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「戊辰戦語る」のシンポジュウムに参加される山内経則先生の曽祖父は、戊辰戦争では薩摩軍として会津に攻め込んでいるが、驚くべきことに、奥会津の金山谷の領主であった山内氏の流れを汲んでいる。山内氏のルーツをたどると、元々は藤原家である。母親は藤原道長の孫といわれる人物が、藤原秀郷の五代の孫である相模国公光の養子となり、それから武士の仲間入りをした。その後何代かの変遷を経て、守藤資清として宮中警備の滝口の武士となった。その孫が俊通であり、その子の俊綱とともに保元・平治の乱を戦い、二人は平治の乱で戦
名称:二本松城(にほんまつじょう)別名:霞ヶ城、白旗城城郭:梯郭式平山城築城年:室町時代中期築城主:二本松満泰改修者:丹羽光重主要城主:二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏所在地:二本松市郭内3指定文化財:国史跡日本100名城二本松少年隊像箕輪門本丸石垣案内図
名称:岩出山城(いわでやまじょう)城郭:山城築城年:1394年-1428年築城主:氏家直益改修者:徳川家康主要城主:氏家氏,萩田氏,伊達氏所在地:大崎市岩出山城山内門跡本丸へ本丸二ノ丸南腰廓北物見眺望岩出山伊達政宗公像
名称:涌谷城城郭:平山城築城年:不明築城主:涌谷氏改修者:亘理重宗、亘理定宗主要城主:亘理氏(涌谷伊達氏)所在地:遠田郡涌谷町涌谷下町3指定文化財:町指定史跡石垣現存隅櫓太鼓堂本丸跡土塁涌井神社伊達宗重像絵図
荒井左京(?~?)荒井万五郎盛次。会津の戦国大名葦名氏の家臣でしたが、天正十七年(一五八九)の摺上原の戦いで伊達氏に敗れた蘆名氏は滅亡。荒井盛次は伊達政宗の家臣となりました。慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣の後、伊達政宗のの子、伊達秀宗が伊予宇和島藩の初代藩主となった折には、関勘兵衛と共に護衛としてついたと言います。『北会津村誌』によりますと「上荒井村館跡」(現、福島県大沼郡会津美里町荒井)は、荒井万五郎某、或いは荒井左京助の館跡だと伝えます。「伊達政宗大坂夏の陣陣立書」荒井左京部
※2021年4月2日訪問※仙台市青葉区の【仙台藩町奉行所跡(南)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼仙台城下の町人町の行政全般を預かる町奉行は、城下町建設期より置かれ、当初は地域割りごとに奉行がいましたが、2人の奉行の月番制となりました。恒常的な施設としての「町奉行所」は設けられず、町奉行を務める藩士の屋敷で事務を行う役宅制が採られていたましたが、嘉永年間(1848~55)以降は、仙台城下を南と北に分けてそれぞれに町奉行所が設置されたといいます。仙台市二日町分庁舎前には
片倉小十郎重綱(のち重長と改名・一五八五~一六五九)父は「伊達の三傑」と評される片倉小十郎景綱。伊達氏の数々の合戦に参戦し、時には伊達氏の危機を救っています。関ケ原の戦いの後は、白石城一万三千石の城主になりましたが、大坂の陣では病に伏せていたため、嫡子の重綱が旗本衆として伊達政宗勢として参戦しました。したがって、本資料の先鋒中央の「片倉小十郎」は、重綱です。大坂夏の陣、慶長二十年(一六一五)五月五日、伊達政宗勢は道明寺に着陣。六日には豊臣秀頼の大坂城籠城勢が茶臼山に登り、未明に出て政宗の陣
前日に山形城⇒上山城⇒に行き、行きつけ(?)の龍上海米沢店で赤湯辛味噌ラーメンを食べた後に資福寺館へ行きました。東北中央道の南陽高畠ICの南にあり、米沢へ向かう途中にあるという事で寄り道がてら行ったのですが…最上川沿いの道を進んで行くと、下の写真のような案内表示があります。車を停めれる場所が無いので、この案内表示の反対側(写真を撮った場所)に広いスペースがあったので、そこに停めて歩いて行きました。民家の脇に道があり、ここから入っていきます。民家の脇道を抜けるとすぐ案内板があ
