎隊の精神」と題して話をすることになっています。白虎隊の少年たちの死は、あまりにも壮絶なものでしたが、なぜ国に殉じたかというと、そこには山崎闇斎の朱子学、さらには藤樹学の影響があったからです。いうまでもなく、朱子学は天皇絶対であり、会津藩の家訓(かきん)における「大君」という言葉は、天皇を意味するという解釈もあります。幕府を第一と考える場合にしても、その上に天皇がおられ
土津神社は、磐椅神社の西側近くにありますが、磐椅神社の末社という位置付けのようです。祀られているのは、土津神霊こと初代会津藩主・保科正之公。下記リンクを読めば、保科正之は、一地方の藩主というより、国政の場において、多くの民のために善政を施した方であることが、よくわかります。《参照》『保科正之』中村彰彦(中央公論社)ご祭神|土津神社【公式】には、保科正之公について、以下のように書かれています。二代将軍・秀忠公のご落胤、三代将軍・家光公の異母弟。幼名「幸松」。母は秀
一昨日からブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的な写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全
今回からブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的な写真をお届けしていきます。「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたり、「はじめに」を前回のブログで掲載しましたのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全
※国指定史跡高遠城本丸内「高遠城の戦い」案内板…天正10年(1582)織田・徳川連合軍の「甲州征伐」により、武田家は滅亡します信濃の要衝を任されていた武田一門衆、家臣たちは、武田家を見限り、織田軍に降伏、裏切り、逃亡するものが続出し、織田軍総大将の織田信忠は、信濃を容易に進軍していきますしかし、織田軍に立ちはだかったのが、勝頼の弟、仁科五郎盛信でした盛信は、高遠城に籠城し、3千の兵にて5万を超える織田軍と戦い、壮絶な討ち死にを遂げました高遠城本丸は、武田時代から位置
※国指定史跡高遠城南曲輪案内板…本丸のとなりに位置し、本丸を守る大きな曲輪です高遠城2️⃣100名城No.30高遠城には、今回初めて行きました。高遠城は、山城に見えますが、平山城に属します。高遠城は、「高遠城址公園さくらまつり」が毎年3月末頃の咲き始めから4月中旬〜下旬頃まで行われます。5分咲きの4月初旬、満開の4月中旬には、多くの観光客で賑わいます。高遠城の建物は、明治期に取り壊されましたが、土塁、空堀の遺構がほぼ完存する城で、江戸時代に
※高遠が誇る名君「保科正之公、生母お静の方像」と案内石碑…保科正之は、2代将軍徳川秀忠の三男になります三男だったら「保科」じゃなくて「徳川」だろと思われるかもしれませんが、これには「深~い理由」がありまして、詳しくは保科正之の墓所を訪れる機会があると思いますので、その際に説明させていただきます保科正之は「高遠藩主」として、領民に「善政」を施し、今でも高遠町の「名君」ですお静の方は、「秀忠の事実上の側室」ですが、生涯正式な「側室」と認められていません。また、これにも
まだ松の内の頃のこと・・・年明け3日に毎年恒例の増上寺初祈願に家族で行って初法要をしていただいたのですが、ちょうどその頃箱根駅伝の復路で増上寺の前の日比谷通りが黒山の人だかり増上寺も混んでいてゆっくりお参り出来なかったので再度来訪港区役所に行く用事もあったのでね~三解脱門~三解脱門をくぐった際の厳かな雰囲気が好き空いちょる空いちょる~~安国殿~安国殿内に掲示してある徳川家
昨日は初薬師目黒不動を始め、あちこちに巡った後に午後1時半に蛸薬師🐙こと成就院に戻って来ました今年も家族の家内安全を祈願しに御護摩修行とご開帳が有るので參座させて頂きました😊山門手水舎の龍様🐉手水舎の前には箱庭の様な可愛らしいお正月飾り本堂天台宗寺院の成就院は、蛸薬師不老山薬師寺成就院と号します天安2年(858年)慈覚大師円仁により開山徳川秀忠の側室のお静の方によって寄進された地蔵菩薩と観音菩薩が本堂横にあります御本尊薬師如来本堂扁額蛸薬師🐙の提灯🏮蛸薬師🐙の看
