ブログ記事23件
医師でありグローバルヘルス技術振興基金のCEOの國井修さんとの対談。もう10年以上前に野口健さんを介してお知り合いになられたんですよね。國井さんは知り合う前に日本でたまたま聴いた「粉雪」で感激されたんだとか。動画は前編後編に分かれてます。前編↓後編はこちら↓(なぜか限定公開になっていてYouTubeで検索しても出てこないんですけど・・・設定する側の問題かしら)-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツを
こちらもFM藤巻(毎週日曜12時からFMーFUJIにて放送)で山梨県笛吹市出身の藤巻亮太さんが紹介してくれた本。明治時代から昭和初期にかけて山梨県(他に日本では広島県、福岡県、佐賀県の一部)での地方病と呼ばれる「日本住血吸虫症」との100年を超える闘いを記したノンフィクション本。昔ドキュメンタリー番組かなにかでこの奇病を扱ったのを観た記憶がうっすらあったのよね。今回ちゃんとこの本を読んで知ることが出来て良かった。なぜ
ランクAの下~Bの上甲府盆地、広島県片山、筑後川沿いには風土病?の日本住血吸虫病があった。この本は、江戸末期から、この病気の謎に取り組んだ日本の医師、医療関係者の記録の本です。住血吸虫病寄生虫の住血吸虫が感染して起こる感染直後は皮膚がかぶれ、かゆくなる。発育が悪くなり、腹が異常に膨れ上がり、内臓、肝臓が壊れ、死に至る。日本の医療関係者たちの長年にわたる
過去記事を合併しました。寄生虫文章理解8問(いろいろな教材で作成)目黒寄生虫館のサイト公益財団法人目黒寄生虫館(研究博物館:日本)目黒寄生虫館は、「寄生虫」を専門に扱う研究博物館です。設置運営:公益財団法人目黒寄生虫館開館時間:午前10時~午後5時休館日:月曜日・火曜日(祝日の場合は翌平日)/年末年始www.kiseichu.org宮入慶之助記念館のサイト宮入慶之助記念館日本住血吸虫症の中間宿主ミヤイリガイを発見した宮入慶之助(九州大学名誉教授)を顕彰する資料
2022年4月、新作1問(「日本住血吸虫の発見」の正誤判別)を追加しました。2022年8月、コメントで紹介していただいた動画2本を追加しました。なお、貝の漢字の説明作成1問は、過去の記事(漢字の日の記事)へ移動しました。貝や寄生虫いろいろな記述式4問主に平成20年代教材で作成____________________________________水田の厄介者語群作文1問主に平成20年代教材で作成<語群>水田タニシ)リンゴ食害
10.以来尺遺跡の装飾玉類[以来尺Ⅰ(中),p342]玉類の珍しい勾玉が1点出土しています。図の右下の方に、条線が刻まれた勾玉222が確認できます。同じように条線が刻まれた勾玉が、南の熊本県の下山西遺跡でも発掘しています。時代は、同じ弥生後期です。次図の左上の勾玉です。[下山西(しもやまにし,乙姫),p60]“ほぼ弥生時代後期終末時期に属するものと考えられる。”[下山西(乙姫),p201]“本住居址より1点の石製勾玉が出土する。…855は硬玉製の勾玉である。全長3.3c
8.麦・頭蓋変形・彩陶・青銅器・隕鉄/大火/炒鋼この8章は、歴史を繋ぎ合わせた物語です。テーマは、まず農業の『麦』それに伴う『頭蓋変形』です。次に『彩陶』です。そして金属器の『青銅器』です。それまでの石器・骨器・木器から、金属器の『青銅器』への転換は、人類の生活形態を激変させました。金属器のさらなる発展形態が鉄器です。鉄器は『隕鉄』、『大火』、『炒鋼』と続きます。現在の製鉄の製鋼工程のメインは全て転炉であり『炒鋼』から発展したものです。この『炒鋼』は『青銅器』から直接分派したものです。これら
7.金海の袋状鉄斧袋状鉄斧は、朝鮮半島南岸の金海の製鉄遺跡で、製作された直接製鉄法の塊煉鉄の鉄斧です。弥生中期および弥生後期の九州北部では最高級品です。以来尺遺跡では潤沢に10個も出土しています。朝鮮半島からの直接移民であることが分かります。一方、在地系土器の貝元遺跡では、この袋状鉄斧が1個だけ出土しています。7.1.経路上の貝元遺跡芦屋上陸から、以来尺遺跡への経路上の貝元遺跡。この貝元遺跡の1個の鉄斧に注目します。[貝元Ⅱ(下)県,p285第311図][貝元II(下)県,
6.女王時代の長頸壺以来尺遺跡の出土土器です。図左がここで注目する弥生後期の細頸・長頸壺です。細頸・長頸壺の特徴は、器壁が薄く、球形のロクロ成形です。朝鮮半島からの船載品です。図右上の高杯と図右下の袋状口縁壺を必ず共伴します。袋状口縁壺は弥生後期(特にAD183以降)の遠賀川式土器です。[以来尺Ⅱ(県),図版26図版29図版30]次は以来尺遺跡の北20km、福岡平野のど真ん中の板付環濠遺跡です。板付環濠のすぐ南の板付遺跡G-7abは弥生時代の始まりの遺跡です。最下層に夜臼式土器、上層に
