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会計士受験、受かった年にやったことは無理をやめたこと今もあるのかわかりませんが、当時は朝から答練というのがありました。朝から計算問題を解く、、というやつですね。1年目と2年目は、朝7時からの答練に頑張って出ていました、睡眠も削り、頑張って頑張って頑張っていたんです。。でも、結果何が起こったか。。一日眠くて、勉強の内容が頭に入らなかったり、疲れてイライラしていたり、今思うと、頑張りすぎていた結果、空回りしていたんですね。。そういう訳で、ちょっと冷静になって3年目
会計士受験、受かった年に私は予備校を変えました会計士受験受かった年にやったこと①予備校をかえて成績はどうだったか??最初はめっちゃ落ちました。今まで模試とかでは数百番台にいたのに、一気に500番ぐらい落ちた感じです。。予備校を変えると問題のスタイルも違う慣れてないので、何を聞かれているのか戸惑うついでに答え方もまだよくわかっていないので、上手く答えられず点が取れないといったことがあったらしく、成績が落ちるのも今考えると仕方ないですね。。この時は、季節が
私は会計士受験3回目で受かっています。1回目、2回目も短答式は通過していて、特に2回目は模試の成績も数百番台に入っており、自分は絶対2回目の受験で受かると思っていました。なので、2回目の受験に落ちた時には、自分でも信じられず、本当につらかった思い出があります。。その時に、2回目までの受験と同じことをやっていたのでは、また落ちてしまうのではないか今度は絶対受かりたい、、と思って予備校を変えました勉強時間は、2回目の受験まででも結構取っていたし、勉強時間はもう十分だろうと思う
さて子供たちの周りを見ると、メーカーや銀行、商社など大企業に就職をし、2~3年経ったお友達方にがぜん動きが出てきている。勤務しているとだんだん将来の予想がついてくるので考える時期らしい。特に銀行や損保などは最初の赴任部署やその後の異動で、幹部への出世が開かれているかどうかが自らはっきりと分かるという。例えば将来が開かれている人は、某銀行では研修後の仮配置および最初の赴任地は東京23区内の法人営業部→その後海外主要都市への赴任、また他の銀行では都心の超主要支店の法人営業部→本部の特殊
「よし、じゃあ今の仕事が面白くないからこれから資格をとるか」と思い立っても、公認会計士の資格についてはなかなかそうはいかない。一般に公認会計士試験に合格するのに必要な勉強時間は約3000時間といわれている。つまり1日に5時間勉強したとしても2年はかかる覚悟がいる。おまけに迅速な計算力や判断力、分析力を必要とするため、若い脳ミソであることが何よりも有利だ。大量の暗記も必要で、もちろんどこかの予備校に通って最も効率の良い勉強方法を獲得するのも必須。となると、本来は若い脳ミソで時
とまあ、ウチでは大学在学中から公認会計士の試験勉強を始め、一般の就活はしなかった。でも周りの友人たちが就活をするのを傍で見ていて、色々考えさせられた。というのも、学歴最高、成績優秀、運動神経抜群、性格温厚という素晴らしい友人たちが就活で続々と玉砕していったからだ。敗因は「大人しい」こと。もちろん彼らは書類選考や、WEB試験、面接などを何回かはやすやすと通り抜けられる。ただ、終盤になると残っている学生たちはほとんどみなおしなべて優秀で甲乙つけがたい。そこで、最終的にものを言うの
11/1910時に発表。拙宅では発表を唯一「発表と同時にキチンとみる」次男から連絡。次男合格。例によって三男は熟睡していたようだが、次男が三男のリュックの中から受験票を探し出し受験番号を見て、発表も見てくれた。何だか三男も合格。私の戦争は終わりました。ジャンジャンである。
8/22から3日間。公認会計士論文試験。2人ともなんとなくできたそうである。しっかり勉強していた次男はともかく、三男まで充実した顔をして帰ってきた。ヤマがことごとく当たったらしい。そうは言ってもねえ。ホントにどこまでも楽観的で呆れる。2人とも翌日から精力的にバイトを始める。
