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長崎旅行の続きです。引っぱってすみません。記事を一度に書き上げる時間もなく…(^^;。午後からはハウステンボスをあとにして、佐世保要塞に向かいました。レンタカーを借りるなら、長崎の観光もしたいってことで、1日目は稲佐山に行ってみました。夕方からハウステンボスを楽しんで、ハウステンボスで1泊して、2日目は午前中だけハウステンボスを楽しみました。そしてまた観光タイムです。佐世保要塞は娘が行ってみたいとのことでした。ラピュタ感のある場所として、なんとなく私も知ってた場所でし
佐世保はこれまで軍港として発展してきました。そして、佐世保軍港の防備のため設置された大日本帝国陸軍の佐世保要塞1891年(明治24年)から佐世保軍港の防禦計画の検討が始められ、1893年(明治26年)2月に防禦計画が決定されましたが、日清戦争開戦のため工事が開始されたのは1897年になってからです。砲台建設は、1897年(明治30年)9月、高後崎砲台・面高堡塁から開始され、1901年(明治34年)11月までに当初計画したすべての砲台が竣工しました。そのうち、今
[佐世保鎮守府]前畑火工工場効力検査場長崎県佐世保市干尽町前畑火薬庫群明治21年5月に完成した前畑火薬庫。創設当時の前畑火薬庫は2棟の火薬庫で構成され、中央の兵器廠で製造した兵器類を保管する武庫に所属していた。前畑火薬庫は創設以来拡張が繰り返され、現在の形となったのは昭和15年頃。その頃には第2火薬庫一帯は佐世保海軍工廠前畑火工工場となっており、前畑火薬庫に保管していた火薬類を砲弾などに填実する作業を行っていた。*昭和8年(1933)、前畑火薬庫まで引込線(鉄道)を開通させ
[佐世保要塞]前岳堡塁④穹室(カポニエール)長崎県佐世保市横尾町前岳堡塁起工:明治33年4月24日竣工:明治34年11月23日備砲:12センチ加農砲×6門(3座6門)、15センチ臼砲×4門(2座4門)※7センチ可能砲×2門も配備?標高:12K→317メートル、15M→306メートル任務:大野村十福寺南方の高地方向より、中里村方向に亘る前面の地域を射撃することを目的とす。廃止:大正2年廃止決定→昭和4年6月14日全部除籍出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞
[佐世保要塞]前岳堡塁③12K①②長崎県佐世保市横尾町前岳堡塁起工:明治33年4月24日竣工:明治34年11月23日備砲:12センチ加農砲×6門(3座6門)、15センチ臼砲×4門(2座4門)※7センチ可能砲×2門も配備?標高:12K→317メートル、15M→306メートル任務:大野村十福寺南方の高地方向より、中里村方向に亘る前面の地域を射撃することを目的とす。廃止:大正2年廃止決定→昭和4年6月14日全部除籍出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」
[佐世保要塞]前岳堡塁②棲息掩蔽部と12K③長崎県佐世保市横尾町前岳堡塁起工:明治33年4月24日竣工:明治34年11月23日備砲:12センチ加農砲×6門(3座6門)、15センチ臼砲×4門(2座4門)※7センチ可能砲×2門も配備?標高:12K→317メートル、15M→306メートル任務:大野村十福寺南方の高地方向より、中里村方向に亘る前面の地域を射撃することを目的とす。廃止:大正2年廃止決定→昭和4年6月14日全部除籍出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞
[佐世保要塞]前岳堡塁①15M長崎県佐世保市横尾町前岳堡塁起工:明治33年4月24日竣工:明治34年11月23日備砲:12センチ加農砲×6門(3座6門)、15センチ臼砲×4門(2座4門)※7センチ可能砲×2門も配備?標高:12K→317メートル、15M→306メートル任務:大野村十福寺南方の高地方向より、中里村方向に亘る前面の地域を射撃することを目的とす。廃止:大正2年廃止決定→昭和4年6月14日全部除籍出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」
