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※この記事は、平成29年9月21日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は惰性で続いていた平成28年の大人気NHK大河『真田丸(さなだまる)』の感想ですが、ついに最終回です!だらだらとやっているうちにいつの間にか9月となり、今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』も後半に入ってしまいました笑※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。『真田丸』についての他の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:『真田丸』第49回―伊達政宗の天下取り関連記事:『真田丸』第
吉田松陰は、投夷書を書いていき、横で、金子重之助が、その文章を見ていた。やがて、投夷書は、書き終わり、【〜(中略)・・・、執事願わくば、その情を察し、その意を憐れみ、疑うことをなすなかれ。拒むことをなすなかれ。万二、公太、同じく拝呈す。日本嘉永七年甲寅三月日】、この空白の日付が、決行日になる、何日になるか、吉田松陰は、「この日を何日と書くことになるか、その日までが、神が僕達を試す、試練の期間となるだろうな、金子君」、「はい、その通りです、先生」、金子重之助は、感極まった顔で、
いやいや、プログ更新が滞って申し訳ない。しかし、そのかわりに新刊同人誌の作成作業はガンガン進んでおりますので(苦笑)。まー、私がプログ書く時は、それこそ書く内容についてガッツリ調べた上で書く&出し惜しみせずに1記事に1テーマでまとめ、続き物にしない(「武士道論」のように日本史全体を扱う通史の場合は、各時代各テーマごとに分割はしますけども)ようにしています。なので、時間も掛かるわけで。そのプログに掛ける時間を新刊同人誌作成の方に廻しているとき、当然のようにプログ更新が止まるわけですハイ。で、
私は今日の午後2時から喜多方市の熊倉公民館で「会津藩士山本覚馬」について話をしますが、とくに強調したいのは覚馬が会津藩における開明派の代表的な人物であったことです。覚馬が江戸木挽町の佐久間象山の塾で学んだことは、彼にとってかけがえのない経験となりました。そこでは、勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬も学んでいたからです。いうまでもなく象山は、吉田松陰の密航をそそのかし、それに手を貸したとして、松代に蟄居を命じられ、その謹慎が解けた8年後に京都に出かけ、一橋慶喜や会津藩のブレーンとなり、開国の必要
2月22日、川中島古戦場の次は、バスで松代駅バス停へ。バス停の一番上には真田の六文銭。鉄道が通っている訳でもないのに松代駅と言う理由は、以前ここに長野電鉄屋代線の松代駅があったから。松代駅の駅舎今はバスの待合室中も見ておくといいでしょう駅舎の裏側へ抜けると、向こうに土塁が。松代城(別名、海津城)の土塁です。松代城は戦国時代に上杉謙信と対峙するために武田信玄が家臣の山本勘助に命じて1559年から築城。(山本勘助が実在したかどうか定かではないでど)1561年の
信州の松代藩士で幕末期に活躍し、兵学者の佐久間象山氏の生まれた日です。私の知り得る事では勝海舟や吉田松陰たちに西洋の砲術、兵学を教えました。暗殺したグループの中に「るろうに剣心」のモデルになったと言われる「人斬り彦斎」こと河上彦斎がいたそう。幕末の話を聞くと日々、やる、やられるって言う気持ちで過ごしていたと思うともっと知りたいと思います。ではまた。
池田屋から御池通の反対側へ。直ぐに長州藩邸跡でした。桂小五郎像がありました。確かに池田屋からのこの距離、皆が集まるまでちょっと戻って待つか、という距離ですね。そして、ホテルオークラを回り込むように「その場所」へ。大村益次郎遭難の地!すごく立派な石碑でした(向かって左側)。このように高瀬川の対岸から見るようになってたんですね。そして、その5年前には佐久間象山が暗殺された地でもありました。碑が並んでました。今では高瀬川の流れが気持ち良いすごくいい場所。その日の朝
