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佐渡の理科教育センターの先生方と「佐渡の植物生態・植物民俗調査会」が組織され、小木入りをしたのは昭和56年(1981)でした。新しい町や村づくり、人づくりの原点は、それぞれの町や村の”自然風土と人間”のかかわりを新たにみつけることにあります。若かった私たちは、「風土に立つ人間たらん」と燃えていました。調査の手法は「植物生態学的手法」。1年後の昭和57年81982)に『南佐渡小木の植物』(佐渡の植物第1集)が発刊され、一同わが子誕生おごとく喜びあったものでした。当時
私の「椿野帳」の千手院内ツバキヤブツバキは、佐渡南部地域に饒饒産する南方植物である。ことに西三川、羽茂、小木、赤泊には多い。濃緑の照葉(てりば)に春の陽がチカチカして、真紅な花が満開する光景は南国情緒豊かなものである。伊豆の大島にもたくさんあるが、佐渡のような大木にはならないそうだ。田切須(真野町)にあるのは周り6尺7寸もあり、北見秀夫先生(相川町・植物研究家)によれば、日本一の椿の木といえるとのこと。春3月ともなれば、そろそろツバキの花が咲き出す。暖冬の
子どもの内面を丁寧に耕そう大抵の大人が次のような経験をした覚えがあるのではないだろうか。幼い頃、外から帰ると、いつもいるはずの母親の姿が見えない。家じゅう、押入れの中まで探し、ひょっとして死んじゃったんじゃないか、とまで思い詰めて泣いていた。ほどなく帰って来た母親は「どうしたの」とこともなげに言う。母親にすれば、ちょっと買い物に行って帰って来る、それだけのことだった。でも、子供には一生忘れられないくらい不安な出来事だった。これは「子供の時間と大人の時間が随分違
自然と草木と人間と井上靖の「一期一会」は、彼にとって一期一会であった人々との出会いを綴った随筆集である。その中で、ネパール、ヒマラヤの旅でシェルパであり、自分の従者であった一少年との出会いを書いている。数十日間、ヒマラヤの旅を共にし、身のまわりの一切の面倒をみてくれたこの少年は、旅の間、朝夕、長い敬虔な祈りを捧げていた。朝夕の祈りは、少年の出身部族の宗教的習慣と思っていた井上靖は、別れの際に少年に何をお祈りしたのかと尋ねた。少年がいうには、あなたは私の主
心解き放ちて歩けば、風の匂いがわかる。風の匂いだけでなく、風の色も風の形もわかる。辰濃和男「心解き放ちてあるけば、風の匂いがわかる。風のにおいだけでなく、風の色も風の形もわかる」と、口ずさみ歩く。”心解き放ちて”とは心おだやかに楽しい気持ちになることである。そして私が私でなくなって人が人でなくなって風になることである。これは辰濃和男さんの教えである。辰濃さんは昭和5年、東京生まれ、朝日新聞に天声人語を十数年書き続け「天声人語・自然編」としてまとめられ出版さ
神すむ島1700種の植物と同居して③慶長年間に発見された佐渡金山全盛のころは、人口5万を数えた相川の町も、金山が閉鎖された今日、冬の風にさらされ、静まり返っていた。なだらかに続く坂道は、やがて佐渡奉公・大久保長安が建立した大安寺の境内へと続いていた。荒波の海を見下ろす寺の背後を覆うタブの黒森は、威厳を備えている。伊藤さんと夫人は、何百年間の堆積を感じさせる柔らかい枯葉を踏みしめ、森の中へと進んだ。「風にも、色があるんだな」と、伊藤さんの声が聞こえる。タブの林
神すむ島1700種の植物と同居して②「子供の頃は畑仕事を手伝ったりオヤジが死んでからは家の手伝いをしたり、小さい頃から手伝いばっかりしとったような気がするね」佐渡の金井町で仕立て屋を営んでいた父が急死したのは、彼が中学(1年生)のとき。終戦は17歳の時で、新潟農林専門学校(現新潟大農学部)を卒業し、島内の高校の理科教師となったのは、21歳だった。「島外に出ることは、考えんかった。弟たちも小さかったし、面倒みなきゃならんかったしな。最初の10年間ぐらいは、