※2024年1月5日訪問※宝積寺さんの境内には、伊達家15代【伊達晴宗の墓所】が建てられています✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天正五年(1577)十一月十九日、晴宗は杉目城で発病し、その報を得た輝宗が米沢から駆け付け父を見舞いましたが、同年十二月五日、五十九歳で没しました。法名は乾徳院殿保山道祐居士、導師は資福寺の虎哉和尚で、今は本堂真向かいの老梅の根元、杉目城を眺めるように建つ五輪塔の下で静かに眠っています。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲参道から進んで左手に墓所が
※2024年1月5日訪問※福島県福島市舟場町の【琥珀山宝積寺】さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼福島県北部、中通り低地帯の北部に位置する県庁所在都市、福島市。市の南東部、北流する阿武隈川とその支流荒川の合流点北側に旧信夫郡福島村(現福島市杉妻町・舟場町ほか)があり、福島城下を形成する町場の東端、阿武隈川に面する現舟場町には、伊達氏十五代晴宗の菩提寺である琥珀山宝積寺があります。政宗の祖父にあたる伊達晴宗は、弟実元の上杉家婿入りに反対し、父稙宗を相手に南奥羽の有力者を巻
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。昨年は新型コロナウイルスも5類扱いとなり、やっと普段の日常が戻ってきました。令和6年、今年こそ良い年でありますように。【追記】元日、石川県能登地方を震源とする北陸での大地震が発生しました。思い出すのは、東日本大震災。あの時は、ここ筑西市でも震度6強を記録し、ライフラインも一時止まりました。寒い中避難されている被災者のみなさんが心配です。■アメブロ版「筑西歳時記」(令和6年現在)ブログ筑西あれこれ筑西の交通(鉄道・
フォロワーさんが鷺城を是非見に来て欲しいという事で次の日仕事にも関わらず米沢へ向かいました。東北中央道の米沢中央ICを下りて国道13号線へ向かい、そのまま米沢八幡原IC方向へ走りました。下の写真に写っている山は、コンビニの所の交差点から撮った早坂山館です。そのまま鷺城へ向かい、駐車場に車を停めるとキレイに整備されていました。駐車場への行き方、駐車場の写真は鷺城のブログに載せてあります。下の写真は鷺城、早坂山館への入り口で、縄張り図付きの説明板も設置されています。早坂山館の
地元のフォロワーさんが整備が進んで登りやすくなったから是非来て欲しいとオススメしてくれた鷺城。雪解け後を狙って行ってきました。鷺城は東北中央道の米沢八幡原ICの南の山の麓にあり、詰めの城である早坂山館が山頂にあります。現在は保存会の皆様の尽力により、駐車場、トイレも完備していており、駐車場への表示もあります。入口は下の写真のカーブの所から入る道が出来ているので、ここを入っていきます。こちらが新しく立てられた案内表示です。登りきると白い敷石が敷き詰められた駐車場があります。
※2021年8月30日訪問※※2023年12月4日再訪※修復工事が終了した仙台市宮城野区榴ヶ岡の《光明山孝勝寺釈迦堂》を訪問しました✨※釈迦堂の説明、及び修復工事中に訪問した《光明山孝勝寺釈迦堂》の様子についてはこちらを参照※↓↓↓↓『▲陸奥国・光明山孝勝寺釈迦堂/仙台市登録有形文化財▲』※2021年8月30日訪問※五重塔のすぐ隣には【釈迦堂】という建物が建てられています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼釈迦堂は,仙台藩四代藩主伊…ameblo.jp以前訪れた時は