今年の豆まきは長野県松代市象山神社に伺います🫘地元の新聞にもご掲載いただいたようですが、4年ぶりの豆まき行事となります近隣の方々、ご一緒に豆まきいかがですか?午後1時半から受付です。また、豆拾い無料で参加出来、豆まきには初穂料が必要です✋(ˆ̑‵̮ˆ̑)福升、粗酒、粗菓子、福豆など頂戴出来ます。天気が良いといいな(*^^*)2023年長野ミス酒の中島菜々さんもご参加予定と聞いています。境内にある佐久間象山先生の門下生の銅像は見応えたっぷりです。銅像のご披
115.今津朝山鷲神社・延命寺の見どころ迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)で見ると今津の街並みがまず鷲神社の参道に沿って直線的に形成されていることが分かる。12月の酉の市では明治末年まで参道から境内まで安行(愛知県)の植木屋などがはるばるやってきて露店を構え、お正月用品を買いに近隣から客が列をなして連日押し寄せていたという。相撲興業や見世物小屋もあってその賑わいぶりは遠く江戸まで届いていたらしい。今津の集落は房総往還(右側の現在の地図では右下隅の黄色線)からかなり離れており、五井と
今日は今年の仕事納めでした。最終週も今日を除いて地獄の忙しさで残業連発でした。さて、今年の仕事は今年のうちにということで、県歌『信濃の国』の解説および考察もついに最終回です。では、5番の歌詞を見てみましょう。【訳】旭将軍と呼ばれた源義仲も、仁科の五郎信盛も、太宰春台先生も、佐久間象山先生も、皆、信濃の国の人であり、学問武芸に非常に秀でています。その高名は山のように聳えて人々が見上げるほどで、川の流れのように尽きず忘れ去られることは無いでしょう。【解
妙心寺境内の西側に位置する大法院(だいほういん)は、1662年に松代藩主であった真田信之の孫・長姫が信之の遺命で菩提寺として創建したと伝わり、境内には松代藩の真田家一門や兵法学者佐久間象山の御墓があります。開祖は淡道宗廉、寺名は信之の法名にちなんでいます。当初は妙心寺四派の東海派に属していましたが、後に龍泉派に属するようになりました。紅葉委や新緑の名所としても知られています。客殿から望む庭園は、四畳半の草庵風茶室「有隣軒(ゆうりんけん)」に至る外露地、中露地、内露地に分かれた露地庭園や庫裏内の
使用機材紹介OMSYSTEMOM-5PanasonicLEICADGVARIO-ELMARIT12-60mmF2.8-4.0ASPH.POWERO.I.SM.ZUIKODIGITALED75-300mmF4.8-6.7II撮影日2023年12月6日長野県長野市松代町松代佐久間象山とゆう人物を知っている人はどれくらいいるのだろう。ウィキペディアでは久間象山は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。通称は修理(しゅり)、諱は国
最近の日本では「男より女の方が優秀な人間が多い」とよく言われる。学問に於いては特に顕著である。その理由として、女の物事へ愚直に取り組む性格が、学問を極める為に重要な要素であると人は云う。なれば、建国以来二千有余年、我が国の知識階級は女が多数を占めていたのであろうか。答えは否である。巷では、近頃まで女の社会的地位が比較的低かった事を此の理由としている。詰まるところ、近頃まで女が学問を志す事は社会的問題が絡んでいたという理屈である。勿論、其れも大きな理由ではあると思う。然し乍ら、私は此の
門前仲町へはよく行くのに永代橋方向へは行ったことが無いのでどんなものかと歩いてみた。来年の新しい紙幣の1万円は近代企業を確立した渋沢栄一、埼玉県深谷市生まれだが明治9年にこの地に屋敷を購入して本宅としたそうだ。その跡地は広い。公園と後ろのビルの辺り一帯が渋沢栄一宅跡地。渋沢シティプレイス永代というビル。ビルには渋沢倉庫があり、その由来が。佐久間象山とは歴史の教科書に出てくる人で、信州・松代藩の屋敷があったこの場所で砲術塾を開いていたとある。赤穂浪士が吉良邸に討ち入り本懐を遂げたあとに
