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お城巡りはしてましたが投稿してなく、久々の投稿です。千葉県富津市の佐貫城に行ってきました。小ぶりな山城ですが、遺構が残ってます。猛暑の中だったので空堀の水溜りにイノシシが水浴びか水飲みかはわかりませんがいたので、熊よけの鈴を付けて行ったほうが良いです。ちなみに蛇(アオダイショウ)にも遭遇しました。案内板縄張図登城口横駐車場登城口石垣が残ってます。三の丸跡二の丸跡二の丸跡を進むと土橋。土橋の左右に空堀あります。土橋から見て右側の空堀。ちなみに戻って来たときにイノシシがいました。
佐貫オリジナルTシャツ書道家が書くプリントTシャツ【名字】五.黒Tx白縦文字(背面)サイズ:XXLAmazon(アマゾン)2,980円この投稿をInstagramで見る梅雨咲(@luqishenyi)がシェアした投稿関東の騒乱戦いの主人公達とその城館Amazon(アマゾン)401〜7,602円
千葉のトリセツAmazon(アマゾン)538〜5,849円この投稿をInstagramで見る梅雨咲(@luqishenyi)がシェアした投稿第10話「千葉県富津市金谷のアジフライ定食」Amazon(アマゾン)
佐貫城は、現在の千葉県富津市に、室町中期から江戸末期まで城主が替わりながら存続した城。初期の城主は定かではないが、真里谷武田氏が居城したと見られる。その後、里見氏の所有となるが、1590年には徳川家康家臣の内藤家長が城主となった。以降、桜井松平氏、能見松平氏、柳沢氏、幕府代官と城主が交代し、江戸中期の宝永7年(1710年)に阿部氏が城主となって、廃藩置県まで続いた。城址入口本丸跡展望台より東京湾観音方面を望む
「石・石塁・石垣シリーズ」は、昨日から、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹介しています。今回は、「江戸城」と関八州のお城「小田原城」「佐貫城」を採り上げています。「打込み接」が「乱積み」か「布積み」かは、捉え方によって(横目地が真直ぐでない場合はどちらにするか?)はどちらにも分類できる場合もありますので、私の独断と偏見で分類したケースもありますが悪しからずご了解ください。「打込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を
佐貫城『別名』なし『所在地』千葉県旭市上永井1309-1(飯岡刑部岬展望館)『城主』片岡氏『遺構』堀跡か?『城郭形態』平山城『駐車場』あり(飯岡刑部岬展望館)『歴史』佐貫城は片岡常春の居城だと言われています。その後、源頼朝によって攻められ落城し片岡一族も滅亡したと言われています。飯岡刑部岬展望館から見た眺め飯岡刑部岬展望館は実写映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の聖地にもなっています。屏風ヶ浦と刑部岬の解説板堀跡か?
そろそろ梅雨入りしそうな関東エリア大雨強風の後ではありますがこの土曜日は降水確率も低いのでフェリーチケットを使って海を渡り久しぶりに房総ツーリング朝いちばん6時20分発のフェリーに乗って40分の船旅へ工事中の横須賀火力発電所では多くのクレーンが働いていて陸から見るのも見ごたえあるけど海からもまた圧巻ですよ予報以上に凄くいい天気になってきた海も穏やかクッキリ見える三浦半島とまだ朝もやに包まれる安房・
佐貫城『別名』亀城、亀ヶ城『所在地』千葉県富津市佐貫582『城主』真里谷氏、里見義弘、足利義氏、加藤氏、内藤氏、松平忠重、柳沢吉保、阿部氏『遺構』曲輪、土塁、石垣、堀跡、井戸『城郭形態』平山城『駐車場』あり『歴史』佐貫城は応仁年間(1467〜1469)に武田義広によって築城されたと言われています。天正18(1590)に徳川家康が関東に入封すると徳川譜代・内藤家長が城主となり、その後は桜井松平氏、能見松平氏、柳沢吉保が城主を務めた後に一時廃城となりました。宝永
『富津市宝竜寺447』白山神社本日は先週に訪れる予定だった富津市宝竜寺の白山神社を訪ねた昨年の台風で甚大な被害を受け樹木は倒れ幣殿や本殿は倒壊した一年以上が経過したが今も倒木や建物の残骸が境内に置かれたままだ樹齢千年以上と言われる御神木である大杉も上部に折れた跡がある直近の寳龍寺は佐貫城の鎮守である白山神社の別当寺として白山神社を管理していたが明治時代の神仏分離で現在の場所に移動したと由来の彫られた石碑で確認できる掲示された告示によると、寺から白山神社参道の造成が予定されてい