[佐世保要塞]高後崎砲台②棲息掩蔽部他長崎県佐世保市俵ヶ浦町高後崎砲台(こうござき)起工:明治30年9月13日竣工:明治31年12月31日備砲:斯加式9センチ速射加農砲×4門(砲座2)標高:12.8メートル目的:湾口に敷設する水雷を掩護す廃止:大正8年要塞整理にて廃止に分類→大正12年復活→昭和8年修正計画要領にて廃止決定/昭和10年備砲撤去(鎮海湾要塞に転用)/昭和12年2月20日全部除籍出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」高後崎砲台の
[佐世保要塞]丸出山堡塁④24K砲台と左翼観測所長崎県佐世保市俵ヶ浦町⑥丸出山堡塁起工:明治31年11月28日竣工:明治34年11月10日備砲:28センチ榴弾砲×4門(砲座2)、克式中心軸35口径24センチ加農砲×4門(砲座4)標高:28榴→116メートル、24K→137.75メートル目的:①28H:港口前より枕島方向に亘る一帯の海面を射撃し、此隣堡塁と協力して砲戦をなし、その一部を以て九十九島湾を射撃し、尚時機により港口内部を射撃す。②24K:(小首堡塁と同じ→港口前面に
[佐世保要塞]丸出山堡塁③24K棲息部と右翼観測所長崎県佐世保市俵ヶ浦町丸出山堡塁起工:明治31年11月28日竣工:明治34年11月10日備砲:28センチ榴弾砲×4門(砲座2)、克式中心軸35口径24センチ加農砲×4門(砲座4)標高:28榴→116メートル、24K→137.75メートル目的:①28H:港口前より枕島方向に亘る一帯の海面を射撃し、此隣堡塁と協力して砲戦をなし、その一部を以て九十九島湾を射撃し、尚時機により港口内部を射撃す。②24K:(小首堡塁と同じ→港口前面に
[佐世保要塞]小首地区司令所長崎県佐世保市俵ヶ浦町小首堡塁のすぐ北、右翼観測所より140.2メートル離れた小山の山頂(標高136mメートル)に、佐世保湾出入口地区の砲台/堡塁群を管轄する「地区司令所兼砲台長位置」がある。明治37年2月に日露国交断絶地区司令所は日露戦争(明治37年2月〜明治38年9月)に備えて設置された。出典:アジア歴史センター(C02030274300)留守第12師団「戦備補修工事の件」明治38年4月小首地区司令所へは、小首堡塁の6連棲息掩蔽部の
[佐世保要塞]馬川演習砲台②88式海岸射撃具観測所長崎県佐世保市俵ヶ浦町出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」、抜粋・加筆*88式海岸射撃具観測所88式海岸射撃具観測所の仕様書・1〜2層の鉄筋コンクリート造。・上部掩蓋(天井)は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ溝形鋼、観測具室は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ鋼板を菅笠のように加工、を周壁にのせる。・上部掩蓋(天井)の上にアスファルト等の防水を施し、その上にコンクリートを打設
[佐世保要塞]馬川演習砲台①兵舎跡と演習砲台長崎県佐世保市俵ヶ浦町出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」、抜粋・加筆馬川兵舎竣工:明治37年仕様:木造平屋の兵舎1棟、将校用宿舎1棟、炊事場など。用途:演習砲台廃止:昭和20年8月15日の大東亜戦争敗戦まで出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」、抜粋・加筆馬川演習砲台(佐世保要塞演習砲台)土地購入:昭和6年10月以降竣工:昭和9年?備砲:38式野砲標高:139.8メー
佐世保要塞面高堡塁④12SK砲座長崎県西海市西海町面高郷面高堡塁起工:明治30年9月10日竣工:明治33年8月3日備砲:28センチ榴弾砲×4門、斯加式12センチ速射加農砲×4門、9㎝臼砲×2門標高:28榴(28H)→72メートル、12SK→71.6メートル、9臼(9M)→74.6メートル出典:国土地理院1962/05/25(昭37)MKU627X-C6A-6、抜粋・加筆*12センチ速射加農砲座(東)の棲息掩蔽部12SK(東)砲座からみる*1
