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石の寄進物を「萬蔵報」で発信続けた田野尻宏さんとは、2回しか対面していない。1回目は、四国遍路で伊藤萬蔵に出合い、その後、田野尻さんを知り、初めてお宅を訪問した2004年5月だった。その後、新規寄進物があるとお手紙でやりとりはしていた。その後、弘法さんの日に10年後に日泰寺近くでお会いした。その時の記念写真です。
皆さんこんばんは!今日は.このブログの依頼者である岩田さんたちに、ブログで皆さんのコメントをいただいた事をお伝えしたことのご報告です!まずは、コメントを1つ1つ読み上げさせていただき、懐かしい方のコメントに喜んでいらっしゃいました。また、コメントにあった新城市の新昌寺さんの事について皆さん驚きと、やはり喜びで、早速電話で問い合わせたいとおっしゃってみえました。覚王山八十八ヶ所1番札所には沢山の方々がいらっしゃっていました.市江先生もお元気です。皆さんにこれをお伝えできれば!と思いブロ
3※塩竃神社由諸.三神を祀っており.海の守護神であり人々に製塩の方法を伝授した.竈士老翁神を主神として祀られ.他の二神は左宮と右宮に有る。塩は古来より.生活必需品であり、日本各地で盛んに造られしていた。当地も名前通り一大年産地で有ったと思われる。萬蔵翁も住所が名古屋市西田塩町四丁目であり.かつては星崎地方の塩田を一手に取扱っていた、塩問屋が軒を連ねていた.今回東北地方に新規発見されたのも何かの縁と思われる。※発見者,大場濡士君(学生)(海津市の「端応寺」寺標発見者)
朗報です!!田野尻先生の"手作り萬蔵報"が今秋、名古座市立博的館に展示内定!!3/21"弘法さん"の縁日に市立博物館、学芸員と打ち合せ済み先生が二十数年間毎月ガリ版刷りで発行された、300冊近い小誌を約60冊程にまとめた物※写真石の語り部名古屋市西区塩町伊藤萬藏寄進物調查一覧表田野尻先生の“萬蔵報現在覚王山一番札所で展示しています。学芸員も一つーつ丁寧に手作感が溢れていると好許で説明にも熱が入りました。今まで新聞やテレビは何社も札所を取材していきました
名古屋市塩町(現名古屋市西区)伊藤萬蔵は、1833年(天保4年)、尾張國稲木庄平島村、現在の愛知県一宮市生まれです。12歳の時に丁稚で出た名古屋で米取引を学び商才を発揮、明治の初めに設立された「名古屋米商会所」の発起人・株主となり、当時の名古屋周辺における米の仲買人の代表格となりました。その後、不動産業も展開し、事業で成功して巨額の富を得たにも関わらず、萬蔵は「神仏や世間様の御蔭」を口癖に、全国の有名社寺へ石造物の寄進を積極的に行いました。「北海道と沖縄を除く全国にある」とさえ言われ
今回の清州市巡りは、清須市阿原宮東に鎮座する「河原神社」です『尾張名所図会』には「阿原天神社」と紹介されており、「阿原村にありて今星宮という」と記載されています。時代と共に阿原天神社→星の宮→河原神社と名称が変わってきたようですね。河原神社は眼病治癒のご利益があるそうです。眼病治癒といえば、河原神社から南西約5Kmの海部郡大治町馬島に「明眼院」があります。そして星の宮と言えば、河原神社から東へ約2Kmの名古屋市西区中小田井に「星神社」があります。特徴的な御利益や名前が近くに存
名古屋市内にあるのこの石柱伊藤萬蔵という名を発見、この方は寺社仏閣等に燈篭などを沢山寄進した方で、愛知県内を中心に他県でも多くこの名を見かける。大正3年に寄進したようです。
こんにちは📝いわくら観光振興会の木村です。今日のブログはちょっぴりディープ!「岩倉市観光ボランティアガイドごあんない~わ」のガイドとしての知識を日々蓄え中ですそこで今回は【稲荷前駅跡にある道標】について深堀りしました。「尾張西国三十三観音霊場4番藤嶋山賢林寺」までの、みちしるべです。※藤嶋山賢林寺・・・(住所)小牧市藤島町居屋敷267お参りし、御朱印をいただきました以下、道標に彫ってある文字と解説●尾張西國四番藤嶋観世音尾張西国三十三