神すむ島1700種の植物と同居して①アウトドア・マガジンBEIPAL文:根岸康夫撮影:北原裕司日本列島のほぼ中間、日本海にポッカリと浮かぶ日本最大の島・佐渡島。流刑の、そして黄金の島として歴史を刻んだ佐渡はまた独特の植生をもち、神と人が共生している。伊藤邦男。佐渡島の植物を調査して27年。BEIPALの『一生懸命人列伝』に選ばれた。植物は神の摂理に従って生活しているのに、「人々は自然(神)の摂理を忘れてしまった」と伊藤さん。佐渡島のほぼ中央に広がる国
新潟日報記者:鶴橋健司周囲220㌔、総面積およそ860平方キロ。この島に、生きる人間8万人。その人間を生かす。豊かな自然界ー植物で言えば、実に1700種もの草木が、人間が生きる事と同じ意味で、日々の営みを続けている。伊藤邦男金井町千種在住、昭和3年生まれの61歳。昨年、定年で退職するまでの40年間、島内の高校で生物学を教えつつ、その営みを見続け、『佐渡植物誌』(1987)という、大冊の記録に残したその40年間は、「佐渡という島の素晴らしさを、草木た
横浜市:島正夫『佐渡花の風土記』・『佐渡花の民俗』・『佐渡花紀行』などの一連の『佐渡の花の作品群』の発刊を心からお喜び申します。伊藤さんの寄稿文『佐渡花紀行』(1999)も、人間と風土について実に懇切に詳述されております。ミクロからマクロまで、佐渡の風土・特色を濃密に描写されていますので、とても興味深く通読させていただきました。私が特に感銘を受けたのは、次の箇所であります。①植物の名前を覚える以上に植物の生活をしっかりみる。フィールド活動、生態調査を20年や
伊藤邦男卒業(新潟農専・現新潟大学農学部)後ふるさと佐渡に帰り、高校理科(生物)の教員として、二十歳から六十歳までの41年間佐渡を離れることなく暮らしてまいりました。教師となったはじめの10年間は教員生活や授業に自信がありませんでした。30歳代後半、越後の友人(新潟中央高校・小林敬)に誘われ県北の海岸植物やススキ草原の生態調査に参加いたしました。講師は千葉大学の植物生態学者の沼田真先生(日本自然保護協会会長)。この2拍3日の調査で私は目からウロコが落ちた思いがいたしました
盆に迎える秘めた信仰文:浜口一夫絵:高橋信一ミソハギの花のことを盆花といい、昔は盆の12日ごろ野山に出かけ迎えてきた。この盆花迎えのことを相川町南片辺ではハナカリといい、同達者ではハナトリといった。「盆花は七へん花をつける」といい、野の田のくろの盆花などの夏のはじめのあど草かりにかりとっても、すぐ伸びて花をつけたという。盆花迎のハナカリのとき、山萩の花も一緒に刈りとってきて、南片辺などでは水おけに生け、まわりをていねいにゴザでかこんでおいたものだという
”聖なる木”へ信仰寄せる文:浜口一夫絵:高橋信一佐渡の白椿という昔話がある。昔あるところに二人のあきんどがあった。連れだって旅商いに出る。歩き疲れて一休みする。片方の男がその場にねぶる。すると鼻めどからアブ1匹とび出し、佐渡島の方に飛んでいき、しばらくすると帰ってきて、またもとの鼻めどに入る。男はクシャミして目を覚まし「佐渡島にごうぎな庄屋があって。庭の白椿の根っこに金がめをふせている夢を見た」と話す。一方の男はその話を聞き、その夢を300で買い取る。そし
にじむ西日本との交流文:浜口一夫絵:高橋信一6月に入ると柿の花がこぼれはじめる。わが家の裏にも柿の木が1本ある。家を改築するとき、地所が狭いので他の柿は切り倒したが、裏の片隅の1本だけは残しておいた。あまり枝葉が繁ると他の庭木の邪魔をするので、こぢんまりと毎年剪定するが、時期がくると花が咲き実をならせる。柿の花のこぼれ落ちる音は、耳をすましていると、ホロンとかすかな音をたて、ぽろりと落ちる。落ちた花は尻がふっくらとして、四角い花唇と開き愛らしい。柿は
アジサイバナがまる?文:浜口一夫絵:高橋信一梅雨のころさくヤマアジサイは、梅雨のうっとうしさを忘れさせてくれるほど美しい。そしてそのころ梅雨に身をふるわせて咲くツユクサやドクダミの花もいとおしい。関ではヤマアジサイ(又はエゾアジサイ)をアンサバナという。昔、関・五十浦・矢柄の人たちは、カエゴト(物資の交換)に関越えして馬首へ抜けた。当時の海府の人ぼとは、このほかに黒姫越え・大倉越え・石名越え・小野見越え・アオネバ越えなどを利用していた。さて、その関越