8/15~18日会社を休んだり、途中で抜け出したりして1人で巣鴨のお地蔵さまへ行く。毎日ご祈祷してくれるというのに1週間×2人分を申込み(一応三男の分もだ)、毎日13時からのご祈祷の時間に私も畳に上がり込んでお坊さんと一緒に般若心経を大声でがなり立てた。もともと私は大学入学後、酒浸りの脳ミソの活性化のために、般若心経から百人一首から手当たり次第に暗記しまくった時期があった。そのおかげである。覚えている。さすがに若い時に暗記したものは簡単にするりするりと出てきて、お坊さんに唱和するこ
次男はコロナもインフルエンザも結果は陰性でホッとした。5日目にやっと高熱が下がって次男はヨロヨロと勉強を始める。熱の期間全く勉強ができなかったので、サラリとすべて忘れてしまっているとか、勉強する脳ミソの体制になっていないとか、熱で脳ミソが溶けてしまったとか、勉強するための体力がないとか、いろいろ言っていたが、熱がないなら何とかしろである。
公認会計士試験の2週間前、次男が40度に届きそうな高熱を4日間出し続けた。拙宅の子どもたちにありがちな知恵熱だろうと思ったが、ちょうどコロナの最盛期だったこともあり、検査をした。この頃は陽性になると2週間は本人も濃厚接触者も外出はできない。もし陽性だったら公認会計士の論文試験にはギリギリ間に合うものの、そういう問題ではない。ヒンシュクモノだ。おまけに一応同じ試験での合格を目指して勉強している三男に移りでもしたら、移った三男の方は熱が下がっていても2週間隔離のノルマはクリアで
次男を(長男も)見ていると暗記だらけで気が狂いそうで、時間が足りなくてしょうがない風なのに、同じ試験を受ける三男はどうしてこんなに貴族のようなのか聞いてみた。と、三男は暗記はしていないそうなのである。では直前の勉強で何をしていたかというと、論文試験の過去問や予想問題の解答をCPAの先生に添削して頂き、3日間ぐらいかけてその添削結果をつぶさに分析・研究するのだそうだ。どこをどう書けば何点貰え、この部分を書かないと何点減点で・・・それだけを繰り返していたそうなのだ。圧倒的に勉強時間の足り
さて8月にある論文試験の合格を目指して、次男と三男の2人が勉強している。同じ親(ヘロヘロの私である)から生まれた兄弟と言えども、この次男と三男は全く勉強のタイプが逆で面白い。次男は私によく似て、しっかりと勉強スケジュールを組み、毎日朝早く同じ時間から夜遅い時間までスケジュール通りにコツコツ勉強をこなす。覚えなくてはいけないものは必死で暗記し、できなかったものはノートにまとめる・・・まあ、普通の受験生でわかりやすい。一方、三男(長女、長男もこのタイプ、主人も)はスケジュールは作
大学を留年しようと、大酒飲みだろうと三男はこれで5月の短答試験に合格したのだから、すぐの8月にある論文試験を次男と一緒に受験できる資格がある。短答試験を5月に受かってその年の論文試験8月にも合格する人たちを「ゴッパチ」というが、この方たちには地頭(ヂトウではない、ヂアタマ)がいいというイメージがあるので、三男は論文試験の合格はまあ、翌年ということになる。ウチの子どもたるもの、そう簡単に合格するはずがない。
5/23三男の短答試験。どうも7割(63%ぐらいが合格ライン)ぐらいできたと胸を張って言っていたが、すんなり合格した。「すんなり合格」なんて現象は拙宅の子どもたちの長い長い長い長い受験経歴では初めてのことで、受かったと言われてもまだ「実は受験料を払っていなかった」とか「受験番号を書き間違えた」とか「火事が起き、解答用紙が全て消失してしまったので再試験になる」とかいろいろ不吉なことを考えて、まだ油断ならないぞと一人で緊張していた。人間、経験で染みついた疑い深い根性とは恐ろしいものであ
