ブログ記事202件
鶴ヶ城(会津若松城)から車で10分程走ると飯盛山へ行く階段が見えてきましたここは数年前夫と義姉達と訪れたので二回目です確かこのスロープコンベアで上まで行った事を覚えています疲れていたので私はコンベアに乗り夫は歩き先に着いて待っていました降りた所には「白虎隊」十九士のお墓があります「白虎隊」とは戊辰戦争の際会津藩の子息(15~17歳)で編成された軍隊です戊辰戦争とは1868年「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに15代将軍徳川慶喜を擁する旧幕府と薩摩藩・長州藩を中心とす
やっほい(*・∀・*)ノご訪問いただきありがとうございます♪いつも読んでいただけて大変、嬉しく思います!(*>ω<)はあ〜…また書き直さんばね(´・ω・`)ショボーン他のアプリ使ったら途中まで書いてたのにまた最初からになったわ。前までこんなことなかったんにな。さて国道が擬人化されたんだが(´・ω・`)国道や酷道、又は旧道、廃道は好きなんだがう〜ん、どうなんだろう?こうも好きなジャンルが擬人化されてしまうとなんか複雑な心境。複雑な心境だが地元の主要な8号、
珍しいネギを見つけました赤いネギです早速、オリーブオイルで少し焼いていただきました美味しかったです山形県や茨城県、その他で食べられているそうです赤いというよりワインレッドという感じですね🎵ネギと大根とくればおろし蕎麦‼️おろし蕎麦といえば福井県の名物が今回は、大内宿のネギ蕎麦式でいただこうと思いますネギ蕎麦は、ネギをお箸代わりにしてお蕎麦をいただき、最後にはネギも食べてしまいます大内宿では大根おろし蕎麦を高遠そばと呼ぶそうです大内宿は会津戦争で戦場になりましたが、
三連休の真ん中皆さん何をして過ごしたかな?あたしゃーね〜稽古でしたよ早速立ち稽古!布団に入ってブログを書こうと打っていたらそのまま寝落ちしておった“布団に入って“コレがいけなかったねなので朝起きて今書いておりますさて、気を取り直して稽古風景は二年前の『壬生ほたる』から引き続き土方歳三役田村幸士くんが自分の出番じゃない時に撮ってくれてる素晴らしい方!まっこと感謝ぜよっ!ああ、これだと土佐弁だ新政府軍になっちゃうね舞台「会津嶺の鐘」は旧幕府軍と新
来年新選組の検定を受けるので過去に回った新選組ゆかりの地を思い出すために過去のブログを整理しています。懐かしい会津若松の記憶です。大河ドラマ、八重の桜で盛り上がっている寒い寒い会津若松に行ってきました。戊辰戦争の爪痕などが残る会津ですが、寒さもなかなか半端でなく郡山から向かうと気候が厳しくなるのがよくわかります。(2013/03)郡山から列車ので会津若松に着きました。綾瀬はるかのラッピング電車です。地元の人に聞くと郡山は晴れていても会津は大雪だったりと天気は全く変わるそうです。線路の脇に
会津の風土と会津人気質とを理解するにあたって、もっとも的確に分かりやすく書かれているのが、高橋淡水の『壮絶悲絶白虎隊』(明治42年刊)です。とくに「はじめ」と「一、会津藩祖と会津気質」の章をお読みになれば、会津とか会津人を理解する上での手助けになると思います。幻の名著といわれる高橋淡水の『壮絶悲絶白虎隊』(解説笠井尚)はアマゾンのキンドル版で購入することができますし、来年早々には書籍としても全国一斉に発売する予定です。https://www.amazon.co.jp/%E5.../dp/
久しぶりに〝学校では教えない〟優れた日本軍人のご紹介です。皆さんは、学校で『義和団の乱』を習った記憶があると思います。それまで西欧列強による侵略を許し、日清戦争に敗れて以降さらに疲弊した清国内では、人々の不満が高まっていました。そしてアロー号事件の際に締結された天津条約(1858年)でキリスト教の布教が認められたことにより、多くの宣教師が清国入り。地元の風習を無視した強引な布教を行ったため、住民との衝突(仇教事件)が各地で起きるように。そのキリスト教に対する反発と、清朝に対する不満
