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源平古戦場の旅3から続きです『源平古戦場の旅3』源平古戦場の旅2から続きです『源平古戦場の旅2』7月20日(日)晴れ34℃源平古戦場の旅1のから続き『源平古戦場の旅1』7月19日(土)…ameblo.jpさあいよいよ屋島のクライマックス源平屋島合戦の史跡へ本当は車を駐車場に駐めて歩いて回ろうかと思っていたが知らなかったが高松ってめちゃ暑い所だったみたいで、とても無理〜腰もそろそろやばいしという事で車でウロウロ先ずは駒立岩へここは那須与一が弓矢で的を射落と
最近、香川No.1人気讃岐うどん『おうどん瀬戸晴れ』さんに行きましたら、周りが源平合戦屋島の戦いの古跡ばかりだったので、観光してきました屋島の戦い源氏と平家が約6年に渡り争った「治承寿永の乱」のうち、1185年2月19日に香川県高松市屋島で源義経が率いる源氏が平氏に勝利した戦い①源義経を庇い矢に討たれた佐藤継信②那須与一の扇の的等が有名因みに、源氏が平氏を滅ぼした軌跡は1184/2/7『一ノ谷の戦い』兵庫県福原須磨舞台鵯越えの逆落としや平敦盛が有名↓1185/2
前回の記事『【街歩き・神社】金ヶ崎神社/兵庫県明石市/2025年5月12日』前回の記事『【街歩き】コカ・コーラボトラーズジャパン明石工場と西国街道/兵庫県明石市/2025年5月12日』前回の記事『【街歩き】JR大久…ameblo.jp●天光山正覚寺(兵庫県明石市)【01】金ケ崎神社からさらに西へ少し進むと、住宅街の中にお寺さんの駐車場がありました。正覚寺とあります。正覚寺ってよくありそうな名前ですけど。【
屋島合戦で主君義経を庇って平教経の弓に倒れた佐藤継信は義経四天王の一人。佐藤継信、忠信兄弟は奥州から義経に付き従った腹心の部下です。🌷平家総門跡平家が仮内裏として築いた守り門で、射落畠の近くにあります。義経の急襲に一旦慌てて海に逃れた平家方ですが、源氏が少数と気がついて態勢を立て直した教経らが巻き返しをはかるべく総門に押し寄せ矢合戦となります。この時、教経の矢に佐藤継信が倒されました。🌷射落畠佐藤継信が義経をかばって亡くなった場所。逆光になってしまいましたが、射落畠碑。🌷佐藤継
みなさん、ごきげんよう⛰️遍路道の点検や清掃を四国中で一斉に行うイベント「お遍路ウォーク」に初参加し『遍路道点検ウォーク①南から屋島に登る「遍路道」@屋島(高松市)』みなさん、ごきげんよう⛰️四国遍路の魅力を多くの人に知ってもらい、世界遺産登録につなげ、文化を継承することを目的としたイベント「第10回一日一斉おもてなし…ameblo.jp『遍路道点検ウォーク②「屋島寺」から八栗へ@屋島(高松市)』みなさん、ごきげんよう⛰️2025年2月23日に行われた「第10回一日一斉おもてな
福島旅行2日目は、「鯖野の薬師様」と呼ばれる医王寺の参拝からスタートしました。奥州藤原氏の一門の佐藤氏の菩提寺で、源平合戦で佐藤継信と忠信の兄弟を源義経に付き従え、義経の身代わりとなり壮絶な最期を遂げたいわれています。二人の息子を亡くし、悲しみくれる老母(乙和御前)のために、嫁達が武将の姿をして慰めたとういう話も残っているそうです。(左から継信、義経、忠信の像)乙和御前の悲しみが乗り移り、花が開かないで蕾のまま散っていく乙和の椿は、見ることができませんでした。また、
2024年5月6日の平家物語ぶらり散歩、石の民俗資料館に続いて洲崎寺に行ってきました源平屋島合戦古戦場の碑がありました。源義経の身代わりとなって討死した佐藤継信の亡骸を、戦火で焼け落ちた本堂の扉に乗せ、瓜生ヶ丘の本陣まで運んだと伝わるそうです。この関係で、佐藤継信の菩提寺として、毎年3月19日に慰霊法要を行っているのだとか。因みに、文楽「義経千本桜」の佐藤忠信のお兄さんです。屋島壇ノ浦の戦いを表す庭園にもご注目を。薄い四国八十八ヶ所霊場を庶民に広めた「四国遍路の父」真念のお墓もあり
