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2024.5.5のブログを一部訂正致しました。『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...②』『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...①』『2024.1.23チノポス書道史③「趣味が功を奏して…」』前回のブログでも記載した通り三筆「嵯峨…ameblo.jp前回のブログで小倉百人一首に、選歌されている「小野篁(参議篁)」の歌に関して記載しました。実は、二十年位前、百首、暗記していました。*現在は、反復していないのですっかり忘れています...(^^;
人形劇「平家物語」の場面は保元の乱でした。保元の乱がはじまる少し前の場面からでした。源義朝と父親の源為義が敵味方に分かれたのは、為義が恩義のため、そして二手に別れれば血が絶えることがないという考えからです。真田幸村の父も血が絶えないために二手に別れましたよね。武士にとってはお家大事なのですね。合戦の場面では、いちいち「われそこは源の」と名乗っていました。平家も名乗ります。為義がそれを聞き「若武者が」とほめているのです。現代人から見ますと何とも不思議な戦いです。戦いは
24.03/10sun.07:25-20:15(西梅田発着)四国八十八ヵ所霊場巡拝2024年、逆打ちバス巡拝の第3回明石海峡大橋、淡路島SA高松自動車道、府中湖PAから北へJR線を越えて左折、八十場駅北側に駐車駅から南右折して、突き当たる白峰宮三ツ鳥居(三輪鳥居)社殿に向かう参道南側天皇寺本堂本尊十一面観世音菩薩に納経左側内向き、大師堂に参る左に、地蔵菩薩立像白峰宮(崇徳天皇社/明ノ宮)に参拝参道北側に庫裡、寺標第79番金華山天皇寺(きんか
縁切り縁結び碑について|安井金比羅宮(yasui-konpiragu.or.jp)京都府京都市東山区に安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)という取り扱い注意の強力な「縁切り神社」があるそうです。※他人の不幸を願うと返って来る〒605-0823京都府京都市東山区下弁天町70(崇徳天皇)その祭神は第75代崇徳天皇(1119~1164)で1156年に保元の乱(ほうげんのらん)で敗れ罪人同然として讃岐国へ流配になった天皇です。上皇が天皇の代わり政務を行う院政を行っていた
ポッドキャストへ番組関連「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心にかなはぬもの」と、白河院も仰せなりけるとかや。瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ崇徳院(すとくいん)
一旦3時に目覚め、今朝起きたの8時ちょっち前や。ザ・ポインターシスターズのアルバム「ザッツ・ア・プレンティ」をレコードで聴いた。朝食は山形産つや姫でご飯炊き、くめ納豆、梅干しでご飯一膳半。デザートは愛媛産みかん2個。大坂昌彦→原大力→奥平真吾→本田珠也→岩瀬立飛→鈴木麻緒と、これ迄ライブ聴いとるドラマーをユーチューブで聴いた。モン・ズーイーが主演で、シュー・ジェンシーが相手務める「花令嬢の華麗なる計画」第一話をユーチューブで見た。昼食は浅草「Rrestaurant&bar」へ行っ
皆様、ご機嫌YOです!現場の戦いを一番よく知っているのは現場の人間。上層部の仕事は現場の声を聴き、現場を知る事でより現場が動きやすい環境を整える事です。そして、現場の判断は出来るだけ現場に任せていらぬ口を出すべきではない。そして今回は戦を知らぬ上層部が現場の判断を無視し、いらぬ口出しをした事で戦に負けた一つの合戦についてです。さて、いかがだったでしょうか。現場を知らぬ上層部が介入して全てが崩壊する、歴史上のみならず今でもみられる失敗パターンの好例です。んで、この失敗例はこ