5.以来尺遺跡の土器と住居[以来尺Ⅲ(上),付図1以来尺遺跡遺構配置図(1/200)]以来尺遺跡の全体図です。女王卑弥呼時代の以来尺遺跡を見ていきます。竪穴住居跡・堀立柱建物跡が、ビッシリと密集しています。北側が丘陵の平坦部であり、この平坦部に住居跡・建物跡が特に密集しています。発掘時の手法として、住居跡の「切り合い」関係というものがあります。最も分かり易いのが、住居跡が上層と下層に区別可能である場合、下層が古い時代で、上層が新しい時代と即断できます。例えば、住居跡1が最下層で確認さ
1.初めに前回の続1『女王時代の宝満川河畔』では、反女王系の「以来尺遺跡」の大型建物は、女王系の「隈・西小田地区遺跡群」を監視するため、倭国大乱期に見張り台として設置された事を話しました。今回は、この以来尺遺跡の集落全体の住居跡と出土遺物を見ます。以来尺遺跡は丘陵上であるため、この時代の水田稲作の農耕具である木器の鍬(くわ)や鋤(すき)が全く出土していません。出土遺物として、土器、鉄器、副葬玉類、石器を順に見ていきます。倭国大乱期の「隈・西小田」への攻撃陣(反女王系)の本拠点は、20km
邪馬台国卑弥呼続2渡来系移民の以来尺遺跡◆表紙の説明:表紙の写真は、福岡県の以来尺遺跡の周辺の航空写真です。新国道3号線バイパス工事に伴い発掘調査されました。すぐ南には五郎山古墳があります。右下の新国道200号線バイパスの東側(枠外)には、隈・西小田地区遺跡群があります。以来尺遺跡は、大字筑紫・大字原田の谷部を挟んで丘陵上に位置し、女王系の隈・西小田地区遺跡群に対峙していた反女王系の最前線の拠点集落です。この以来尺遺跡は、倭国大乱期と次の女王卑弥呼時代(弥生後期)のわずか約100年
3.倭国大乱期の敵の見張り台以来尺遺跡で特に注目した1つは『建2017』という大型建物です。図の最上部に「溝1002」が東西に貫通しています。この「溝1002」が平坦地区の最南部です。その南は斜面地区です。[以来尺Ⅲ(上),付図8]図中左下に、約30°傾いた緑四角形と7個の大きな柱穴が確認できます。これが『建2017』です。周囲の他の四角形の建物跡プランの柱穴と比べても、格段に径が大きいことがわかります。これは高層の大型建物用の直径の特に大きい柱の柱穴です。次の写真の上部中央付近に「建
2.宝満川西岸地区の遺跡のグループ化シリーズ各編で、グループ毎に、遺跡を見ていきます。弥生時代後期つまり女王卑弥呼時代です。次のように4個のグループに分けます。[以来尺][久良々]以来尺遺跡は、「初めに」でお話した弥生後期、つまり女王時代の『丘陵』の遺跡グループ(反女王卑弥呼系)の代表格です。基山から東へ下った舌状の『丘陵』の先端部を壇状に平坦にして遺跡を築いています。敵対する『台地』の遺跡グループ(女王卑弥呼系)である隈・西小田遺跡とは狭い平野部を挟んで1kmも離れていません
宝満川西岸地区は、弥生中期末の倭国大乱の最終決戦場です。多数の首狩り遺骨を含む激しい戦傷遺骨が、倭国大乱期の永岡遺跡,隈・西小田地区,横隈,柚比遺跡群で発掘されています。最後に出てきますが、隈西小田地区遺跡群が弥生中期のこの地域の最大の拠点集落だったようです。そのため集中砲火を受けたようです。しかしAD183に、敗戦側から女王卑弥呼が、西南に10kmほど離れた吉野ケ里遺跡で即位して、倭国大乱は終戦します。弥生後期の始まりです。弥生後期を通して女王卑弥呼の時代です。しかし女王卑弥呼はAD248に
新シリーズ『邪馬台国卑弥呼(続)』では、「宝満川西岸地区」の遺跡を見ていきます。次図の中央部に「津古生掛」遺跡があります。倭国大乱で戦傷遺骨が発掘された「隈・西小田」と「横隈」遺跡の中間地点にあります。[以来尺Ⅰ(上),p10]“庄内式新段階では、同市津古生掛遺跡で前方後円墳が築かれ…これを契機にして、弥生時代後期の遺跡は急速に衰退し、新たな枠組みの中で再編成される。”「宝満川中流」でも、庄内式新段階=庄内式土器の新しい段階、つまりAD250から弥生時代後期の遺跡は急速に衰退