今回の杉屋佐助さんは、愛知県美浜町にある「鶴林山密蔵院」の名号碑です「密蔵院」は知多四国八十八ヶ所の第52番札所となっています。「知多四国八十八ヶ所」について少し調べると、札所が開かれたのは文政7年(1824)。もっと新しいのかと思っていましたが意外や意外。江戸末期でした妙楽寺の亮山阿闍梨(りょうざんあじゃり)和尚が弘法大師の夢のお告げにより発願。ところが弘法大師(=空海)が開祖の真言宗は知多には88もなかったため、他の寺院に札所となるようお願いをしなければならなかった。
愛知県清須市にある「堀江山長谷院」の石造物一覧。今回は西国三十三所石仏エリアです。長谷院には、江戸時代に造られた石造物がたくさんあります。長谷院を訪れた際、これら素晴らしい石造物を逃すことなく、ぜひ見てください[西国三十三所石仏]※石仏の建立年は大正2~5年。■No.1第一番青岸渡寺■No.2第二番金剛宝寺■No.3第三番粉河寺■No.4第四番施福寺■No.5第五番葛井寺※伊藤萬蔵が寄進■No.6第六番南法華寺
子供のころからおもに神社で見かけてきている「狛犬(こまいぬ)」。今回は狛犬をじっくり観察してみたいと思います■愛知県:龍城神社Wikipediaによると、狛犬を正面から見て右側は獅子で口が開いている(阿形:あぎょう)左側は狛犬で口を閉じ(吽形:うんぎょう)、頭にツノがあるこれが一般的だったようです。片方は獅子だった!知らなかった!そういえばツノがある狛犬も見たことがある!昭和以降に作られたものは頭のツノも無くなり、両方揃って獅子のような外見に変わっていった
ある日、Googleマップのストリートビューで寺標を見ていると、「あ!これは伊藤萬蔵さんではないか!?」良く見ると、間違いない!よし!見に行こう~っ!という訳で、愛媛県今治市まで行ってきましたよ!もちろん、萬蔵さんがメインで今治市に行ったわけではありませんが...(笑)泰山寺駐車場から「金輪山勅王院泰山寺」は四国八十八箇所霊場の第五十六番札所となっており、萬蔵さんの寺標にもその旨が刻まれていました。南東面:「四国五十六番泰山寺」南西面:「尾州名
今回の杉屋佐助さんは、三重県桑名市にある多度大社の常夜燈です多度神社は、御神体山として崇められていた「多度山」の麓にあり、延喜式神名帳に記載された式内社です。伊勢国の二宮でもあります。ちなみに伊勢国の一宮は伊勢神宮ではありません祭神は「御天津彦根命(あまつひこねのみこと)」で、天照大神の御子神。※「多度大社」は、本宮の多度神社、別宮の一目連神社の他に関連する神社(摂社・末社)を合わせた総称多度大社はお伊勢参りの街道近くにあり、多度大社の御祭神が伊勢神宮に祀られている事から別名「
おんたけさん?播州にも清水寺と同じ名前のお寺があります山深いです参拝順路の通り歩きますけれど、あちらの道も気になるお年頃伊藤萬蔵四国霊場の境内で必ず目にするお名前です名古屋の方なのですね下っているのか長い参道の果てに固まって休んでる鯉たち本堂近くには現役のポスト何か便りを出したくなっちゃいます結局登ったのでしょうかお目当てはお薬師堂の12神将撮影可なので、ビカラ神将をパチリ奈良のせん
今回の杉屋佐助さんは、寄進の記録はあるけど現在は消失している場所です。最初は愛知県一宮市にある真清田神社です。『郷土文化50巻』には、高麗狗(狛犬)一対が昭和20年の戦災で破壊、消滅と記載されています。探しましたが...やはり見つかりませんでした。残念ですまぁ、これは戦災で「消滅」と記載されてあったので、これはあまり気落ちはしませんでしたキヨス本町の柴山藤蔵さんの石燈籠がありましたよ一対でした。元はどこにあったのでしょうか。続いては、愛知県津島市にある津島神社です。
今回の杉屋佐助さんは愛知県清須市の日吉神社にある社標兼常夜燈です「山王宮日吉神社」には、時間と天候の影響で3回訪れていますそのため、夜・雨・晴天の写真が混じっていますのでご了承ください。美濃路沿いにある日吉神社の社標。これは伊藤萬蔵さんの寄進物です寄進年はみえませんでしたが、ネットの情報によると明治16年らしいです。社標の横に解説板がありました。伊藤萬蔵さんについて触れていないのが残念です。日吉神社この石標を東に行けば、日吉神社に着く。七七一年の疫病除災祈願が始まり