保元物語・・・鎌倉初期の軍記物語、三巻。作者、成立年代ともに不詳。保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に、その前後の事情を描く。この『保元物語』に『平治物語』『平家物語』『承久記』を合わせた四作品は「四部之合戦書」と呼ばれる。最近、古典にハマってまして・・・最近、『保元物語』を読み切りました。ちなみに、約1年前ほどに『平家物語』(岩波文庫)を読みまして・・・この時に、『平家物語』が鹿ケ谷事件から話が始まることを初めて知りまして・・・そんな中、『平家
…平清盛が源義朝に勝利し、平氏台頭のきっかけとなった争いは何か?「平治の乱」である。「保元の乱」の後に、後白河上皇近臣藤原通憲(ミチノリ・信西〈シンゼイ〉)と藤原信頼が反目した。信西は清盛と結び、信頼は義朝と結び、対立した。清盛が熊野詣で京中を留守にしたのに乗じ、信頼らは挙兵。上皇を幽閉し、信西を殺した。急遽京都に戻った清盛によって乱は鎮圧され、信頼は斬刑、義朝は尾張に逃げたところを謀殺された。義朝の子・頼朝は伊豆に流
応仁の乱も読み終わらないうちに今日も本を買ってきてしまった。『平治の乱の謎を解く』文春新書ってあまり買わないため見逃していましたが、アマゾンでお勧めに上がったのを見てこちらを探しに行ったのであります。平清盛と源義朝が激突する源平合戦の元祖的な戦いですが、源氏側は鎌倉悪源太義平の奮戦むなしく敗れます。よくセットで語られる保元の乱では鎮西八郎為朝が奮戦、そのポジションを義平が務める。この両者は叔父と甥の関係ですが年齢は2つしか変わらず、もしこの両者が出会っていたら……なんて妄
こんばんはーー!ひなたです☀️今日のメニューレスト私→日本史、論Aどうして藤原氏はこんなにも多いのですか?どうして巻物の名前はそんなに長いのですか?どうしてそんなに沢山の役職を作ったのですか?覚えなきゃいけないじゃん!日本史をやってるとそんな事ばっかり考えます笑改めて考えると、約2000年のことが1冊の教科書にまとまってるってすごいですよね今私たちが生きてる年数は教科書のたった数行くらいなのかなって思うとなんだか自分の人生の浅さに気づきます深いようで浅い話でしたみん
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の「保元・平治の乱」について、どのように描かれていたのか、ヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想貴族と武士の争い時代が転換しはじめるとき(『まんが日本史』より「保元・平治の乱-貴族と武士の争い」タイトル画面)皇室・貴族の主導権対立から、武士が主導権を握る時代へ(『まんが日本史』鳥羽上皇)保元の乱の原因の大本は、鳥羽上皇(法皇)が、崇徳天皇を嫌ったことにあります。その理由は崇徳天皇は鳥羽上皇の実子で
…分かれて争われた戦乱は何か?「保元の乱」である。白河殿を攻める義朝逃げる崇徳上皇皇位継承をめぐり鳥羽法皇と対立していた崇徳上皇は、摂関家の継承を目指して兄の関白・藤原忠通(タダミチ)と争っていた左大臣・藤原頼長と組んで、源為義・平忠正らの武士を集めた。これに対して鳥羽法皇の立場を引き継いでいた後白河天皇は、忠通や近臣の藤原通憲(ミチノリ・信西〈シンゼイ〉)の進言により、平清盛や為義の子・源義朝らの武士を動員し、上皇・方を攻撃して勝利
これは日本の三大怨霊の一人、崇徳上皇のホロスコープ。表向き父親は鳥羽上皇だが本当の父親は崇徳上皇の曾祖父にあたる白河法皇。父親に嫌われ、騙され、実権を握れず、退位してからは院政を敷くでもなく宙ぶらりんな立場に置かれ、終いには弟と争い、負けて島流しに。讃岐に流された後は仏教に帰依し、3年かけ写経した大乗経を奉納してもらおうと後白河上皇に頼むも拒否されそのまま送り返される始末。崇徳上皇はそれに激怒し👺大乗経に血で呪いの言葉を書き海に投げ込む。崇徳上皇の死後、
