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<この蕾がどうなっているか、これから江戸川土手に確認しにいくことに>足利学校がもっとも栄えた頃の第七代校長(同校では庠主(しょうしゅ)と呼ばれていた)の伊集院九華出身がおなじ大隅ということもあり、関心をもって少しずつ調べてきた。彼を知る一番適した論文を鹿児島県立からコピーして送ってもらった。だいぶ前のことである。旧字体が多いのと、コピーが不鮮明であるため、判読がなかなか進まなかったのだが、重要な史料になると考え、旧字体をそのままの書き起こしを始めた。なかなか旧字体が出てこな
図書館から『戦ぎらいの無敗大名』(森山光太郎、双葉社)を読書中1.主人公は柳川藩主・蒲池十郎漣鎮(かまちじゅうろうしげなみ)。舞台は1550年頃から1584年頃)<去年9月に訪れた柳川の町>2.福岡で「蒲池」といえば松田聖子さんの本名ではなかったか?と思い調べたら、主人公・漣鎮の弟の統安につながっているようだ。3.大隅国出身の伊集院九華が足利学校第七代庠主になったのは1550年で以後29年間、庠主を務めた。ということはちょうど蒲池十郎漣鎮の活躍時期と重なる
今日も昨日に続き寒い一日になりそう。1.3月28日午後2時管理栄養士の国家試験結果発表「受験者数16,169名のうち合格者数は7,778名であり、合格率は48.1%です。」ただし、現役合格率は80%だったようだ。東京聖栄大学教職課程履修者の合格率は10/12で、83%だった。2.ミャンマー中部大地震によるバガンの被災状況は、いまだ分からず。ほとんど報道されていない・3.ところで「報道」(repoting)の「報」は分かるが、なぜ「道」か?「道」を報じる???考えてい
5年も前に、私宛に書いてくださった貴重なコメントをつい一昨日発見。「大隅の鴻儒・九華と足利学校」について-鴨着く島10月26日に東京都にお住いの嶺井正也さんという方から標記の「大隅の鴻儒・九華と足利学校」という大隅史談会会誌『大隅』の第一号に掲載された論考のコピーを送っていただいた。この論考は大隅史談会の初代会長・永井彦熊先生が書かれたもので、大隅出身の「九華」(きゅうか=これは僧侶で言えば出家名だが、儒者なので若干意義は違うけれどもペンネームというべきか)という人物が…bl
板坂燿子福岡教育大学名誉教授によると貝原益軒の紀行文について次のように説明している。「これでもかというほど豊富な情報をl絶対読みまちがえさせないと言わんばかりの正確な文章で記す。読者に勝手な想像をさせる余地や、常識や共通の感覚によりかかった省略などはまるでない。」ネットに頼りながらこの文章を読んでみたが、古文書を読む訓練をしていないので、判読できなかった。そこで、崩し字のない文献をみた。その文献とは板坂燿子・宗政五十緒校注『新日本古典文学大系98東路記己巳(
『東路記(あづまじのき)』より紀行・旅物語(日光名勝記)hamasakaba.sakura.ne.jpこの紀行文のなかで益軒は「足利学校」について詳しく紹介している。第九代庠主の「三要」は取り上げているが、第七代の、わが「九華」については全く触れていない。残念その一部を掲載足利学校史跡内マップ入徳門|学校門|杏壇門|孔子廟|方丈|書院|庫裡|玄関|衆寮|木小屋|土蔵|裏門字降松|楷の木|北
ようやく怒涛の一か月が過ぎようとしている。この間、本をじっくり読む時間がなく、本が積み重なっている。しかし、明後日の土曜日からは嵐がおさまるので、「さあ、読むぞ!」という気持その一冊目がこれで、Fusanさんがブログで取り上げていたもの。著者の一人は全国的に名が知られている原口泉さん(鹿児島大学名誉教授・志學館大学教授)。私の出身高校で、一年先輩(高校3年時アメリカの高校で学んでいる)でありかながら、同じ教室で学んだことがある。父親の原口虎雄さんも歴史学者であった。
