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JR九州アプリくじきっぷで当たった博多-大分・佐伯間往復切符で佐伯観光中です。佐伯城址の周囲には佐伯鶴城高校、佐伯小学校、公民館、歴史資料館など公共施設が集まっています。立派な櫓門を見た後は地域公民館のひな飾りを見学。ここは地域の方々から寄贈されたおひな様を中心に飾られています。木目込み人形?のおひな様がかわいらしい。佐伯市商工会女性部制作の顔はめ花びな。たぶん子どもが顔を出すことを想定している高さ。公民館のお隣に歴史資料館があります。佐伯藩の歴史が勉強できます。中世までは佐伯氏
九州のキリシタン大名で佐伯藩初代藩主の毛利高政は,鉄砲名人で自ら毛利伊勢守流砲術を創始した。朝鮮の南原城の戦いの時,毛利高政は城門から出てくる敵兵を770mの距離から「焔魔王」の大鉄砲で狙い撃ちし一発も外すことがなかったと鶴藩略史は今に伝えている。また,加藤清正や浅野行長らが立て籠もっていた蔚山城の救援に駆けつけた毛利高政は,七町(約770メートル)の距離から「焔魔王」の筒で砲撃し,正確な射撃により敵陣を混乱に陥れて武功を立てたと,島津家文書は記している。「焔魔王」の筒佐伯市歴史資
九州のキリシタン大名で佐伯藩初代藩主の毛利高政は,鉄砲名人だった。壮年の頃には,十反帆船一艘分の火薬を数年で使い果たしたという。十反帆船の積載量を120石として見積もった場合,その総量は約2万1600キロリットル,およそドラムカン120本分になる。わずか数年でドラムカン120本分の火薬を撃ち尽くすとは,驚ろくべき練習量である。やはり練習の成果は,人を裏切らない。毛利高政は,朝鮮の南原城の戦いで城門から出てくる敵兵を七町(770m)の距離から,全長278cmの「焔魔王」の筒で狙い撃ちし
仙台の鉄砲と伊勢守流砲術仙台藩二代藩主の伊達忠宗は,部屋住みの23歳の頃に,キリシタン大名の佐伯藩主毛利高政に入門して伊勢守砲術を学び,その奥義を授けられた。仙台藩二代藩主伊達忠宗公肖像の周りには,得意の鉄砲と愛馬が描き込まれている。今月に入り,仙台の殿様も頭を下げた毛利高政公の伊勢伊勢守砲術について,報告書を清書し出していたところ,昨日,あるブロ友さんが,毛利高政に関する古文書を手に入れたとのブログ記事を書いているのを知った。まるで,泉下の毛利高政公から「早く書け。」と
日本人は,火縄銃を得たことにより補給の重要性を強く認識したかもしれない。火縄銃は,黒色火薬,弾丸,火縄などが無ければ,鉄砲としての機能を発揮できず,単なる鉄パイプとなんら変わりはない。左から,火縄,黒色火薬,十匁玉筒用の弾丸上の三つが揃わないと火縄銃は,鉄パイプ同然特に人類三大発明のひとつと言われている黒色火薬は、硝酸,硫黄,木炭の混合物だが,正しい混合率を知らないと火薬としての性能がガタ落ちになる。そのうえ,材料を混ぜただけでは嵩比重が低く、爆発力が出ない。黒色火薬の
一昨日,阿武隈山地の高原にある山荘へ避暑に来ていたオッショサンをお訪ねした。溜まりに溜まった研究報告をお目にかけ,御指導を頂くためである。無駄に広いオッショサンの山荘敷地3000坪草刈りだけでも大変な維持費がかかりそうだ。草を刈っても,夜になるとアナグマやタヌキが遊び回り,モモンガやフクロウが飛び回る。オッショサンは憂国の人だから山荘滞在中は国旗を掲揚する。オッショサンは,前日まで,お孫さん達にイワナ釣りを教えていたとのことで,すこぶるご機嫌がうるわしかった。けっこうな数
大分県南にある佐伯市歴史資料館には,『無聖』,『閻魔王』,『四海波』,『秋風』とそれぞれ名付けられた巨大な四丁の大筒が棲んでいる。しかし,この大筒が,いかに素晴らしいものなのかを知っている人が少ないのは,実に残念なことである。この四丁の大筒は,文献資料にその存在が記され実際に使用された日本最古で最大の大筒たちなのだ。佐伯市歴史資料館で公開展示されている『閻魔王』,『四海波』,『秋風』の三丁の大筒このうちの『閻魔王』の筒は,朝鮮征伐の時に大活躍した。南原城の戦いでは,城門から出て