新田義重は、清和源氏新田流の祖。個人的に興味のある人物ですが、この「新田義重」をテーマにした一般向けの本は、恐らく、この本だけでしょう。新田義重―北関東の治承・寿永内乱(中世武士選書)Amazon(アマゾン)しかし、この本、内容的には、なかなか、難しく、ややこしい。なぜ、難しく、ややこしいのかと言えば、当時、「武士」の行動は、その武士が仕えている「貴族」の行動に、大きく左右されているから。その「貴族」たちの行動が、なかなか、複雑で、ややこしく、簡単に理解をすることが出来
平治の乱にて平清盛が源義朝らを倒し、権力欲につかれた藤原家の面々も倒れて平家が実権を掌握する過程に入った『新・平家物語(二)(新潮文庫)』を読了しました。平治の乱で平家が源氏に勝利する新・平家物語(二)(新潮文庫)吉川英治新平家物語新潮文庫全巻セット20巻セット本書について保元の乱で、藤原家では後白河天皇の信任暑い藤原信西が実権を握って朝政を差配します。長らく行われていなかった死刑を復活させて、敵方の崇徳上皇方についた平忠正(清盛の叔父)や源為義(義朝の父)など多くの者
吉川英治先生の『新・平家物語(一)(新潮文庫)』を読み終えました。こちらは平忠盛と青年清盛父子の活躍から始まり、清盛の出生の秘密が明かされます。清盛の出生の秘密と保元の乱新・平家物語(一)(新潮文庫)吉川英治新平家物語新潮文庫全巻セット20巻セット本書について『平家物語』は、すでに保元の乱・平治の乱も終わり、平家一門の繁栄の絶頂間近で、清盛の義弟の平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と放言するシーンから始まります。一方のこの作品は、平清盛の父の平忠盛と清盛父子が、京で
いよいよお盆、道路の渋滞情報なども聞こえてきます。暑い中のご移動お疲れ様です。かくいう私もお盆に連れの実家やらなんやら、うろうろしてネット環境から離れます。酷暑とはいえ、はや立秋過ぎ。宣言していた「涼しくなる話」を書き進めるつもりが、このままではタイミングを完全に逸してしまう!というわけで、本日は取り急ぎ、、、香川県でパワースポット巡りをしようじゃないか、第2弾。もう1年も前の話ですが、香川出身の知人が、新参者の私たちのために親切にも丸一日かけて車で香川案内をしてく
②広廂の外に控える藤原基経(拡大)第13紙側:①足袋姿で清涼殿の土の庭にたたずむ人物※浅沓を履いていない。※下襲の裾(しっぽ)の先端が切り取られ、第14紙側に描き直されている。第14紙側:清涼殿にて清和天皇(左)に奏上する藤原良房(中央)と②広廂の外に控える藤原基経
「保元の乱」相手の気持ちみなさん、おはようございます季節は小暑から大暑に向かっています一番暑い時季です東京はまもなくお盆です季節の変わり目は運気の変わり目ですしっかり変化していきましょうさあ、今日「7月11日」の國史を学びましょう「保元の乱」保元元年(1156年)崇徳上皇(75代)と弟の後白河天皇(77代)の戦いです崇徳上皇は鳥羽天皇(74代)の子ではなく祖父である白河天皇(72代)の子ですこのため鳥羽天皇に嫌われ生まれたときから不幸で
おはようございます。一昨日から西日本で線状降水帯が発生し、豪雨のところがありました。みなさま方のところは大丈夫でしたか。今日は、1156年に保元の乱が起こりました。平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退。(新暦7月29日)この保元の乱とその後に起こる平治の乱は登場する人物も多く、人間関係も入り組んでいてわかりづらいですが、今日はほんの少し。保元の乱は、藤原忠通、頼長兄弟の争いが崇徳上皇、後白河天皇兄弟の対立と結びつき、保元1(1156)年7月鳥羽法皇の死を機に
(Aさん宅でいただいた精進揚げニンジン、しいたけ、ズッキーニ、ナスと野菜ばかりなので「揚げ物」とはいえないだろう)囲碁トモのAさんからご自宅で対局してから晩メシを食っていけ、とのありがたいお誘いがあった。なんだかんだ、この1週間で3回目の会食となる。「もはやぼっちメシの時代は終わった」、そんな感じ。Aさんと知り合ったのはちょうど5年前の6月のこと。初めての対局は私の3子局(=下手(したて)の私があらかじめ黒石を3個盤面に置いて対局する実力的にはプロ野球チームと甲
