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☆衛門戸丸塚古墳(よもんどまるづかこふん)大和国添下郡奈良市佐紀町衛門戸(P無し、佐紀石塚山古墳と佐紀陵山古墳との間の古墳群見学用Pから徒歩15分ほど、「奈文研平城京跡資料館」無料Pから徒歩20分余り)「佐紀盾列古墳群」の西群内に築かれた円墳。隣接して築かれている佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)と佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)の東方すぐに位置します。佐紀瓢箪山古墳とくっ付くように築かれています。また佐紀猫塚古墳とも隣接しています。ほとんど原形を留めておらず、墳丘の詳細は不詳。径50
☆佐紀瓢箪山古墳大和国添下郡奈良市佐紀町衛門戸(P無し、佐紀石塚山古墳と佐紀陵山古墳との間の古墳群見学用Pから徒歩15分ほど、「奈文研平城京跡資料館」無料Pから徒歩20分余り)■形状前方後円墳*周濠有り(衛門戸丸塚古墳に接する部分は無し)*葺石有り■全長96m■築造時期古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初頭)■埋葬施設後円部は未調査前方部から小規模な粘土槨が発見■出土品円筒埴輪片鏡、銅鏃、刀剣、琴柱型石製品(棺内)■周辺の状況*「佐紀盾列古墳群」
☆佐紀猫塚古墳(附猫塚北1号墳)(奈良市佐紀町)大和国添下郡奈良市佐紀町寺畑(P無し、「奈文研平城京跡資料館」無料Pから徒歩20分余り)「佐紀盾列古墳群」の西群の一基。既に原形を留めていないものの、推定全長120mを誇る巨大前方後円墳。北側に「猫塚北1号墳」、径30mほどの円墳があったとされますが、GoogleMapで見る限り現状は跡形すらも見受けられません。◎出土遺物等昭和二十八年に発掘調査。埋葬施設は全長4.6m幅1.28mの竪穴式石室。割竹形木棺が安置されていたと
☆稱徳天皇高野陵(佐紀高塚古墳)大和国添下郡奈良市山陵町字御陵前(P無し、近隣停め置き不可)第48代称徳天皇の治定墓。成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)と日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)との三基の巨大古墳が寄り添うようにくっつき築かれています。4世紀末~5世紀前半にかけて巨大古墳が築造された「佐紀古墳群」の西群に属します。全長127mの前方後円墳。三段築成。不連続な周濠が確認されているとのこと。かつて埴輪が出土したとも言われます。副葬品が出土していないため築造時期の比定は困難。5世
☆成務天皇狹城盾列池後陵(佐紀石塚山古墳)(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)大和国添下郡奈良市山陵町字御陵前(駐車は下部写真参照)第13代成務天皇の治定陵墓。「佐紀盾列古墳群」西端に位置し、日葉酢媛命治定陵墓の東隣にくっついて築かれています。また北に200~300mほど隔てて神功皇后陵が築かれています。全長218.5mの巨大前方後円墳。周濠を有しますが、特に日葉酢媛命治定陵墓がある東側が極端に狭く、重なり合うように築かれており、かなり近しい関係同士であろうと推されます。
10月18日土曜日なぜか高の原イオンにいます大学には明日の学芸員実習Ⅰまで行きません京都と奈良の県境を確認反対側はこんな感じです県境をまたいでいるイオンは珍しいのだそうです近畿文化会入門臨地講座に参加しました近鉄グループホールディングス株式会社|文化事業|近畿文化会|入門臨地講座blog2.kintetsu.co.jp神功皇后陵狭城盾列池上陵です今回の講義は五社神古墳ではありません宮内庁の治定で話が進みました巨大古墳の間を通りますそして瓢箪山古墳100m級ですが巨大
今日アップするのは奈良県奈良市にある佐紀盾列古墳群に属する古墳です。↑国土地理院の陰影起伏図(赤い文字はふっき~が加筆)地理院地図/GSIMaps|国土地理院今日取り上げるのはオセ山古墳です。↑オセ山古墳(ゲンオ塚古墳)の様子草木でボーボーです。看板も解説板もありません。場所はこちら:34.703780,135.793965↑広角で撮影、南東側から現存墳長65メートル、後円部径43メートル、高さ5メートル。前方部が消滅した帆立貝形前方後円墳?