1.初めに前シリーズ『邪馬台国卑弥呼』では、女王卑弥呼が即位する主な要因となった倭国大乱、この倭国大乱の最終決戦場となった筑紫野市の永岡遺跡と隈・西小田遺跡群38の首狩遺骨や激しい戦傷遺骨の写真を見ました。さらに倭国大乱は、「宝満川上流」に突然現れた住血吸虫が原因であるという話をしました。そして女王卑弥呼時代つまり弥生時代後期の「宝満川上流」の遺跡を見ました。本シリーズ『邪馬台国卑弥呼(続)』では、少し流れ下った「宝満川中流」の遺跡を見ていきます。この「1.初めに」では、前シリー
8.11.柚ノ木遺跡の木槨墓弥生中期後半の鉄戈(図中▽)は、道場山と立岩が同じ遼西独自型でした。同時期の甕棺は、道場山と柚ノ木が同じ立岩式(古)でした。縄文後期まで戻ると、道場山2区と柚ノ木すぐ南の御笠地区Eが、黒曜石石器で同じ縦長剥片技法でした。この縦長剥片技法は遠く長野県の千曲川と犀川が合流する長野市付近でも見られます。上流には八ヶ岳黒曜石があります。阿曇または安曇による山陰・北陸海路が九州北部まで確認されています。安曇野の地名が長野県に残っています。またAD150以降の倭国大乱期、
8.5.BC770頃、芦屋に初上陸遠賀川流域は、BC770頃に、遠賀川式土器が最初に上陸した地点です。河口域の川底の遺跡で多量の新種の土器が発掘され、遠賀川式土器と命名されました。さらにこの地域は神話的・伝説的な逸話が多く残っています。地域に残るこれら昔話も交え、遠賀川式土器が現れた頃から見てみます。遠賀川式土器は芦屋に上陸し、まず遠賀川河口域に拠点を築いたようです。そして上流部へ進出していきます。立岩近くの遠賀川の川底から、最初期の遠賀川式土器が発掘されています。大変品質が高く、遠賀川東
7.永岡遺跡永岡遺跡は、1次、2次、3次、4次発掘調査の全ての報告書があります。1次は弥生中期の前半と中頃の墓地です。甕棺が52体発掘されています。2次は弥生中期の後半の墓地です。甕棺が100体発掘されています。この2次は倭国大乱の最初期AD150頃です。ここでは特に、2次発掘調査に注目しています。さらに周辺の3次と4次発掘調査も実施されました。しかし3次で甕棺が1体発掘されただけで、主体部は1次と2次です。そして永岡遺跡は2次の弥生中期の後半の次、弥生後期の墓地がありません。永岡遺跡は弥生
2.焦点は、旧川床or鼠弥生中期後半に始まった、筑後川水系の宝満川の住血吸虫汚染の起点は、この地域で確定です。さらに、より具体的な焦点は、「①柚ノ木が先か」、「②永岡が先か」という話です。シナリオ1シナリオ1は起点を①とします。住血吸虫汚染は「①柚ノ木遺跡が先」です。①柚ノ木から旧川床を流れ下り、②永岡遺跡へ住血吸虫汚染が拡散した。シナリオ2シナリオ2は起点を②とします。住血吸虫汚染は「②永岡遺跡が先」です。②永岡の鼠が泳ぎ上り、①柚ノ木遺跡へ住血吸虫汚染を拡散した。
にいびょーご!(現地モレ語で「こんにちは」)今日は朝からずーーっと雨が降っていて電気もインターネットも不安定だったわ。(雨漏りだけは安定!)夕方になって、やっと雨が上がりました。ブルキナファソの首都のワガドゥーグー、雨が降ると、結構多くの場所でこんなんになる。※この茶色い水の中に、突然とんでもなく深い穴が開いていたりするので、車やバイクの運転をする時、冠水した道路を歩く時は気をつけましょう。
イメディス医療クリニックで診察していただき原因に対処する周波数トリートメントを受けていますリクライニングチェアーにゆったり座り首に1本たすき掛け1本合計12時間の周波数トリートメント受けます
息子のために、我が家のテレビはほぼNHKのEテレしか映さなくなった。よって私も夫も、ニュースはアプリで読むことが多いのだが。海外のニュースも読むことができて、なかなか面白い。先日「ふざけてナメクジを飲み込んだ男性が寄生虫に感染して死亡」というニュースを読み、夫に話しかけた。私「ねえねえ、ふざけてナメクジを飲み込んだ人が海外に居てね……」夫「え、寄生虫いるだろ?」オチを先に言うな。私「……そう。広東住血吸虫に感染して死んじゃったらしい」夫「住血吸虫は恐いからなぁ。日本じゃ滅多に感染
読書内藤了著角川ホラー文庫BACK猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子角川ホラー文庫/内藤了【文庫】648円楽天「12月25日未明、都心の病院で大量殺人が発生との報が入った。死傷者多数で院内は停電。現場に急行した比奈子らは生々しい殺戮現場に息を呑む。そこは特殊な受刑者を入院させるための特別病棟があり、狙われたのはまさにその階のようだった。相応のセキュリティがあるはずの場所でなぜ事件が?そして関連が疑われるネット情報に「スイッチを押す者」の記述が見つかり・・・・・・。」