未だ確定できない伊集院九華の旅。関連しそうな文献を読んでいるのだが、まだまだ明らかにするのは先その文献の一つ『旅の誕生』(倉本一宏、河出ブックス、2015年)を読んでいたら、『更級日記』を暑かった章で、次のような一文があった。「下総国府の対岸である現江戸川区北小岩(旧下総国葛飾郡大島郷甲和里)からは、墨田川に向かう古代官道が検出されている」(51P「・・・一行は太井川を渡った。その渡河地点も、井上駅のあった現市川市市川から現江戸川区北小岩の地、江戸時代の市川
「帯と貞操・・・旅する女たちの中世」(金森敦子)という章題に魅かれて『漂泊する眼差し』という書を手にとっ敦子『更科日記』にかかれた身分高い人々の旅も大変だった、ということを紹介したあと、次のようなくだりが続く。「まして何の力もない庶民の旅となると、その苦労はたいへんつらいものであったことはいうまでもない。日が暮れて宿を乞うても、盗賊が旅人になりすまして民家に押し入ることが日常化していたから、怪しまれて泊めてもらえることは少なかった。誰も住まなくなったあばら家に忍び込んで一
<咲き始めたシャコバサボテン>日本中世史に凝り始めている。もちろん、伊集院九華の足取りを知りたいという動機があるから。先月19,20日の山田方谷関連資料探しで、分かったことの一つが臨済宗の改組で、建仁寺を開山した栄西が備中国の出身であること。一度紹介したことのある五味文彦の『日本の中世を歩く』を読んでいたら「博多の物流から都市の展開を読む」という節にこの栄西が出てきたのである。「栄西が初めて渡宋を志したの
東京聖栄大学図書館にあった本書を手にとり、借用した。第Ⅳ章「人と物の動きをみつめるーー室町・戦国時代」なかに「10足利に学徒の夢を追う」という節を見つけたからだ。やはり、伊集院九華(足利学校第7代庠主(しょうしゅ)のことが気になっている。残念ながら九華は触れられていないが、彼のことを考える重要なてがかりが見つかった。「学生は学校に入る際に僧となる必要があった。校長である庠主が禅僧であり、学校のなかには常住の僧がいたのである。学校といっても禅宗寺院と同じような組織をとっていたの
FUSAN78のブログで知った森勝彦の『九州の港と唐人町』(海鳥社、2021年4月)を読んでいる。中世の九州の海路を明らかにした本である。いうまでもなく、足利学校第七代校長の伊集院九華(大隅国出身)が大隅から足利学校にたどり着くまでの行程そ知りたいからである。『1543南九州の古墳群と唐人町』肝付町の文化財007年。その冒頭p3&4塚崎古墳群。前方後円墳5基はじめ52基の古墳群が残されている。東憲章「古墳時代の南国の雄西都原古墳群」(…ameblo.jp
足利学校最盛期の第七世庠主(しょうしゅ=校長)だった伊集院九華(大隅国出身)と同時代にキリスト教布教のためにやってきたフランシスクコ・ザビエル。そのザビエルが鹿児島に上陸し、やがて、京に向かうも将軍に会えずに引き返すなかで、諸説があったのが、山口から、日本出国の地であった府内まで、どのよう
昨日。拙ブログで紹介したのは鹿児島大学名誉教授の神田嘉延さんの文章。神田さんは現在、ベトナムでの日本語教育に力を注いでいらしゃるようだ。https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2021/08/25/174927今回も重要な個所を引用。琉球国からも足利に学んだ僧が居たこと、その彼が伊集院九華と東福寺で共に修業していることに驚き。「中世後期足利学校は、沖縄を含めて全国から学徒が集まっていました。琉球国から派遣された鶴翁智仙は、中国の明ではなく、日本の足利
楽しみにしていたNHKのブラタモリ「足利編」(1月28日放送)。先ず出てきたのが鑁阿寺や足利の地形。これは足利尊氏につながるルーツに関する話題に関わって取り上げられていた。二つ目の話題に登場したのが、私がこだわっている「足利学校」であった。ここでの学問で特徴的だったのが「易学」だったということに関して、関ケ原の戦いに軍師として徳川方についた同学校第九世庠主(しょうしゅ)の多々良三要が取り上げられていた。確かに話題性からいえば三要かもしれないが、しかし、「坂東の大学」として隆盛を誇っいた時期