今日アップする古墳は第13代成務天皇の陵墓です。宮内庁からは狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)と呼ばれています。↑まずは国土地理院の傾斜量図から地理院地図/GSIMaps|国土地理院一昨日アップした佐紀陵山古墳と今日アップする佐紀石塚山古墳。どうして、こんなにも隣接した場所に築いたんでしょうかね?↑佐紀石塚古墳(狹城盾列池後陵)、拝所の様子を広角レンズで撮影平安時代にも、江戸時代には2回も盗掘を受けたと記録が残っています。墳長2
今日も奈良県奈良市にある佐紀盾列古墳群に属する宮内庁治定陵墓です。↓佐紀高古墳は孝謙天皇(称徳天皇)の陵墓として高野陵(たかののみささぎ)と呼ばれています。↑国土地理院の傾斜量図地理院地図/GSIMaps|国土地理院輪郭はボンヤリしていますね。左側が前方部、右側が後円部、墳長127メートル、4世紀代築造の前方後円墳。↑佐紀高塚古墳(高野陵)、東側から写ってるのは後円部の東端。↑宮内庁治定の天皇陵ですが、けっこう墳丘をしっかりと確認でき
☆平城天皇楊梅陵(市庭古墳)(やまもものみささぎ・いちにわこふん)大和国添下郡奈良市佐紀町塚本・市庭(P無し、「平城宮跡遺構展示館」Pより徒歩3分ほど)第51代平城天皇の「楊梅陵(やまもものみささぎ)」の治定墓。学術名は「市庭古墳(いちにわこふん)」。大小60基ほどあり、200m超級が9基もあるという「佐紀盾列古墳群」(*)の東群に属し、そのうちの西端に位置します。*訓みは一般に「さきたてなみ古墳群」とされますが、記紀の記述から「さきたたなみ古墳群」が正解かと思われます。なお
今日も奈良市にある佐紀盾列古墳群巡りの続きです。↑ザ前方後円墳な佐紀陵山古墳国土地理院の傾斜量図より地理院地図/GSIMaps|国土地理院↑墳長が207メートルもあるので全体像を撮りにくいです写真は前方部の南西端の様子。↑西側の様子左側が後円部、右側が前方部。↑宮内庁の立札があります。第11代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の陵墓として狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)と呼ばれています。↑拝所に近づきま
小奈邊古墳(小奈辺陵墓参考地)大和国添上郡奈良市法華寺町(P無し)「佐紀盾列古墳群(*)」の東部に築かれた前方後円墳。最東端の宇和奈邊古墳の西隣に、また北西に隣接してヒシアゲ古墳が築かれています。また令和七年に完全破壊されていた佐紀池ノ尻古墳が南隣にあったということが分かりました。*訓みは一般に「さきたてなみ古墳群」とされますが、記紀の記述から「さきたたなみ古墳群」が正解かと思われます。なお橿考研は「佐紀古墳群」としています。全長204mの巨大前方後円墳。堤から円筒埴輪列が発見され
☆仁徳天皇皇后磐之媛平城坂上陵(ヒシアゲ古墳)(ならのさかのえのみささぎ)大和国添上郡奈良市佐紀町字ヒシゲ(P無し、「平城宮跡遺構展示館」Pより徒歩10分余り)仁徳天皇皇后磐之媛命の治定陵墓。通称はヒシアゲ古墳(ヒシャゲ古墳)。全長219mの巨大前方後円墳。仁徳天皇陵(治定墓)の大きさを考えれば理解できるところ。ちなみに夫の仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は525m。子の履中天皇陵は365m、反正天皇陵は148m(陵墓参考地は290m)、允恭天皇陵は228m(陵墓参考地は208m)。堤
2月12日に訪れた奈良県奈良市にある佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群巡り、続きです。↑まずは国土地理院の陰影起伏図から(赤い文字はふっき~が加筆)地理院地図/GSIMaps|国土地理院今日アップするのは佐紀瓢箪山古墳です。↑(佐紀)瓢箪山古墳の解説板墳長96メートル、後円部径60メートル、後円部高さ10メートル、前方部幅45メートル、前方部高さ7メートル、4世紀末~5世紀初頃築造の前方後円墳。葺石、円筒埴輪をもちます。↑佐紀瓢箪山古墳、西側から左
