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10月24日(木)好天気に誘われ☀路線バスの旅に行って来ました🚍小滝橋車庫までテクテク🧑🦯神田川遊歩道沿いに咲いていたビオラ😍アリッサムユーフォールビア・ケイトウトウフジウツギ水の音が気持ち良かった。セイタカアワダチソウランタナマルバフジバカマランタナブルーセージハギルリマツリチェリーセージ桜の木の根元に、タマスダレが咲いていてセンジュギクペンタスベゴニア小滝橋車庫到着🚍上野公園行きに乗ります🚍高田馬場駅前にアトムの絵が❣️懐かしいグローブ
長崎チャンポンか食べたくなつた。ネットで調べて三軒茶屋の来来来とうう店に行った。12人で一杯の小さな店、いつも五六人がならんでいた。店主をはじめ気持ちのいいスタッフ、とくに店主は出入りの時に、目をあわせて挨拶。スープも食感も満天。この店にしてよかった!木久扇の色紙が目に入った。最近のもののようだった。大相撲の最新の番付があった。わが石川の大の里は大きな文字で大関に。三軒茶屋で下車したのは初めて、少し通りを歩いてみた。新旧のバランスのとれたいい町と見受けた。東京で一番いいと
浪士組始まりの地「伝通院」東京都文京区小石川伝通院(傳通院)は文京区にある浄土宗の寺。慶長7年(1602)に徳川家康の生母於大の方(おだいのかた)逝去した際、傳通院を菩提寺とした。その後、三代将軍家光公の次男、亀松が葬られ、以来徳川家の外護を賜り、諸堂伽藍が整えられた。小石川伝通院伝通院と浪士組の結成新選組の前身となった浪士組は清河八郎の案によって成った。文久二年(1862年)に江戸幕府十四代代将軍・徳川家茂は文久三年(1863年)将軍上洛*をおこなうためその警
・・・・暑いー!・・・・・・小石川後楽園、東京ドームのすぐ横にありましたー・・・・・後楽園遊園地の観覧車も見えています・・・・・・・・東京ドームの横にあったんですね・・・・・この街は今日も、まだまだものすごく暑いです。どこかで燃えてるのでは?なにしろ関東有数の高温の街ですから、日中の外出は命がけのような気がします。そんな中で、地元の歴史散策の会の皆さんと文京区の小石川辺りに行ってきました。東京は、海風で少し気温が低いみたいです。でもやっぱり暑い。幸か不幸か、この日はらむちゃんママの用
スープカレーカムイ、東京ドームシティ、牛天神北野神社、伝通院、真珠院、丼太郎の記録です。『秋葉原駅アトレ1口』新宿駅から中央総武線の緩行線に乗ると日中は空いています。各駅に停車し工事をしているお茶の水駅から中央線と分かれて、神田上水に架かる鉄橋を渡り秋葉原駅で下車する…ameblo.jp『柳森神社』秋葉原駅から万世橋を渡って神田上水沿いに進み、東北本線のガードの先にある柳森神社に寄っていきます。鳥居から一段下ったところに拝殿があり、狭い境内に浅間神社の富…ameblo.jp『ス
本郷から壱岐坂を下った交差点付近丁度、東京ドームシティの観覧車近くに出たこの日は、読売対阪神戦なのだろうか黄色とオレンジ色のユニフォームを着た人たちが多数さて白山通りへ曲がり、ジェットコースター下をその軌道先地上を走る地下鉄丸の内線越しに講道館(新館)にあるコーナンにてお買い物早々におつかいは終了散歩ついでに、ぶらぶらするか講道館(本館)前に凛々しく立つ、嘉納治五郎像講道館柔道・嘉納治五郎については『講道館柔道発祥の地』地下鉄稲荷町駅エレベーターと交番
里脇まうかさん、今晩は、何時もお世話に為って居ります。お陰様です在ります。感謝で在ります。江戸を詠む短歌善いですねぇ~❗不忍池、伝通院へ行きましたか、私、伝通院の意外と傍の茗荷谷(母の実家)で生まれ、幼児期過ごしましたよ❗伝通院は、徳川の女性の菩提寺で在りますね。不忍池、上野の山は、その昔江戸時代迄は、上野寛永寺さんの境内で在りましたよ❗明治新政府に、成ってから新政府に委譲されたので、在りますね❗江戸への旅、お楽しみ頂けましたか、又、お越し下
