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性欲の話を聞くとわかる。というか、一番露骨にセルフイメージを表しているのが性欲かもしれないと思う。「認めたくないけど認めるしかないもの」が性欲には出てきます。だけど、「それをそのまま実行すること」が「自己受容」になるかというと、そういうわけではありません。そもそも、「欲に従う」だけが自己受容ではないです。自己受容とは、理性と欲の共存のことだからです。性欲は、求
うまくいっていない時間にも、意味がある。地下に潜る時間は、地上で芽吹くための準備期間と同じ。その時(地下にいる時)に必要なことは、地上に居るときに必要なこととは全く違う。地下にいるときにやるべきことは、吸収すること。地下のエネルギーを吸収して、自分を大きくすること。地上に芽吹いて役割を果たす(他人に自分の価値を与える)なんてことは、まだしばらく先のことだからそんなことはしなくてい
愛し合うか、何もしないか、そのどちらかしかない。もし、「他人とのトラブルを未然に防ぐこと」が目的なら、その目的は「誰とも何もしない」を実行すればすぐにでも叶う。深く関わらず、表面的にだけ付き合って、必要以上に近付きさえしなければトラブルは起きないし、もし仮にトラブルが起きたらすぐに離れればいい。例えそこでトラブルが起きたとしても、深い付き合いをしていないから、傷も痛みも
「そんなことするなら愛してあげないんだからね」って自分が自分に言ってると、それを他人から言われる現実(そうしないと他人から愛されない現実)になる。そもそも、この「そんなことするなら愛してあげないんだからね」って言うってことは、全然愛してないんです。「愛してあげない」という言葉を使ってしている事実上の脅しです。その人をコントロールするために自分に都合よく言ってるのが、
「逃げるな」と言いたいわけじゃない。なんなら、逃げていいと思うし、逃げる人を僕は追いかけて否定することもない。逃げることは悪いことじゃないんだからどこまでだって逃げていっていい。そもそも、僕にも逃げた経験があるし、人生には逃げるべき瞬間があることも知ってる。ただ、逃げると自分で決めたのならば、逃げることのデメリットもちゃんと受け取る必要があるとは思う。まず、絶対にやっちゃいけない
終わらない感情は、まだ出し切っていない感情。もしくは、出し方(終わらせ方)をわかっていない感情です。正しく出せば、終わらない感情に振り回されることはありません。ただ、正しく出していたとしても終わらせるまでに何年もかかる感情もあります。だから、正しく向き合えばすぐに終わるかというと、そういうわけではありません。というかそもそも、「この環状を早く終わらせたい
「できない言い訳」ばかりして立ち止まっていても何も始まらない。「自分には無理だ」と悲観して嘆いていても景色は変わらない。必要なのは「自信」じゃなくて「行動力」。「でも」「だって」と思うなら、対処すべき原因に気づいているなら、その対処をするために行動するといい。自信が無くたって行動力があればいい。そもそも、行動してるからって自信があるわけじゃない。自信の有無で悩む時
優しさで美味しくないものに「美味しい」と嘘をつくのが正しい?その嘘に騙された人が美味しくないものを美味しいと思わない人に作り続けることが常識?その優しさは、本当に常識で正しいことなの?って思う。実は、事実から逃げてるだけじゃないの?それ、正しいんじゃなくて、正当化したいだけなんじゃないの?本当のことを教えられないから優しい自分を無理矢理肯定しようとして
「牢屋から出ること」が「幸せ」なわけじゃない。「自由になること(牢屋から出ること)」と、「幸せのために何をやるか(牢屋から出た後に何をやるか)」は、まったく別の問題です。幸せになりたいなら、「牢屋から出る」ことは大前提です。それが伊藤流深層心理学的に言う、「自己否定を辞めること」です。牢屋の中に居て、(無い)罪を償ったり、誰かの言いなりになったり、牢屋から
私が愛されなかったのは、「その人が私を愛せる人じゃなかった」から。だから、あんまり自分を舐め過ぎなくていい。自分の評価は過去の実績でし過ぎない方がいい。私が愛されなかったのは、「その人が私を愛せる人じゃなかったから」だから。もし、今の私が愛されていない(本当ん自分を出すと嫌われる)のならば、その人は私を「愛したくない」というだけ。だから、愛してくれな
