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週刊エコノミスト・小林よしのり闘論席を書き写してきたので、丸引用して紹介したい。>「善悪二元論」を幼稚だと否定する風潮が、知識人の間では大勢になったような気がする。かつて、オウム真理教を擁護する思想家、宗教学者、知識人、サブカルが跋扈(ばっこ)し、オウムが近代を超えるポストモダンとして、もてはやされた。オウムの犯罪が明らかになった後でさえ、警察vsオウムを善悪で判断してはいけないという価値相対主義がはびこり、オウムを悪と断定したわしは、「麻原さんは本物の宗教家だ」と主張する吉本隆明氏
YouTubeを見ているとやたらと増えてない?まっちんぐなんちゃら私が大切にしている若者達にははっきり申し上げておく「君らはやめておけ」と私はデータを取り、心理学を学び、それらの有利性は知っているそれを踏まえた上ではっきりとそう申し上げておく。理由?理由なんぞ聞くな理屈はいらん「君らの年でそういう生き方やめておけ」真璃子さん、今も活動されてるようだ。いやぁ、これ、23歳でこれです。正直な話、この当時1991年は私は別にファンではなかったんです
河瀬直美なる映画監督いわく、“悪者にされている”らしいロシア。なぜかフィンランド国境に軍を移動の可能性。ま、軍用車両2台じゃ侵略は無理だけど、NATO加盟前に侵略する根のはあり得る話。理由は何でもあり。『フィンランドのネオナチ政権から自国民を保護する』とか、『フィンランドのネオナチ政権からフィンランド国民を救う』とか。Russianforcesappeartohavemovedmilitaryvehiclesnearthecountry'sborderwithFinl
民主主義:語源はギリシア語のdemokratiaで、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したもの。すなわち、人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場をいう。古代ギリシアの都市国家に行われたものを初めとし、近世に至って市民革命を起こした欧米諸国に勃興。基本的人権・自由権・平等権あるいは多数決原理・法治主義などがその主たる属性であり、また、その実現が要請される。(広辞苑)数少ない弊ブログのほとんどの読者の方は、「曼荼羅に織り込まれていた民主主義の暗号」とか「民主主義
欲望論第2巻「価値」の原理論著者:竹田青嗣講談社発売日:2017-10-17ブクログでレビューを見る»第2巻も550ページに及ぶ大作でやっと読了。著者の展開する現象学の手法に基づいて真善美の価値観について論じたのが第2巻の内容。先人の知恵も拝借しながら、著者独自の論を展開。「価値観はどのように形成されるのか?」という問いについて、見事な形で答えたのが本書。竹田現象学を理解している方にとっては、結論は「まさにこうなるな」と納得できる内容です。人間社会における真善美の価値審級は
「あめのした、みな同胞(はらから)に・・・」という昭和天皇の有名な歌ですが、左翼人士らはこれを額面通りに受け取り、「人種の壁も、言語や肌の色の違いも超えて地球市民になりましょう、ついでに国境もなくしちゃいましょう」などと、コスモポリタンのごとくやっています(「ごとく」じゃなくてそのママなのだが)が、こういうのは思想の怠慢、もっといえば、言葉の再解釈、再意味づけをせず、ただ字面だけを読んで歌をわかったつもりになっている文化的小児病(ヨハン・ホイジンガー)というものでしょう。人間に限らず、どん
2018年11月11日価値観の三つの性質私たちにとって大切な存在・大切な物事とは一体なんだろうかということを考えた場合、言い換えると私たちが私たちにとって「価値」あるものについて想いを巡らせた時、価値あるものの対象と、その対象に想いを巡らす自己との関係から三つの性質を見出すことができる。一つは特定の対象こそが価値あるものであるという性質である。ここではそれを「価値絶対主義」と呼ぶことにする。価値絶対主義とは、例えば、寝ても覚めても恋人の事ばかり考えており、それ以外の人には何ら関心を抱かな
