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今日は、幕末の志士にして明治維新以降は政治家・官吏として活躍、立法・行政・司法の三権分立を推進し〝近代日本司法制度の父〟と称される江藤新平の命日・没後150周年にあたります。新平は1834(天保5)年、佐賀藩士・江藤胤光の長男として佐賀城下八戸村で生まれました。12歳の時に藩校弘道館に入学した彼は人並みはずれた頭脳を持っていたものの、実家が貧しかったために学費が払えず、進学もままならなかったとか。1850年に枝吉神陽が結成した義祭同盟に参加して尊王思想など
佐賀が生んだ偉人、大隈重信。総理大臣を2度務め、早稲田大学を創設。また、新通貨"円"を導入し、国内初の鉄道敷設や太陽暦の導入等、様々な偉業を成しました。そんな偉人の生家が今も残されています。城の東、住宅街の中に武家門風の入口があります。◆大隈重信旧宅・大隈重信記念館◆(国指定史跡・国登録有形文化財)*入館料¥330敷地内に生家と記念館が建っています。大隈重信記念館(国登録有形文化財)昭和42年(1967)、大隈重信生誕125周年を記念して建て
佐賀漫遊2日目。かつて、肥前国の中心だった城址へ。県庁や図書館等が集まる佐賀市街中心、龍造寺氏とその後継の鍋島氏の居城跡があります。◆佐賀城◆(佐賀県指定史跡・日本100名城)鯱の門・続櫓(国指定重要文化財)門と続櫓は天保9年(1838)の再建。明治時代初期に起こった士族反乱、佐賀の乱の戦火を免れて現存する貴重な遺構。この地は戦国時代に龍造寺氏が治め、大友宗麟との激しい攻防戦を繰り広げました。その後継の佐賀藩祖・鍋島直茂が天正年間(1573
毎年各地のひな祭りイベントに行くのが楽しみです先日佐賀城下ひな祭りに行ってきました!初めての場所にワクワク賑わってましたが、そこまで混み合ってなくちょうどいい感じです。城下町の風情ある街並みが素敵旧古賀銀行内綺麗〜素晴らしいですなんと、丸ぼうろの焼き立て試食が配られてました!美味しいお土産用にも購入可愛い花鉢帰りは佐賀神社へ参拝境内に入ってすぐご祈祷が始まりました!嬉しいです手水舎の毱も可愛らしい拝殿前にも美しい花々そういえば祖母のご先祖様は佐賀藩の家
佐賀漫遊2日目。雲ひとつ無い清々しい朝。城下町を巡ります。まずは、藩主を祀る神社から。<旅の行程>1日目:吉野ヶ里→みやき町→佐賀2日目:佐賀→嬉野温泉3日目:塩田津→鹿島・肥前浜宿佐賀城北側、通りに素木の鳥居が構えています。◆佐嘉神社・松原神社◆佐嘉神社・松原神社、元は別々の神社でした。今ではひとつの神社として、鍋島氏と龍造寺氏といった佐賀を築いた偉人らを祀っています。澄み渡った空気の中、神威を感じて鳥居をくぐる。参道の
交通機関を利用してシュガーロード佐賀の長崎街道周辺で開催されているひなまつりを散策してきました地元にいながら中々見ないもので・・・また散策することもないので交通機関利用をしながら変化した街並みを歩きました昔の写真パネルもあり思わず見入ってしまった写真がありました私のころの時代は車で販売されていました。なぜ・・ロバのパンといわれてい
幕末佐賀藩が最強武装中立国だった所以です。まだお堀に向かって放ってるのは見たこと無いです。
寒さにふるえた者ほど、太陽の暖かさを感じる山本常朝(1659年-1719年)山本常朝(やまもとつねとも、万治2年6月11日(1659年7月30日)-享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、佐賀藩士。武士道の書物『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。ウキペディア今日の単語象る[かたどる]動ある物の形をまねて,その
