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京都浪漫第177回洛西癒やしの寺めぐり浄住寺本堂と回廊で繋がれている、方丈。方丈は、仙台藩主伊達綱村が過ごした江戸屋敷を移築したもの。江戸時代の武家屋敷の遺構で上段の間がある。そこにはある秘密が隠されている。同じ藩の中でも常に、命を狙われるので、何かあっても逃げられるよう、見えないようなところに武者隠しが備えられている。ん?小さくないか?と思っていたら僅か2歳で家督を継いだ、綱村には充分な大きさだっただろう。知らなかったです。勉強になります。↓押して
こんばんは♪夜は牛タン朝はずんだもち・笹かま・だし・たまこんにゃくなどなど東北ご当地メニューを楽しんで2日目は御朱印巡りをしてきました最初に向かったのは⛩️鹽竈神社⛩️しおがま神社です。地名で知っているしおがまは「塩釜」ですが地名の正式名称は「塩竈」神社の正式名称はこの難しい「鹽竈」なんだとか地元の方々の愛を感じますね❤️知らない人は絶対に書けない漢字ですよね💦思わず書き順を調べましたよ駐車場の案内図を見るとめちゃくちゃ広い最初に見えてきたのは鋳銭釜こんな釜
※2025年4月6日訪問※仙台市宮城野区岩切の【十符の池跡】を訪れましたサッカー観戦後、利府から岩切を経由して泉中央まで歩いていた帰路の途中、道路沿いの施設の柵に何やら案内板を発見【「十符の菅」「十符の池跡」】と書かれていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼「十符の菅」「十符の池跡」「十符の菅」は、中世以来「みちのくの十符の菅薦七符には君を寝させて三符に我が寝む」等と詠まれ、その菅は網目が十筋の菅薦の材料として使用される良質なものといわれ、陸奥の歌枕として知られて
仙台市内も徐々に桜が咲き始めて来ました仙台駅から歩くと20分位でしょうか仙台市宮城野区にある榴岡公園です榴岡公園-Wikipediaja.wikipedia.orgちょっと資料が欲しくて、すぐ隣のNPOプラザに寄りましたプラザの入口脇伊達綱村が御母堂の三沢初子様を供養するために此処に釈迦堂を建立したそうですが現在は移転されてしまい…その石碑でした来月は母の日その日に実家帰省できたら良いなあ片道300キロほど……◆読書会は4
早春の花と出会いたく、家からまあまあ近いので、たま~に行く植物園へ。「大年寺山公園」テレビ塔です。仙台市野草園(せんだいしやそうえん)は、宮城県仙台市太白区の大年寺山公園内に位置する植物園。東北地方に生える野草を中心に植栽されており、仙台市からの委託により(公財)仙台市公園緑地協会が管理している。日本植物園協会加盟園。wikipediaより「野草園は、学者の加藤多喜雄が、弟の加藤陸奥雄とともに仙台市に持ち込んだ構想に起源を持つ。加藤は、
2月16日(日)午後4時30分から東園寺(松嚴山東園禅寺,臨済宗妙心寺派,宮城県塩竈市旭町)で開催された涅槃会法要・法話,まねだ聖子ショーに行って来ました。東園寺には仙台藩第4代藩主・伊達綱村の位牌が安置されています。まねだ聖子さんは〇田聖子さんより歌がうまく,可愛い(あくまで,個人の感想です。)!私は「中森明菜派」です(笑)が,とても楽しい時間でした。ゴジーラ久山さんです。マジシャンKO-1(こーいち)さんです。再びゴジーラ久山さんです。
第14回宮城マスター検定より問題:多賀城跡にある「多賀城碑」が令和6年8月国宝に指定されました。これは、宮城県内何件目の国宝指定だったでしょうか。答え:7件目解説:これまでに指定された宮城県内の国宝は、東北大所蔵の「類聚国史巻第廿五」と「史記孝文本紀第十」、建造物の「瑞巌寺本堂」「瑞巌寺庫裏及び廊下」「大崎八幡宮」と「慶長遣欧使節関係資料」の6件でした。「多賀城碑」は7件目の国宝となります。さあ、昨年の宮城マスター検定にも出題された「国宝多賀城碑」です!!国宝ですよ!!碑の上