本日も、江戸時代に入り譜代大名の居城となった「佐貫城」(千葉県富津市)は、昨日紹介した「久留里城」を築城した「上総武田家」の一族である「真里谷武田家」によって築城されました。1540年に、「佐貫城」は「里見家」の支配下に置かれますが、その後は「里見家」と「北条家」との間で争奪戦が繰り広げられ1563年に「里見義弘」によって奪還されます。しかし、「豊臣秀吉」の小田原平定によって「里見家」は「安房国」一国に減らされ、「佐貫城」は「久留里城」と同様に「徳川家康」の支配下に置かれます。
どーも※2018/7/20のお話です。続いてはシダの葉茂る二の丸。からの土橋。両側に空堀!絵にしてみるとこんな感じ?幅も深さも十分で見応えありますね~(・ω・)bそして、本丸。詳しくは分かりませんが、久留里城との圧倒的な違いは各曲輪の広さにありますね。里見氏が久留里の次の本拠にした理由はこの辺にありそうな気がします。そんな本丸を展望台(西側)と書かれた看板の方に進むと…富津岬と浦賀水道が見える
どーも※2018/7/20のお話です。まずは縄張図から。まあ、基本土造りの城なんで注目すべきは堀と櫓台ですね。ちゅーわけで大手門の脇にさっそく…櫓台登場!実はこれ、千葉県でも大変珍しい石垣の遺構らしいです。江戸時代以降のものだとは思いますが…それにしても石垣遺構自体が少ないっていうのはかなり意外ですね。ちょっと草が生えてて形が分かりにくいですが、このバックショットだと櫓台らしい形がよく分かるかと思います。そんな
どーも※2018/7/20のお話です。古河公方vs幕府&関東管領・上杉氏で関東を二分した享徳の乱は幕府が古河公方を正式に認める形で決着。これにより上杉氏との和解も成立し、平穏を取り戻したかに見えた関東の情勢。しかし、今度は古河公方内での対立というものが発生します。立地上、古河公方は北総地域との結び付きが強かった事もあり、北総諸勢力(宇都宮氏、結城氏、小田氏など)が南総諸勢力(真里谷武田氏、里見氏など)よりも優位な立場にありました。その状況を打破
どーも※2018/7/20のお話です。ロケ2日目。今日はレンタカーを借りて内房沿いを南下して行きたいと思いまーす。(・∀・)/ってなわけで、まずやって来たのは富津市役所。一体こんなとこに何をしに来たのかというと、実はこんなものがあるんです。上総佐貫城絵図まあ、この絵図自体は江戸期の姿の想像図のようですが、立派な城があったのは間違いないようです。そんな佐貫城があるのは内房線・佐貫町駅から続く佐貫城下町のメインストリート
久々のでも風が強く寒いし波もいまいち造海城は本丸に辿り着けず…気分が凹んだまま帰るのも納得がいかん最後にちょろっとcheckしたこちらへ佐貫城佐貫城は、真里谷武田氏が最初に築いた城である(文安年間に関東管領上杉氏の家宰・長尾氏によって築かれていた説もあり)。のちに里見義堯の支配下になる。浦賀水道を挟んで三浦半島に臨むという交通の要衝であることから、里見氏と北条氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。徳川家康が関東に入封すると譜代の内藤家長が城主となり、その後は桜井松平氏、能見松平氏
2016夏現存天守の犬山城を訪れてフォートラベルお城を訪れる旅、今回は犬山城。現存天守、そして国宝はやはり違うのだなぁというのを感じます。ぶらぶら街を歩きながら、犬山城へ向かいました。犬山城からの..侵入防ぐはずでは?「障子堀」から「階段」毎日新聞神奈川県小田原市の小田原駅東口お城通り地区再開発事業に伴う「小田原城三の丸元蔵堀(もとぐらぼり)」の遺跡発掘調査で、戦国時代末期から江戸時代初期...海中に没した?謎の城屏風ヶ浦の「佐貫城」ATLAS千葉県富津市佐貫
駅前のお城じゃらんnetじゃらんnetユーザーあささんからの舞鶴城公園への口コミ。甲府駅前にあるお城です。上まで登ると見晴らしがとてもよく晴れた日には富士山も一望できるので...松くい虫被害、アカマツ無残な姿光城跡山頂の神社周辺中日新聞光城は、戦国時代に海野氏の一族である光氏が築いた山城。武田氏の松本平侵攻で一五五三(天文二十二)年に落城したが、一五八二(天正十)年に松本城主...精密ステンレス製天守閣読売新聞特定の城がモデルではなく、丹波亀山城(京都府亀岡市)や