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天海(138)「是月、薩摩鹿児島ノ島津忠恒、山城伏見ヲ発シテ帰国ス」(「史料綜覧」)都之城と外城12城に籠城した伊集院忠真は、隣接する加藤清正や伊東祐兵に密かに物資の援助を求めた。忠棟暗殺に同情的な両家は伊集院家の援助に応じたのである。自ら乱の鎮圧を決意した忠恒は家康に帰国を願い出た。「慶長四年六月上旬、薩摩少将忠恒公日州凶徒御征伐の為御首途ましまける。大道は已に逆徒の為塞がれ往還更に便り無ければ、霧島山の麓成瀬田尾越にかからせ給ひ、東光寺へ御参詣有
日本ブログ村に参加していますよろしければクリックお願いしますにほんブログ村九州車中泊旅17日目-2_飫肥城跡散策②飫肥城内、飫肥城歴史資料館小村寿太郎記念館から飫肥城歴史資料館に移動します飫肥城大手門樹齢100年以上の飫肥杉を4本使い、1978年7月に復元されたもの木造渡櫓(もくぞうわたりやぐら)、本瓦葺き(ほんがわらぶき)の重厚な造りの江戸時代の櫓門です。石垣は、四角く整形した石材を密着させた切込接ぎ復元工事中に、礎石に刻まれた正徳三年銘の碑文が
「石取祭」祭車引き回し休止桑名・2年連続で/三重毎日新聞石取祭(いしどりまつり)保存会と春日神社は15日、新型コロナウイルス感染の収束が見通せないとして、7月31日、8月1日に桑名市の同神社...【御朱印巡り】境内にそびえ立つ御柱新潟県新発田市諏訪神社産経ニュース「おすわさま」の愛称で親しまれている新潟県新発田市の諏訪神社。鳥居をくぐると立派な社殿とともに高さ15メートルほどの大きな木の柱が目に...ほこら倒壊長野で相次ぐ少なくとも9神社60基誰が何のため
戦友の皆さまお疲れさまですのぶニャがの野望は、合戦が終了しました三好家vs徳川家開催場所:山崎(二条御所付近)西の合戦は、徳川家が辛勝最上家vs武田家開催場所:川中島(春日山城付近)東の合戦は、最上家が辛勝訓王隊は、奥義〔〕GETの為、最上家に参戦合戦報告書はこちら合戦手柄27,145886戦756勝勝率85%戦功順位44位報酬2枚GETできました七穂槍が遠い9周年キャンペーン終了後なので、お手上げですね報酬誉伊東すけたキャットく
-羽柴秀吉は、どんな人間だったか-2020/11/03羽柴秀吉は小牧・長久手で織田氏(徳川氏)と争ったのち、天下総無事を諸氏に警告して情勢を見ながら、まず西側からその事業を詰めていった。西側は、四国全土の大手の支配総代になりつつあった長宗我部(ちょうそかべ)氏、中国方面で大幅な拡大をしてきた毛利氏、九州全土の支配総代になりつつあった島津氏あたりが顕著で、それら抑えこみに羽柴秀吉は動いた。各地方でそれら台頭者に押され続け、潰されるのももう時間の問題の中で、どうにか抵抗し続けていたかつて
2017年6月24日の宮崎・日南出撃レポの続き。「旧藩校振徳堂」を見学した後は、「田ノ上八幡神社」に向かいました。旧藩校振徳堂のレポhttps://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/42223646.htmlhttps://ameblo.jp/indyaki12/entry-12426839754.html「旧藩校振徳堂」から裁判所を右に見ながら北に真っすぐに進むと、白い鳥居が見えて来ます。こちらは「田ノ上八幡神社」。「田ノ上八幡神社と
うっちーこと宇都宮芳綱です少し前ですが、こんな合成をしました白くじから伊東さんが2枚引けたので、昌幸さんの砲陣菖蒲を入れ替えることにしました当初は砲器兼用にしていたのですが、ここ数期、穴太衆しか率いてないので、思い切って付け替えることにしたのです果たして結果はグッジョブ♪('-^*)/付いて良かったですんでグッジョブ♪('-^*)/防衛戦の前だったので、間に合って良かったそ
戦友の皆さまお疲れさまです7月行く予定だった沖縄ですが、台風の為、予定変更、9月17日から行ってきましたそして、念願の地域限定ポケモン〔サニーゴ〕GETできました仕事の都合上、1匹しかGETできず残念でしたそして、宜野湾近くのビーチで記念になんでアーボックなんだぁそして、のぶにゃがの野望は9月13日からはじまった合戦が終了しました大友家vs島津家:耳川(府内城付近)西の合戦は島津家が辛勝伊達家vs最上家:摺上原(米沢城付近)東の合戦は、最上家が辛勝
2017年6月24日の宮崎・日南出撃レポの続き。「飫肥城跡」の続き。飫肥城跡(その2)のレポhttps://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/42099558.htmlhttps://ameblo.jp/indyaki12/entry-12387721791.html飫肥城復元事業により、昭和54年(1979)に江戸時代初期の書院造りの御殿として、建設された「松尾の丸」の御殿を更に進むと、茶室があって…。更に奥に進んで…。御化
今回は城巡りアーカイブスネタでございます。2010年2月、南九州シリーズの宮崎編の続き、第4弾は100名城にも選ばれているお城です。宮崎県日南市にある飫肥城跡です。日本100名城の96番にあたりますね。江戸幕藩体制下では、一貫して飫肥藩伊東氏5万1千石(当初は5万7千石)の藩城だったお城。しかし、それまでの飫肥は約100年の長きに渡って、薩摩を本拠とする島津氏と日向統一を図る伊東氏の、執念の戦が続いた激戦の地でありました。今遺る遺構はもちろん江戸時代を通じての遺構にはなります
【問題】島津氏に日向を逐われ流浪していた伊東祐兵は、後に旧領飫肥に復帰したが、その理由として正しいものは次のうちどれか?【選択肢】島津氏から養子を迎え家臣団に組み込まれたため大友宗麟が飫肥を奪還し祐兵に自治権を認めたため豊臣秀吉の九州征伐に従軍して功があったため徳川家光に気に入られ大名に取り立てられたため【正解】豊臣秀吉の九州征伐に従軍して功があったため【解説】伊東祐兵(いとうすけたか)は、父・義祐が島津氏に日向を逐われると共に諸国を流浪し、後に秀吉に仕官した。秀吉の九州