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長州の子には抗議文を送らせていただきました。山口県知事と日本会議や青年協議会には九州出身者が多いというわけで、九州地方知事会にも追って見解と意見を仰ぐ手紙を送らせていただきます。
英雄たちの選択「斎藤一」を見ました。この放送を見て、妄想を語ります。斎藤一はいいところの商家の二男か三男あたりだったかも。そこで「南総里見八犬伝」に触れて、剣術道場に通い始めるかも。その道場も神道無念流で、人を殺めて改姓するも山口から斎藤に改めたのもその影響かなって。浪士組に始めからいないことから、近藤勇とは距離があったかも。どちらかと言えば、会津藩に雇われたという意識で、大将は近藤勇よりも会津藩主・松平容保だったかも。南総里見八犬伝の影響で、忠義を尽くす。その後戊辰戦争
ブログを書くor読むどっちが多い?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう同じくらいですね、皆さん読んでても楽しいブログが多いです…(^^)「点字ブロックの日」1967年(昭和42年)世界で初めて岡山市中区の岡山盲学校の近くの原尾島交差点に「点字ブロック」が設置されました…🚥現在その交差点近くの緑地帯に「点字ブロック発祥の地」の石碑と「当時の点字ブロックのサンプル」「点字ブロック完成の歴史」を印した副碑と共に「点字ブロック世界初敷設場所」と記した石版も設置されている
ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。歴史ランキングにほんブログ村いつも応援ありがとうございます。1868年8月23日から始まった会津鶴ヶ城攻防戦。日光口、白河口など各地に散っていた会津藩兵で間に合って入城できたものは千数百人にすぎませんでした。藩士の正規兵で3500人、庶民の強制動員も含めて9400人いたとされる会津軍ですが、ほとんどの兵力は軍事用語でいうところの遊兵と化しました。新政府軍の包囲
私が「西南の役」の話をしだし、ひよちゃん「せいなん?」ミクたん「せいさんの駅?」と、話が噛み合わない。そりゃ幼女らにはわかるまいて。(これは後半で私が平泉成さんのモノマネをしてたので、その前振りでした)そこを左に行けば”南阿蘇復興公園”へと続き、佐川官兵衛討死之地碑がある。新阿蘇大橋展望所(ヨ・ミュール)の看板には、”西南の役戦跡公園”とあったはず。「西南の役公園ってあるぞ」と動画の中で私も言ってた。たぶん同じ場所だと思うが、、。「ここでも西南戦争の激戦地が
九州の新選組研究家・古賀茂作さんから『歴史道』の贈呈を受けました。表の見方に「他の研究者に先駆けて発掘していた『有栖川宮日記』『維新階梯雑誌」』とありました。データ上平成25年公開となっており、その時、古賀さんが開示請求をして閲覧されたものと思われます。私は後に、仁和寺宮進軍とか色々なことを調べるうえで、宮内庁宮内公文書館で史料検索しました(佐川官兵衛執筆にあたり必要)。木戸家文書も必要でした。ただ、そのうち検索キーで何も見つからず、松平で検索したら『維新階梯雑誌』を見つけるに至った
南阿蘇村河陽に所在する佐川官兵衛討死之地です。文化財の指定は受けていません。会津藩家老として戊辰戦争で活躍した佐川官兵衛。「鬼官兵衛」と呼ばれるほど勇猛で戦上手だったそうです。官軍に降伏後は謹慎するもその後、警視庁に出仕し、西南戦争の時には警視隊として参戦しています。大分から現在の南阿蘇村まで進み、二重峠の薩軍と戦った際に、胸に被弾し戦死しました。※写真は2022年5月撮影