<1月9日撮影の蝋梅つぼみ>大げさなタイトルだが、この関係を示す論文が見つかったということ。「中世後期関東における儒学学習と禅宗」(川本慎自)という論文が見つかった。その中にこんな記述があった。「薩摩の僧以継紹が足利学校に学び、その後に正宗寺に赴いている。この場合、正宗寺僧が足利学校へ遊学(この使い方をどう考えるべきか)するだけでなく、足利学校に学んだ後に正宗寺に赴くという方向の人的関係もあったということになり、足利学校と正宗寺との間に相互的な人的交流があったことを示している。<
今回の手術報告についてたくさんの方から励ましのお言葉いただき感謝です。ありがとうございました。術後7日間は「なるばく安静に過ごす」という注意書があるのですが、家に引きこもっているのも気が滅入るので、昨日、陽ざしが暖かくなってからいつもの江戸川土手ウォーキングへ。快晴で、気持ちがすっくきりとした。そして、いい写真が撮れた。<調べたらサンゴカクモミジだと判明><まだ咲いている十月桜。そろそろ二度目が咲きそう><寂しい声で鳴いていたヒヨドリ><手の届かないところにた
嬉しい反応があった。いつもの伊集院九華ルート解明について思いめぐらしていたら、「そうだ、史跡足利学校に資料なないだろうか?全盛期の校長だったのだから、何か残っているはずだ」という着想。すぐにメールしたら、即、学芸員の方からの反応があった。内容的には、これまで私が調べで分かったこと以上のものはなく、むしろ、こちらに何か資料がないかというものだった。そこで、これまで拙ブログに書いたものを集めたファイルを送った(まとめたり、整理はできていなし)。九華が大隅国から下野国に向かうルートについて
「あれっ!ないなあ。どこに置いたかな?知らない?」「何がないの?」「あれだよ、あれ」「あれだけじゃ、分からないよ・・・」「ほら、あの古い感じがする文庫本だよ。えー・・・そうだ宗長日記というやつ」「いやあ、見たことない」結局、見つからないまま宮本常一編著の『庶民の旅』を久しぶりに手にとったら、な、なんとあるではないか。第一章「流浪者たち」にある第2節「遊行僧」のトップで出てくるのが「連歌師」だった。書き出しはこうである。「風来坊たちは東の風が吹けば東に、西
紹介された「東路のつと」の一部をネットで発見。最初、自分なりに著者の旅ルートを確かめようとしてメモを取っていたが、何と昨日の明日、詳しいルートをすでに確定した論文を発見。外山信司さんの「戦国の房総を訪れた連歌師宗長」という講演記録である。untitled(jiu.ac.jp)「東路のつと」の著者は連歌師宗祇の弟子だった宗長である。かれが白河までの旅を途中で断念し、その後南関東をめぐる旅を記した日記である。駿河国の丸子にある自宅を出発したのが永正六(1509)年7月16日であり、帰
依然として心に残っている足利学校第七代庠主(校長のこと)玉崗瑞璵九華(ギョッコウ・ズイヨ・キュカ)=伊集院九華が、大隅国から下野国の足利までどのように旅をしたのか、という疑問。おおまかなことは少し分かるようになってきたけど、まだまだ解明には道遠し。日本中世の教育史研究に同時代の「遊歴者」が登場してくることを最近知ったので、そのことを調べるとともに、「古典への招待【第48回:中世日記紀行文学の諸相】(japanknowledge.com)」で紹介されている紀行文学を丁寧に読んでみようと
fusan78さんのこのブログで知った本書を買い求め、一気呵成に読んだ。わが故郷の歴史だけに、そして、自伝のようでも古代史研究でもある内容と、新聞記者経験に裏付けられた読みやすいに文章に惹きつけられたのである。『その143大隅隼人(郷原茂樹)』昨日15日、市役所前の本屋さんbooksselvaで買いました。著者の郷原茂樹氏は、鹿児島県鹿屋市出身、1943年生まれ。有名な菓子メーカーの社長だっ…ameblo.jp本書は大隅地方にある「唐仁古墳群」から始まり、その地域に住ん
こんな時間的余裕などないのだけど、ついつい検索し、読んでしまう。伊集院九華の足取りを探るために古代や中世の交通を調べているが遅々として進まない。それでも今年の春には「近衛信尹(のぶただ)にしたがい,翌年帰郷するまで阿蘇惟賢(あそ-これかた}が書いた日記「玄与日記」を見つけ、鹿児島から京都までのルートをさる程度知ることができた。今日見つけたのは当の近衛信尹の日記「三藐院記(さんみゃくいんき)」があり、それによる記録(概略)である。下から10行目になんと、「帰郷を許され、鹿児島を出発