受付で手続きを済ませ、⛑ヘルメット装着。入壕料無料。ここから入る。見学できるのは500mちょっと。重苦しい雰囲気…、中は涼しい。舞鶴山(まいづるやま)(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山(みなかみやま)、象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10キロメートル余りに及んでいます。ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。第二次世界大戦の末期、軍部が本土決
…多かった事から、大村益次郎・佐久間象山・本間精一郎の遭難地碑が建つ通りは?「木屋町通」は元、鴨川の河原で、慶長19年頃成立した。通りに面して長州藩や土佐藩の屋敷が建設されていた為、幕末には家臣団の居所が営まれた他、殺傷事件も度々起きた。佐久間象山・大村益次郎の遭難碑は木屋町御池上ル、本間精一郎のそれは木屋町蛸薬師下ルに位置する。
俳人中川四明として知られる中川登代蔵は、京都西町奉行与力下田耕助の次男として嘉永三年(1850)二月二日に生まれました。生後間もない同月十五日に二条城御門番組の南城番組与力中川萬次郎(重興)の養子となっています。幼名を勇蔵といい、のちに登代蔵と改めています。諱(いみな)を重麗(しげあき)といい、明治五年(1872)、二十二歳の時にこちらを本名と定めています。兄弟は、長兄と思われる人物に『京都武鑑』に実父下田耕助と共に名前が記載される扇太郎がいるほか、弟に六蔵(耕助の四男)がおり、六蔵は
典厩寺と妻女山をあきらめ、松代まで戻ってきた。↓松代城下通り取りも敢えず、松代城跡の南まで戻ってきた。松代城の攻略は、わずか30分で行わなわねばならない。↓松代藩文武学校の門1855年(安政2)に開校。佐久間象山らが教鞭をとった。現在までほぼ開校当時の建物が残る。国史跡。↓旧白井家表門1846年(弘化3)建てられた長屋門。現在地の東南にあったものを移築保存。この辺りに佐久間象山像があるはずだが、有料エリア内か。また、一つ東の区画、真田公園内に真田信之像があるのだが、失念して
金曜日の夜、2000にコテージ着。上田に住む93才の大叔母に会いに行くので、横浜からよりちょっとだけ近くなるコテージに前乗りした。8月は暑すぎ、なによりバイクが不調で入院、前週は台風接近。寒くならないうちに、とこの週末になった。写真は多いし長いけれど、お付き合いください。翌土曜日は0600に出発予定。大叔母と昼食をともにする約束なので、昼頃着のつもりでよゆうをもって時間を設定。夕食後シャワーを浴びてすぐ寝た。おそよう!起きたら0620。ダッシュで朝食を済ませ、0655
松代への旅、松代城~真田邸・文武学校へ行った後。象山神社と記念館へ足を運びます。なお、松代といえば大本営跡地ですが、疲労困憊して立ち寄りませんでした。(笑)また行きます、いずれ…(-_-;)まずは象山神社へ。佐久間象山の像です。この格好で大河ドラマにも出ていた記憶が。(石坂浩二が演じていたかな)神社自体も立派ですが。この、象山を囲む人間模様が垣間見れるこの像たち。吉田松陰と小林虎三郎。象山の殿様だった名君幸貫公像。こちらは象山その人。勝海舟像。
幕末の先覚者佐久間象山佐久間象山(さくましょうざん、地元では「ぞうざん」と呼ぶのが一般的らしい)は信州松代藩士で、幕末を代表する思想家です。彼は儒学(朱子学)に加えて洋学(蘭学)を学び、西洋兵学とくに砲術の大家として有名で、その進んだ思想から「幕末の先覚者」と呼ばれています。注目すべきは象山の門人で、勝海舟(妹が象山の妻)、吉田松陰、橋本左内、坂本竜馬、中岡慎太郎、河井継之助(長岡藩家老)、小林虎三郎(長岡藩士、米百俵で有名)、山本覚馬(会津藩公用人)、真木和泉(久留米水天宮神官
…遭難の碑が立つ松代藩士は誰か?元治元年6月、前年の8/18の政変で失脚した長州藩は、勢力回復を目指して率兵上京して、洛南伏見・洛西嵯峨・同山崎などに布陣し、禁裏に嘆願を開始した。当時招聘(ショウヘイ)され在京していた信濃松代藩真田家臣「佐久間象山」は、万一に備え天皇の近江彦根への遷幸を進言した。これに反対する勢力が木屋町三条付近で象山を襲撃、同御池下ルで絶命せしめた。