佐世保要塞面高堡塁③変則(L字型)棲息掩蔽部長崎県西海市西海町面高郷面高堡塁起工:明治30年9月10日竣工:明治33年8月3日備砲:28センチ榴弾砲×4門、斯加式12センチ速射加農砲×4門、9㎝臼砲×2門標高:28榴(28H)→72メートル、12SK→71.6メートル、9臼(9M)→74.6メートル出典:国土地理院1962/05/25(昭37)MKU627X-C6A-6、抜粋・加筆*棲息掩蔽部右翼観測所付属室(左手前)と28H右翼砲台(第1砲座)の砲側
佐世保要塞面高堡塁②左右の観測所と28H砲側庫長崎県西海市西海町面高郷面高堡塁起工:明治30年9月10日竣工:明治33年8月3日備砲:28センチ榴弾砲×4門、斯加式12センチ速射加農砲×4門、9㎝臼砲×2門標高:28榴(28H)→72メートル、12SK→71.6メートル、9臼(9M)→74.6メートル出典:国土地理院1962/05/25(昭37)MKU627X-C6A-6、抜粋・加筆*左翼側左翼観測所付属室(正面)と28H左翼砲台(第2砲座)の砲側庫
佐世保要塞面高堡塁①門柱から28H砲座まで長崎県西海市西海町面高郷面高堡塁起工:明治30年9月10日竣工:明治33年8月3日備砲:28センチ榴弾砲×4門、斯加式12センチ速射加農砲×4門、9㎝臼砲×2門標高:28榴(28H)→72メートル、12SK→71.6メートル、9臼(9M)→74.6メートル目的:この堡塁は一般首線を約100度とし、その榴弾砲は松山崎の方向より黒島方面西方に亘る一帯の海面を射撃し、比隣堡塁と協力して砲戦を成すを目的とす。而して其の軽砲は面高村近傍の海岸
バイクを積んだまま車中泊する場合の床には。アウトドアマットと3つ折りのごろ寝マットを重ねる。あとはシュラフだけで床からの底冷えもなく今回の旅中の大寒波の夜も快眠できた。もっと寒い場所なら、電気毛布をプラスしたりシュラフ2枚重ねでいけると思う。ごろ寝マット【コンパクトで便利な三つ折りタイプ!】日本製ごろ寝三つ折りSサイズ50×150×5cmグレー撥水加工ごろ寝布団ごろ寝クッションソファーマットスツール座椅子キッズスペース足元マット車中泊
いきなり唐突にN-VANの荷室の紹介。荷室に板は必須。板にクッションフロアみたいのを貼り付けるDIYも定番なんだけど。カッコいいんだけどね。バイク積むからタイヤで汚れたり傷ついたりしたら嫌だし、クッションフロアで柔らかいより固いままのほうがバイクの積み下ろしはラクだしで板のまま。【ホンダN-VANフロアパネルM】エヌバンNバンフロアマットパーツ内装床張り床張りキットフロアボードラゲッジマットカーマットトランクマットカスタム
佐世保要塞牽牛崎堡塁長崎県佐世保市俵ヶ浦町⑤牽牛崎堡塁起工:明治32年(1899年)7月26日竣工:明治34年(1901年)9月25日備砲:28センチ榴弾砲×6門(2座)、12センチ加農砲×4門(2座)、15cm臼砲(2座)×4門標高:28榴(28H)→56メートル、12K→52.6メートル、15臼(15M)→55.5メートル目的:①榴弾砲は主として七郎鼻方向より中瀬戸島方向に至る一帯の海面を射撃し敵艦うして此に假泊、若しくは徘徊せしめざるのみならず、尚時機に依り中里村北方
佐世保要塞小首堡塁②15K砲座など長崎県佐世保市俵ヶ浦町小首堡塁起工:明治31年6月6日竣工:明治33年9月12日備砲:克式中心軸35口径24センチ加農砲×4門(4座)、克式前心軸35口径15センチ加農砲×2門(2座)標高:24K→118メートル、15K→121.5メートル目的:港口前面に於ける敵艦の封鎖作業を妨げ、且つ比隣堡塁と協力して砲戦を成すを目的とし、其の軽砲を以て前進水雷を掩護す廃止:大正8年要塞整理にて廃止に分類→大正12年に復活→昭和8年修正計量要領にて24加廃
佐世保要塞小首堡塁①24K砲座など長崎県佐世保市俵ヶ浦町小首堡塁起工:明治31年6月6日竣工:明治33年9月12日備砲:克式中心軸35口径24センチ加農砲×4門(4座)、克式前心軸35口径15センチ加農砲×2門(2座)標高:24K→118メートル、15K→121.5メートル目的:港口前面に於ける敵艦の封鎖作業を妨げ、且つ比隣堡塁と協力して砲戦を成すを目的とし、其の軽砲を以て前進水雷を掩護す廃止:大正8年要塞整理にて廃止に分類→大正12年に復活→昭和8年修正計量要領にて24加廃