大和西大寺駅で下車ならファミリーを1時間ほどかけてうろうろミ・ナーラもこの日の午後に行きましたが、多少中途半端な規模感最近はどこの地方都市も郊外の商業モールの方が大型なため賑わっているところが多いですでも、電車や無料送迎バスで手軽に買い物に行けるのは魅力ですねその後平城宮跡へ第一次太極殿跡このあたりの北側から東へかけて200m以上の大きな前方後円墳の古墳群があります佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)古墳のほとんどが4世紀後
こんばんは‥(^_-)-☆今の奈良市は気温8℃と大分気温が上がって暖かいですね。奈良は、最高気温14℃止まりで昨日より少し暖かい日になりましたね?・・引き続く寒さの性か血圧が上がり下痢がまだ続き体調不良が続いています。しんどいが、少しづつ散歩を増やそうと思いますが増えませんね?・・クイズで頭の体操でリフレッシュしましょう!奈良まほろばソムリエ奈良通2級の10回目の問題です。3奈良県の遺跡や古墳に関する事柄について最も適当なものを選びなさい。
麗な奈良を歩く①「平城駅/山稜町」編|高坂正澄この日は信じられないほどの陽気。日中気温は10℃越え。冬麗です。奈良市内の某ホテルで「奈良の食文化茶粥・その他」(鹿谷勲先生)と題する講演会あるのですが、こんなに好いお天気ですから、この際、佐紀丘陵の古墳群を歩いてみようと思い立ったのでした。時間的には、講演会は15時からですので、それまでの4、5時間とれるでしょうから、佐紀古墳群の端から端まで歩け…note.com近鉄京都線の平城駅(へいじょうえき)に降り立ったのは、午前10時
ヒシアゲ古墳の東側の沿道を歩いていくと古墳の二重になっている周濠の外側の濠がいつの間にかなくなっており、歩いていた道は、内側の濠沿って歩いている。ただ、濠側の樹木が茂っていて、あんまり墳丘を見ることがかなわない。そうこうしているうちに、後円部の辺りまで来ると、周りの風景が一変して、薄暗いちょっとした森のような雰囲気になる。住宅もいくつかあるのだが、結構空き家になっていて、それがまた微妙な雰囲気を醸し出している。ポケットパークのようになっている所があり、見ると円筒埴輪の復元模
奈良平野は,東/西/南を山に囲まれており,全体が皿のような盆地です.大阪平野がまだ海だった縄文時代だった頃[PDF]には,この盆地もほとんどが沼地だったと思われます.(C)国土地理院ここまでの記事の通り,弥生時代早期から稲作が普及するにつれて,全国各地では豊富な農業用水を確保するためにため池が作られました.奈良盆地はその地形上の特質から,周囲の山から効率的に水を溜めるには,山麓と平地の境界にあたる標高50~90mのあたりにため池を造るのがもっとも効果的でした.そして正に
続いて訪れたのがコナベ古墳。この古墳も墳丘の長さが200mを超える巨大古墳である。お隣のウワナベ古墳よりは古い古墳のようだ。航空写真等で見ると、墳丘の形がずんぐりむっくりとしていてあまり良くない気がする。コナベ古墳と自衛隊の奈良基地の間の細い道を歩きながら、墳丘を観察。前方部と後円部、その間にある造出しが確認できる。この日はそうでもなかったのだが、コナベ古墳の周濠の水の色がいつも白色に濁っているのは、なんでだろうと思う。後円部の所で、釣り人が
夏は朝墳活という訳で、朝5時に家を出て、今回は佐紀盾列古墳群の東群にあたるウワナベ古墳やコナベ古墳などを見て回った。朝早い近鉄電車は普通電車しかなく、各駅停車でゆっくりと目的地へGOGOである。こんな時間でも、意外と電車に乗っている人は多く、これから朝練に行くであろう高校生や仕事帰りのような若者たちが結構いた。ただ、こんな早くから古墳の写真を撮りに行こうという人はいない。昆虫採集の子どもはいたけどね。(笑)目的地であるウワナベ古墳には6時過ぎに到着。すでに陽は昇っておりました。途中、一