あたかもタイミング的には初詣で鹽竈神社に出かけたかのようになってしまいましたが、訪れたのは昨年11月の下旬でして、周囲の風景は晩秋の佇まいと受け止めてくださいますと幸いです…といっても、昨年は紅葉シーズンが遅めだったかもですねえ。表参道の石段を前に立派な石鳥居が立っておりますが、柱の部分には仙台藩四代目藩主・伊達綱村の幼名「亀千代」が(寄進者として?)刻まれておると。鹽竈神社の社殿は伊達政宗も造営を手がけましたですが、現在に残る社殿は綱村が造営に着手したものだそうで(竣工は五代目の吉村
葉室山浄住寺葉室山浄住寺公式サイト|トップjojuji.org隠れた紅葉の名所として知られるようになったお寺さんですこちらも通常非公開です松尾大社の近くにあります禅宗のひとつ黄檗宗のお寺さんです檀家さんが少なく維持がたいへんとのこと長い歴史でも宗派が変わって受け継がれてきたそうですそういったお話もとても興味深かったです伊達綱村ゆかりの建物だそうです江戸時代初期に作られたお庭趣きがあってとても良かったです
こんにちは(*^^*)塩竈市の秋のイベントが明日から始まりますどうぞ、おいでくださいませ塩竃門前町カフェタイム塩釜文楽館事前予約が、必要ですみなと塩竈夢博みんなでシネマ塩竃の恩人綱村公の思いを伝える仙台藩第4代藩主伊達綱村公がテーマで、申し込みが必要です少しでも多くの方がいらっしゃることを願っています(^^)/
塩竈神社では全国でも珍しく、唐門を入った先に2つの社殿があり…向かって右手側に主祭神である塩土老翁神が祀られており、主祭神を祀るこちらの宮を「別宮」と呼ばれ、また…正面にあるこの鹿島と香取の神を祀る宮を「左右宮」と呼び、前述の「別宮」の由来は“特別な”という意味があるそうです。鹽竃神社の創建は不詳とのことですが、はるか昔、武甕槌命(常陸国・鹿島神宮の御祭神)と経津主神(上総国・香取神宮の御祭神)が陸奥国を開発した際…先導だった塩土老翁神が、当地に製塩の技術を授けた事から住民が感謝して
9月7日(土),東京から東北旅行中のIさん御夫妻が志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)に参拝されるとのことで,境内のガイドをしました。奥様のK子さんは東日本大震災の大地震の際志波彦神社鹽竈神社に参拝中だった方です。K子さんはその後志波彦神社鹽竈神社に何度も参拝しています。久しぶりにお会いできうれしく思っています。又のお越しをお待ちしております。ぜひお声掛けください。当日のガイド箇所を写真で紹介します(一部撮影し忘れた所があります。)。説明は省略します。
志波彦神社へ参拝の後は鹽竈神社へ⛩️石鳥居をくぐり表参道から行きたかったので、一度石段を降りてあらためて参拝させていただきました✨東北の神社としてはとても有名な陸奥国一之宮の“しおがまさま”☆石鳥居表坂の石鳥居は、寛文3年(1663)に伊達亀千代(綱村)によって造立されました。現在の社殿よりも早い時期のものです。☆狛犬☆表参道(表坂)鹽竈神社といえば、この202段の心臓破りの急な石段ですよね。この少し前に胃腸炎になり、数日動けなかったためか筋力が低下していたようで、ちょっとしんど
いやいや、またすごいのがあるよね。亜炭記念館。こんなマニアックな資料館があるとは。あ、資料館じゃなくて記念館の間違いでした。大崎市三本木の道の駅内にあるんです。知らなかった~。普通は道の駅に寄ったらそのまま帰るでしょう。この時は、小学生も学んできてました。※平日のみの営業。三本木の亜炭の発見は、今から300年ほど前。赤坂留吉翁という人が、蟻ヶ袋村の長坂山の中腹で炭焼きをしていた時に露出していた黒い石(亜炭)に火がつき、燃えだしたという。この頃、各地で亜炭や石
成田山仙台分院から少し行った所にあるのですが、亀岡八幡宮仙台市青葉区川内亀岡62亀岡八幡宮亀岡八幡宮の歴史は深く、創建は文治五年(西暦1190年)まで遡ります。鎌倉〜江戸時代の間に幾たびかの遷座を経て、天和元年7月、仙台藩四代藩主の伊達肯山によって現在の青葉区川内亀岡に造営されました。かつて松尾芭蕉が訪れたと言われる往時の名残りが、苔むした石段と石鳥居に残されています。樹齢350年を超える枝垂れ桜も春には見事な桜のトンネルを作ります。hachimanguu.org北参