この年、三男はおとなしく短答試験を受けていたが、大学の試験やレポートも半端なく、サークルやマージャンも忙しく、ワサワサと過ぎていった。因みに、私たち夫婦は、早稲田の政経は進学や卒業がすごく大変だという三男の念入りな情報に相当に訓練されていた。確かにマクロの授業は相当に難しく、文系ではあるが数学はかなり得意な三男をもってしてもよく理解できないレベルらしい。この頃は政経学部の受験は数学ではなく、社会でも良かったのだが(現在はさすがに変更されたようですね)、社会選択で入学した数学の苦手な人た
無事免許を取ったところで、考えを改めてまた公認会計士の受験勉強をする気になってくれるだろうなんて私も甘かった。やはり次男は自転車で日本一周の旅にどうしても出たいと言い出した。そして帰ってきたらアメリカに留学するとも言っている。とりあえず精力的にバイトをしてある程度の資金が貯まったら日本一周に出発すると言う。フェリーで苫小牧まで行き、そこからキチンと就職して全国のアチコチに赴任している友達の家に泊まらせてもらったり、駅や野原に寝たりして自転車で鹿児島まで行くという約2ヵ月のプランを考え
いずれにしても論文試験は年1回で毎年8月にしかないので、これで今年受験できないとなると来年の8月に受験するしかない。ということで、「日本全国自転車の旅に出る」とか訳の分かんないことを言い出した。そして「公認会計士試験を受けるのは止めてアメリカに留学する」とかも言い出した。とにかく公認会計士試験の受験を止めることに熱くなっている。少し熱を冷ましてもらおうかと、次男だけまだ免許を取っていないので免許合宿に行って免許を取って来いと9月半ばに金沢で行われる免許合宿に追い出した。考えを改
普通に考えれば「公認会計士受験をやめる」ことも選択の1つだと思えば良いのかもしれない。ただ、私が嫌なのは、これが次男にとって一生の「挫折」や「コンプレックス」になるということ。基から公認会計士という資格を取らないことを選択し、勉強も受験もしなかったのならいいのだが、アメフトをやりながら、ストレスで逆流性食道炎になりながら這いつくばって勉強してきたのに、途中で諦めるというのは「挫折」に他ならない。それも「受験料を払い忘れた」とかいうお笑いネタのようなキッカケでだ。これは絶対に良くない。
受験料を振り込み忘れたことは次男にはかなり痛手だったようだ。何といっても論文試験は年に1回しかない。ということはまたあと1年強をガンガン勉強しなければならないからだ。そして「これは僕は公認会計士にはなるなと言われているに違いない。もう受験はやめる」とか言い出した。元々次男は公認会計士に向くようなキチンとした性格をしていない(長男と三男もだが特に次男がひどい)。黙々と正確な書類を作ったり、論理的に分析するような仕事には全く向いていず、色々な人と話し合って、折衝をし・・・というコミ
さて、ハワイなんぞに行って夢見心地でぼやぼや生きていたところへ次男が変なことを言い出した。「お母さんは論文試験の受験料を払い込んでいないよね?」は?論文試験の申し込みもしていないし、何かを払い込んでもいませんが?試験の申し込みをしたり受験料を払い込んだりしていたのは、大学受験までですが?何々?それ何?と聞いたところ、どうも論文試験の受験料の払い込みを忘れたらしい。次男のように短答試験が合格していて今年論文試験のみを受験する人は、受験の申し込みや受験料の払い込みが少し複
社会人となって働いている長女は、チアリーディングの社会人チームに入部していた。このチームはかなり強いと同時に厳しく、土日のたびに必ず練習や試合があり、休むことなく参加しなければならない。休んでいいのは、3親等以内の慶弔だけだという徹底ぶりである。そのチアのチームが3月にホノルルのフェスティバルに招待されて遠征することになった。長女はこのハワイ行きに私を「同行しない?」と誘ってくれた。大学からこのチームまで長女と一緒に活動しているお友達のお母様も検討しているという。おまけにその渡航
これはいよいよ落ちたなと悶々としていたら、主人が「霞が関の金融庁には番号ではなく名前で合格者を貼りだしているから見に行けば?」と言われ、ヨタヨタと金融庁まで地下鉄で出かけることにした。11:30地下鉄に乗ろうという頃、長男からライン。「寝てた。受かったよ。」いったいどこの世に何年も一生懸命勉強していた結果が10時に出るというのに、11:30まで寝ている人がいるというのだ。そもそも何日も徹夜をした翌日というわけではなく、昨日も一昨日もそれはもうグッスリと寝すぎぐらいに寝ていて、夜も少しは