NHKラジオ第1新日曜名作座毎週日曜午後7:20~7:502023年8月27日放送「お順」第2回原作:諸田玲子【あらすじ】激動の時代に舵をとった勝海舟の妹であり、佐久間象山の妻であった一人の女の、意志強く愛情にあふれた波瀾万丈の人生……。幕末から明治に時代が移る時、戊辰戦争で西郷隆盛を説得し江戸城の無血開城に成功した勝海舟は、今年2023年、生誕二百年を迎える。その勝海舟の妹で末っ子のお順は、愛らしい容姿とは裏腹に父親譲りの大胆にして奔放な面を持つ。結ばれるなら
長野市の象山神社に行ってきました。かの有名な幕末の思想家、佐久間象山を祀っています。読みはしょうざんではなくぞうざんです。入り口にある佐久間象山先生の像です。おーい竜馬では西洋産の白馬にまたがり、ろくに共をつけずに出歩く様子を勝海舟から目立ちすぎて危険と咎められるシーンがありましたね。その後史実通りに河上彦斎らに暗殺されてしまいました。どこの池でも気配を感じて寄ってきますね。飼い慣らされております。おまけの松城範8代藩主真田幸貫公です。佐久間象山を抜擢した名君です。寛政の改革で有名な松平定
今回は、東静岡駅から40分ほど移動し墓参りです。蓮永寺にあります、勝海舟の実母信子と妹で佐久間象山の妻順の墓参りです。信子の写真が、無いようです。順の旦那佐久間象山勝海舟は、象山塾の門下生です。順子勝信子とは勝海舟の母信子は、気丈な女性でした。夫・小吉の死後、順子が佐久間象山に嫁ぐ際も、信子が象山を気に入り、貴方になら娘を差し出しても良いと言ったと伝えられています。勝順子とは天保7年生まれ。勝海舟の妹。嘉永5年佐久間象山と結婚。象山が暗殺されたのちは順子か
高橋眞人さんの投稿をシェアいたします。以前から興味を持っていた佐久間象山。幕末期、天才と言われ、吉田松蔭や幕末の志士達に大きな影響を与えた思想家で兵学者。現在聞いても古くなっていない思想だろう。特に以下の下りは、今の日本には必須の事だろう。「兵は国の大事、死生存亡のかかる所である。成算なくして、みだりに兵を動かす者は、国家と国民の生命をあまりに軽く考えている。政治とは人で決まるものなのです。その才を有するものが一人おりますれば、一国の政治は一気に好転いたしましょう。たとえ完全勝利を得
対話検索型人工知能のbingchat、本日も引き続き、対話結果を掲示していきます。第1の話題は、吉田松陰についてです。吉田松陰は、教育者あるいは実践家と捉えがちですが、思想家としても、全くのオリジナルではないものの「大和魂」と「日本人」を完成させたという、評価になります。ただ教え子が明治維新をけん引したことで、過大評価になっている面はあります。似顔絵は、似てないですね。第2の話題は易占(易経)についてです。易は占いで、科学ではないですが、b
「良識ある人は、間違いがないということを重んじるのではなく、間違いに気付いたならば、その間違いを改めることを重んじるのである」(佐久間象山/幕末の兵学者)社長であろうが、上司であろうが、間違いは認め、謝った上で正す。リーダーたるもの、何ごとも率先垂範して行うのがリーダーたるゆえん
人財づくりの環境は四点【廃棄物・再生資源・浄化槽・脱炭素・SDGS・環境】幸せな経営者になるために896人財づくりの環境は四点☆船井総合研究所:幸せな経営者になるために896➔船井総合研究所:創業者船井幸雄の言葉より:いままで吉田松陰及び小林虎三郎の人財づくりのコツをご紹介してきました。今回は、人財をつくる環境についてご紹介します。結論から申し上げますと、その環境は以下の四点にあるように思われます。1.「自由」2.「安心」3.「希望」4.「認知」次回それぞれについて解説いたします
民度の高さはただ一つ教育にあり【廃棄物・再生資源・浄化槽・脱炭素・SDGS・環境】幸せな経営者になるために893民度の高さはただ一つ教育にあり☆船井総合研究所:幸せな経営者になるために893➔船井総合研究所:創業者船井幸雄の言葉より:前回のコラムでは吉田松陰の師:佐久間象山「人に教える前に&一体化」をご紹介しました。今回は、佐久間象山の弟子:小林虎三郎についてご紹介します。佐久間象山には、吉田松陰の他、もう一人優れた弟子がいました。それが越後長岡藩大参事の小林虎三郎です。長岡もまた、萩同様