西南戦争の話の前に。ウクライナ・ロシア戦争が始まって1年。幼い子や女性・老人、一般市民が夥しく戦死しているのに。ええ?反撃能力?防衛費増税?そして誰しもうすうす気付いてる。なぜ最近は話題にしないのか憲法9条を。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と、明記されているのに。そして、なぜウクライナもロシアも、政治家や軍の首脳の戦死はないのか。死ぬのは、兵卒と一般市民だけなのか。◆1877年(明治10年)、九州を中心に戦われた国内
阿蘇だぁ~!世界一のカルデラだ!「世界一カルデラ」というイメージが、幼い頃から長く私を誘っていた阿蘇山へ、ついに来た!外輪山がきれいな平行線をなしている。阿蘇山のカルデラは南北25キロ、その円内に5万人も住んでるそうな。なんだ?この山、円墳じゃないわな。見えたぞ!噴煙あげてる!幾重にも重なる火山灰の地層を見ながら、火山灰ソフトクリームを美味しくいただくも、しまった!写真撮らず。「火山灰、少し混ぜてあるんですか?」「!!!(バカカジジィ)
明けましたね、2023。今年もつたないブログを、よろしくお目通しのほどをお願いいたします。遅ればせながら、2022訪問史跡の中から、感動感嘆の地、皆様方にぜひぜひお奨めしたい地ベスト3としてまとめました。其の一大和三山天香具山から大和三山・畝傍山の眺め(奈良県)今年は、畝傍山・耳成山にも登りたいと思ってます。其の二山中鹿之助幸盛幸盛寺墓所(鳥取県)と月山富田城(島根県)▼月山富田城本丸からの眺望近い将来、大河ドラマ「山中鹿之助」または、「尼子九勇士」なんてのを観
夏休みに入って暑い日々が続いていますので阿蘇の高原へ涼みに行きたくなりました。ちょうどトロッコ列車が走っているということで南阿蘇鉄道の写真を撮りに行こうと思い立ちました。ただ南阿蘇鉄道は2016年4月の熊本地震によって大きな被害を受けて現在も高森~中松間を走るのみです。来年の今頃には全線復旧していると思いますが応援する意味でトロッコの切符を予約しました。南阿蘇鉄道の高森駅に着きました。お洒落な駅舎ですね。南阿蘇鉄道のトロッコ列車は通常は立野までですが一昨年の水害で復旧作業中のため現在は中松駅ま
『愚直に生きた上巻』(歴史春秋社)が出版されてから1か月となります。史料・全集のカテゴリーにおいては、ベストセラー6位となっています。この位がいいのかもしれません。『史料集成斎藤一』は即1位、しかし、絶版在庫切れとなっては悲しい。増刷されないかな。
会津鶴ヶ城を歩く。三の丸に、銃を携えた山本八重像を見、そして、「鬼の官兵衛」の佐川官兵衛の顕彰碑…。西南戦争で熊本にて、なんと官軍として戦死したという。会津戦争は賊軍だったのに、西南戦争は官軍として…か。再び廊下橋に戻り、本丸を囲む二の丸のお堀端を周回。高石垣にあらためて感嘆、このあたり、堀も深そう。蒲生氏郷時代は、廊下橋側が大手口だったという。二の丸の南方面へ。樹木雑草に覆われて石垣はよく見えない。天守の南、本丸の南西に位置する干飯櫓。さらに西へ、西出丸を守る
痛ましいロシアのウクライナ侵攻極限状態にあると思うし僕は当事者ではなく実際に現状を見たわけではないためにどこまで報道を信じていいのか分からないが虐殺に略奪、痛ましくニュースを見ると苦しくなってしまいます早く戦いが終わり、平和がおとずれてほしいと願うばかりです戦時の略奪や暴力に対して思う事。僕の好きな偉人の1人幕末会津藩の猛将佐川官兵衛(写真はネットより抜粋)会津藩筆頭家老後に警視庁大警部溝口派一刀流免許皆伝の剣客武勇に優た人情家決
以前、中村彰彦さんの『明治無頼伝』という、斎藤一さんの物語を読んだことがあります。”男!!”って感じの、硬派な作風です。中村彰彦さんは会津に関する歴史小説をたくさん書かれていますね。ライフワークなのかな?たくさん資料を調査されているようで、すごく詳しい。この本の主人公はその中でも知る人ぞ知る、戊辰戦争時に猛将としてその名をとどろかせた、会津藩士の佐川官兵衛さん。幕末会津藩に関する物語を読んでいると、脇役としてちょいちょいその名が出て来て気になっていました。カッ