年末年始のお参りの記録年末帰省中会津の初代のお殿様保科正之公の(ほしなまさゆき)祀られている地元猪苗代の土津神社(土津神社)へ父が兄嫁と私を連れて行ってくれました🚗(保科正之公は三代将軍徳川家光の異母兄弟四代将軍家綱の後見人であり徳川幕府の基礎を作り上げたと言われています🖐️)土津神社は白鳥居が美しい神社✨写真を一枚も撮っておらずw画像検索からお借りしました冬ならこうなるはずなのですが今年は雪はほとんどなしでした🖐️紅葉の時期が🍁美しいそうです😍こちらライトアップの写真を
皇居東御苑へ行ってきました。70%くらいは外国人。スマホでガイタンスを聞くことが出来ます。大手門から入りましたが、番所が三重にもあり厳重に警備する構造です。入ると坂があり重い甲冑を纏った敵を苦しめるように設計されています。今、江戸城には天守閣がありません。1657年の明暦の大火で焼失しています。1658年に天守台は作られましたが、徳川家光の異母兄弟である、保科正之により天守閣に造る資金を江戸町人のために使えとの命令により建築されませんでした。保科正之は初代会津藩主で、徳川家光の弟で
マイナス思考過ぎます二代将軍徳川秀忠さんhappy思考ですが偉大な偉大な父親を持ち二代将軍になり、眠れない日々があったのでしょうちょっと🤏弱気その理由のひとつに奥様が魔女🦹♀️並に怖かったと、いうのもありましょうかかあ天下で年上女房妻は再婚でツオイそして、、織田信長の姪お市さんの三女江姫を正室に持ちます見性院(けんしょういん)は武田信玄の三女であり武田信玄の側近穴山梅雪の正室です伊賀越えで徳川家康さんを助けてくれて家康さんは御恩を忘れま
昨夜7時頃起きた春日井人身事故で、乗っていた特急しなのが多治見駅で運転見合わせとなりました。復旧の見込みは二時間程度と車内放送がありました。迷った結果、岐阜経由の普通列車を乗り継いで名古屋に向かいました。特急券代は返ってきましたが、どちらが早かったのかはわかりません。昨夜は計画の2時間遅れで真夜中に帰宅できました。私はこういうのに数回巻き込まれていますが、他の人もそんなもん?さて、旅行記は続きますよ。厳しくて強そうで寒そうな日本アルプスの山を見ながら長野県伊那市へドライブ。
おはようございます。江戸城本丸を再建する。なんて議論が国会でなされた。そんな話がありましたね。江戸城に本丸がなくなったのは、1657年(明暦3年)のこと。江戸中の建物が焼け落ちてしまった『明暦の大火』によるものでした。この火災は2日間に渡って燃え広がり、10万人以上の生命が失われたと伝えられます。時は将軍徳川家綱公(四代目)の頃。まだ幼い将軍に代わって、治世を行っていたのは叔父にあたる(先代家光公の異母弟)会津若松藩主の保科正之でした。大火によって、江戸の復興を進める幕府。その指
江戸城の天守閣が焼け落ちた。重臣たちが天守閣の再建を決めようとしたとき、保科正之が幕府に対抗する大名はもはやいないので、再建する必要はないと意見した。再建が必要と訴える重臣たちの考えも、保科正之の考えもわかる。将軍家綱は迷った。「保科の意見はもっともじゃ」家綱は裁断を下した。送料無料!根室産とろサンマ(約4kg40〜42尾1尾97g前後)お刺身にできる!北海道産獲れたて生さんまを水氷でお届けします。楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEX
今後、歴史好きの私が興味ある事象・人物について語ります。今回は会津松平家についてです。会津松平家の藩祖・保科正之は二代将軍・徳川秀忠の三男として生まれました。秀忠の正妻は浅井三姉妹の末妹である「お江の方」です。秀忠は織田信長の姪で淀君の妹でもあるこの正妻に頭が上がらず、城内に側室を置くことができませんでしたが、正妻に隠れて「お静」と言う女性と間に男子を誕生させました。それが保科正之です。徳川宗家の血筋(秀忠の血筋)は会津松平家以外すべて途絶えてしまい、現在まで徳川宗家の血筋を繋いだ
猪苗代の土津(はにつ)神社は、初代会津藩主の保科正之を祀った神社です。保科正之は、徳川秀忠の子ども、すなわち家康の孫にあたり、3代将軍家光の異母弟です。家光を補佐し、家光自身も優れた能力を持った正之を頼りにしたということです。家光亡き後は、幼かった4代将軍家綱の後見役として幕府の土台を安定させるため幕閣の中心として活躍しました。徳川幕府の政治の考え方が武断政治から文治政治へと転換していったのは正之の功績であるということです。参道は急な階段を登ります。拝殿前の手水屋