童歌やざれ歌にも登場文:浜口一夫絵:高橋信一アケビの花が、むらさき色の花を開くのは4月なかばすぎである。よく見るとめしべの先に、ぬるぬるした粘液がついている。昔の子供たちは、このめしべを手のひらに乗せ、とんとん手をたたきながら、次のようなわらべ唄にあわせて遊んだ。アクビのトウトウたてたてねまれアクビのトウトウたって田ぁ打って、ねまって粉をすれ、アクビのトウトウたてば田ぁ打って、ねまれば苧(お)をうめ、アクビのトウトウミノ着
小川シャリンバイ文:児玉宗栄絵:渡辺吉丸相川町小川部落の海岸に、マルバシャリンバイの大群落がある。白い可憐な花にも似ず、その根は堅い岩盤をうがって伸び、岩の中から養分と水分を吸い取って生きるのだという。むかし、佐渡金山の数ある山師の中に、小川部落出身の山師がおった。その人夫の中に権八という若狭からきた男がおった。油煙で煙るタヌキ掘りの穴の中は暗かった。ろうがい(結核)ではないが、石の粉を吸い込むので、血を吐いて死ぬものがかなりいた。働き者の権八は、
八専三郎文:児玉宗栄絵:渡辺吉丸むかし、赤泊の村に、八専三郎という大そう力持ちの若者がおった。毎日山へ入って竹を切るのをなりわいとしておったが、相撲が好きで、方々の草相撲に出ては勝ってばかりおった。そのころ、海を挟んだ越後の寺泊に、土用五郎というこれまたたいそうな力持ちの男が住んでおった。三郎は、この越後一の相撲取りと、どうしても一度勝負をしてみたくてたまらなかった。母親は、三郎に力がつくように赤飯を食べさせて、まさかの時のためにナタを持たせてや
大野亀かんぞう文:児玉宗栄絵:渡辺吉丸大蛇と娘の曲が混じって流れている大野亀のかんぞうの花を、昔は「ようらめ」と呼んで、村人はだれも手折ろうとはしなかった。むかし、願の村に一人の美しい娘をもった貧しい百姓が住んでおった。大野の藪原を切り開いて畑にしようと、汗流して働いておった。しかし、石ころばかりの荒れ地で、百姓はため息をついてつぶやいた。「だれかこの大野の原を耕して畑にしてくれる者はいないかなあ。そうすりゃ娘をくれてやるんだがなあ」ところが、この言葉
きまぶり銀杏文:児玉宗栄絵:渡辺吉丸新穂村大野清水寺境内の近くに、「きまぶり銀杏という佐渡1おおきいいちょうの木がある。太い幹からはオッパイのような乳頭がたくさん垂れ下がっているが、この木は雌ではなく雄だという。不思議な事に、最後の一葉だけは、そのまま地面に落ちないで、はるかかなたへ飛んでいくという。むかし、清水寺の近くには、寺の作男の家が何軒もあった。その一軒に、美しい娘が住んでおった。ある秋の名月の夜、娘は小窓の月を眺めながら床についた。う
御番所の松文:児玉宗栄絵:渡辺吉丸両津欄干橋のふもと、郵便局の裏手に、枝ぶりのみごとな老松がある。今は「村雨の松」という立て札を立ててあるが、昔は「御番所の松」といい、切ると幽霊が出るという伝説の木であった。江戸時代ここに海上を見張る御番所があって、3人の役人が勤務しておった。そのうち一人が若くて、大そうな美男子であったので、町娘のあこがれの的だった。掃部(かもん)おマツも足しげく弁当を差し入れた一人だった。お松は加茂湖を挟んで反対側の村に住む庄屋の娘
カンゾウ文と絵:萩原真理子日没ー潮がさし潮が岩礁にあふれ、/岬の上の空に陽が静止し、/みるみるその朱がひろがり、突然、陽が沈み、/残照が焦がしている雲と波。私はなすこともなく立ち止まり、/ふかい藍のなかに空と溶けあう沖を見やり、/岬を焦がしている残照をわが焦燥の如く/じぶんが変身できるのか如くに感じ、懐かしい者みな去っていくことを、/ついに不毛に終わった私たちの歳月のことを、そして/私だけにこの熱い夕暮れが訪れていることを、岩礁にあふれる潮に似た悔いにみ
