ブログ記事202件
今年度の我がサークルSOMETIMEのお題は、「砂漠」そこで考えた末、私のチョイスしたアイテムは「サバク」には、違いないのだよ続く・・・
今回は、幕末の白虎隊の話。会津戦争の話になる。京都は、そのころ、尊王攘夷の浪人らで治安が乱れていた。幕府は、京都守護職を置くことで治安の回復を図る。しかしこの京都守護職はかなりそんな役で、費用は藩の自費であり長州藩と対立関係になってしまうのが明白だった。最初は、藩主の松平容保は断っていたが、会津藩の家訓に「徳川と命運をともにせよ。」というものがあり、また「藩祖の保科正之なら必ずお受けになるでしょうな。」といわれ武士道を貫く会津藩としては、断れきれなかったようだ。そ
福島県会津若松市:鶴ヶ城(会津若松城)。築城主:蒲生氏郷。日本100名城No12。2024/01/25のNHK総合列島ニュース。雪彩の鶴ヶ城が登場。横浜お城EXPO2023においては、軍資金切れで鶴ヶ城の御城印は断念。錦秋絶景に出会えた紅葉攻城。夜戦後は、車中泊で帰路に。鶴ヶ城御城印との付き合いは結構長く。御城印の名称が定着する以前、まだまだお城御朱印時代でもあった頃。今となっては、平成御城印がすっかり古参となりました。いつの日か会いたい鶴
中野竹子さんについて、そして不思議な出来事と併せて、自由気ままにblogを書いています。竹子さんは、会津戦争で、武器を取り戦った、女子部隊のリーダー格だった人です。竹子さんは、明日は命を落とすかもしれない、終りが見えない幕末の動乱を必死に生きていました。ちなみに私は、会津若松に何回も訪れています。竹子さんは、若い頃、江戸で学問を学び、その後、会津へ帰ってきました。会津藩士の娘で、美人で、男勝り、武芸において特に薙刀の腕前に長けていた、とも言われています。話は少し反れますが
会津武家屋敷からバスで数分。白虎隊十九士の悲劇の地に着きます。◆飯盛山◆標高314mの飯盛山。日本武尊の伝説も残る信仰の山ですが、戊辰戦争における会津戦争では、十代半ばの少年たちで編成された白虎隊が中腹で自刃した事で余りにも有名。急勾配な石段の脇を走る有料エスカレーター。*利用料金¥250木々に包まれた石段を登り切ると、線香の香り漂う広場に着きます。白虎隊十九士の墓白虎隊は会津藩が編成した少年兵部隊。新政府軍の猛攻により飯盛山へ
植木屋さんがここ数日会津の記事をUPしている。わたしの父親は、少し離れた二本松出身だが数代先はこのあたりから二本松に婿入りしたらしい。私が20代前半の時に親族の集まりで叔父と父から言われたこと、たぶん1990年代前半。「今どきって思うかもしれないが、先祖代々山口県の家系のものとは結婚してほしくない。長州に散々親族殺されてるからな」戊辰戦争(会津戦争)1848年つまり150年近く前のこと。叔父は昭和一桁生まれとは言え物心ついて100年以上前のことです。当時わ
久しぶりに〝学校では教えない〟優れた日本軍人のご紹介です。皆さんは、学校で『義和団の乱』を習った記憶があると思います。それまで西欧列強による侵略を許し、日清戦争に敗れて以降さらに疲弊した清国内では、人々の不満が高まっていました。そしてアロー号事件の際に締結された天津条約(1858年)でキリスト教の布教が認められたことにより、多くの宣教師が清国入り。地元の風習を無視した強引な布教を行ったため、住民との衝突(仇教事件)が各地で起きるように。そのキリスト教に対する反発と、清朝に対する不満