宮城県仙台市の光明山孝勝寺さんの境内にある、【伊達綱村(伊達綱基)の石像】です石像のすぐ側には、『伊達四代綱村公・寛文九年十一月元服(1669)。元服後ノ御名前綱基。』という案内板が設置されていますね✨仙台藩四代藩主伊達綱基(後の綱村)は幼名は亀千代丸。元服の際は父と同じく将軍徳川家綱より偏諱を与えられて、初め綱基、後に綱村と名乗りました。
※2021年8月30日訪問※※2023年12月4日再訪※修復工事が終了した仙台市宮城野区榴ヶ岡の《光明山孝勝寺釈迦堂》を訪問しました✨※釈迦堂の説明、及び修復工事中に訪問した《光明山孝勝寺釈迦堂》の様子についてはこちらを参照※↓↓↓↓『▲陸奥国・光明山孝勝寺釈迦堂/仙台市登録有形文化財▲』※2021年8月30日訪問※五重塔のすぐ隣には【釈迦堂】という建物が建てられています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼釈迦堂は,仙台藩四代藩主伊…ameblo.jp以前訪れた時は
宮城県の地名が付いた動物のもう一つは、「センダイムシクイ」です。「センダイムシクイ」はスズメほどの小さな鳥です。初夏に仙台市内で鳴く姿を見る事ができます。この鳥の名前に「センダイ」がある理由はその鳴き声にあります。「チヨチヨビー」と鳴くのですが、聞きようによっては「鶴千代君ぃ~」と聞こえます。この鶴千代君ですが歌舞伎の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」で乳母の政岡が守る若君・鶴千代の名を呼んでいる鳥ということでこの名前が付きました。別の聞こえ方として「焼酎一杯ぐぃー」というのもあります
4月16日、仙台東照宮で遷座370年を祝う大祭が挙行され、神輿行列、子供神輿、稚児行列が境内から北六番丁小までの間を往復し、大勢の見物人が駆けつけ賑やかでありました。日光東照宮には、各藩が幕府への忠誠の証として寄進した石灯籠が並び立っていて、中でも石段に最も近い場所に、伊達政宗がポルトガル産の鉄で鋳造した「南蛮鉄灯籠」が在り、他の大名の奉献した石灯籠とは大きく異なっておりました。仙台東照宮は日光東照宮より分霊され、この地は、1591(天正19)年、葛西・大崎一揆の鎮圧のため、督戦にあたった
「元禄潜穴(げんろくせんけつ)」は、トンネル!NHKニュースで紹介されました!約300年前の江戸元禄時代。伊達の殿様が品井沼の干拓の治水対策としてトンネルを手掘りで行いました。その距離2,600メートル。5年間で出来上がりました。多くの犠牲者も出ました。現代に、その遺産を見ることできます。ぜひ歴史好きの方、「おすすめのスポット」です。
鹽竈神社(しおがまじんじゃ)は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社です。当社は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めて今日に至っています。見どころが多いので2回に分けて、今日は参道から本殿手前の手水舎までを紹介します。↓大駐車場からの参道の石畳は、この地特産の硯の原石、雄勝石(玄昌石)でできており、とても珍しいものです。↓参道(裏参道)を進んで行くと、神馬奉納に関わる「神龍社」という立派な社があります。↓やがて現れた厳かな鳥居です。↓鳥居
昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、伊豆八十八ヶ所巡礼(こちら)の縁で第一話から最終話までほぼリアルタイムで視ましたが、今年の『どうする家康』も元静岡市民としてこれまでリアルタイムで視ている…のですが、正直もう(視るか視ないか)「どうしよう家康」になってしまっています。静岡市、静岡県の方には「どうなの家康」と尋ねたい。『家康』についてこのブログであれこれ言うのは差し控えますが、とにかく〝火打石〟的には不満だらけ。ドラマがふわふわ、ぼんやりしていて締まらな