11/15会計士論文試験発表。さすがに受かっているだろうと思っていたものの、正式の合格を頂かないうちは安心できない。あまりの多くの不合格を経験してきた私に植え付けられた性の哀しさだろう。10時に発表というがそれまで家に長男といたら心臓が口に押しとどめるのに苦労しそうなので、会社に出社した。家を出る時には長男はまだ寝ていたが起こして、結果がどうであれラインで連絡するようにとよく言い聞かして。会社についてどうにも落ち着かない思いを何とか押しとどめて仕事をしていたが、10時になって
8/23、24、25長男会計士試験論文。このころは全国模試でも相当いい成績(一桁の順位)を取っていたので、長男も私たちももう落ちる心配はほとんどなく、ただ、健康でいいコンディションで試験に行けるようにだけ考えていた。この3日間、それはクリアできたのでホッとした。いくら長男の要領が悪くても、試験が苦手でも、去年「絶対大丈夫」の太鼓判で落ちているのだから、さすがにその禊は済んでいるでしょう。さすがに合格させていただいてもいいでしょう。そう思いながら久しぶりに巣鴨のお地蔵さまに日参
次男は引退後、5月に行われる短答試験を目指して卒業式を挟みひたすら勉強する毎日となった。もう粉砕骨折していた踵も治り、あれほど苦しんだ逆流性食道炎もすっかり姿を消し、体調も万全である。5/26次男短答試験。自己採点してみると合格ラインをクリアしていた。6/21発表。次男短答合格。さて、卒業でいただいたバラの一輪挿しが根を出してきて、庭に植えたら2年後にはこんなに立派な木になりました。
さて一方絶対に落ちないと言われていた論文試験に落ちた長男は、8月の論文試験再チャレンジを目指して年末から再び本格的に勉強を開始しようとしていた。早速長男がTACに勉強に行ったら所長に驚かれたという。「試験は8月だし、既に合格するレベルまでいっているので、あまり早くから勉強を開始すると直前でたるむ。勉強の再開は早くても2月くらいでいい」と言われて帰ってきた。なんてこった。何といっても長男の暗記力はボロボロなのである。大学受験の時にもあの世界史の教科書を「本文」と「注」の両方は暗記でき
12/15アメフトを引退して気持ちにも時間的にも余裕の出た次男をフジコ・ヘミングのピアノリサイタルに連れて行った。私は子供全員を入れ代わり立ち代わりフジコ・ヘミングのピアノリサイタルに連れて行ったが、必ず1人づつにしている。何かの節目があり、それはさすがにそれぞれ違う。それは次男がこの時だった。この頃もうフジコは歩くのがしんどいらしく、ステージのピアノまで出てくるのに支えてもらっていたが、弾き出すとしっかりしていて、代表曲の「ラ・カンパネラ」は相変わらず情熱的に弾き切った。単
翌日、最終試合(対明治大学)があった。試合終了後、グラウンドの中央に集まって観客席に手を振っている4年生の中に次男の姿がない。次男は、グラウンドの隅に1人で座って泣いていた。試合の途中から、ずっとそこに座り込んで泣いていた。靱帯損傷、肩の骨折、踵の粉砕骨折、逆流性食道炎・・・とにかく故障続きで満足に試合にも出られなかったけど、慶應アメフト部を4年間やり切ったという大きな財産が残った。結局2年生でやめることもなく、立派に幹部として最後まで4年間やり切った。
11/24,25当初の予定だと公認会計士の試験勉強のため2年生いっぱいでやめるはずだったが、結局最後まで4年間やり切った。そして脚だ、肩だ、踵だ、最後には逆流性食道炎だと故障満載でほとんど試合に出られなかった次男も引退の最後の試合となった。引退するのは実際寂しくはあるものの、アメフトの活動が試験勉強をとてつもなく圧迫し続けていた狂乱の生活が終わると思うと、次男も私もホッとしたのも事実である。特に幹部である次男は最終学年のシーズンともなると、通常の練習やミーティング以外に部の運営につい