「アームストロング砲」(司馬遼太郎)幕末が舞台の短編9編を収録。新選組が登場したころの日本は、百姓、町人、医者、侠客まで、様々な身分出身のにわか武士が、個人的な信念や正義、恨み妬み、好き嫌い、些細な感情、などに基づいて、斬ったり斬られたりでカオス状態だ。メジャーな歴史小説や、ましてや教科書などでは味わえない、この時代のハチャメチャぶり(そして人情)を味わえて面白かった。タイトルにもなっている「アームストロング砲」では、改めて佐賀藩の先進性に感服。優秀な技術者をノイローゼになるまで酷
【問題】【日本城郭検定1級】福岡藩と佐賀藩で交互に警備を行い、文化5年(1808)フェートン号事件で舞台の一つとなった台場はどれか。【選択肢】品川台場由良台場神崎台場門司台場【正解】神崎台場【解説】長崎湾沿岸部に設置された。
佐嘉神社、境内社の続きです。佐嘉荒神社火事除け災難除け、一家安泰の神様です。昔の家庭にあった竈を再現した大竈松原恵比須社宝くじ当選の守り神「当たり恵比須」として人気を集めているそうですよ😆✤願掛け玉寶宝くじが当たりますように。たくさんの人に撫でられてピカピカですね✨松原稲荷神社お稲荷様は、稲の豊かな実りを守る神様。家内安全、商売繁盛のご利益を頂くことができます。松原河童社佐賀の地にはクリークと呼ばれる灌漑・生活用水としての水路が巡らされています。松原河童社はこの地域の水
08/02、NHK「列島ニュース」。佐賀城本丸歴史館において、19周年イベントがあり、佐賀藩が日本で初めて鋳造に成功した大砲=カノン砲による空砲試射が行われました。(佐賀局より)高知城をバックに、よさこい祭りが開催されました。(高知局より)エンディングの定点カメラ映像では会津若松城=鶴ヶ城が登場。佐賀藩のカノン砲は、砲弾の重量は約11kg、射程は2.5kmということです。非炸薬弾ということで、着弾して爆発することはありません。建造物や艦戦に衝
昨夜は「特別セールス」をしていた、佐賀の「高級ホテル」に泊まりました。部屋は広くて、設備も良く、熟睡でき満足でしたが、朝夕食は、コンビニ弁当で済ませました。どうも貧乏性で、ホテルの食事は、高くマナーも苦手です。朝、100名城の「佐賀城」に立ち寄りました。「佐賀・鍋島藩36万石」の居城で、威風堂々かと思いきや、何回も火災に会い、現存するのは「鯱の門と続櫓」あとは、石垣や堀・土塁等で、興味が湧く所が少なく、ガッカリ城でした。「鯱の門と続櫓」(重文)昨日の終了地点「白山1丁目」交
戊辰戦争の戦跡で、慶応4年6月26日(グレゴリオ暦1868/08/14)の小原沢の戦いがあったときに、会津兵が鬼怒川を渡ったとされる兎跳(とはね/ウサギッパネ)渡河点を見に行きました。ウサギが石伝いに跳ねて対岸に渡る地点なのだそうです。ここを会津兵が渡って、対岸の新政府側諸藩の兵に奇襲を仕掛けております。当時の旧道は、いま自然研究路になっているあたりじゃないかと思われます。現在の自動車が通る道は崖の上にあって、川まで降りていくのは無理です。自然研究路から川へ降りるとしてもこんな崖を
アンニョンハセヨマインのブログにお越しくださりいつもありがとうございます(*ˊᵕˋ*)⸝💕✨先日書いた佐嘉神社参拝のあとのことですが初めて佐賀城に行ってきました佐賀城跡は佐嘉神社から車で5分もかからないところにあったんです今まで場所さえよく知らなかったのですがパパが仕事の途中で車で通りかかりこんなところにこんなものが!?・・・となったらしく早速足を運んだ次第です佐賀藩10代藩主鍋島直正公が迎えてくましたちゃんと前から撮ったんですけど逆光で・・・鯱の門↓↓
人生のどんな隅にも、どんなつまらなそうな境遇にも、やっぱり望みはあるのだ山本常朝(1659年-1719年)山本常朝とは、江戸時代の武士で、佐賀藩の側近として仕えた人物です1。彼は武士道の書物『葉隠』の口述者として知られています2。『葉隠』は、武士としての心得や佐賀藩の歴史や習慣に関する知識を集めたもので、鍋島藩祖の鍋島直茂を理想像として示しています2。彼は鍋島光茂の死後、出家して旭山常朝と名乗り、田代陣基に『葉隠』を口述しました1。享保4年(1719年)に61歳で亡