医王寺の御朱印瑠璃光山医王寺薬師如来の御朱印寺号標左手に見える建物が受付朱印所右手には貴船神社が鎮座⛩️縁起医王寺(醫王寺)は、山号を瑠璃光山といい薬師如来の別称医王を寺号とし、平安時代天長三年(826)に開基された🛕奈良県の長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の寺院で、弘法大師をおまつりし、古くより鯖野薬師と呼ばれ親しまれております🛕また奥州藤原氏の一門であり飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺で、奥州三十三観音特別霊場にもなっている🛕貴船神社境内敷地内に入
今日(12/12)はNHKのドラマ10『大奥(シーズン2)』の最終回が放送される…〝火打石〟はこのドラマの原作の、よしながふみ先生の『大奥』も愛読していましたが、【ドラマ10】の『大奥』もシーズン1、シーズン2共に全話視聴。いや、ドラマも原作を裏切らない素晴らしさで大感激。最終回の今夜は、視終えたらきっと大号泣。夫も一緒に視ているのですが呆れられるんだろうなぁ…『どうする家康』(こちら)も17日に最終回ですが、こちらは嗚呼、やっと1年視終わったと解放感に浸
宮城県角田市岡松本、伝佐藤継信·忠信供養碑。
九州へは四国の伊予・八幡浜港からフェリーで渡る予定にて、明石海峡大橋を通過、淡路島から四国へと向かう。淡路島の、道の駅・あわじから美しい瀬戸内海を望むも、世はカンカン照り。今日の宿泊地は丸亀。けっこう遠い。まずは、主目的の屋島城へ。屋島の古戦場へは来ているが、その屋島に古代の城、屋島城跡があることを、かつてろくもんさんのブログで初めて知った。屋島城到着。屋島寺には寄らず。いやぁ、暑いというより熱い、あっちっち。林の中の日陰の道、助かる。屋島の古戦場を眼下に眺めながら
私は【源義経】の四天王と言われた『佐藤継信・忠信』の父『佐藤元治』の子孫である。【源義経】は福島県福島市飯坂町にあった『佐藤元治』の屋敷を訪れ、『佐藤継信・忠信』の最期を伝えた。その時の滞在により、その後、私の先祖には【源義経】の子供を産んだ女性もいるという。↑佐藤忠信の子孫のお墓↑『佐藤継信・忠信』の名前が刻んであります。↑以前、『妙光』と『一徳』と私の三人でお墓参りをさせていただきました。歴史に詳しい方ならご存知だと思うが、【源義経】たちは『梶原景時』の讒言により窮地に追い込ま
マジで複雑なんですけどお
前回からの続き(10月23日のこと)になります前回の馬町空襲の地があった場所の反対側くらいに石碑があります佐藤継信・忠信之塚正六位政養之碑こちらには源義経(もちろん今、義経と言えばこちら↓)(大河ドラマ・鎌倉殿の13人Twitterより)に仕えた佐藤兄弟のお墓があるということは知っていましたが、まだ残っているのは思っていなかったので伺いましたというのも、京都国立博物館の敷地内に馬町十三重石塔があるのですが、それがこちらにあってお墓はもうないと思って訪ねていなかったんです😅
『おくのほそ道』の旅3日目。丸山の章。この章は、『おくのほそ道』の旅の目的の1つである義経追慕の意味をもって展開されている。さて、本文で芭蕉が訪ねたことになっている医王寺に足を運んだ。この医王寺は、義経の股肱であり、義経のために散った佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺となっている。下の写真のように、芭蕉の句碑も境内にみえるのだが、やはりメインは義経及び佐藤兄弟(と兄弟の父であり、この信夫の荘司であった佐藤基治)である。兄継信は、平家との屋島の合戦で義経を狙う矢の盾となり命を落とし、弟忠