三島由紀夫も言うように、服装の本当の楽しみや喜びとは、強いられるところ、制限されるところにあるのだと思う。戦後、アメリカ流の個人主義や自由主義の流入により、「服は自分の着たいものを着たいときに着るのが個性なのさ」とか、「和服なんて、いかにも前近代的な野蛮な民族の衣装って感じだし、何より不便だし、学校の制服など全体主義的で没個性で御免被るね」などと言うのが男女を問わず、戦後人の日課であり習性であり口癖となっている。ファッションというものを、どんな権威や習慣にも捉われないものにしてしまったことの
5つのテレビ局5つの企業CMホリエモン、心屋メンタリストDaiGo氏の著書、ニコニコ動画など11人にネタ元にされてる私が"なぜか応援されながら幸せがあつまってきちゃう"方法をお話ししますこの記事https://ameblo.jp/avocado-nyanco/entry-12396313220.html書いたら次の日のEテレ"おかあさんといっしょ"オバケなんてな~いさからはじまりましたねきのうの夜ご飯のとき"ほいく
「もし神がいなければ、すべてが許される」——ドストエフスキーGreatchain2018/07/30あの意味深の「グーグル翻訳」のバグが、「終わりの日の時計は12時3分前を過ぎている。我々は、世界のこの劇の、役者やその展開を経験しつつある」と言っている。これは前から私が言っていることで、今起こっていることは現実だが、同時に演劇でもある。今のところ悪役の代表は、ヒラリー・クリントン、オバマ、ジョージ・ソロスなどであろう。彼らは「悪そのもの」を体現する者たちだから、まっしぐ
私の妻はガラクタばかり集めています。私の目にはガラクタにしか見えないのですが、妻にとってはすべてが宝物なのだそうです。小沢健二とかダン池田が宝物なのだそうです。ふなっしーや仮面ライダーが宝物なのだそうです。私には理解出来ません。しかし、自分が理解出来ないからといって否定してはいけません。自分の価値観で他人の価値観を測ってはいけないのです。それは決して価値相対主義といって馬鹿にすべきことではなく、多様性です。筋肉少女帯が『ゴミ屋敷の王女』という楽曲で「どれが君のガラクタ何が君の宝
欧米の「操作される民主主義」を作り上げてきた中心勢力フリーメーソン。そのフリーメーソンの密教の基礎にあるといわれるのが18世紀のドイツの哲学者カントの倫理学である。現在の民主社会の病んだ闇の構造を理解するには、その原理をモデル化しなくてはならない。そこから、現在の民主主義が患っている病の有効な解決策が導き出されるはずだ。前回はフリーメーソン最上層部国際銀行権力が、カント倫理学に基づいた「人格」の保障を目的とした「個人の尊厳の実現」の意味を無意識化することで、人格と民主
*煉瓦の積み方http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/bricks/【2010年9月23日⬅@@!】▽海馬之玄関Yahooブログ「60万アクセス」達成御礼!皇紀2670年、平成22年、そして、西暦2010年の秋分の日の前日、今日、皇紀2670年、平成22年、そして、西暦2010年の9月22日、姉妹ブログ、Yahoo版-海馬之玄関ブログは延べ60万人目のお客様をお迎えすることができました。ブログ友には予めご通知してきましたように
この世には意味がない。一切皆空…であるならば所詮はその虚しい現実をどう解釈するか?つまりは「生」の独自性とは解釈権にあるのではないか?勿論実体の中心には「空」が大きな口を開けて待ち構えているのは知っている。それでも全てを有る「かのように」振る舞う。森鴎外だか?がそんな事…言ってたな。かのように「解釈権」というとなにか虚しい響きがあるんだが逆に言うとどう解釈しても自由!ある種のSMプレイ的に運命に殴られても蹴られても女王様からの歪んだカタチの「愛」