ペリーからのお土産の蒸気機関車私が住む場所は日本の幕末維新のアメリカにおける中心地。ペリーの「日本遠征記」の中に、交渉締結後、ペリーが持ってきた合衆国政府から、日本の朝廷・幕府からのお土産の交換の記録を示した記述があります。その中にある蒸気機関車に注目してみました。日本遠征記2回の来航の全行程3年分のログです。途中での経由地や琉球のことも詳しく書かれていて、交渉経緯の詳細だけではなく、その土地の自然や風習、文化などの観察記録でもあり挿絵もあり読み物として素晴らしいと思います。超小
鍋島邸の緋寒桜と久原公園の河津桜、そしてメジロ君。島原半島にある神代小路(こうじろくうじ)は佐賀鍋島藩の領地(飛び地)だったので鍋島邸が残っていて、その正面玄関には緋寒桜が植えられています。神代小路は鍋島家と家来の屋敷地で構成され、自然の川を利用した造成工事が17世紀後半に行われたようです。家々の前には小川が流れ、石垣塀があり緋寒桜が植えられています。緋寒桜は赤みが強く、花はあまり開かず下向きに垂れたものが多いので、メジロ君も時々身体をひねる必要があります。やはり綺麗ですね。
佐賀城、佐嘉神社。佐賀市の中心部に有る史跡です。そして、ひな祭りに合わせて「佐賀城下ひなまつり」と「佐賀城下春の骨董市」が開催されています。そういう事で、ひな祭りの日に行ってきました。いくつかの催しなので、いつもの様に、何度かに分けて報告します。最初は、佐賀城跡。佐賀藩は、最初は、龍造寺家が藩主の藩でした。時は戦国時代、1586年に藩主の龍造寺隆信は、戦いに敗れます。幼い隆房を擁立したのが、竜造寺家の重臣で有った鍋島直茂。それ以後、鍋島家は、主家を圧倒することとなり、鍋島直茂の子である勝茂
前回はこちら鍋島直正公の銅像です。直正公と幕末佐賀藩の説明板です。鍋島直正公の説明板です。佐嘉小城内絵図です。24ポンドカノン砲(複製)です。24ポンドカノン砲(複製)の説明板です。佐賀城本丸歴史館です。佐賀城本丸歴史館の説明板です。佐賀城本丸歴史館の入口です。アームストロング砲です。アームストロング砲の説明板です。「冠軍」銘モルチール砲です。「冠軍」銘モルチール砲の説明板です。オランダ製モルチール砲です。オランダ製モルチール砲の説明板です。佐賀城本丸歴史館の撮
人間の一生は誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして、苦しみて暮らすは愚かな事なり山本常朝(1659年-1719年)山本常朝(やまもとつねとも、万治2年6月11日(1659年7月30日)-享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、佐賀藩士。武士道の書物『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。ウィキペ
先日、ちょっと困ったことが続いた為、肥前国一之宮、與止日女神社(佐賀市)に参拝して来ました。もともと、水神信仰に発した社だそうで、何となく手水もユニークです。嘉瀬川沿いの風光明媚な場所にあります・・・・。
数年ぶりの佐賀・葉隠れうどんです。先日、11時開店なのに開店と同時に観光客が十数名入って行きました。私は店内で15分ほど待つことに。グルメ番組などで紹介されてからは連日満員御礼の日が続いているようです。私は迷わずわかめうどんを注文。このお店では必ずわかめうどんを注文します。これわかめうどんの大盛です。出汁はアッサリなカツオと昆布だしです。麺は注文してから製麺しています。なのですごく柔らかいんです。幕末に活躍した佐賀藩の大砲模型。