亀岡八幡宮の御朱印鳥居⛩️と駐車場🅿️🚙鳥居は明神鳥居で宮城県石巻市の井内石が用いられています⛩️鳥居の金銅製の額の表には「亀岡八幡宮」、裏面には享保3年(1718)に五代藩主伊達吉村公が謹書・献納したことが刻銘されている。鳥居と額は宮城県有形文化財に、石段は仙台市登録有形文化財に指定されています。石鳥居は、宮城県石巻で切り出された稲井石製で、青銅製の額の表には亀岡八幡宮と記されており、加えてハの字は鳩が二羽で現されております🕊🕊鳩は八幡さまのお使いとされ
中尊寺弁天堂(べんてんどう)の本尊・弁才天と十(じゅう)五(ご)童(どう)子(じ)は江戸時代の宝永2年(1705)、第4代仙台藩主伊達(だて)綱(つな)村(むら)公正室(せいしつ)、万(まん)寿(じゅ)寺(じ)殿(どの)仙(せん)姫(ひめ)(幕(ばく)府(ふ)老(ろう)中(じゅう)稲(いな)葉(ば)正(まさ)則(のりの)娘(むすめ))によって寄進されました。そして『宝ほう塔とう曼まん荼だ羅ら』もこの時仙姫によって板装ばんそうに修復され、新調した黒くろ漆うるし塗ぬりの厨子ずしに納められ
クリスマスが過ぎるとお正月の支度で忙しくなりますね。名取のイオンモールに行ったら、混んでました~さて、クリスマスは夫婦ともにお笑い好きなもので、「爆笑お笑いフェス」に行ってました。笑仙台のお笑いと言えば、サンドイッチマンですが、東北も芸人が増えてきましたよね。お笑いの後に、行ったのが伊達藩の奥様のお墓。なぜそんな流れになったのか・・・笑いも鎮魂になるのかな。いやいや、思いだしたことがあったのです!仙台サンプラザで開催していたので、すぐ隣に伊達家の夫人の墓があることを思い
国指定重要文化財の鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)石鳥居(「一之鳥居」とも)です。何が変わっているかわかりますか。従前のBLOGと比較してみてください。鹽竈神社表参道石鳥居|哲風のBLOG(ameblo.jp)
ゲーム関連で選んだ方々の日干支を紹介させていただいていると、以前申し上げました。今回もそうなのですが、3連続で同じ家系の方々を紹介していきます。伊達綱村生年月日1659年4月29日(火)日干支庚午同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・津田梅子1864年12月31日
涌谷神社の御朱印涌谷総鎮守御祭神赤心猛勇命(伊達安芸宗重)砂利敷&石畳の参道左手が手水舎右手が社務所御由緒江戸時代初期、伊達安芸宗重公は仙台藩一門、涌谷伊達(亘理)氏第四代の館主として当地を治めていた。二万三千石を領し、治世20年文武を励み野谷地の開発に力を尽くし産業の復興につとめた名君。その館主宗重公の徳を追慕し、明治7年12月官許を得て、宗重公の御霊を祀る神号を「赤心猛雄命」と称し、旧館址に神社を建立し、その御霊を奉祀。宗重公は寛文事件(伊
※2021年11月18日訪問※かつての大年寺跡を廻っていた【土塁】比較的良好な状態で残されているのが、東部の土塁ですかなり低くなってしまっていますが、はっきりと土塁を確認出来ますねかつての大年寺跡の敷地部分には【黄檗宗大年寺】と書かれた石材が建てられています現在は大年寺山の麓に建てられている大年寺さんですが、山頂部分の大年寺跡も大年寺さんが管理されているのかもしれませんねという事で、大年寺の跡を散策して来ました令和3年2月に起きた地震の影響で伊達氏の廟所の一つである【無尽灯廟】は
※2021年11月18日訪問※かつての大年寺は周囲をぐるりと【土塁】によって囲まれていたようです時代の流れと共に、土塁も風化し低くなってしまっていると思われますが、現在でもその跡を見る事が出来ますね基礎部が石垣になっている箇所が有りますが、当時の遺構なのか後世の改変による物かは不明ですこの辺りの石積は、後世の物でしょうね▲陸奥国・両足山大年寺跡東部土塁跡▲に続く