<3月29日>足の向くまま気の向くままの放浪ドライブで、この日の宿は会津若松になりました。「會津つるやホテル」にチェックインを済ませ、少し街を散歩するために外出。ホテルの外観は黒が貴重です。この外観を見て、「なんか見覚えあるなぁー」と思って妻にメールしました。その結果、やはり随分前に初めて会津若松を訪ねた時に、泊まったホテルと、たまたま同じホテルであることが判明。道理で見覚えがあるはずでした。ホテルからほど近いところにある、レトロで立派な建物。「会津若松市役所」です。
鶴ヶ城周辺の史跡巡りまずは、幕末期に活躍したもう一人の西郷会津藩家老・西郷頼母さいごうたのも邸址西郷頼母は、松平容保が徳川慶喜から京都守護職就任を要請された際に辞退を容保に進言し、容保の怒りを買っちゃった人物歴史に『もしも』はご法度だけど、もしこの時に辞退していたら幕末の歴史も変わっていたのかも幕末の会津戦争で新政府軍が会津城下町に乱入した際、西郷家一族21人が辞世の句を残しここで自決しました会津戦争では200人以上もの会津の人々が自
こんばんは。前回の続きになります。どんな人間がいつ、何の為に、「このような歴史歪曲」をしたのかをお伝えしたいと思います。まず、平成28年(2016年)に〝戦死屍取仕末〟(せんしかばねとりしまつ)という新資料が若松城天守閣郷土博物館にある資料の一部から発見された。(1981年、会津藩士末裔の方から寄贈された資料の一部)この資料によると、明治新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が指揮する形で567人の戦死者の遺体を計64カ所
こんにちは。今日は学校では教えてくれないだろう会津戦争の闇について書かせて頂きます。【会津戦争】慶応四年(明治元年)1868年4月20日-9月22日戊辰戦争の局面の一つであり戊辰戦争最大の戦いの一つ。会津藩を筆頭に会津藩を支援する奥羽越列藩同盟と薩摩藩・土佐藩(明治新政府軍)が戦った戦争。初めにお伝えしますが、会津藩、薩摩藩、土佐藩の方々は日本人としての誇りの為何より、自身の信じる正義によって日本をより良い方向に導く為戦った誠の武士の方々だと私は思います。各藩に対
●平成3年主婦の友社刊秩父宮勢津子著●秩父宮勢津子妃殿下1909-1995●会津には約三年いて、再び両親とともに東京で暮らすことになるのですが、小学校時代に会津戦争の傷跡もまだ癒えきらない故郷で、一般の子弟に混じって過ごし、会津の人々の過去の忍苦や傷みを直に聞き、肌で知ることができたのは父の精神的な礎石となり、強い郷土愛を植え付けることになったのだと思います。それは、私ども子供たちの血の中にもやがて受け継がれるものでした。○明治20年の頃と思います。戦後20年、昭和でいえば昭和4
今日の「青天を衝け」、もう少し当時の銀行の業務の内容も描いた方がよくはなかったかなぁ。まだ金本位制の上、今と違って国家として統一された紙幣もできていない時代なのだし。それにしても、この頃の日本人は明治より体格がよくなっているし、俳優さんはその中でもまた背の高い人間がまた多いせいか、例えば弘道館のような昔の建物を使ったロケではみんな鴨居に頭をぶつけそうになっているのがちょっとおかしい。その弘道館のある本県、+++++++++++++茨城県新型コロナ新たな感染者の発表なし370
●平成3年主婦の友社刊秩父宮勢津子著●秩父宮勢津子妃殿下1909-1995○祖父松平容保1836-1893●祖父容保は明治5年に赦免されましたが、再び世に出ることはかたくなに固辞したといいます。明治9年11月には、明治天皇の特別のおぼしめしをもって、従五位に叙せられ、累進して正三位となりましたが、明治天皇様に対し奉てまってはひたすら恐懼(きょうく)するのみであっても、「勝てば官軍」の立場にある側に対しては、無念の思いを心に深く持ちつづけていたことでしょう。○会津藩は国持ち大名