「自分のことしか考えられない」という状態は普通です。なので、「どうして自分はこんなに自分勝手なんだろう」と悩むことに意味はないというか、考えたところで解決策はないし、「どうして私は自分のことしか考えられないんだろう」と自分を責めることにも意味はありません。なぜなら、それはやめようと思ったところでやめられることではなく、そもそも、「私は自分のことしか考えられない」ということを踏まえた上で次
扉って、ひとつしかないからね。出す扉と入ってくる扉は同じ扉です。自分を開いて出すからこそ、他人から入ってくるようになる。ただ、その扉は自分からしか開きません。だから、自分の意思でその扉を開くかどうかが全てを左右します。自分を出すことを「悪だ」と思うことが自己否定で、自分を出すことを「許す」ことが自己受容です。出してない(扉を開けてない)なら、入ってこないのは当
自己受容の本番は、始まった後です。「結婚」を例にするなら、「する前」じゃなくて「した後」が本番とういうことなので、ある意味、「結婚する(誓う)」のは自己受容のための「準備」みたいなもんです。「一緒に問題を越えていこう」と「決意」するのは、誰でもできる。自己受容の本当に難しさは、「決意」をした後の「実行」の方です。で、僕が本領を発揮するのは、結婚した後の方なのです。
「勇気」が要らない場所には、何もない。その程度のものしかない。「勇気」が要らない場所には誰でもに手に入れられるもので、自分以外の人にも身につけられることで、代わりがすぐに見つかるようなものしかない。自分にしか手に入れられなくて、自分以外の人には不可能で、自分だけにしかできないことを探しているなら、「勇気」が必要なことをやるといい。上位5%の人にあるのは、才能じゃない。
自分がしている「努力」を「忍耐」だと思うなら、あなたが受けているのはおそらく「被害」です。それは、あなたのことを自分勝手に利用している人がいる証拠で、あなたが他人に自分を犠牲にして自分を提供している証拠です。もし、あなたにきっと目的があってそれを達成させるために忍耐を続けているのならば、もしかすると、その願いはあなたがしている忍耐では叶わないかもしれません。具体的な詳しい行動については無
「他人のことを考える」は、ただの「自分勝手」です。本当の意味での「他人のことを考える」は、その人と話をしている人もといその人の話を聞き容れられる人だけができることです。だから、その人のことを否定しながら「他人のことを考える(私が思う正しいことを言う)」をやっているなら、それはただの押し付けです。「他人のことを考えてる」のは、自分のことを考えている人です。
「待てない」のは「来ない」と思ってるから。でも、「待つ」という選択は「来なくてもいい」という選択でもある。ただ、「来なくてもいい」と思って扉を開けるからこそ入ってくる許可ができるということでもある。いずれにせよ、「何をするか(どんな行動をするか)」はあまり関係ない。すべての根源はセルフイメージです。「(このままでは)来ないからやってる」のか、そもそ
メリットだけを受け取るつもりならば、それは自己受容じゃない。例えば、「婚外恋愛」とか「セフレ」に許可をするなら、「離婚した後の自分を愛する」まで許可していなければそれは自己受容じゃないってことです。もし、「離婚した後の自分を愛する」まで許可していない場合、離婚した後の自分を愛するしかない試練が追加で訪れると思います。忘れてはいけないことは、自然の摂理(宇宙の法則)は
このまま死にたくないと思った。この人生で自分はまだ何も残せていないと思った。でも、その時の自分は「何もない自分」でしかなかった。それを認めたくなくて価値がある人間になりたくて努力していたけれど、30年も生きてきたのに絶対に認めたくなかった「何もない自分」を認めるしかなくなってしまった。僕が一番最初にやらなければいけなかったことは、「何ものでもない自分」だった。「社会