ハーブ猪苗代天気が悪いので綺麗に撮れなかったのが残念ですが、SNS映えする人気のスポットらしいです。そして、その日は隣のホテルリスリル猪苗代に宿泊3日目会津鶴ヶ城会津戦争の悲しい歴史は白虎隊、西郷頼母の家族等、それぞれに物語があって涙涙(クライマックスの一部しか観てないけど、それでもジーン😭)「愛しき日々」の歌が脳内で何度もリピート山下君が白虎隊のドラマして、それ以来してないのかな。お金がかかり過ぎるからか需要がないのか、こういうのも又観たいな。八重の桜も観てないので悔やまれる。
「新・雨月戊辰戦役朧夜話」船戸与一今年は、会津戦争155年目だったのですね。そして、新選組結成160年。会津戦争の開戦は、1868年の10月。その時期に戊辰戦争関連の本を読むとは(全くの偶然です)今年は、4年ぶりに会津まつりが開催されたようですね。動画で観ました。綾瀬はるかさんの山本八重、大河ドラマを思い出します。
皆様、こんばんは。幕末から明治初期、奥州の地は形の上では「錦の御旗」を掲げたその実は不義の徒によって侵略を受けました。そして会津の地も不義の徒により踏みにじられましたが、その際には女性も侵略者共と戦い、そして犠牲となりました。今回は、会津戦争における女性たちのあまりに痛ましい最期についてのエピソードについてご覧頂きたいと思います。【閲覧注意!!】号泣…生き地獄すぎる『会津戦争の女性たちの悲惨な最期』がヤバい…【ゆっくり解説】今回は、会津戦争の悲劇的な女性の歴史を解説します
『ふしぎの国のバード』全巻購入したのでいつでも一気に読めるようになった訳ですが読むのが勿体ないような気もしてしまっておりちょこちょこ、図書館本を挟みながら読んでいこうと思います。さて、3巻目は険しい会津道を通る所から。ふしぎの国のバード3巻(ハルタコミックス)Amazon(アマゾン)373〜2,046円相変わらず珍しい異人を一目見ようと集まってくる日本人に少しは慣れてきたバードが最初に目にした不思議な光景は木にぶら下がっているロープ。実は自殺の跡だった
白虎隊に出演されていた時の森繁久弥さんしか思い浮かばない会津戦争で目の前で幼子たちが倒れるさまに魂がちぎれるような芝居をする
【著者とのコラボ記事】■好評販売中山河を駆ける・上巻-日光・南会津の戊辰戦争秘録Amazon:https://www.amazon.co.jp/dp/4909566589/楽天:https://books.rakuten.co.jp/rb/17271649/山河を駆ける・下巻-日光・南会津の戊辰戦争秘録Amazon:https://www.amazon.co.jp/dp/4909566597/楽天:https://books.rakuten.co.jp/rb/17285973/
阿蘇だぁ~!世界一のカルデラだ!「世界一カルデラ」というイメージが、幼い頃から長く私を誘っていた阿蘇山へ、ついに来た!外輪山がきれいな平行線をなしている。阿蘇山のカルデラは南北25キロ、その円内に5万人も住んでるそうな。なんだ?この山、円墳じゃないわな。見えたぞ!噴煙あげてる!幾重にも重なる火山灰の地層を見ながら、火山灰ソフトクリームを美味しくいただくも、しまった!写真撮らず。「火山灰、少し混ぜてあるんですか?」「!!!(バカカジジィ)
自分の浄化浄化を始めると胸腺に強い反応胆嚢・胃腸に強烈な痛みが来ていましたそして肝臓にも怒りの反応ですこの時代なにをしていたのですか?みんな一緒に…のフレーズがうかんできます内部での諍い自分の思いが届かない、聴きたくない恨み・妬み・憤慨・猜疑心。ぐちゃぐちゃな感情が流れ込んできて、丸二日強烈な吐き気や耳の痛み、調子が悪く苦しんでいました会津の封印を解くと、心のわだかまりがまた一つとれたように思います周りの者たちに強い妬みや恨みをもっていたようで、