大分県南の佐伯市は,鉄砲名人の毛利高政の領国で,佐伯城はその本拠地である。この城は,標高144メートルの山頂に築かれた山城で,山の頂上部に鉢巻きを巻いたように総石垣を巡らせ,その上に防御構造を集中させている。山頂までは,直登ルートでも17,8分はかかり山道は狭く急である。ここを攻め上るだけで,重装備の兵は難儀したはずだ。三の丸櫓門,その後ろの山上が佐伯城本丸佐伯城の三の丸櫓門のすぐ近くには,佐伯市歴史資料館があり,ここには,今でも四頭の巨大な龍が棲んでいる。佐伯市歴
昨秋,調査した佐伯市歴史資料館所蔵の『から竜』と名付けられた十匁玉火縄銃(口径19ミリ)は,佐伯藩所蔵の鉄砲であることは,同藩の記録からも間違いない。銃身上面に「から竜」との真鍮象眼が施されている。『から竜』の鉄砲『から竜』の象嵌この鉄砲のシルエットは,中島流の鉄砲に酷似しており,火挟みを止める鋲の頭には桜の意匠が用いられ,火蓋のつまみには,穴が穿たれている。この二つは,中島流の掟通りなのである。中島流砲術の鉄砲の掟火挟みを手で上下させたところ,ゼンマイならでは
仙台の鉄砲と伊勢守流砲術伊達政宗の嫡子である伊達忠宗は,部屋住みの23歳の頃に,キリシタン大名の佐伯藩主毛利高政に入門して伊勢守砲術を学び,その奥義を授けられた。しかし忠宗は,仙台藩主となっても伊勢守流砲術を藩に定着させることはなかった。江戸時代中期には伊勢守流を学ぶ者がいなくっていたようで,享保14年(1729年)に仙台藩留守居役谷田作兵衛が,伊勢流砲術に関し佐伯藩に問い合わしているのである。おそらくは毛利高政がキリシタンであったこと,伊達政宗が支倉常長をスペインに派遣したこと
私は,伊勢守流砲術が仙台藩の鉄砲に大きな影響を与えたと推測している。しかし,それを証明する物的証拠が少ない。今,残っている伊勢守流砲術の鉄砲は,全長2メートル前後の大鉄砲ばかりだから,仙台の口径19ミリ以下の小銃と比較したら,誤判断する恐れがある。例えるならドイツ軍の88ミリ対戦車砲とライフル銃を比べるようなものである。佐伯市歴史資料館所蔵の伊勢守流の大鉄砲伊勢守流の仕様いろいろ調査したら佐伯市歴史資料館に非公開の口径15ミリの『から竜』と名付けられた鉄砲がある
仙台の鉄砲は,上級武士が持つ大口径(口径約19ミリ)の十匁玉火縄銃と,藩の主力装備である四匁玉火縄銃(口径約14ミリ)では,姿形がまるで違う。仙台の鉄砲10匁火縄銃と4匁火縄銃の比較上が10匁火縄銃下が4匁火縄銃仙台の十匁玉火縄銃の外形は,外記流のそれにかなり酷似している。一方の四匁玉火縄銃は八角銃身で,外形は外記流の鉄砲とはまるで違うのだ。仙台の鉄砲のうち四匁玉火縄銃などの小筒と呼ばれる鉄砲は,外記流と他の流派の鉄砲がミックスしたものと考えるのが,自然である。おそらくそ
伊勢守流砲術は,キリシタン大名の毛利高政が創始した砲術流派である。高政は,若年のころから砲術を志し,壮年の頃には,十反帆船一艘分の弾薬を数年で使い果たしたというから,よほど練習熱心な人だったらしい。高政は「これくらいの玉薬を撃ち捨てなければ,腕は上達しないものだ。」と常々語っていたという。射撃という武術は,データの蓄積がものを言う。弾丸の重さや火薬の量,風速,湿度などに大きく影響されるからだ。練習と実戦で得た経験を瞬時に計算し,その時の状況にあった狙いを定めなければ,弾は標的に当たらな
仙台の鉄砲と伊勢守流砲術仙台藩二代藩主の伊達忠宗は,部屋住みの23歳の頃に,キリシタン大名の佐伯藩主毛利高政に入門して伊勢守砲術を学び,その奥義を授けられた。仙台藩二代藩主伊達忠宗公肖像の周りには,得意の鉄砲と愛馬が描き込まれている。しかし忠宗は,伊勢守流砲術を仙台藩に定着させることはなかった。それどころか仙台藩にあっては,伊勢守流砲術は,忠宗以後は一切が不明なのである。江戸時代中期には学ぶ者がいなっていたようで,享保14年(1729年)に仙台藩留守居役谷田作兵衛が,
豊後佐伯藩初代藩主毛利高政は関が原の負け組。なのに、家康の苛烈な戦後処理の中でむしろ出世。負け組なのに生き残った代表と言えば、オラオラどうでも許さんと言うならかかってこんかい!そう大見得を切った薩摩島津。だけどわずが2万石の日田を領していただけの高政にそんな甲斐性はない。なんで生き残れたん?秀吉の全国統一の最終段階である九州制圧。このとき高政は兵員物資輸送の任に当たっている。それも海路だ。九州を攻める数十万の軍とそれを養う食料や物資を運ぶのに、わざわざ山陽道をエッ