屋島寺の近くにある、佐藤継信公と源義経の愛馬『太夫黒』のお墓へ行ってきました。佐藤継信公と源義経の愛馬『太夫黒』が幸せに生まれ変わり、来世でもご活躍されますようにご供養とお祈りをしてきました🙏🏻霊能者の開運霊視(人生相談の場所)私たちの【霊視】は《今すべき事》を伝え、《秘められた才能》を引き出し、相談者自身が《生きがい》を感じて生きるように導くものです。7men3.jp
83番一宮寺84番屋島寺義経の愛馬『太夫黒(たゆうぐろ)』現在の愛車は、黒。自分で決めた色ではないので、何か特別なものを感じます。笑霊能者の開運霊視(人生相談の場所)私たちの【霊視】は《今すべき事》を伝え、《秘められた才能》を引き出し、相談者自身が《生きがい》を感じて生きるように導くものです。7men3.jp
香川県の八栗寺に行く。行く途中で、義経四天王の、佐藤継信の戦死の地を通り、うどん本陣山田家の横を通る。いつもながら、うどん本陣山田家はヤバい人であります。八栗ケーブルに乗りました。値上がりしてます。200円いつもながら辛気臭い音楽を流してます。四国85番霊場とともに、歓喜天霊場として知られ、木食以空が東福門院から賜った伝・弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれる[1]。寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が
おばんです😃🌃今日も1日お疲れ様でした🍀😌🍀NHK「義経のスマホ」で奥州平泉の藤原家の家臣福島の信夫の庄の武士佐藤継信が屋島の戦いで義経をかばって身代わりで亡くなったというエピソードが出てきた大河ドラマでは描かれなかったシーン福島県民ジーンときました。佐藤継信、忠信兄弟は2人とも義経の挙兵に従って戦死嘆き悲しむ母親を慰めようと未亡人になった嫁2人が亡き夫の甲冑姿で帰還を演じたという泣かせる伝承があります。後に訪れた俳人松尾芭蕉がそのエピソードを詠んだ一句が
新・平家物語19:やしまの巻/吉川英治Amazon(アマゾン)5,000円★★★★★「鎌倉殿の十三人」では源氏と平氏の戦いはあっという間に終わり、源九郎義経も哀れ死んでしまったが、新平家物語は合戦とその間の人と人との交わりを丁寧に描く。屋島の合戦で源義経は悪天候の中またもや奇襲にでる。瀬戸内海は知人のヨットにかつてGW、お盆の度に乗らせて頂いたので荒海の中に船を出すことの辛さを思い出して氣分が悪くなる(苦笑)。FRPの船体でエンジン付きでもキツイのに。。屋島
佐藤継信の墓源義経が奇襲した屋島の戦いでは、義経が平泉にいた頃から仕えていた佐藤継信が討死。平教経が義経を狙って放った矢を身代わりとなって受けたのだとか。☆☆☆☆☆2022年の大河ドラマ
『玉葉』でも義経軍の強行日程は確認できます。信用できる史料だけに、電撃的といえる義経の作戦は史実と考えるしかないのです。ただし、平氏軍が内裏を焼かれて沖へ逃れた後、敵が小勢だと知って巻き返す話はどうでしょうか。まずはそのとき活躍する平教経の存在が問題です。『吾妻鏡』によりますと、一ノ谷の合戦で彼は討ち死にし、獄門に懸けられたというのです。ニセ首だったともいわれるますが、『平家物語』の話は怪しいように思えます。佐藤継信の討ち死や扇の的の逸話の元ネタ
こんにちは。ビルシャナ戦姫FD、佐藤継信の正規ルートをプレーしました!まずはネタバレなしの感想から。ビルシャナ無印プレーしていない方は是非プレー後にお読みください!特に重要なネタバレはありませんが、無印での共通ルートをプレーしていないと状況が分かりにくいです。ビルシャナ戦姫~源平飛花夢想~楽天市場6,435円【あらすじ】無印共通ルートで平泉に滞在していた遮那王は、兄(源頼朝)からの招集に備え、鍛錬をしながら日々過ごしていた。平泉を治めている藤原秀衡は遮那王を気に入っており、良