2018/01/22new「安倍向け安倍」になびかないTweetThisSendtoFacebook|byよしりん『よしりん辻説法』のコンテを完成させた。担当りか坊が38度の高熱なので、わしにうつることを警戒して、打ち合わせを延期したいそうだ。りか坊は風邪ひいた報告に「恥ずかしながら」と書いているのが旧日本兵みたいでえらい。完治してから打ち合わせに来てほしい。今日から『大東亜論』のコンテを始める。「SAPIO」は日本人に「反日」のレッテルを貼って、バ
上記ブログの続きです。今回は2015年2月を振り返ります。振り返りすぎて首が痙攣を起こしていますが、諦めずに過去に拘泥したいと思います。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーなんだか最近は時代が止まってしまっている人間が溢れ返っている気がする。未だに1980年代の空気にしがみついている人たちがいる。自分の主張が通らないと分かった途端に真っ当な議論を放擲して茶化し、冷やかし、からかい、揚げ足を取り、論点をずらして勝手に自分を高みに上げて、相手を見下し、ヘラヘラ笑って、余裕があるよう
上記ブログの続きです。先のブログで月毎に分けてアップすると書きましたが、2014年5月から6月の末まで投稿していなかったようなので、今回は2014年上半期のコメントを纏めて転載し、解説を加えたいと思います。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーネット空間は玉石混淆でありますから、情報収集能力を磨いて、正しい情報、良き情報をキャッチして使いこなしてゆくことこそが情報化社会を生き抜く私たちの知恵となるのです。なんてな事をどこかからコピーアンドペーストして、したり顔してコメントしてこます俺
小林秀雄も言うように、所詮、政治家などというモノはどこまで行っても形而下の領域について喋々するしか芸のない単なる技術屋あるいは調整屋に過ぎません。従いまして、政治家に「国柄」という形而上の価値の保守を期待するほうがどうにかしているのであって、われわれ「庶民(コモン・マン)」はそういふ大衆(マス・マン)が好む政治主義には背を向け、思想、哲学、宗教、芸術への関心を絶やさないことにより「近代主義」を退けるためのきちんとした思想を鍛え上げるべきでしょう。政治好きの意見を聞いていると、政治家批
たかだかブログというバーチャルリアルの世界ですら、挨拶もろくにできない、あるいは、他者の提起した問題や問いかけには答えず、おのれの意見だけを縷々述べるだけの自動症患者、また、批判に対する反批判ができない現代日本人の思想は(というより虚無は)いったいどこから来るのだろうか。おそらくその原因は戦後教育がもたらした「情操教育」の致命的欠落にあるのではないだろうか。情操教育という言葉を最初に提示したのはヘルバルトだが、広辞苑によると、情操教育とは、「創造的・批判的な心情。積極的・自主的な態度
ここまで4本の丸山論文をみてきたのだが、残りの論文について私に語れることはそう多くない。ハーバート・ノーマンについては不勉強だし、スターリンについてはその名を聞いただけで蕁麻疹が出る体質だし(笑)、「反動の概念」と題したものは私には良く解からない。最後に、「現代文明と政治の動向」と題した丸山論文について簡単に記し、私の拙い丸山批評の締めくくりとしたい。この論文における丸山の主な主張は、デモクラシーの申し子らしく、民衆からの付託を受けた議会を擁護し、議会の空洞化に伴い勃興して
丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」丸山によって書かれたこの論文は、戦後、連合国から「超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)」とか「極端国家主義(エクストリーム・ナショナリズム)と呼ばれた大日本帝国の「特異なナショナリズム」の背景を探り、大衆の眼前にそれを曝け出すことを目的として書かれたものである。前述したように、この論文については既に多くの批判書が出ているのでここではその外郭だけにとどめるが、「近代国家は国民国家(ネーション&ステート)と謂われているように、ナショナリズムはむしろそ