磐之媛命陵(平城坂上陵)の陪塚指定は10基あります。ところが10基の内3基は自衛隊基地建設時に削平されました。ということで、今は現存7基、消滅3基という状況ですね。そして更に現存7基の内、3基はコナベ古墳(小奈辺陵墓参考地)の陪塚と考えられているので、ヒシアゲ古墳(磐之媛命陵)の陪塚は実質4基のみとなります。ちなみに小奈辺陵墓の被葬者とは・・・これも磐之媛命[いわのひめのみこと]なんですね(^^;なにかと、まぎらわしい!墳丘北側のろ号(西)、は号(東
磐之媛命陵(平城坂上陵)に治定されるヒシアゲ古墳。・・・ですが、築造年代と時期が合致しないようです。地域の首長墓である可能性は大。外提南東側。第16代仁徳天皇は、257年誕生-427年崩御(神功皇后摂政57年-仁徳天皇87年)、在位は394-427年(仁徳天皇元年-87年)。仁徳天皇は実在した可能性が高いとされています。が、磐之媛命[いわのひめのみこと]は創作性が高いとされる人物・・・・古事記の中の逸話、万葉集の歌などは残っています。磐之媛命[
山陵八幡神社の東脇の斜面に鎮座する福松大神。すぐ正面には近鉄京都線。■鳥居扁額は福松大神。■本殿覆屋付。稲荷神。
奈良市山陵町宮ノ谷に鎮座する山陵八幡神社。神功皇后陵とされる五社神古墳のすぐ南に位置するため、五社神古墳と深い関係を持つ神社とさ考えられます。近鉄奈良線平城駅至近。■山陵八幡神社■社号標■定書■道標■一ノ鳥居■狛犬鳥居背後。■手水舎1986年(昭和61年)寄進。■拝殿1982年(昭和57年)拝殿造営。■狛犬拝殿前。拝殿内部。
市庭古墳は平城京築造時に取り壊された事が明らかであるため、平城天皇陵に治定するには年代的に無理があります。平城天皇[へいぜいてんのう]は、774年誕生-824年崩御(宝亀5年-天長元年)、在位は806-809年(延暦25年-大同4年)。父、桓武天皇は平城京から、長岡京、平安京へ遷都。平城天皇は病気のため数年で譲位、上皇として旧都、平城京に移住し余生を過ごしています。付近の地蔵堂・・・・墳丘南側。■制札平城天皇楊梅陵■参道
6月に訪れた奈良県奈良市北部、平城京跡歴史公園の北側にある佐紀盾列古墳群!前回書いたコナベ古墳のブログ『コナベ古墳グルッと一周。』6月に訪れた奈良市北部の古墳巡り。平城京跡歴史公園の北側には200mを超す古墳など、ポコポコと古墳がたくさん!前回はコナベ古墳の陪塚を紹介しましたが『コナベ…ameblo.jp続いてコナベ古墳の北西にあるこちらヒシアゲ古墳(磐之媛陵)仁徳天皇の皇后の1人、磐之媛命の陵墓とされもれなく宮内庁管轄の古墳となっています。奈良市のホームページによると、
6月に訪れた奈良市北部の古墳巡り。平城京跡歴史公園の北側には200mを超す古墳など、ポコポコと古墳がたくさん!前回はコナベ古墳の陪塚を紹介しましたが『コナベ古墳陪塚の、はにほへと』いやー!今日も暑いっ!昨日の夕方、大阪は豪雨にみまわれそのせいか今日の湿度の高さよ湿度が高いと熱中症になりやすいそうですし気を付けて1日過ごしましょう!軽めの…ameblo.jp今回はコナベ古墳をご紹介。はい、デカすぎて全景が入らないタイプの古墳200mを超える古墳です!5世紀前半築造の前方後円墳。
■御前池佐紀神社(西畑)のすぐ東に隣接。奈良市佐紀町西畑に鎮座する釣殿神社。1578年(天正6年)兵火により佐紀神社末社市杵姫命神社焼失。1639ー1702年(寛永16ー元禄15年)市杵姫命神社跡地に釣殿神社を創建。祭神は亀畑の佐紀神社より分神鎮祀し市杵姫命も今なお祀られています。これほど隣接しながらも、西畑の佐紀神社と同じ祭神という関係性。■一ノ鳥居石造。扁額は釣殿神社。■由緒書■手水舎小さいながら
ご訪問ありがとうございます。さてここで、神功皇后とは?ということを考えてみるわけですが(;^_^Aなんとも奥深い謎の人物でして、王朝の始祖的な母子神の面や、北部九州を舞台とする海の女神、大帯比売オオタラシヒメの伝承などの神話的な面と、好太王碑や七支刀に裏付けられる史実と関わる人物、またあの謎の氏族「息長オキナガ氏」との関わり、等々、いろいろと絡まりあっているのです。そこへ彼女が倒した、仲哀天皇の先妻の皇子の麛坂カゴサカ皇子と忍熊オシクマ皇子が絡むので、王朝交替説やら、政権内