正月時代劇「幕末相棒伝」2022.1.3放送NHK総合こんばんは~今日はパート仕事の後、新年に録りだめた番組のひとつ「幕末相棒伝」を観ました。じつはこの番組の再生キーを押すのは2回目でした。1回まだ松の内のうちに観ようとしたんですよ。けど、出だしのところでどうしても進めなくてなんで大政奉還を成功させるために慶喜が西郷に会う必要があるわけ?とか。それをなんで永井尚志が、ご決断を!とか進言してるの?とか。土方、江戸で隊士募集していたけど、これいつの江戸行きの時?時期がズレていな
●会津人佐川官兵衛の西南戦争参戦●司馬遼太郎『翔ぶが如く』9巻104ページ士族は、かつて旧幕藩の頃、組織にもたれかかって暮らしていた。組織が彼らを衣食させ、藩体制という複雑な身分制度のいずれかに属することによって自分の社会的存在を得しめられていた。格別な個性をもった者をのぞき、普通、士族には、開明家たちが鼓吹している自主独立とか自助の精神は皆無だったといえるだろう。藩組織という彼らの保護期間が消滅した後、どの地方の士族たちも漂うような気分になった。この状態の中で、各地の士族群の中で中
幕末の武装集団の新選組は、維新の戊辰戦争を機に事実上崩壊したが、維新後もなお初期の理念である士道に忠実に生きた隊士はいる。前編では、土方歳三に従い、箱館まで転戦して生き残った島田魁ら隊士たちの一部を述べた(3月20日付日記:「幕末に無敵の強さで京の治安を守った武装集団=新選組、戊辰戦争も生き残った義に生きた武士たちの維新後:前編」を参照)。会津戦争を戦った剣豪・斎藤一箱館には転戦しなかったが、それぞれの戦場で戦いつつも維新後も生きた新選組元幹部(副長助勤)2人を忘れることはでき
『会津人群像№39』が出版されました。次のような内容です。特集リンゴ王国余市を築いた会津士魂藩主の恩賜の陣羽織に似た「緋の衣」リンゴの物語若林滋著...戊辰150年を終えてーーー白虎隊石田明夫著飯沼一元著遺稿儒教の国会津①栗城正義著=投稿=鬼官兵衛記念館を讃えて三角美冬著異国に散った「会津娘『おけい』」と
近世の古文書、触れて学ぶ歴史遺産巡りも和歌山大で18、19日参加者募集/和歌山毎日新聞参加者には同研究所が所蔵する近世の古文書にも触れてもらう。貫井さんは、京都の東寺に伝わる8~18世紀までの膨大な古文書群である「東寺百合文書(...現在の暦年はなぜ冬の1月という時期からスタートするのか?株式会社ニッセイ基礎研究所1|古代ローマの初めての暦-ロムルス暦-2|ヌマ暦3|...1|ローマ時代以前の暦2|古代エジプトにおける暦3|中国における暦4|日本における暦
長岡藩牧野家の歴代当主の顔復元新潟医療福祉大の奈良教授らが取り組み新潟日報長岡藩牧野家の歴代当主らの顔の復元に、新潟医療福祉大の奈良貴史教授(自然人類学)らが取り組んでいる。既に完成した6代忠敬に加え、7代忠利、10代...古湯温泉と上村米山佐賀新聞江戸時代、福岡・黒田藩の藩医でありながら絵をたしなみ、漢詩を愛した上村米山(1789-1852年)である◇米山はリウマチ療養のために1844年2月、この地...40年前のタイムカプセル、どこへ福井新聞当時のPTAから情報
本日、よみうりカルチャー横浜講座の初回です。ご参加の皆さま、どうぞよろしくお願い致しますm(__)mさて、記事は幕末です。150年前の本日は、慶応4年8月29日。この日、安富さん率いる新選組隊士ほかの負傷兵たちが、白石城下に到着いたしました。廿九日、白石城下に着す。(中略)仙台塩松内蔵太来り、吾宿を心付、傷兵湯治に行周旋す。(谷口四郎兵衛日記)塩松さんのお名前が登場しましたね。ここで一ちゃんが来ないことを聞いたのでしょうか。お宿を手配してく