9月27日の東京新聞朝刊記事に「よもやま邪馬台国再び「二つの倭」」なる記事があった。纏向学研究センター長の寺沢薫さんの名前が登場する。そういえば苅谷俊介さんもパネリストとして参加される「女王卑弥呼「共立説」」シンポのポスターに名前があった。一方、わが故郷、鹿児島県大隅半島に関して気になる記事がアメログにあった。『ブログNO.157南九州の鉄文化2弥生時代の鉄矢じりなど11点南大隅町の千束遺跡、』ブログNO.157南九州の鉄文化2弥生時代の鉄矢じりなど11点南
うーん、考えが甘かった。かんぴょうをイタリア風にしようと思って作ってみたが、パスタなのかサラダなのか、どちらかに徹底できず無残に。<かんぴょうが埋もれてしまったことにも失敗が象徴されている。左の花は木からぽとりと落ちる寸前の酔芙蓉>バジルソースが強すぎてかんぴょうの風味をダメにしてしまった。素直にオリーブオイルとバルアミコだけにしておけばよかった。使った食材はかんぴょう、モッツァレラチーズ、赤いパプリカに大葉。ソースは市販のバジリコ。でもランチのすだちうどんは成功。そ
<名残り???の木蓮かな>Fuasan79のブログのおかげで、「玄與日記」なるものを読むことができた。それを読むと鹿児島から京都まで、一時陸路をつかうが、ほんど海上交通を使っていることが分かった。玄與(げんよ)日記とは「薩摩から帰路する公家・近衛信伊(のぶただ)に随行した阿蘇惟賢(これかた)(阿蘇大宮司惟前(これさき)の子。出家して黒齋玄與と号す。生没年不詳)が記した資料である。信伊は文禄三年(1594年)に勅勘を被り薩摩配流となったが、文禄五年に勅勘が解け、帰路する折に玄與が随行し
<千両の実が・・・>FUSAN78がつづられているブログ『上荒田日記(続)』をよみ、「惺窩は京都からどうやって大隅国の南端、内之浦まできたのだろう?」という疑問がわいた。『その62藤原惺窩が内之浦港にいた1週間』1596年夏、儒学者の藤原惺窩が、大隅半島(鹿児島県)の南端近くの内之浦港に1週間滞在した。この時期は、うちには関ケ原の戦い〈1600年〉の直前であり、ヨーロ…ameblo.jpそこでネット検索してみたら「海からみた鹿児島の歴史」(untitled(jcca.or.j
大田原市にある「芭蕉の館」に初めていってきた。黒羽芭蕉の館|大田原市(city.ohtawara.tochigi.jp)館のある旧黒羽(くろばね)城址は静かな里になっていて、「あじさい祭り」は終わったもののその名残があった。題名にあげた「山も庭も動き入るるや夏座敷」なる句は、「黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪宅を訪れた際の挨拶吟」とのこと。芭蕉の弟子でもあった「桃雪」には「桃水」という実弟がいた。恥ずかしながら、その名前が鹿子畑(当時岡氏)豊明であるこ
*写真は坪庭の愛らしき花たち足利学校第七世庠主玉崗瑞璵九華(ぎょくおか・ずいよ・きゅうか)、俗名・伊集院九華は大隅国の出身で、その期間は1550年から29年間であった。かれが、いつ、どのような方法で、大隅国から下野国までいったのか?この疑問について、一時期、彼が僧侶であったことを考え、各地の寺を訪ね、問答などして、宿泊しながら向かったのではないか、と考えたことがあるしかし、5月27日の拙ブログで紹介した「永禄六年北国下り遣足帳」について(rekihaku.ac.jp)では、以下
拙ブログで、日光東照宮の鳥居の材料となっている花崗岩が現在の福岡県糸島市から運ばれてきたことを知って、驚くとともに、どのようなルートでどのように運ばれた来たのか疑問をもった、と書いた。後ろに石鳥居が見えるすると苅谷俊介さんが、以下のような詳しい情報を提供してくださった。「花崗岩の石鳥居の運搬リート興味深く拝読しました。熊本宇土の「馬門石」を御存じだと思います。我々は阿蘇ピンク石と呼んでいますが、阿蘇山4回目の大爆発に伴う溶結凝灰岩です(約7~8万年前)。6世紀の古墳(