デパートの前を通ったら、七夕飾りがしてあった。七夕なのだ。俳句で七夕は秋の季語である。うれしさや七夕竹の中を行く正岡子規きのう図書館で2冊借りてきたが、『成城だより』は思ったような内容ではなかったので返却した。アンソロジー『文章読本』も正面から論じたものが多そうで、興味がありそうなものだけ読むことに。永井荷風の『荷風随筆集』を借りてきた。かつての東京の街歩きの本である。何回か読んだが、もう一度という気になった。この本の「他十六篇」の中に、『伝通院
2024年6月3日、東京都文京区にある徳川将軍家菩提寺の一つ、伝通院に行ってきた😊立派な山門😊伝通院の正式名称は、無量山伝通院寿経寺本殿に無量山と書いてある謎が解けた😊徳川家康の生母「於大の方」のお墓がある於大の方の法名「傳通院殿」が名前の由来とか港区芝の増上寺、上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称されていたという。日本唯一の指圧の専門学校が隣にあるご縁で「指塚」なるものがある。指聖が讃えられている奥に趣のある庭園も見える立ち入ることはできないけど猫ちゃんも入りたいよね!
/twitter.com/403_net/status/1782917313400074444?t=NUkHlfUYvdUV7tVY2U6b7g&凪さんと潔さんをぬいぐるみクリーニング🧸ふわふわでご帰宅頂きました😍😍#ブルーロックpic.twitter.com/oiGEgb3Wju—ネットで洗濯.com【大切な1点を任せられるクリーニング店】(@403_net)2024年4月23日かつてこの男は、ちいかわ、ハチワレ、うさぎ、ポケモンもクリーニングしたことがある。いつだって
これもまた徳川繋がりで、文京区の白山神社へ。こーんな無防備な猫ちゃんがいる、小さいながら清らかな神社さんでした🙏白山神社といえば、ご祭神は菊理姫です。ご縁結びの神様として有名ですね!ホツマツタエでは、伊弉諾、伊奘冉両神の間を取り持って娶せたといわれています。しかしご縁といえば、恋愛、結婚、だけではございませんぞ。より良い人間関係、仕事のご縁、旅行や趣味などのご縁だって、結んでほしいご縁ではありませんか!今まで伺うご縁がなかった白山神社に伺う流れがやってきた、そんなご縁も大切にして
お隣りに牡丹が咲いていた。それも満開を過ぎて。まったく気づいていなかった。何を見ていたのだろうと思ってしまう。盛りが過ぎてはいるが、さすがは牡丹。こちらは図書館前のツルニチニチソウ。毎年菫色の小さな花を咲かせる。明日から2泊3日で東京へ。メインは東博の法然展。見たいのは、阿弥陀如来二十五菩薩来迎図。京博で拝観したことはあるが、もう一度ぜひ見てみたい。修復したというが、どのようになったのだろう。いろんな来迎図を見てきたが、知恩院本は高野山の阿弥陀聖衆来迎図と並んで立
雷門提灯真下の彫刻↓↓↓提灯真下の彫刻↓↓↓金龍山浅草寺天井画↓↓↓娘のステイ先ファミリーのお土産買いに来ました~分かった方いらっしゃいましたか~浅草です~十六夜
朝から曇り空、午後からは小雨がぱらついてきた。空を見上げても雨雲ばかり、春らしい雲を見ることができない。血圧が高めだったので、かかりつけ医に行った。特に朝起きた時が180くらいあり、心配なので朝方効く薬を出してもらった。長らく高血圧の薬をのんでおり、3年ほど前にようやく朝の薬だけになったのだが、夜の薬はそれ以来。何かあるといけないので、しばらくのむことになった。図書館で『漱石の地図帳』を借りてきた。前に借りてきたときにはあまり面白いと思わなかったが、今読むと先に進み
