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堀之内大台城(潮来市)佐竹義宣によって築かれた城。佐竹義宣が小田原征伐(1590)後、島崎氏や鹿島氏などの「南方三十三館」をまとめてフルボッコにした後にこの辺りを支配するために築いたという。ところがどっこいその佐竹も関ヶ原の戦い(1600)で西軍についたので秋田に吹っ飛ばされて大台城も廃城となったとさ。現在城は牛堀中建設などによって見事にボコボコにされており遺構はほぼ無い。やはり佐竹氏の城なだけあって広大な城であったようだが…?石碑。中学校の入口の近くにある。曲輪があったであろう牛
大僧正天海(91)「(寛永三年五月)七日本多中務大輔忠刻所領播州姫路に有て卒す。齢三十一歳。未だ男子なし。太田采女正資宗、神尾宮内少輔守勝を姫路につかわさる。千姫君(後天樹院御方と称す)の御迎として、大番頭松平内膳重則を遣はさる。」(「大猷院殿御實紀」)本多忠刻は、本多忠勝の孫であり、忠政の子である。忠政は、忠勝の隠居により、慶長14年(1609年)本多家の家督を継ぎ、伊勢国桑名藩二代藩主となった。大坂冬の陣では伊勢国大名衆を引き連れ参戦、天神方面に陣
谷中の閻魔詣り…日蓮宗の立善寺の次は新義真言宗寺院の西光寺へ〜西光寺の山門六地蔵持ってます🤲😁弘法大師像本堂新義真言宗寺院の西光寺は、仏到山無量寿院西光寺と号します慶長8年(1603年)佐竹義宣が開基、開山は宥義元々神田に位置してましたが、慶安元年(1648年)現在地に移転久保田藩佐竹家と、津藩藤堂家の祈願所で有りました御本尊五大明王鰐口と扁額堂内五大明王が並んでいます🔥🔥🔥🔥🔥可愛らしい花手水?で良いかしら…お地蔵様?それともお上人!?十一面観音
大僧正天海(67)「其時封地下野国宇都宮城十五万5千石収公せられ、出羽の国由利に配流せられ、猶厨料として五万五千石を賜ふの命伝ふ。正純固く辞して是をうけず。佐竹右京大夫義宣にあづけらる。」(「台徳院殿御實紀」)正純は、「身に覚えがない。」として、これを拒絶した。このためその身柄は、嫡子・正勝とともに佐竹義宣に預けられることになった。正純が命令に従わなかったことに、秀忠は激怒したという。正純は改易され、1千石の捨扶持をもって出羽国横手に流罪となったのである
【問題】小田原の役で、佐竹義宣が参戦した攻城戦は次のうちどれか?【選択肢】忍城の戦い下田城の戦い山中城の戦い韮山城の戦い【正解】忍城の戦い【解説】小田原の役が起こった際、佐竹義宣は豊臣秀吉に臣下の礼を取ることを決め、秀吉のもとへ伺候した。その後、石田三成の下で忍城の戦いなどで戦功をあげた。
ブログを訪れてくださりありがとうございます⭑࣪˖ᦏᦑ˖࣪⭑ヒーラーsunriseと申します(レムリアの女神ナターシャデリルヒーリング/その他ヒーリングアチューンメントを行っています)長きに渡りある星で、地球で壮絶な経験をして深く傷付いた魂を、ヒーリングしていたシャーマンでした〈アカシックレコード鑑定にて〉幼い頃からの感覚𓐍𓈒𓏸︎︎︎︎どこかとても腑に落ちるところが…レムリア時代、巫女2023年5月に初めてのアチューンメントを受け、内側に向き合いながら、セルフヒ
先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば
すすす2025.5.25雨の秋田となりました今回はJR東日本「トクだ値50%」を利用しての秋田1泊2日の旅です秋田新幹線「こまち」に乗ります「こまち」のシートは稲穂カラーで好きだなぁ〜▼本日の駅弁は「深川めし」これでもかっていうアサリの数の多さに満足秋田駅に到着ですめちゃくちゃ大雨の中☔最初の目的地は久保田城城址公園の入口までは掘に沿ったデッキのような歩道を歩きました(失敗)晴れてたら気分爽快だっただろうな大雨のせいで掘の水がデッキまで上がって、