※2020年6月8日訪問※中門跡から登城路を登っていくと、目の前に聳え立つ高石垣が見えて来ますこちらが【本丸北面高石垣】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸北壁石垣は、四角く加工された切石を使用した布積みの石垣です。美しい反りを持つ石垣で、最も高いところは約17mの高さがあります。平成9年から16年にかけて、解体修復工事が行われています。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲山の上に聳えるこの見事な石垣は圧巻の一言石材が加工され、隙間無く積まれた石垣は技術の高さを実感
10月12日の福島駅ここはJRではなく、阿武隈急行と、福島交通飯坂線の改札。なぜかラッキーとラプラスがいた。阿武隈急行に乗ります。元は国鉄(現JR)で、1980年代に第3セクター化された路線。福島駅は福島交通飯坂線と共用のホーム。左側の阿武隈急行に乗ります。もちろん「乗り間違えないように」のアナウンスあり。しばらく進むとのどかな光景田んぼが広がる。何万石も獲れたことでしょうから、城も築かれたのでしょう。電車は阿武隈急行の最終駅・槻木まで行か
「秋なすは嫁に食わすな」って「嫁いびり」と「嫁のため」どっちが正解かしらかしら御存知かしらー。さて、本日は「系図で見てみよう」シリーズ。今回は、古代ばっかりやっているウチのブログでは大変珍しい(?)近世に立ち寄って、江戸時代に「仙台藩62万石」を治めた「伊達氏」についてやってみようと思います。仙台藩伊達家の祖は、ご存じの伊達政宗。仙台と言えば、政宗。政宗と言えば、仙台。しかし、政宗は仙台生まれではない…というと、意外に思われる方も多いのではなかろうか。政宗
高子岡城跡伊達氏発祥の地です。説明板伊達氏は奥州合戦の功績により、この地を賜り、伊達姓を称したそうです。初代伊達朝宗から3代伊達義広の頃までは本拠地だったようで、そののちは移ったようです。もう一枚の説明板高子館跡とも呼ばれるそうです。城跡、亀岡八幡宮へ向かいます。登ります。角度があります。八幡宮拝殿おまいりさせていただきました。榧の木さらに登れるようです。周囲のようす周囲は何か施設があった雰囲気です。登り切ると、丹露盤という場所がありました。岩が立ち並びます。
梁川城跡(やながわ城)看板が立ちます。彦根駅で見た石田三成以来のインパクトある看板です。解説幕伊達氏の館跡があった場所で、上杉氏時代に改修されたとのことです。城域は広範囲だったようです。本丸へ向かいます。城内にはパネルがあり、政宗ダテニクル、とのことです。進みます。こちらにもダテニクル地域の活性化のようです。先には土塁と石垣と池がありました。こちらには年季のある解説板が建ちます。梁川城は伊達氏により鎌倉時代に築城されたそうです。天文元年、1532年に伊達稙宗が
桑折西山城跡(こおりにしやま)砲台場へ向かいます。砲台場戊辰戦争時に砲台が据え付けられたそうです。本丸方面解説板元々は大手門や本丸を守る施設であったでしょう。東側本丸側本丸、二ノ丸へ向かいます。説明板登ります。右の角度まだ登ります。振り返ります。階段の先は本丸です。この辺りの角度本丸に到着です。まず土橋を渡り、二ノ丸へ。土橋から左を見ます。右を見ます。空堀、堀切?二ノ丸から見ます。二ノ丸です。二ノ丸の土塁二ノ丸を降り、中館と二ノ丸間の空堀二ノ
都道府県別索引へ柴小屋城は柴小屋館、小斎城などとも呼ばれる。阿武隈川が宮城県内に入ってすぐ北に大きく折れる丸森町の北のほう右岸側の山稜に構えている。陸羽街道の通る中通りよりも海岸沿いからの方が近い。この一帯をめぐって伊達氏と相馬氏が争った城のひとつで、当初は相馬領だった。丸森町の観光案内所のwebサイトに記事があり、道順も動画で紹介されている。こういう城はたいてい私有地で自由に入れるかも分からず、車を停める場所にも困ることが多いので、このように紹介されているのは有り難い😊まずは