●平成3年主婦の友社刊秩父宮勢津子著秩父宮勢津子妃殿下1909-1995●父松平恒雄が、逆賊の汚名を受ける羽目になった旧会津藩主松平容保の四男であることから少し詳しく会津のことをお話ししたいと思ったからでした。父が生まれるまでの時代背景周囲の事情をお話ししておきますことは私を語る上からも必要でないかと思われるからです。○祖父松平容保1836-1893○父松平恒雄1877-1949左母君、後ろ妃殿下●「勝てば官軍負ければ賊軍」といわれるとおり、祖父はゆえなくして朝敵と呼
向田邦子さん没後40年「故郷もどき」鹿児島で収蔵の写真を冊子に|毎日新聞毎日新聞旅好きの向田さんが海外で撮影した写真とエッセーを集めた冊子「向田邦子の目~彼女が見つめた世界」を、鹿児島市の「かごしま近代文学館」が発行した。あなたの知らないモネがくる!イスラエル博物館珠玉のコレクション約70点が来日ウーマンエキサイトイスラエルの首都エルサレムに所在し、約50万点の文化財を所蔵するイスラエル博物館。1965年の開館以来、蓄積してきた約2,500点の近代美術コレクションから、日本
命日です。旧暦では、慶応四年四月二十五日。流山で近藤勇忌はやったのかな…。去年はコロナで中止だったし…。会いに行きたいです、近藤さん。1868年5月17日(慶応四年四月二十五日)は新選組#近藤勇が斬首により亡くなった日にあたる。「勇ノ体ノ立チシト言フ。是ハ全ク立懸リ、前ノ穴へ橋懸リニ成リ、首ハ腹ノ下ニ相成、出血ハ首ニ懸ラズ」横倉喜三次pic.twitter.com/hoafBCwrzd—新選組の日々(新暦)(@kiraboshi33)May17,2021歳三忌と総司
2021年4月7日(水)福島県会津若松市にある鶴ヶ城へ。【鶴ヶ城】またまたやってきました~鶴ヶ城を訪れるのはこれで何回目になるんだろう。徒歩旅行で訪れて以降、4回目かなただ桜の時期に訪れるのは今回が初めて。名城鶴ヶ城に桜なんて、いや~たまりません【優美な姿】会津戦争の悲劇が嘘のよう。戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争では、新政府軍の猛攻を約1ヶ月に渡って絶え間なく受けることに。総攻撃の際には、1日2500発もの弾丸が撃ち込まれることもあったらしい…歴史上、こんなにも多くの砲撃を
2021-02-1103:58:31|日記第25話会津戦争~孤独な戦い~会津戦争は1868年(慶応4)6月15日の白河口の戦いに始まり、9月15日の二本松城の戦い等を経て若松城籠城戦にて結末を迎える。上野戦争に於いて彰義隊殲滅作戦を立案、指揮を執った大村益次郎は、仙台藩、米沢藩への攻撃、その後完全に孤立化させた会津藩への総攻撃を主張した。それに対し、退助と伊地知正治は会津藩への直接攻撃を主張、退助たちの案が採用され会津若松城への進軍が開始さ
BOOKデータベースより「薩摩藩士の岡元伊織は昌平坂学問所で学ぶ俊才であったが、攘夷に沸く学友のように新たな世への期待を抱ききれずにいた。そんな中、伊織は安政の大地震の際に、燃え盛る江戸の町をひとりさまよい歩く、美しい少女を見つけた。あやかしのような彼女は訊いた。「このくには、終わるの?」と。伊織は悟った。「彼女は自分と同じこの世に馴染めぬいきものである」と。それが、伊織の運命を揺るがす青垣鏡子という女との出会いであった。魂から惹かれあう二人だが、幕末という「世界の終わり」は
私の愛する会津は戦火の中にいた。西郷頼母様の奥方様を始め、戦の足手まといになるまいと考えた女達は自ら命を断った。中野竹子様率いる娘子隊も戦火に散ったと聞いた。私は夫である尚之助様と一緒に鶴ケ城の射撃台へと向かった。前線にいる指揮官は私の姿を見て、苛立ちを隠せない様子で『誰だ』と問うた。「川崎尚之助の妻、八重でございます」指揮官はさらに苛立った様子で『女の出る幕ではない』『出ていけ』など罵倒を浴びせる。「指揮官殿、お願いがございます。八重さんに銃を撃たせてください」指揮官は尚之助様