一昨日で「城郭建造物」の「城門」シリーズを終えました。今まで、「城郭建造物」の「天守」「御殿(茶室・能舞台等含む)」「櫓」「櫓門」「城門」を紹介してきましたが、まだまだあります!先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。今回からは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介していくシリーズをスタートさせます。
大僧正天海⑪「五月廿四日、陸奥国仙台伊達政宗、江戸ニ参観ス。是月、出羽米沢城主上杉景勝、江戸ニ参観ス。」(「史料綜覧」)江戸城に伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣が参府した。この時、政宗は53歳、景勝は64歳、義宣は50歳である。大坂の陣では、冬の陣で景勝・義宣が、夏の陣で政宗が活躍している。秀忠は6月に上洛を計画していて、この奥羽を代表する三人を同行させるつもりでいた。「三月六日出羽国山形城主最上駿河守家親病卒のよし注進あり。今年在府して猿楽を見ながら頓死す
期間:2025/08/01〜08/08天井:100倍率:3倍初回:半額武)佐竹義宣:稀覯の忠直武)蒲生氏郷:仁恕の傑物戦)小野政次:怱劇の深慮射)島津歳久:利害明察の智武)霧隠才蔵:跳梁霧消©コーエーテクモゲームス
正観さんによると…。(みやびの山里・京都大原…1988年、小林正寛遊帆堂)〇平時国時忠の子が時国。源氏の追討を恐れた時国は、平の名を捨て時国を苗字にし、荒れ地を開墾し、土に生きた。現在の輪島市曽々木にある時国家というのが、その家だ。鎌倉時代から昭和23年の農地開放にいたるまで、時国家は大庄屋であり、大地主であり続けた。本家が上時国家、分家が下時国家、下時国家の建物は重要文化財になっている。(能登地震の写真と以前の上時国家)※私も震災前に能登の七
南光坊天海(141)「十一日、岡山御営に蜂須賀阿波守至鎮をめして、去年穢多が崎幷仙波表の軍功を褒せられ、御感状に順慶左文字の御刀そへてたまはり。」(「台徳院殿御實紀」)家康が帰国の途についても、秀忠は岡山の陣を離れなかった。大坂城の埋め立てを進めながら逐一、家康にその進捗状況を報告していたのである。秀忠は、至鎮を岡山に召すと、その働きを称え、感状と順慶左文字の名刀を授けた。家人の稲田修理亮示植には、感状と長光の名刀、その子・植次にも感状と延壽の名刀を授け
南光坊天海(121)菱櫓に上ってこの戦況を見ていた秀頼は、「木村を討たせてはならぬ。誰か加勢しろ。」と命じた。「御意。」と応じた後藤基次は直ちに櫓から降り、京橋口から加勢に入ったのである。木村・後藤隊(3000人)の来援により、早朝から戦っていた佐竹軍は次第に疲労を深め、遂に第1柵まで後退した。義国は重傷を負い、ついには義宣の旗本まで脅かされる事態になったのである。窮地に陥った義宣は、対岸の景勝に救援を求めた。景勝は直ちに親憲に佐竹軍救援を命じた。親
南光坊天海(120)鴫野・今福は、大坂城の東北2Kmの所にあり、防衛上の要所である。大和川を挟んで左岸が鴫野、右岸が今福と呼ばれていた。鴫野・今福はともに深い水田に囲まれていて、城に近づくためには細い堤道を通らなければならなかった。そこで大坂方は、今福には四重の柵を設け、大野治長の武将・矢野正倫(300人)と飯田家貞(300人)、鴫野には三重の柵を設け、井上頼次(2000人)を守備させていた。家康はここに攻撃の拠点となる付城を築くよう佐竹・上杉両軍に命じ