これまでもたびたび採り上げた映画だが黒澤「乱」。冒頭、仲代達矢演じる一文字秀虎が、3人の息子たちに教訓をたれる。一本の矢はたやすく折れるが束ねた三本の矢は折れぬ。これはもともともうりもとなりが。はやくち言葉みたいやな。これはもともと毛利元就が、三人の息子たちに与えた教訓だとされている。3人の息子とは、嫡子毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景。兄弟の姓が異なるのは、次男三男には他家を乗っ取らせて毛利一族の支配下に置いたという事情だ。なにしろ全員が元就の実
「のぼうの城」という映画がある。秀吉の武将である石田光成がナントカ城を攻める。守る城主がややこしやーの野村萬齋。こっちが主役。のぼう、とは木偶の坊のこと。ボーっとしてて頼りない萬斎のあだな。光成はこの城を水攻めにする。周囲の川から水を引き込み、城を水で囲って将兵を閉じ込め兵糧攻め。寄せ手=攻める石田がわは、あとは見てるだけで良いという必勝戦術。ところが守るデクノボーはあの手この手で光成を翻弄するというストーリー。光成のこの作戦にはお手本があった。日本の戦史に名高い
※佐伯は今ではサイキだが、これは昭和30年代以降。それまではサエキ。前回の記事で私は、佐伯藩は漁業資源で大もうけと書いた。ではどんなふうに儲けたのかちょっと詳しく述べてみよう。主力商品はカタクチイワシの加工品。イリコ、チリメンジャコ、干物。長崎出島経由で清国へも輸出していた。当時は冷蔵庫なんかないから日もちするように水分のない堅干しにする。だから今でも佐伯の人々は目刺のような干物を「トウジンボシ」と呼ぶ。日本人は食べないが高く売れたのが干したフカヒレ。国内で
山繁らず候へばいわし寄り申さず候。要は山に木が繁っていないと沿岸に鰯が寄り付かなくなる、という意味。これは江戸時代の初期に、豊後佐伯藩の殿様だった毛利高政が、領内の農民に対する触れの中で述べた一節だ。これについて詳しく語ろう。前々回、今回の洪水を引き起こした一因に山の保水力うんぬんがあると書いたが、まあそんな話。高政は関が原の後に、現在の佐伯市を含むあのへんに封ぜられた。佐伯藩2万5千石。まあ小大名ってやつね。毛利という姓は長州毛利と同じだが両者に血縁関係はな
昨日(6月29日)放送された「ファミリーヒストリー鶴田真由」を見ました。先祖が新選組ということで非常に楽しみにしていました。・・・が、鶴田さんの第一声がこれ(笑)で、まずは父方鶴田家のルーツから始まりましたが、明治3年に豊後佐伯藩士だったご先祖(※)が「何か見てはいけないものを見つけてしまったために毒殺される」という、いきなり衝撃的な話。※.厳密に言うとご先祖の兄と目される人物。その後、ご先祖は同じ大分県の別府市に移り住んで網元となりますが、雇っていた網子の中に元西鉄ライオンズの鉄腕稲
星野源主演映画『引っ越し大名!』の本ポスターは赤色に決定!ムビチケ&特典の情報もエンタメステーション姫路藩書庫番の片桐春之介(星野源)は、人と話すのが苦手で、いつも書庫にこもりっきりで本ばかり読んでいるので、周囲から「かたつむり」とあだ名される引き...不易流行日本教育新聞社手塚治虫の作品『陽だまりの樹』の中に、明治維新前夜、水戸藩の碩学、藤田東湖が常陸府中藩(茨城県石岡市)の藩士・伊武谷万二郎、剣友の山岡鉄太郎(...市に文書など百点寄贈旧佐伯藩重臣の佐久間家
「応仁の乱」を知っているなら「観応の擾乱」もぜひ!学生はもちろん、ビジネスパーソンにこそ読んでほしい...PRTIMES(プレスリリース)鎧兜に身を包み、馬に乗ったサムライたちが戦場を駆けまわるという戦いは、大河ドラマのような“時代劇”かもしれません。現実的ではない、ですよね。しかし「戦乱..千利休を大河ドラマ主人公に堺市PVで要望強化へ大阪日日新聞茶道の大成者である千利休の地元・堺市で、2021年以降のNHK大河ドラマの主人公に、千利休を取り上げてもらう運動が本格化す
JR佐伯駅からレンタサイクルで、駅を出て右に曲がりそのまま直進。小さな橋を渡りすぐ川沿いの菖蒲園に沿って走ると、次の橋が見えてくる。その橋を右手に見れば、上の写真のような風景が見えていると思うが、五所明神社ここは平安時代の806年創立・・・・・。説明によると、毛利稲荷や毛利家の御先祖などを祀る神社なども共に祀る。国木田独歩館へ向かう途中で、先にこちらへ寄り道してみた。社殿に向かって左手に行けば、奥に記念物・ここでは文化財指定?となっている梛の木があった