今回の杉屋佐助さんは、岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲の華厳寺(けごんじ)にある供養碑ですここにも佐助さんがあるかな~と思い探しに来てみましたというのも、調べた限りでは華厳寺に佐助さんの寄進物があるという情報はありませんでしたが、長谷院に三十三所燈明があり、西国三十三所満願結願の寺院であり、更には尾張三十三観音にも多数寄進しているため、佐助さんの寄進物は間違いなく存在するという強い確信がありました。実は華厳寺には佐助さん寄進物撮影のため2回訪れています。最初は4月に行きましたが、撮影に問
今回の杉屋佐助さんは、愛知県春日井市内津町にある内々(うつつ)神社の常夜燈です春日井市編の最終回です。内々神社は下街道沿いにある「式内社」、つまり平安時代に纏められた「延喜式神名帳」に記載されているとても歴史ある神社です。「延喜式神名帳」は「知立神社」で出てきましたね知立神社や熱田神宮と同格の神社となります。武将からも崇められていて、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に戦勝を祈願したそうです。佐助さんを探していると、こういった由緒ある寺社巡りができて最高ですね!現在の社殿は江戸末期(180
今回の杉屋佐助さんは、愛知県名古屋市中川区にある荒子観音寺(荒子観音)の手洗水です荒子観音寺の正式名称は、「浄海山圓龍院観音寺」。寺標には「尾張国四観音」とあります前回の「笠寺観音」もそうでしたね!このブログの杉屋佐助カテゴリーでは甚目寺観音と笠寺観音、そして今回の荒子観音と四観音のうち3つ書いたことになります。残るはあと一つ!龍泉寺観音のみしかし、私の持っている情報では龍泉寺で佐助さんの石造物はありませんポジティブ(都合の良い)な発想をすれば、いや普通に4つのうち3つ
今回の杉屋佐助さんは、愛知県名古屋市南区にある笠覆寺(りゅうふくじ・笠寺観音)の供養碑です訪れた時は丁度改修中でしたが、なんとか見る事ができましたこの寺標をみると、「尾張四観音之一」と銘打っています。以前の記事で一の宮、二の宮、三の宮がでてきましたが、今回は尾張四観音(おわりしかんのん)です。さて、その四つの観音様は、・荒子観音(名古屋市中川区)・甚目寺観音(あま市甚目寺)・龍泉寺観音(名古屋市守山区)・笠寺観音(名古屋市南区)となり、いずれも千年以上の歴史を持ち、古く
今回の杉屋佐助さんは、名古屋市南区にある地蔵院(湯浴地蔵-ゆあみじぞう-)の寺標ですこの地蔵院の山号は「海底山」といい、なんでも海中から地蔵菩薩が引き上げられのが所以との事湯浴地蔵については、この像が見つかった際に何処ともなく一人の老爺が現れて、像に付いた泥などを香湯で洗い清めるとともに、人々に「この像に祈願する際には湯を灌いで報恩するように」と語って姿を消したと伝わり、この地蔵に湯をかけて祈願するようになったことから湯浴地蔵(ゆあみじぞう)と呼ばれる様になったと言う。※WiK
今回の杉屋佐助さんは、岐阜県養老町にある養老寺の灯籠です養老寺は養老公園内にあります。公園駐車場から歩いてすぐ。伝承によると奈良時代に開かれた寺院だそうです。もともとは別の所にありましたが織田信長に焼かれてしまい、1607年に高須藩主が現在の場所に再建したそうです。規模も小さくなった模様。本尊の十一面千手観音は鎌倉初期の寄木造りで、銘国光の太刀と共に国指定重要文化財となっています。不老長寿の祈願寺としても有名だそうですよ!そんな由緒ある養老寺ですが、現在は廃れてしまっているようで