☆1月28日(日)昼休みの短い時間で街散策昼食は、歩きながら文京区の伝通院前に到着🔗無量山伝通院山門前の説明板(2枚)と石柱石柱には「不許葷酒入門内」と刻まれている。葷酒(くんしゅ)とは、辛味や臭味のある野菜と酒ニラ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ、ショウガなどよく食べる野菜ばかりだ説明はサッと読みました。へぇ~~って感じ!後で調べようとにかく時間がない当日も、今も無量山伝通院寿経寺1415年に創建徳川家康の生母、於大の方(おだいのかた
伝通院徳川家康ママと孫の千姫等のお墓で有名徳川将軍家の菩提寺
毎年恒例の正月お参りウォーキング。神社仏閣を「江戸五色不動」、「江戸六塔」、「江戸六地蔵」などテーマを見つけて続けたあとはキリスト教やその他の外国宗教まで広げた。次は新興宗教巡りかと考えたが、統一教会騒ぎを見てする気がなくなった。そこで再び神社仏閣に立ち戻り、「東京ハイキング案内」という本で「江戸三十三観音札所巡り」を見つけたので、しばらくはこれでもたせることにした。その第1回が12番から16番までの文京区、新宿区あたりの5つの寺巡り。なお、「観音」の意味由来などを説明することは簡
ショクダイオオコンニャクの開花を見にやって来た小石川植物園、長い行列も園内の紅葉をじっくり眺めることが出来るので苦になりませんでした。公開温室の前はイロハモミジの並木です。温室でショクダイオオコンニャクを見物した後は園内の紅葉を巡りました。小石川植物園は武蔵野台地の東の先端部にありますが園内南側の坂下には湧水池が連なります。池の周りの紅葉も見ごろ、落葉が浮かぶ水面に真紅の紅葉が映ります。小石川植物園の前身は1684年に徳川幕府が設けた小石川薬草園、1722年に薬草園内に赤ひげで知られ
皆さん、おはようございます。今日もお忙しい中、私のブログにお越し頂きましてありがとうございます。一昨日、浅草寺に行った帰りに東京都文京区にある伝通院にお詣りして来ました。第1土曜日の午後から写経が行われていまして、何度か参加させて頂いていましたが、土曜日の午後が仕事になってしまい、思うように参加できなくなってしまいましたが、こちらも大好きなお寺の1つです。傳通院・伝通院www.denzuin.or.jp徳川家康の生母・於大の方のお墓があります。思わず松嶋
JRが「駅からハイキング」というのをやっているのは、駅にパンフレットを置いてあるので知っていた。環状5、6、7号線を踏破したので、次はどうしようと考えたが方針が決まらないので、とりあえず一度やってみることにした。駅からハイキングは、ある駅を始点にしてそこからあるテーマを持ったハイキングをするというものだが、ちょうどその時は、神田駅から徳川家ゆかりの場所をめぐるというものだった。今回は、午前9時半から11時半までに神田駅で受付をすることになっていた。11時前に神田駅で受付け
伝通院の本殿と書院。伝通院は、空襲で焼失するなど何度か再建されているので建物は新しい感じがする。思わず紅葉に目が行ってしまったが、鐘楼と三尊。伝通院を出て門前の道をまっすぐ飯田橋に向かって歩いていくと、左奥に北野神社、別名牛天神の石段が見え、提灯に灯りが点っていた。急な石段だし、夕闇も迫っているし、だいぶ歩き疲れたし、パスしようと思ったが、もう来ることはないかもしれないと思いなおし、気力を振り絞って石段を登った。こじんまりとしていて、混雑という程ではないが、夕暮れ時にかかわらず、参
JRの企画による「駅からハイキング」に昨年秋からときどき参加してます今回は、「徳川家ゆかりの地を散策しよう」というコースで、神田駅から…神田駅はたまに利用しているけど、アース製薬とコラボしてからは初めて…西口アースジェット口からスタート!しばし歩いて、①御宿稲荷神社へ家康が江戸にやってきた際、江戸城に入る前に泊っていたエリアらしい。今はビルの合間に小さな神社小川町の交差点、御茶ノ水駅を通過…聖橋から湯島聖堂の紅葉がきれいに見えました②神田神社(神田