佐世保要塞ウグメ波止場長崎県西海市西海町横瀬郷464-9付近出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」佐世保要塞の石原岳堡塁と面高堡塁の起工とほぼ同時に、ここウグメ海岸に陸揚場と突堤(桟橋)がつくられた。着工は石原岳堡塁より面高堡塁の方が一ヶ月ほど早い明治30年9月10日なので、その少し前には完成していただろう。突堤は石造り。潮の干満に備えて先端は低く造られ、防波堤も兼ねていた。突堤の先端から陸揚場をみるウグメ波止場か
佐世保要塞石原岳堡塁②側防長崎県西海市西海町横瀬郷※後日、加筆します!石原岳堡塁は、佐世保要塞で2番目に竣工(32年12月)した砲台。横瀬から面高山にかけての地域を制圧しつつ、佐世保要塞の砲台堡塁群を防禦する目的でつくられた。この堡塁で特筆するのは、堡塁全体を高い土塁と深い外堀で囲み、その外堀の東南東と南西の角にカポニエール(側防窖室)が設置されている。堡塁の唯一の出入口は突角堡にある。総石造り、まるで中世の城塞のよう。ロシア帝国の旅順要塞二龍山堡塁に似ている。出典:
佐世保要塞石原岳堡塁①棲息掩蔽部や砲台など長崎県西海市西海町横瀬郷※後日、写真を追加等します!②石原岳堡塁起工:明治30年10月21日竣工:明治32年12月31日備砲:克式中心軸35口径10センチ加農砲×6門(砲座3)、9センチ臼砲×4門(砲座4)標高:10K→77.1メートル、9M(9臼)→74.6メートル目的:此の堡塁は一般首線を虚空蔵山に向け、瀬川村横瀬方面より面高村方向に亘る前面の地域を射撃し、以て背後にある面高堡塁、高後崎砲台及び水雷衛所等を掩護す廃止:大正2年要
佐世保要塞高後崎砲台①砲座長崎県佐世保市俵ヶ浦町高後崎砲台(こうござき)起工:明治30年9月13日竣工:明治31年12月31日備砲:斯加式9センチ速射加農砲×4門(砲座2)標高:12.8メートル目的:湾口に敷設する水雷を掩護す廃止:大正8年要塞整理にて廃止に分類→大正12年復活→昭和8年修正計画要領にて廃止決定/昭和10年備砲撤去(鎮海湾要塞に転用)/昭和12年2月20日全部除籍出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」佐世保要塞で最初に竣工(明治
小首堡塁のレポートは今回で終わりとなりますが、最後に紹介するのは堡塁北部に設けられた地区司令所です。地区司令所とは要塞地をいくつかの地区に区分けして管轄内の堡塁砲台を指揮する司令所です。史料では「地区司令所兼地区砲兵長ノ位置」とも書かれています。なお他地域の要塞でも同様の司令所が現存しており、地区砲兵司令所とも呼ばれています。広島湾要塞鷹ノ巣高砲台北方高地の地区砲兵司令所舞鶴要塞金岬砲台南方高地の地区砲兵司令所函館要塞千畳敷砲台南東の砲兵指揮官司令所(地区砲兵司令所より
今日は小首堡塁左翼側(南側)に設けられた十五糎加農砲座を見に行きます。現地説明看板より抜粋・加筆修正した見取図です。小首堡塁の主力砲は二十四糎加農でしたが、副砲としてドイツ・クルップ社製の克式三十五口径前心軸十五糎加農が2門が配備されました。この火砲は日清戦争(明治27-28年)で鹵獲した戦利品で、東京湾要塞観音崎第四砲台と舞鶴要塞金岬砲台にも据え付けられました。『日本築城史』ではこの火砲について、「砲身が長く旋回時に尻を振るので尻振り大砲と呼ばれたが、射程は14キロもあり、当時最
今日は棲息掩蔽部から緩やかに上がって二十四糎加農砲座に向かいます。4つの砲座、2つの砲側庫、両翼に観測所が一直線に配置されています。中間点辺りに上がりましたが、まずは左側を見てみます。なかなか綺麗な塁道ですね。次に右側を見ると、、、なんじゃこりゃ(゚Д゚;)右翼側は後回しにするとしてまずは左翼側に進みます。小首堡塁に配備された重砲は、日清戦争の際に威海衛要塞で鹵獲した克式中心軸三十五口径二十四糎加農でした。1門1砲座で4門が据え付けられましたが、4つある砲座はなかなかのヤ
3年ぶりに小首堡塁を訪れましたが、前回は僅か30分しか滞在できませんでしたので、今回はより詳しく探索してきました。堡塁の履歴◆起工:明治31年(1898)6月6日◆竣工:明治33年(1900)9月12日◆備砲:克式中心軸三十五口径二十四糎加農4門、克式前心軸三十五口径十五糎加農2門(いずれも備砲完了は明治33年11月)◆設置標高:118/121.5m◆経過:・明治37年(1904)日露戦争で戦備に就く・大正8年(1919)要塞整理要領にて廃止の部類に入る・大正12年