突然ですが、「杉屋佐助」なる人物をご存じでしょうか?江戸時代後期に名古屋で米問屋を経営していた方で、尾張藩とも繋がりが強く、名字帯刀(みょうじたいとう)を許された身分のいわゆる豪商です。そしてこの佐助さん、財の一部を使って、お寺や神社の常夜灯または街道の道標などを寄付(寄進)した人物です。その奉納寄進物は現在も残っていて、愛知県、岐阜県、三重県、富山県などで34基程が確認されているそうです。※1827年[文政10年]頃から1865年[慶応元年]まで。天保の大飢饉、ペリー黒船来航の時
名古屋の生んだ石造物寄進の偉人「伊藤萬蔵」さん覚王山、名古屋をはじめ全国にも多く石物を寄進されていますが、実は、「誰それ!?」となる事も。知れば神社お寺巡りがきっと楽しくなるハズ!!clubhouseの今日20時神仏習合のお部屋で、取りあげて頂ける事になりました。今夜20時ぜひお聞き下さい!(メッセージお待ちしてます🥰)さて、私と萬蔵さんの出会いは、墓石家の嫁にきてすぐのころ覚王山日泰寺参道にある千体地蔵の虚空蔵菩薩様の香炉でした至る所に建立者名「伊藤萬蔵」一体誰?こち
名古屋市西区を訪れた続きです宗像神社の本殿右側に祀られている、金比羅社さらに右側には、多聞龍神が祀られていました文久元年(1861)の台座にのっていた本来の狛犬さんそのヒントとなるものが御朱印スタンプの中にあります台座に記されていた「文久元辛酉年」の文字と、狛犬さんがセットになっていました伊藤萬蔵が奉納した、狛犬さんはほぼ、この狛犬で間違いないようですその狛犬は、拝殿のそばに保管されていました出雲構え狛犬です来待石と
名古屋市西区を訪れた続きです徳川義直が、名古屋城内に勧請したと伝わる宗像神社、拝殿前に、狛犬さんがお守りしていました昭和の岡崎型です台座が小さく、大きく見えます明らかに、台座と狛犬さんが別の時代に奉納されたものです台座には、大正4年と記してありました1915年、今から106年前です拝殿近くで保管されていたこの狛犬さんかもしれませんねちょっと、小さいかな~本殿の右側です金比羅社が祀られていましたここをお守り
名古屋市西区を訪れた続きです小彦名命を祭神とする武島天神社を出発します先ほど歩いてきた道を、そのまま、戻っていきました上宿山神社に突き当たって左に進んでいましょう左側には、ビリヤード場でとても、軽快な音がしています右に曲がって、北方向に歩いていきましたこの辺りは、弁天通と呼ばれています城北橋から歩いてきた大通りが横切っていましたここを、左に曲がっていきましょうこの道沿いは、弁天通商店街と呼ばれている場所ですたくさん
「飛騨西街道」を歩き終え、先に進むのですが、その前に「飛騨南街道」を歩きます。今まで歩いてきた「飛騨西街道」は、歴史ある道で、律令・奈良・平安時代に「東山道・飛騨支路」と呼ばれた主要道路でした。江戸時代に入ると、「飛騨街道」といえば、中山道太田宿を起点に、飛騨川沿いを北上する「飛騨南街道(水色の線)」~「飛騨街道(緑色の線)」を指すことが多かったようです。その街道を北上し、飛騨金山まで歩こうと思います。「中山道・太田宿」から散策です。♪とんとんとからりと隣組
萬蔵さんその2私が最初にグーグルアースで見ることができると気付いた萬蔵さんで、一宮市の瀬部の巡見街道沿いにある永昌山観音寺(曹洞宗)への道標である。仲間の人から教えてもらい現地で確認の後、グーグルアースで探してみたら、なんと「伊藤萬蔵」の文字が確認できた。正面に「尾張西国第二十七番札所」左側面「名古屋市塩町伊藤萬蔵」、裏面に「明治三十五年七月建之」「岡崎石工成瀬来次郎」、右側面に「観音寺現住加藤良宗代世話人当村川浦佐○○」と陰刻されている。・・・グーグルアースで検索:351940.70
遍路道を歩いて、鳥や花たちと歌い、その時間の中で、自分自身を振り返ったり、今はもういない人たちに、思いを馳せたり、泣いたり笑ったりしながらお寺にたどり着く。四国の温かい人優しさに包まれたり時には、厳しい旅の道になったりもするが、一歩一歩と歩けば、たどり着く88のお寺。山門を見た時のこの気持ち、、、御本尊様に包まれるような、大師様の背に負われているような、、嬉しくて笑顔いっぱいの時もあるあふれんばかりの気持ちで、目から熱いものが止まらない時もある。四国に8