深層心理学(自然の摂理)的に、待てない人には「待つ試練(受け取る試練)」が訪れ、待ってばかりの人には「動く試練(取りに行く試練)」が訪れるようになってます。今の自分に訪れているのが待つ試練なのか、待っててはいけない試練なのか、それを見極めるのが大切だけれど、(無期限・回数無制限で一緒に見極めます)現実には必ず試練が来ています。動いてしまう人には待つこと(受け取ること・女性性
仕組みだけを言うなら、自己受容していれば起きないはずの事件が起きる(起こす)のが自己否定(をしてる人)ってことです。自己否定の人に降りかかる事件は、自己受容の人には降りかからない事件です。※ただし、自己受容していようがいまいが関係ない事件は自己受容の人にも降りかかるのでそこは平等です。シンプルに言うと、自己否定の人だけ問題が増えるということです。その結果、自己受容の人が使わない時間(自己受容の
「私は浮気しないよ」って伝えるって、良くないと思う。なぜなら、一途(安定力)が魅力なのは男性(性)だと思っていて、その逆の女性性の魅力って、浮つくところ(不安定力)だと思うから。不安定な女子こそが、男性に力を与える(力がないと守れないと思うから鍛えたくなる)というのが、自然の摂理(宇宙の法則)だと僕は思っています。なので、安定している女子(強い女子)は男性を非力に
子どもに「こんな私を許して」と迫るのは、親の「暴力」だと思う。もし、本当に自分の子どもに許して欲しいと思ってるのならば、自分がどんな暴力を子どもしているかということに気付くのが何よりも先だと思う。これは、子どもに「許して欲しい」と言うかどうかの話じゃない。その話をする前の、「許して欲しい」と思っているかどうかの話です。なので、「許して欲しい」を言っていようがいまいが、そんなことは関
5歳になった妹ちゃんが、「もう抱っこしてもらわなくていいもん」「おねぇちゃんだから」って、言い出した後、一発目のお出かけの時に、車から降りる時にもう「抱っこ」って言ってたんだけどさ、その後、しきりに「嘘だよ」「嘘だからね」「嘘だったんだよ」と必死に弁明していたので、一応、「嘘を言ったらそれは叶っちゃうからね?」とお伝えしました。
自分が幸せになるために必要なものは、もう既に全部揃ってる。「無い(幸せになれない)」と感じている時は、「まだ気づけていない」時なだけ。感覚的に「無い」と思うのは、「まだ輝いていない」というだけだから、「存在していない」というわけではない。「発揮している才能」を「磨かれたダイヤモンド」だとするならば、「才能」が「無い」のでははくて、「まだ磨かれていない」だけ。(自分の)ダイヤモンドは
大切なのは、何を言っているか(どんな行動をしているか)じゃなくて、どう評価(判断)した上でその発言・行動をしているかです。確かに、僕は普段から「発言・行動(他者が見る私の行動)が現実を作る」ということを言っている。そのために、「だから、現実を変えたいのならば発言・行動を変えよう」とも言ってる。それは間違ってない。ただ、それをやる前に知っておかなければいけないことが、
自己否定をしていて、「自分に青い部分(女性性・隠さなければいけない部分)があったら、結婚しても失敗してしまう」と思っていたら、自分を赤くさせてくれる人と結婚します。そして、「自分が赤く過ごすこと」を目的としていると、青い相手(弱い相手・女性性が強い相手、私の支えが必要な男性)を選びます。かつ、その人(男性)のことを必ず見下すようになります。ムカつ
深く考え過ぎなくていい。自己受容って、「愛する」ことだから。愛したいものを見つけて、思いっきり愛するでいい。それをただひたすらにやるのが自己受容だから。ただ、歪んだ愛し方をすると、うまくいかなくなるよってだけ。でも、歪んだ愛し方をする時は、歪んだ愛し方をすることで気付くべきことがある時でもあるから、歪んだ愛し方をすること自体は悪くない。とに
ここでは大きな話しかできないけれど、「セルフイメージが下がる」を大まかに言うと、女性の場合は男性化すること(男性性が強くなること)・身体的に強くなってしまう(強い人だと演じることも含む)・精神的に強くなってしまう(本当は休みたいのに休みたいと言えなくなる)・社会から多くを求められ、かつ応えられる人になる(求められたくないし応えたくないのに)・強い人だと思われたくなる(弱い人だとバレるのが怖くなる)