『会津人群像№37』(歴史春秋社)が出版されました。特集・戊辰150年で斗南にも触れています。星亮一氏が対・長州談話。「明治戊辰物語」で柴五郎、雲井龍雄を書かれた二人の内容も面白かったです。そして、私は「愚直に生きた⑭佐川官兵衛」を書いております。佐川官兵衛のように、最期まで会津藩を見捨てず、退かずも希少です。ご子孫の佐川様からも色々とご協力をいただきました。池田屋事件について、佐川官兵衛の弟が入隊しており、今回も紹介しております。特集戊辰150年今に伝え
福島県立博物館鶴ヶ城の横にあります初めてきた~広い小松彼岸獅子頭会津の獅子舞は、春の彼岸に踊る事から、彼岸獅子と呼ばれています小松の獅子舞は、戊辰戦争の際に会津城内へ戻ろうとする山川大蔵の一行先頭に立って無事入場させた功績があります「八重の桜」にそのシーンがありましたね孝明天皇宸翰(複製)公家達らの不正に耐え難く対応を命じたところ、すぐに私の思い通り解決してくれた。その忠誠に感じ入り、この一箱を遣わしたのである。御宸翰ですよ
自分の為の備忘録20180724日付記録に残る人斬りは、佐久間象山のみ斎藤一さんと繋がりあり。斗南藩から東京へ警察官として一緒に行く。西南戦争も一緒に行くが、佐川さん亡くなる。忘れてはならない自分達の祖先がどのような死にかたをしたのかそれが、本当に正しい『死に方』だったのか
※この記事は2019年12月になんとか思い出しながら書いています。次は鶴ヶ城(会津若松城)に行きました。こちらにはVR体感シアターがありました。ARアプリのキャラクターが案内してくれました。あとは幕末の会津や偉人の紹介など。鶴ヶ城は戊辰戦争の後取り壊されてしまったので、今のお城は昭和40年に建てられたものだそうです。取り壊される前の、会津戦争で攻撃を受けてぼろぼろになった鶴ヶ城の写真が衝撃的でした。鶴ヶ城の本丸内には麟閣という茶室がありました。千利休の子、少庵が建てたものだとか。
こんにちは目に留めて頂きありがとうございます。いつもたくさんの方に見て頂いてたくさんの方にいいね!して頂いてありがとうございます今日の百道(ももち)地区。雨です。昨日からずっと…連休の旅行での、洗濯物を外でカラッと乾かせたいのになぁ今日も連休中のお出掛けしたことにお付き合い下さい一日目の宿が、南阿蘇だったんですがパパが行ったことのあるお蕎麦屋さんへお昼前でしたが、既に満席。二八蕎麦をゴボ天、サクサクでしたお蕎麦も、天ぷらも美味しかったぁ~テーブルに置かれたお茶
近藤勇・土方歳三の写真会津新選組記念館斎藤一(藤田五郎)の写真会津まつりの三日目には第14回「会津新選組まつり」です阿弥陀寺で開催された①会津歴史朗読会②土方歳三ご子孫、土方愛氏を講師に招き「土方歳三と会津戦争」の歴史講演会③斎藤一忌(無外流居合奉納演武)で見終わった後、どうも消化不良なのか?これで会津新選組まつりが終わり?なのか?・・・阿弥陀寺から七日町通り新選組記念館へ足を運んでいました(阿弥陀寺から三分位)(この通りを新選組通りとして各新選組のパフォーマン
昼間はブログネタで、失礼いたしました。本日は古河へ行ってきました。詳細は後日、レポしますねさて、初めて「リブログ」とやらをやってみました先日、私の記事でもご紹介した「佐川官兵衛顕彰碑」の為の募金です。記事に書きましたように「ストッキング事件」の「お見舞金」を振り込ませていただいたのですが会長さまよりご丁寧なお礼状を頂きました。ん?「募金をお寄せいただきました皆様方のご芳名は、これまで顕彰会を支えて戴きました会員各位の御名前とともに顕彰碑にその名を刻し、永く後世にお伝え