※このページは、『脱出ゲーム香川県からの脱出』の途中のページです。ゲームを最初から始めたいときは、「【脱出ゲーム香川県からの脱出】タイトルページ」へ進んで下さい。観音寺(かんおんじ)iii崇徳天皇「次に、人数に物を言わせた、有無を言わさぬ強硬手段」「鳥羽天皇崩御からわずか6日後、藤原頼長が屋敷を留守にしている間、後白河天皇の勅命で、源義朝の兵がその屋敷を押収した。私と頼長は側近の武士たちを集めて、白河北殿に立てこもるしかなくなった。そこへ義朝と平清盛が夜襲をかけてき
※このページは、『脱出ゲーム香川県からの脱出』の途中のページです。ゲームを最初から始めたいときは、「【脱出ゲーム香川県からの脱出】タイトルページ」へ進んで下さい。観音寺(かんおんじ)i崇徳天皇「保元の乱における信西一派の行動と、ゲーム規制条例を成立させたときの県強付会の行動はよく似ている」「まず、情報のでっち上げだ。近衛天皇や鳥羽天皇が崩御したとき、信西もしくは関白の藤原忠通が噂を流した。天皇の崩御が、私と左大臣の藤原頼長の呪いによるもので、我々が後白河天皇に対して
2023年6月15日木曜日曇り今朝の比叡山です。朝食を済ませ、ゆっくり。今日もダラダラしよ。明日は晴れるようです。庭の雑草抜きです。お昼を済ませ、ちょっと昼寝です。午後の比叡山です。今日のおやつは、御菓子司美玉屋の「黒みつ団子」です。美味しい。ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。先日の梅小路公園から七条通を西へ進み千本通をこえ七本松通の手前の路地を南へ。ここに六条判官源為義公塚と源為義塚移建碑があります。六条判官源為義公塚〒600-8844京都府京都市下京区朱雀裏
ゆうべも家に帰ってからテレビのチャンネルをかえながら見ているとNHKBSプレミアムでは「英雄たちの選択」白河上皇の話だった興福寺や延暦寺などの僧兵の強訴に対して武士を使って撃退したという朝廷の力による問題解決のはじまりとかそれでおさまることはなくてむしろ暴力の連鎖連鎖のちの保元の乱へと結びついたというそして源平合戦を経て武士の世の中
鎌倉時代を初めるにあたって武家政権の成立のきっかけとなった保元の乱と平治の乱について述べたい。(保元の乱)皇位継承問題や摂関家の内部抗争により後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれて戦った。これに平氏、源氏の武士が加わった。これがが1156年の保元の乱である。1皇位継承問題鳥羽天皇の第一皇子、崇徳天皇が即位した(1123)。崇徳天皇は鳥羽上皇の祖父白河上皇と鳥羽の中宮待賢門院璋子との間に生れた子であったという。だから崇徳天皇の即位は白河上皇の意向であった。鳥羽上皇は崇徳天皇を
おはようございます。今日は京都にゆかりのある西行と兼好の忌日です。【西行忌、円位忌】西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉-文治6年2月16日〈1190年3月31日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。西行出典Wikipedia西行の名前を初めて知ったのは、その和歌からでした。特に、「願はくは花の下にて春死なむ
22.12/11sun.10:20-14:25JR鴨川駅から北東に綾川、国道を渡って突き当たり信号機交差点を左折、概ね北へ新池を過ぎて県道に分かれ二股を右へ山すその民家沿いにしばらく先で四ツ辻を右折道なりに左カーブして北へ広い車道に出て右折車道を行きながら歩きなりのショートカット?平安時代からの参道があるはずと…車道がヘアピンカーブで高度をあげるところ崇徳天皇白峯陵に向けて参道石段を上る開けた御陵前を左に折れて崇徳天皇白峯陵に参拝参道石段下に戻って、前に
メリークリスマスーってクリスマス関係ない私は、保元の乱後まで来ましたー為義の元服前の幼子4人も死罪となるなんてもう何回読んでも号泣です。#双調平家物語#橋本治#保元の乱#源為義#鎌倉殿の親から