【問題】佐竹義宣・浅野幸長・毛利秀元に共通する事柄は、次のうちどれか?【選択肢】自領内で芝辻砲を製造した茶の湯を古田織部に学んだ鹿児島県内に菩提寺がある示現流の免許皆伝を受けた【正解】茶の湯を古田織部に学んだ【解説】佐竹義宣・浅野幸長・毛利秀元はいずれも古田織部に茶の湯を学んだことで知られる。織部の弟子には武士も多く、他に伊達政宗や大野治長らも知られる。
これまでの話㊲12月には島津義久が病のため、島津忠長を上京させると言ってきた。仲介役の正信や山口直友はいつ家康が怒り出すか、気が気ではない。はやく義久を上洛させろと、催促したのである。こうして、島津家は講和が進まないまま、年を越したのであった。慶長7年(1602年)1月中、井伊直政は死期を悟り、二人の息子を枕元に呼んだ。その時、直政は文字が書ける状態ではなかったが、家臣に支えられながら、漸く認めたという。「成功するか失敗するかは誰にも分からない。だから精いっ
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいします。残念ながら旅先ではなく地元に居ます。1月2日(木)近所の神社で初詣大坂冬の陣佐竹義宣本陣跡蒲生行者講行者講は前からあるのは知ってたけど…都市景観資源って初めて聞いたわおおさか東線低いガード大人では頭打ちますから、低姿勢しないと通れないです。蒲生踏切221系殆ど221系しか来ないし国鉄車両も来んから寂しくなった感じやなここの道は、京橋駅に行く自転車で朝の通勤通学時間帯は自転
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
うっちーこと宇都宮芳綱です本日引いた戦上くじの結果ですグフッ!><童が出たけど極は1枚だけまあこういう時もありますよねガッカリしつつ影城主で戦くじを引いてみたらグッジョブ♪('-^*)/戦くじから天が出たのはいつ以来だろうまた出て欲しいですねブログ更新のモチベアップのためポチッとお願いします♪にほんブログ村戦国IXA(イクサ)ランキング
8月17日出来事798年(延暦17年7月2日)-坂上田村麻呂が清水寺を建立。1183年(治承7年/寿永2年7月28日)-後白河法皇が平家追討の院宣を下す。誕生日1570年(元亀元年7日16日)-佐竹義宣、武将・大名1952年-ネルソン・ピケ、F1ドライバー忌日737年(天平9年7月13日)-藤原麻呂、公卿1156年(保元元年7月30日)-源為義、武将、河内源氏棟梁1304年(嘉元2年7月16日)-後深草天皇、第89代天皇1338年(延元3年/建武5
2024年6月27日さくらんぼ東根駅からタクシーで龍興寺沼に向かいますが、その前に与次郎稲荷神社に寄ってもらいました。六田の石鳥居この鳥居は最上で山岳信仰が隆盛した室町時代に建てられたもので、その後の衰勢で鳥居だけが残り、与次郎稲荷神社は江戸時代初期に創建されました。参道手水舎キツネ像拝殿八幡神社と与次郎稲荷神社が合祀されているようです。拝殿の左奥にも稲荷神社があるようでした。與次郎会館一体500円の願掛けのキツネでしょうか。
吉川永青著「裏関ヶ原」を読みました。Amazonで歴史小説を物色していて見つけました。著者は初めて聞くお名前です。内容は天下分け目の関ヶ原の戦いの戦地には赴かず、自分の所領に留まった武将の、その思惑を描いた連作小説です。取りあげられているのは黒田如水、佐竹義宣、細川幽斎、真田昌幸、最上義光、織田秀信。黒田如水、真田昌幸については「播磨灘物語」「真田太平記」でその行動、思惑について読んでおりましたが、他の武将については知っているようで実は知らない人であります。こういう家康、三成以外の人