今回は、前回の成願寺にありました鍋島家墓所です。鍋島家の墓に、鍋島直恒の墓があります。鍋島直恒とは元禄14年(1701年)12月5日、第3代藩主・鍋島直称の次男として江戸麻布藩邸で生まれる。正徳5年(1715年)に従五位下・朝散大夫・摂津守に叙任される。享保2年(1717年)4月9日、父の隠居により家督を継いで第4代藩主となる。享保3年(1718年)に幕命により接待役を任じられると、財政難のために臨時税を課し、さらに上米や長崎商人からの借金などを行なっている。その後も財政難が続い
2月27日の●●1867年のこの日(新暦4月1日)、パリ万博が開幕しました。パリ万国博覧会日本が初めて参加した国際博覧会です。パリで開催された万博で2回目となる万博でもあります日本からは、徳川幕府・薩摩藩・佐賀藩がおのおので出展。このときの薩摩藩の展示物に幕府は抗議したものの聞き入れれず、幕末の抗争にも影響を与えた万博になりました。このことからも、徳川政権はまともではなかったことが伺われます。42ヶ国が参加し、会期中1500万人が来場しました。
今日は、昨日チェックしました【チャイニーズタパスエニシ:縁】さんに初お邪魔しましたチャイニーズタパスエニシ·〒530-0047大阪府大阪市北区西天満2丁目3−21★★★★★·中華料理店www.google.co.ukgooglemapに掲載されていませんでしたならば・・・私が初投稿です~最近オープンした店なのでしょうかオープンがいつかは不明でしたメニューを見ますと1.四川麻婆豆腐セット2.鶏ネギ汁そばセット3.中華粥セット4.鶏ネギ汁そば
武士道というと、佐賀藩士山本常朝が隠居後、主君に奉仕する武士の心得を後輩に向けて述べた「葉隠」、その冒頭の「武士道といふは死ぬことと見つけたり」。このフレーズは広く知られている。武士道、つまり、武士の人生は死ぬことにあると説いていると解釈される。この武士道は日本国の軍国主義に利用され、国のために潔く死ぬことだと美化されたというから、恐ろしい。この「葉隠」の「死ぬことと見つけたり」とは「死ぬ覚悟で仕事にあたれ」が本当の意味と解されている。死ぬことに意義があるとは間違った解釈である
滝口康彦氏の「葉隠無残」を読んだ。昭和58年に出た古い講談社文庫だ。山本常朝の「葉隠」に記載されている実際に佐賀藩で起きた事件を少し味付けして物語化した短編小説となっている。ちょっとした行き違いで親戚筋と意見が合わなくなり、やがてその当主は切腹して責任をとらされてしまう。と同時にその妻、家来18人もともに自刃して果てる、という残酷な「血染川」など。武士は死ぬことと見つけたり、だが、名誉の死と犬死とを分けて捉えているのがこの時の武士の特徴だ。いつでも死を覚悟していて、恐れない訓練をしてい
昨年、こういうムックを買ったのです。江戸時代の小説をいろいろ読んでいたから、その勢いに任せてだったけど、ちょっと内容には不満足だったね・・・江戸の各藩の石高、藩政などの知識が載っていて勉強にはなるのですが、この中に、幕末の名君・暗君ベストワーストというコーナーがあったのです。ワーストがわたしの大好きな会津藩主・松平容保公って、ふっざけんなですよワースト2位の牧野忠恭も越後長岡藩の藩主だから、完全にこれ戊辰戦争の敗者載っけてるだけじゃん・・・まあ、どこの
さてさて、「日光社寺世界遺産」である日光東照宮の拝観は表門⇒上神庫、中神庫、下神庫⇒神厩舎と進み次なるは徳川家康が祀られる神域に足を踏み入れる前に心身を清める場所です。因みに内番所はお守り等々を授けてもらうところなのでスルーです・・・(笑)御水舎現在はコロナ渦の中にあり、拝観客の接触を避けるためにチラッと見るだけになります。この写真は以前訪れた時のもの屋根は唐破風、銅瓦葺き。四隅に3本ずつ、合計12本の柱も花崗岩製なのは、水により柱の腐食を考慮しての造りなのです。