皆さまこんばんはいつもありがとうございます今日はラジオ出演のお知らせです新年から歴史の番組にご縁をいただけてとても嬉しいです明日1月4日(月)11時〜私が出るのは12時くらいからDARAZFM『きんこんの日本史~冬季特別講習・江戸時代よもやま話し~』に出演します江戸時代は忠臣蔵くらいしか解説できないと伝えたら会津の話をして良いとのことで会津藩の魅力をお伝えしますうーん何を伝えようかな考えるだけでワクワクネットで全国から聴けますのでよろしければぜひお聴きくださいで
1590年秀吉による奥州仕置で、政宗が会津を没収され米沢安置で72万石に減封されたあと、蒲生氏郷が三重松阪(12万石)から120万石で会津入封。蒲生氏は織田信長の娘婿で、秀吉時代の五大老。朝鮮出兵の頃の名護屋城で40歳という若さで亡くなり、13歳の秀行が家督を相続したものの宇都宮に転封。1598年蒲生氏に代わり上杉景勝が入封。この時政宗は米沢も取られ、岩出山へ転封。秀吉時代、徳川と毛利に次いで3番目の大大名となった上杉家。秀吉没後、本丸だけで鶴ヶ城の2倍といわれる神指城の築城に取り掛り、家康
152年前の今日会津戦争が終結したそうです大政奉還をしてもなお将軍・徳川慶喜の政権の存続を望む旧幕府軍と薩長の新政府軍の戦いを総称して戊辰戦争といいますがその中でも会津戦争はとくに有名なエピソードが多く残っています新選組の斎藤一の活躍や白虎隊の自決や山本八重の奮戦など幕府側が目立ちますが個人的には倒幕側で適々斎塾出身の大村益次郎が好きですね幕末も良いですね本日はここまで!スゴイと思いまーす本日のお
1868年8月23日は、戊辰戦争の会津戦争において白虎隊士中二番隊は郊外に出撃し、敗走、飯盛山に辿り着いた。そこから見えた城下町で発生した火災を会津若松城の落城と誤認した。そして、20人の白虎隊士が自刃した。新暦では10月8日のことである。会津藩は9月22日(新暦11月6日)、政府軍に降伏した。
日本100名城13番目白河小峰城をめぐっています。復元された三重櫓と前御門から前御門をくぐり本丸御殿跡へ本丸御殿から見た前御門と三重櫓三重櫓は中の見学が可能なので行ってみます。真下から見た三重櫓中に入ります。狭間戊辰戦争の際の弾痕跡(写真がぼけちゃって申し訳ありません)復元する際に用いた「稲荷山」大杉に弾痕跡が見られたそうです。その杉をそのまま用いて加工されました。上階への急階段普段は上がることが出来るようですがコロナウイルスのため立ち
2017年7月福島県へバス旅行に行きました会津若松市にある鶴ヶ城(若松城)を観光しました1384年蘆名直盛が館を造ったのが若松城のはじまり1592年蒲生氏郷が近世城郭に改造し、城下町を整備1593年望楼型7重の天守閣竣工、名前を鶴ヶ城に変更1643年3代将軍徳川家光の弟である保科正之が入封、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城1868年戊辰戦争の会津戦争で降伏、開城後に解体1965年鉄筋コンクリート造で復興再建、内部は郷土博物館2011年(平成23)3月東日本大
「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」が結成される原因となった「会津若松藩」の「会津若松城」(福島県若松市)後編をお届けします。「天守」から南方向へ延びる復元の「走長屋」「鉄門(くろがねもん)」「南走長屋」「干飯櫓」の建物群が本丸に入るのを阻止するように、横たわっています。手前から復元「走長屋」「鉄門」「南走長屋」「干飯櫓」奥から外観復元の「天守」「走長屋」「鉄門」「天守」は巨大で、「本丸」に入ると真ん前に迫ってきます。この「天守」ですが、野面積みの天守台の上に、1965年