新刊「山河を駆ける・下巻-日光・南会津の戊辰戦争秘録」発売■書籍タイトル山河を駆ける・下巻-日光・南会津の戊辰戦争秘録著者:氷乃士朗2022年9月17日、全国販売開始Amazon:https://www.amazon.co.jp/dp/4909566597/楽天ブックス:https://books.rakuten.co.jp/rb/17285973/<書籍概要>会津戊辰戦争後に会津西部・山間部で繰り広げられた“会津藩と新政府軍の激戦”をモチーフに描いた歴史小説。幕末に生きる二人の
新刊「山河を駆ける・上巻-日光・南会津の戊辰戦争秘録」発売■書籍タイトル山河を駆ける・上巻-日光・南会津の戊辰戦争秘録著者:氷乃士朗2022年8月30日、全国販売開始詳細:https://www.amazon.co.jp/dp/4909566589/【下巻は9月17日発売予定】<書籍概要>歴史小説のなかでも不動の人気を誇る幕末の偉人たち『土方歳三』『永倉新八』『板垣退助』などが登場。戊辰戦争の局面の一つ“会津戦争”をモチーフに熾烈な戦いと男たちの熱い絆が描かれています。特に、上巻
1カ月におよぶ籠城は会津藩の降伏で終わる。援軍のない籠城戦に勝利などあるはずもなく、最終的には自滅するだけである。会津の象徴である天守閣は今にも崩れ落ちそうだった。屋根瓦は吹き飛ばされ、軒は大きく歪み、白い外壁には無数の弾痕があった。9月22日の降伏式後、容保と養子の善徳(のぶのり)は滝沢村の妙国寺に入って謹慎した。籠城の婦女子と老人は解放されたが、将兵らは猪苗代と塩川村に分散して収容された。『会津戊辰戦史』によれば、籠城直前容保は弟の松平定敬に、城が陥落するならばこの身は国
雨は面川沢にも降っていた。午前6時、母のことが心配で落ち着かない五郎はキノコや栗の入った籠をさげて留吉と山荘をでる。4キロほど歩いて堤沢村の北口に至ると、街道を埋めて2人にせまるずぶ濡れの避難民と遭遇する。みな南に向っており、北に進むのは五郎と留吉のみであった。幾人もの避難民が五郎に引返すよう諫(いさ)めたが、五郎はなんとしても母のもとに行こうとの思いで、いうことを聞かずに路外の稲田を走った。城まで2キロあまりとなる北御山の北端、中野に通じる分かれ道にたどり着く。遠く前方を見ると、
母や妹らの自刃この年、柴五郎は数えの10歳となり藩校日新館に入学していた。父の佐多蔵は、隠居する前は280石の御物頭(おものがしら)(槍組、弓組、鉄砲組などの長)の身分で、屋敷は若松城下郭内本二丁にあった。家族は他に祖母つね、母ふじ、兄の太一郎、謙介、五三郎、四朗、姉のかよ、つま、そい、妹のさつがいた。それに太一郎の妻とくもいる。当時、佐多蔵は城内の守備、長兄太一郎は軍事奉行として、三兄五三郎は農兵隊長として越後方面、次兄謙介は日光宇都宮方面に出ていた。のちに謙介はこの年の4月に家中
評議が終わり各部署の責任者が兵を率いて城を出たのは午後1時であった。まず容保が叱咤激励のため出陣して滝沢に向かう。その先駆となったのが佐川官兵衛だった。一刻を争う事態だというのに何かずれているというほかない。母成峠敗戦の報せが届いたのは午前5時頃なので対処に動き出したのが8時間後ということになる。新政府軍が国境を破って会津城下に近迫しているのに、どうしたらそんなに時間がかけられるのかと疑問が生じる。理由はすごく単純で、新政府軍の進撃速度を全く考察できていなかったことと国境が破られた場合の縦
22日―新政府軍の進撃を認めた猪苗代城代の高橋権太輔は、とてもかなわないとして城に火をつけて退却してしまう。猪苗代城の兵200は母成の守備として出ていた。その敗戦によって散り散りになって逃げており、城に戻った兵はわずかだったらしい。猪苗代城址猪苗代城での激戦を予想していた新政府軍であったが、途中抵抗を受けることなく炎に包まれた猪苗代城に到着する。そしてここを宿陣とする。だが川村純義は母成攻撃に寄与できなかった不名誉を挽回するかのように、雨の中、一隊を率いて戸ノ口の十六橋に