イブキジャコウソウ文と絵:萩原真理子山の田圃を見おろして行くあの細みちの/あの同じ場所一面に、/ことしの夏もかわらずに/この伊吹麝香層草はこぼれるように咲いてた。私たちにななたびの/なつかしい夏の思い出の草は/つぶつぶの葉、針のような蔓、/うす紫の細かな花をこまかに綴って、/摘めばつんと鼻をうつ/爽やかな匂いの霧を噴くのだった。押葉となって手紙の中に萎えてはいるが、この高原故地の花の発するは、/誠実な心のように、歌のように、/あわれ流寓7年の永いよしみ
ツユクサ文と絵:萩原真理子8月なかば。盆山背風が吹き始めると、夏は終わりだ。北東の風が湾を抜け、海は濃さを増してとがり白波が立つ。山にはハギの花が咲き、アキグミの実が熟す。秋はしづかに手をあげ秋はしづかに歩みくるかれんなる月草の藍をうち分けつめたきものをふりそそぐわれは青草にすわりてかなたに白き君をみるー室雨犀星「月草」-犀星は愛のない生い立ちと環境の中で、職場の上司に俳句の指導を受けたのがきっかけで詩にめざめた。「月草」は『抒情小曲数』2部の1編。
ヤマユリ文・絵萩原真理子キリの花の香りが漂っていた昼時。それは、あっという間の出来事だった。煮えた汁をわんに盛り調理台に置いた時、傍らにいた1歳半の子が手をのばし、わんのふちに指をかけた。わんは傾き、汁が右腕を伝った。見る間に、腕の皮がちりちりと縮んでむけ、子は形容し難い悲鳴をあげた。泣き転がる子。電話にとびついた。非常を察したタクシー会社は、すぐ車をまわしてくれた。医者は、幼子のやけどにまゆをひそめ、跡が残るかもしれないと言った。私と子どもと
コブシ文と絵:萩原真理子山なみ遠に春はきてコブシの花は天上に雲はかなたにかくれへどもかへるべしらに越ゆる路ー三好達治ー山の雪がまだらになって、さまざまな輪郭を描く雪消えのころ。芽吹きはじめに雑木林に点々とコブシの花が咲く。高木の幹から分かれた沢山の枝先に純白の花を開き風に揺れる。残雪の中に腰をおろして、遠くの山の斜面に浮き立つ白い花びらを眺めていると、きまって思い出すことがある。以前、勤めていたH学園での出来事だ。北国の春は遠い。3月に入っても雪
冬の花文:赤塚五行今年は思ったより早く冬が来た。それも、あっという間に積もり、一夜にして白い世界となってしまった。そんな寒く白い世界にも、それを待っていたかのように花をつけるものがある。山茶花、ヤツデ、枇杷の花など、なぜか白い花が多い。冬の花で私が一番好きなのは、柊の花である。木編に冬と書くから、冬の木の代表というようなことはなく、柊に花が咲く事自体、知らない人も多いと思う。小さいころ、あののこぎりのような歯のような歯の痛いところを2本の指で持
花二題文:赤塚五行長い間、気になっている木と草があった。一つは昔から木の実の味は知っているが、その木の名前も、どんな花が咲くのかもわからないもの。もう一つは反対に、花の名前はわかっているが、どんな花なのか、全く分からないものであった。その気になれば、身の回りの植物の本はたくさんあるし、植物に詳しい人もたくさんいたのだから、調べてみるほどは、気にしていなかったということになるのだろう。どちらも数年前にわかったが、思い続けた木と草だけに、すばらしい名前で
花時雨文:赤塚五行一昨年、花時の吉野を、山本健吉先生のご家族と訪れる機会があった。同行するのは、俳誌「河」の角川照子主宰、春樹副主宰、そして若手の俳人が10人ほど。吉野山も下千本、中千本と見て、上千本の花矢倉の展望台に休んだ時、そのあまりの絶景に、ためいきにも似た言葉が出た。よく覚えてないが、多分、「すごい」とか、「すばらしい」とか、ほんの一言だったと思う。ちょうどその時、私のそばに照子主宰がおられ、「五行さんの声、きょう初めて聞きました」
冬の使者文:赤塚五行10月の北海道旅行ということでセーターを用意したが、結局腕をとおすことはなかった。特に10月10日の体育の日は快晴で、上着もいらないほどだった。俳句の大会は二泊三日で行われたが、私は8日間の休みをとり、大会の前後ゆっくり道内に遊んだ。私は晴男で、旅行で雨に遭うことは滅多にない。もし雨になるとすれば、私よりパワーの強い雨女が同行しているということだろう。大会の前日、支笏湖を訪れたとき、湖に近づくにつれて霧が濃くなった。色鮮やかな