うっちーこと宇都宮芳綱です1-8鯖の本城主でこんな合成をしましたグッジョブ♪('-^*)/経験値課金と小姓の隠し玉を使い、極限突破素材を作成しやっと付けましたこれで茶人スキルは8個になりました更に9-17鯖ではこんな合成にトライしました藤原惺窩さんは1-8鯖の本城主でも持っているので、ここでは溶かして一期一会を狙います合成元の佐竹義宣さんにS2を付け第一候補にし、藤原惺窩さんを極限突破させ
期間:2024/08/02〜08/09天井:100倍率:3倍初回:半額武)佐竹義宣:稀覯の忠直武)蒲生氏郷:仁恕の傑物戦)小野正次:怱劇の深慮射)島津歳久:利害明察の智武)霧隠才蔵:跳梁霧消星3武)鍋島清久:心眼・参射)傑山宗俊:会心撃・弐©コーエーテクモゲームス
天海(223)慶長7年(1602年)4月10日、佐竹義重の説得により、義宣がついに上京を決意し、常陸水戸を出立した。途中、相模国で秀忠に会い謝罪すると、そのまま伏見城まで来て家康に家名の存続を願い、謝罪したのである。さらに義宣はその足で大坂城に行くと秀頼に謁見したのである。この時、家康は「義宣ほどの律義者も見たことがないが、律儀すぎるのも困る。」と言ったという。ただ徳川家としても無傷の大兵力を持つ佐竹家をこのままにして置けなかった。「慶長七年五月八日、徳川家康、
天海(218)義宣の父・佐竹義重は徳川方の味方するよう強く主張していた。東国の情勢が家康優位に傾くと、義宣は徳川に忠誠を誓い秀忠に援軍を差し向けた。関ケ原の戦いで家康が勝利すると義重はすぐに祝賀を伝え、上洛すると佐竹家が戦闘に消極的であったことを詫びたのである。こうして父・義重が家名を守るため奔走する中、義宣は水戸城から動こうとしなかったのである。「慶長六年七月二十四日、是ヨリ先、陸奥会津ノ上杉景勝、越前北庄ノ結城秀康ニ頼リテ、罪ヲ徳川家康ニ謝ス、是日、老臣直江兼続
天海(217)「徳川家康ノ老臣井伊直政等、大隅富隈ノ島津龍伯義久・薩摩鹿児島ノ同忠恒父子ニ答ヘ、上京シテ、罪ヲ謝センコトヲ勧ム。」(「史料綜覧」)清正は家康に義久・忠恒の叛意は明らかであると主張し、国境の水俣城に詰めていて島津攻めを企図していた。しかし如水はそれに反対し、講和を主張していたのである。慶長5年12月末、講和が進行する状況を鑑み、清正は水俣城から撤退した。清正の軍事的脅威が去り、これにより、徳川家と島津家の講和は一気に進展するはずであった。直政が示し
天海(153)「六月十日、陸奥会津ノ上杉景勝、徳川家康ノ出陣セントスルヲ聞キ、部下将士ヲ訓シ、去就ヲ決シム。」(「史料綜覧」)直江状の真贋はともかく、景勝は上洛も再度検討していたようである。ただ、条件として讒言をした者(堀秀治・直政ら)の取り調べを要求したが、家康に無視され、遂に決戦やむなしとなったのである。さて、当時上杉家は120万石であるから、120万石×300人で36,000人の動員が可能と思われる。さらに防衛戦であるから全体で5万人弱の配置が可能であったこと
3月13日、男鹿線で秋田駅へ戻る途中で下車土崎駅JR男鹿線とJR奥羽本線が合流した場所の駅なので、ポケモンGOのポケストップには奥羽本線の駅として登録されていますね。下車した理由はこれ湊城という城跡があるから。一応、遺構として土塁が残っているという話。一番下が土崎駅の西口中央やや左上の赤いジムが湊城の跡ポケモンGOのMAPと同じだ!駅を出る前にいろいろ見ると、SLの模型がいくつかありました。道路左側の木々が茂った場所が城址ここが城址現在は土