伝通院に向かう。途中、源覚寺がガイドマップに載っていたので立ち寄ってみた。別名こんにゃくえんまと呼ばれ、眼病治癒祈願に訪れる人が多いという。この時は2人ほど参詣者がいたが、その1人が香炉を抱きかかえるようにして煙を浴びていた。動く気配が全くなかったので、写真はあきらめた。神田川が造った平地から武蔵野台地に出た。この辺りが武蔵野台地の東端になる。善光寺坂という名前がついているらしく、登り口にその名前の寺があった。その隣が慈眼院。どちらもガイドマップにはないが、2~3人先客がいた
伝通院は、1602年(慶長7年)、伏見城で死去した徳川家康の生母・於大の方が葬られた寺。家康は増上寺に葬りたかったようですが、増上寺十二世の源誉存応(慈昌・観智国師)が増上寺を開いた酉誉聖聡の師である聖冏ゆかりの地に新たな寺を建立するよう進言したのだといいます。聖冏(酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ))は浄土宗第七祖。浄土宗第八祖の酉誉聖聡は千葉氏胤の子で、母は新田義貞の娘と伝えられています。そして、家康は、新田氏を祖とする源氏を称していました。於大の方の墓伝通院には、三代将軍家光の
本当の自分開花ナビゲーター佐藤みふゆ(みーこ)です。^^ご訪問ありがとうございます。「人生100年時代の大学。遅すぎる学びはない。」早稲田大学LifeRedesignCollege1期生。2023年3月21日に卒業しました。母親に虐待されて自分の人生を生きられなかったのでアラフィフから自分の人生を取り戻してきました。初めての方は、こちらをご覧ください。↓「本当の自分開花プロジェクト」私の想いお問い合わせ←クリック■受付
11/3,時代まつりin文京に行ってきました。第20回全国藩校サミット文京大会を記念して開催されたこの祭り。朝顔市でおなじみの伝通院と後楽園駅横の礫川公園で物産展・キッチンカー・縁日が開かれ、2つの会場を結ぶルートでパレードが行われます。今回は伝通院には行かず、パレードを見ることに。公募で選ばれた小学生150人によるパレードですこちらの人力車上は「竹千代」。全然縁もゆかりもないお子様だけどかわいいね~伝通院には於大の方を始め徳川家ゆかりの方々のお墓があり
今回は、徳川三代将軍家光の正室鷹司孝子の墓参りです。鷹司孝子とは江戸幕府3代将軍徳川家光の御台所。鷹司信房の娘。母は佐々成政の娘か。諱は孝子。家光との婚姻は、将軍家御台所を摂家など京から迎える先例となる。しかし、本理院自身は不遇で秀忠の命により城内の別御殿に住み中之丸様と称した。これは本理院の嫉妬深さのためといわれるが、詳細は不明。宝暦13(1763)年贈従一位。墓所は小石川伝通院。
新撰組の前身浪士組のリーダー清河八郎の墓参りです。清河八郎とは幕末期の志士。出羽庄内藩の郷士・斎藤治兵衛の子で、名は元司。16歳のとき江戸に出て、剣を千葉周作に、儒学を東条一堂に学ぶ。59年、神田お玉が池に文武指南所を開く。翌年、桜田門外の変を契機に志士たちと交流。尊攘運動の大義を貫くため、志士たちを伏見寺田屋に集めるが、島津久光に阻止されて挫折。63年には、幕府浪士と京都・壬生に駐屯。近藤勇ら佐幕派と対立する。江戸に戻って新徴組に入るが、麻布一の橋で幕吏に暗殺された。現在の神田東松下
今回は、小渕内閣で民間人閣僚として経済企画庁長官に就任し、第2次森喜朗内閣の2000年12月まで務めた堺屋太一さんの墓参りです。堺屋太一とは1935年、大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業。通商産業省(現経済産業省)に入省し、日本万国博覧会を企画、開催したほか、沖縄海洋博覧会や「サンシャイン計画」を推進した。在職中の75年、『油断!』で作家デビュー。78年に退官し、執筆、講演、イベントプロデュースを行う。予測小説の分野を拓き、経済、文明評論、歴史小説など多くの作品を発表。「団塊の世代」とい