都道府県別索引へ城内最西端の曲輪から谷を越えて登ろうとすると、狭い堀底のようなところに通されるようになっていた。上には小さな曲輪がある。その虎口までが、また急な登り…ここまで登って振り返ってみると…それは…寄せ手にとってはこの世の地獄と恐怖するに違いない光景だった😨一列縦隊で進まざるを得ないような細い通路がカクンと折れ曲って、先は急な登り…上の曲輪の虎口や右側の土塁上からは、雨あられの如くに矢弾が降り注ぐ…後方から弓矢で援護射撃しようにも上の曲輪は見上げ
都道府県別索引へ三の丸、煙硝蔵と登って不動堂の前から西に向かって一直線に登ってゆく道は、寄せ手の気持ちになると見るからにイヤな雰囲気…登った先には曲輪らしい高台が鎮座していて、一列縦隊でそこの守備兵と正対しなければならない。左側の切岸の上からも矢弾が降ってくるか…😨登ってゆくと、高台の下で左にカーブし、その南側に広がる馬出のような場所に登ってゆく。正面の🌿🌿、中に堀切らしいものが潜んでいるようで…「←兵具蔵跡」なんて案内が立っているけど、じつに入りたくない雰囲気…まずは、右側
都道府県別索引へ金山城は丸森町の中心地から南東5kmほどの阿武隈川右岸の低山に構えている。永禄年間に相馬氏の家臣により築城されたが、天正年間には冥護山館、柴小屋城などを含むこの一帯が伊達氏との間で争奪戦となり、結果伊達氏麾下の中島氏が城主となって明治維新まで領有していた。かの近世仙台藩祖の伊達政宗が、この争奪戦の最中に初陣を飾っている。Wikipediaに記事、丸森町観光案内所にもwebページがある。この城の存在は冥護山館について調べている最中に知ったが、国道沿いで訪問しやすそうだ
都道府県別索引へ冥護山館は阿武隈川が宮城県に入ったところで東に大きく蛇行しているところから東の方に入った低山地帯の中に構えている。丸森町の中心地からは国道113号を相馬方面に10分ほど進んで県道103号に入る。戦国時代にはこのあたりをめぐる伊達氏と相馬氏の争いの舞台となり、当初は相馬氏が押さえていたのが伊達氏に奪われ、相馬氏に対する最前線の城となったらしい。かの近世仙台藩祖の伊達政宗は、この争いの中で初陣を飾っている。この館…城のことはtwitter上で知ったが、行く機会が無いまま記
都道府県別索引へ破城の執念深さを見せつけられる枡形虎口から、空堀(現地の案内では堀切)を渡ると、曲輪Ⅱが広がっている。ここも野球場が出来そうな広さだが、地面には土塁状が走っていて、建物などを区画していたのかな…?そして、西の端の方に見える土塁が、ただならぬ存在感…😨傍らに説明板が立っている。土塁は高さ5メートルという巨大なもので、鉄砲での戦闘を意識したものだろうとの事。戦国末期は、奥州も鉄砲の時代に突入してたのね…🤔西側の巨大土塁の存在感に気圧されてる感があるが、北
都道府県別索引へ舘山城は米沢の街から南西の方、大樽川と小樽川の合流点内側に迫り出してきた尾根末端に構えている。道でいうと、喜多方との間が大峠道路で直結された国道121号が市街地に入る直前にほど近い。戦国時代に入った16世紀になる頃に伊達氏麾下の新田氏により築城され、輝宗の隠居所も置かれた。豊臣秀吉の小田原合戦〜奥州仕置により伊達氏は米沢を追われて岩出山城に移動し、そのまま廃城になったと思われていたが、近年の発掘調査により後に米沢に入った上杉氏時代に積まれたと考えられる石垣などが見つかっ
赤館跡主郭再訪です。佐竹氏勢力と伊達氏勢力の対峙していた城跡です。立花宗茂も城主として居た場所です。説明板主郭立花宗茂にも思いを寄せ、主郭を見ました。関ヶ原の後、どのような気持ちでこの地に居たのかと。主郭の切岸他に、辺りの杉の木が伐採され、遺構が姿を現していました。写真は無し。佐竹氏は伊達氏勢力と赤館でも争いましたが、守り抜いています。もし小田原攻めが無ければこの城はその後どうなっていたのか、と思いました。桜が開花していました。棚倉町は赤坂館跡のある鮫川村より暖かいよ
【問題】伊達氏、蒲生氏、上杉氏と城主が変遷したのは、次のうちどの城郭か?【選択肢】仙台城米沢城新発田城盛岡城鶴ヶ岡城【正解】米沢城【解説】米沢城は鎌倉期の築ともいわれるが、戦国時代には伊達氏が入った。その後、蒲生氏の支城となり、その移封後は、上杉氏が入り明治維新まで同氏の居城となった。