「本は自分の好きなように読めばいい」などという言説には強い違和感を覚える。宣長にせよ、漱石にせよ、諭吉にせよ、「こう読んで欲しい」という作者の希望なり、願望なり、目論見なりがあったはずでしょう。明示こそされていないが、書物には必ず、「こう読んで欲しい」あるいは「こう解釈して欲しい」といったことが、「哲学的指標」によって暗示されている。作家や文学者たちのそういう内なる願望を閑却し、自分の視覚で捉えきれたところだけを、あるいは、自分の好みのところだけを我田引水的に切り取り、「書物は
祭りは無意味だワッショイワッショイと運ぶ神輿にはなんの意味もない単なるその共同体の空虚なる中心というだけの事だコレを読んでいるお前は無意味だ「この私」と大事に思っている「個」など他者にはなんの意味もない単なる遺伝子共同体とでも言うべき「肉体」と言語・伝統・流行共同体とでも言うべき「精神」の結節点に過ぎないところが細胞は「組織」無しでは生きていくことが出来ない組織は器官及び肉体なる動的平衡状態なしでは通常、生きていけない。肉体も精神及び精神の源泉たる例えば、祭りの
一昨年に、かつて朝日新聞が掲載した従軍慰安婦に関する証人(吉田清治)の証言が、まったくの虚偽であったことが判明し、それが契機となったのかどうかは知りませんが、ここ最近、朝日新聞の論調が中韓寄りからアメリカ寄りにシフトしているようです。まあ、元々、朝日もアメリカも、自由、平等、博愛、合理といった価値を共有する左翼同士ですから、今までは他愛無い夫婦喧嘩をしていただけで元々親和性はあるわけですね。つまり、収まるべくして元の鞘に収まったと(笑)。今日付けの朝刊では、過去、どちらかと言う
「資本主義・共産主義双方に底流する物質主義を排し、あらゆる経済生活を人格主義的精神に従属させることによって現在の経済生活の欠陥を克服せよ」と言ったのは漱石門下生でもあった阿部次郎だ。阿部によれば、人格主義とは、人格の成長と発展とに至上の価値を置くものであり、この第一義の価値との連関において、他のあらゆる価値の意義と等級とを定めていこうとするものらしい。阿部は、マテリアルな価値とスピリチュアルな価値に適切な等級をつけ、価値相対主義というポストモダン的な考え方を厳しく批判する。しかしその人
言葉を重んじる常識人なら、「お前のいう絶対とは一体なんだ」と問う前に、論争相手の書き残したものを過去に求めるぐらいは億劫がらずにするものだろうが、安全保障に始まり、政治から経済、さてまた文化に至るまでが外部依存の体質となってしまった戦後人にあっては、それも仕方がないとみるほかない。私がこれまで一貫してやってきたのはイデオロギー化した自由主義、その必然的帰結としての価値相対主義、それがもたらすものとしての劣性のニヒリズム、つまり価値序列の転倒もしくは崩壊への批判であり攻撃であり挑戦であって、
多少の良識を持った者には、民主主義(民主制を完成させることで万人に平等をもたらそうとする近代主義の中核をなすもの)に対する懐疑と批判の精神を持った者も居ることは居るが、こと、「自由主義」に関しては多くの者が「人類に普遍的な価値である」とこれを崇奉している。彼らのいう自由主義とは、「あらゆるイデオロギーから自由であれ」とか、「すべて自己決定、自己責任」といったぐらいの意味なのだろうが、こういう児戯にも等しいことを平然といってのける者たちに、「自由によって自由が奪われる」という逆説を理解できる
参考書を買うため、久し振りに書店に行ったついでに、何か面白い本でも出ていないかとあれこれ物色してみたが、どれもこれも政治本や経済本ばかりで、吉田茂はああだったとか、安倍政治はどうとかこうとか、思想がすべて下部構造にからめとられているような本ばかりで、少しも面白くなかった。そこへいくと、文芸方面や、思想方面から出てきた文士の書く本は、色んな比喩や寓話が随所に散りばめられてあって私には大変魅力的である。「死者には墓石で投票して貰わねばならない」とはチェスタトンの言葉だが、それを受けて西部
公人性||(規律)|(人格)集団性ーーーーーーーーーーー個人性(帰属)|(感情)||私人性西部氏が図で示した四類型とは、「人格破綻」