―右翼の隠密行動部隊は、敵から遠く離れた急斜面を下り、絶壁をよじ登り、辛苦して進む。ようやく到達した場所は勝岩と勝軍山の中間付近であった。土佐藩兵は勝岩の陣地を、長州藩兵は勝軍山の砲台を側方から攻撃する。突然と側方から射撃を受けた旧幕府軍の兵士らは驚愕し、陣地から飛び出して遁走する。それを見た右翼隊が勝岩を越えて突撃した。中央隊も機に乗じて敵陣に突入し、2隊が主陣地を蹂躙する。もぬけの殻になった数十の陣屋に火を放つ。時刻は正午を過ぎていた。―大鳥の語ったところによると、勝軍山に
21日―新政府軍は夜明けとなる午前5時ごろ、母成峠攻撃を開始する。攻撃方向は、右翼の谷干城(土佐藩)率いる約1000が伊達路といわれた玉ノ井~赤木平~勝岩、主攻となる中央の板垣・伊地知率いる約1300が玉ノ井~石筵~石筵道沿い、左翼の川村純義(すみよし)(薩摩藩)率いる約300が玉ノ井~石筵~山葵(わさび)沢~達沢~不動滝となる。なお左翼は旧幕府軍の背後を目標としていた。石筵道、左の山稜が攻撃方向―午前7時ごろ、萩岡の木砲が2発射撃して新政府軍の進撃を知らせた
母成峠(石筵)における旧幕府軍の守りは警戒陣地、主陣地、予備(後方)陣地の第三線からなる。警戒陣地は石筵の後方(北)3キロほどの萩岡、主陣地は中軍山~銚子ヶ滝~勝岩の線、後方陣地は母成峠である。兵力は新政府軍が旧幕府軍の約3倍と優位であるが、地の利は旧幕府軍にあった。それを生かしたら少なくとも数日間は新政府軍の進攻を阻止できるはずだった。20日―会津藩は二本松を襲撃するとして、母成峠を守備する会津藩・二本松藩・仙台藩及び伝習隊にその任を命じている。大鳥が語ったところ
会津藩は―猪苗代湖の南東となる勢至堂峠、御霊櫃峠及びその二カ所から集約する中地村に精鋭部隊主力を置いていた。江戸からの主要接近経路であり、白河城(小峰城)奪還の目的もあったからだ。次いで兵力が置かれたのが猪苗代湖北側に抜ける中山峠であった。会津藩の重役らは主要経路から外れた母成峠を軽視し、当初は300あまりの兵士だけで守備させていた。だが新政府軍が二本松城にせまると藩の重役らも母成峠の守りに少し不安を感じたのか、伝習隊を率いて小山、宇都宮、日光と戦ってきた大鳥圭介に石筵口の防御を命じる
3月、新政府は東北地方鎮圧の組織となる奥羽鎮撫総督府を仙台に派遣した。総督九条道孝(公家)、下参謀の大山綱良(薩摩)、同世良修蔵(長州)らは横柄な態度で東北の諸藩に会津討伐を命じる。だが東北の諸藩は、朝廷を5年間守り孝明天皇の信任も得ていた会津藩に同情し、会津が逆賊とされる理由がないとして会津救援の和平工作を進める。しかし奥羽鎮撫総督府は東北諸藩の嘆願を全く受け入れず、あくまでも会津討伐を命じるのみであった。東北諸藩は薩長主導の新政府に不信感を抱く。特に長州はついさっきまで朝敵とされていた
母成峠破られる会津盆地の中心に会津若松がある。奥州街道から会津若松に向かう経路は大きく分けて七つあるが、那須や安達太良の山地を越えなければならない。また会津若松の東側は猪苗代湖なので、これを迂回しなければならなかった。2月22日、容保の一行が会津若松に到着する。だが容保は登城をはばかり城下に謹慎していた。5日後の27日、容保は藩士に次のような内容を布告する。この度、困難な形勢になったのは、つまるところ自分の不行き届きからで……今般会津追討の命が諸藩に下ったそうなので、今にも多く