医王寺(醫王寺)の御朱印醫王密寺の寺号碑山門左手が寺務所で、御朱印帳預けて、参拝しました。山号【瑠璃光山】寺号【医王】薬師如来平安時代天長三年(八二六年)に開基された。奈良県の長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の寺院で、弘法大師をおまつりし、古くより【鯖野薬師】と呼ばれ親しまれている。また奥州藤原氏の一門であり飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺でも【奥州三十三観音特別霊場】にもなっています。奥の院薬師堂には、薬師如来がお祀りされている。この福島市飯坂町に温泉を発見
佐氏泉公園10:55米沢駅着ロッカーに荷物を預けて徒歩5分の「佐氏泉公園」へ。佐氏泉弁財天米沢駅の観光案内所で紅花染めの工房を聞いてみたが見学や体験は個々に問い合わせが必要とのことで、ご紹介いただけなかった為駅前からタクシー利用で「米織会館」へ。米織会館地図上で見つけていた「紅花資料館」はこの建物の二階に有ったそうで、コロナ過以前に耐震構造の問題で閉鎖になり、再開の予定は無いと伺った。(残念)近くの「上杉城史苑」まで歩いたが、冷たい雨が
【鳳聚山(本浄山)羽賀寺】福井県小浜市羽賀高野山真言宗山号本浄山本尊十一面観音秋田実季(さねすえ)像と、その父の安東愛季(ちかすえ)像に会いに行ってきました。元正天皇の勅願により行基が創建したと伝わる寺院です。その後の消長を経て1436年、奥州安部氏後裔・奥州十三湊日之本将軍安藤康季が再興したと伝わります。安藤氏は後に安東氏と表記するようになります。同寺は、さらに安東氏後裔で関ヶ原の戦い以降に常陸宍戸藩主となった秋田実季(1576~1660年)が、多くの寄進をするなど厚く
前回の散策の続きです(令和元年10月14日のことです)五条坂に向かって歩いていくと、左手に石碑がありました陶匠和気亀亭宅跡住所・東山区五条通東大路西入北側亀亭は清水焼陶工の名前寛延元(1748)年、五条坂上の音羽町に開窯した亀屋平兵衛家の流れを引く三代平兵衛(?~1765)の時に亀亭を号するその子の早世により、家督は備前出身の和気平吉(1707~1787)が継承し、二代亀亭となる五条坂の磁器製品開発に尽力三代(~1807)、四代(1771~1848)と和気家が受け継いだ
「扶桑木考」と「国定忠治」の二本立てでお送りしています。今回は「国定忠治」高橋敏著から紹介します。今回の話は私が一番好きな話です。天保九年三月二十六日関東取締出役に賭場を急襲され子分文蔵が捕縛されますが、直ちに忠治親分は子分と親分一家に恩義のある堅気の衆を従え文蔵奪還に動きます。今回は「赤城録」から、文蔵ともう一人の子分神崎友五郎の話を紹介しながらお別れしたいと思います。今夜もご覧いただきありがとうございました。松平定知「その時歴史が動いた」間道ヲ岐蘇ニ出デ、将ニ西走セントス、而シ
源義経の郎党の中ではまともな武士であった佐藤兄弟の墓は福島市の飯坂温泉近くの医王寺にあります訪れたのはずいぶん前になりますちょうど大河ドラマで義経がやっているときですわ医王寺は平安期に建てられた寺で信夫佐藤氏の菩提寺でしたドーナッツ状に穴の開いた平たく円い石が括り付けられている薬師堂佐藤兄弟の墓この二つが見たくて医王寺を訪れました笈も太刀も五月に飾れ紙幟松尾芭蕉も医王寺を訪れました佐藤継信、忠信兄弟の墓は薬師堂の脇にありました大きな長方形の石が並んで立っています奥州に落ちた
屋島の戦いは1185年2月に起こりました。平家は一ノ谷の戦いで源氏に大敗を喫した屋島で戦力を整え源氏を迎え討つためです。当時の屋島は完全な島であり天然の要塞でした。また、屋島には城があったとの記述があり古く日本書紀にも屋嶋城(やしまのき)が見られます。東側は庵治半島との間に大きく入り込んだ入江が広がり海から攻めてくると思った平家は源氏を待ち伏せする絶好の前線基地です。両軍がこの川の辺りで戦い勝負がつかず共に引き上げたので、相引川と呼ばれる様になりました。この様な案内看板が