「江戸城本丸」金曜日はカレーの日みなさん、おはようございます金曜日です朝食は定番のカレーです今日は雨の所が多いです雨が降るとホッとしますさあ、今日「11月10日」の國史を学びましょう「江戸城本丸、完成」元和8年(1622年)江戸城本丸は、1606年に家康が完成させますその後、2代将軍、秀忠が大改築を行い1622年に本丸御殿へ移りました幾度の焼失がありその都度、再建されますが幕末、1863年の焼失の後は、再建されず明治維新を迎えました
偉人の話を聞くと日本人の誇りを取り戻し前向きに生きることができます。
高校時代の友人、S山君と出かけた信州は伊那路と木曽路の旅、前回は“ニッポンのチロル”として有名な下栗の里を御案内致しました👇『S山君と行く「伊那路」と「木曽路」夜行日帰りの旅(^^)v下栗の里編』2023年10月1日の夜から翌2日にかけて、長野県は南信地方、木曽山脈(通称「中央アルプス」)を境に両サイドに跨る「伊那路」と「木曽路」を巡って来ました(^…ameblo.jpそして文字数多く動画のリンクが不可となりましたので今回、冒頭に貼らせて頂きます動画は御存知、「chuの気ままなお出かけチ
「家康は側室15人」も子の秀忠は側室いなかった訳徳川家康は、築山殿と朝日姫という2人の正室に加えて、15人の側室を持った。側室の人数については諸説あるが、家臣と同様に、側室にも個々のパーソナリティを踏まえた役割を与えているのが、なんとも家康らしい(…toyokeizai.netと、云われているが!!当時の相関関係、状況を、並べ、比してみると、三代将軍家光の家康への異常なまでの思いと、保科正之の徳川意識は、他にみあたらず、秀忠の子ではなく、家康の子と考える!!と、すれば‼徳川家には
皆さん、こんばんは♪どうする家康第39話「太閤、くたばる」では秀吉の死とともに徳川四天王筆頭の酒井忠次の死も描かれていましたね!家康が、息子の秀忠と一緒に結婚の報告に忠次に会いに行きそのとき、みんなで「えびすくい」を踊ったというドラマの設定にいたく感動しました♪秀忠が、その生涯ただ一度の浮気で生まれた、私が歴史上最強のNO2だと思っている「保科正之」そして、正之の信念を江戸時代を通じて継承し続けた会津藩。酒井
[大河ドラマ・どうする家康]徳川家康の側室一覧総勢20人の側室と16人の子ども相関図・家系図徳川家康は多くの側室を抱えてたくさんの子を作って、江戸時代に繁栄をもたらしました。徳川家康は特に子が多かったといいます。今回は側室と子どもを一覧にしてみました。www.bushoolife.comあくまで、私見ですが!!二代将軍秀忠の子家光は、お福と家康の子ではないだろうか?家光誕生、乳母お福の経緯を調べると、どうも疑念を持たざるを得ない。お福は、明智の一族であり、何故お福だったのか?
重要ポストを与えても給料は上げない…大名の力を削いで巧みにコントロールした家康の"ずるい政権運営"(プレジデントオンライン)-Yahoo!ニュースなぜ徳川家康は260年間も続く長期政権の礎を築けたのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「大名たちを親藩、譜代、外様で区別し、幕府要職にある者の領地は少なく、領地が広い者のポジションは低くしたnews.yahoo.co.jpこの記事では秀吉が文官を好み、家康が武官を好んだとありますね。多分、家康が生きてた頃はまだ豊臣家がいたから。
世の中は三連休ですが、実は私はシフトの都合で四連休せっかく覚えたことを忘れてしまいそう1週間色々あったし、10月になってから寒いので、とにかく起きられません連休初日は、疲れと眠気で、家事以外はほとんど寝ていたため、記憶がありません2日目は最低気温が一桁を記録したため、ほぼほぼ冬支度。いつヒーターを出そうか迷いましたでも、意外と冷えませんでした夫も休みだったため、現地でしか買えない日本酒を買うために、会津坂下町へ。途中、ドライブインでさくら刺し(馬刺し)定食を注文〜馬刺しは美味し
会津藩校日新館天文台跡商業ビルなどが並ぶ広い通りから入るとすぐに大きな石垣が目につきます江戸時代、現在の謹教小学校東側には会津藩校日新館がありました。日新館では天文学も学ばれておりそのための施設として建設されたのが、この天文台でした。日新館の建物は戊辰戦争により焼失してしまいましたが現在、天文台跡のみがその跡地に残されています。江戸時代には全国各地で天文台が建設されましたが現存しているものはこの日新館の天文台跡のみです。そのため、全国的にも貴重