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9月になって、早1週間が過ぎてしまいました実は所用のため、ちょっと「北へ」行っておりましたあ、箱館ではないですで、今月の講座は「大坂へ京へ」です征長総督の德川慶勝さんが、いよいよ大坂へ出立。そして大坂にて軍議が開かれるのですが…一方江戸では勇さん一行が、京へ出立です。カッシーたちとは一緒だったのか?それとも別々?良順先生とも縁のある、あの場所へも立ち寄った?の、「大坂へ京へ」です対面講座は、第2日曜9月13日九段下会場にて、13時半開場。
「夏の甲子園」(第108回全国高等学校野球選手権大会)が始まっている。私は沖縄商学を応援していた。「連覇してヤマトンチューの連中を見返してやれ」と思っていた。〈昨年の「夏の甲子園大会」で優勝した沖縄商学〉沖縄は本土からずっと差別されてきて、太平洋戦争では犠牲にされ、戦後は米軍基地を多数置かれ、今もそれが続いている。米軍基地を置いてほしいと日本が頼んだのではない。戦後、アメリカが反共の砦として日本列島を見て、それで沖縄に基地を作ったのだ。つまりアメリカ
こんにちは!おかげです。今日はゴールデンウィークに行った京都旅行について…何週間か経ってしまいましたが書いていきます笑今回の京都旅行1日目の午前中は、新撰組巡りをしてきました!パーソナルガイドをお願いして、ガイドしていただきました!濃厚な半日になりました。新撰組の中でも私が気になっている隊士は山南敬助(副長/総長)です。なんか文武両道な感じがかっこいいなぁと思ってました!伊東甲子太郎も頭良くてかっこいいと思うのですが……伊東甲子太郎は、幕府派なのか攘夷派どっちつかずでよく分からな
実相山本光寺〒600-8231京都府京都市下京区油小路町281実相山本光寺の御首題(4月限定)※20260405
本日は旧暦十一月十八日ですが、慶応三年(1867年)のこの日は、油小路の変が起きた日で、御陵衛士盟主、伊東甲子太郎をはじめ藤堂平助、服部武雄、毛内有之介が倒れました。新選組に詳しい人ならよくご存じの事件だと思います。2020年に伊東甲子太郎の生家を示す地図が見つかったニュースがありました。顕彰碑を建て地元の歴史的人物を見直す一環で探し出されたということだったのかもしれません。新選組参謀の伊東甲子太郎、生家示す絵図見つかる-日本経済新聞幕末に新選組で参謀を務めた伊東甲子太郎(183
故あって剣菱酒造のHPを見ていたら、なんと元禄15年(1702※旧暦)赤穂浪士が吉良(きら)邸への討ち入り前に、江戸で出陣酒として剣菱を飲む剣菱酒造HP中興の醸主登場〜黄金時代の到来(江戸中期〜幕末)|剣菱の歩み|剣菱酒造株式会社www.kenbishi.co.jpとの記述がこれは間違いなく、赤穂にいたころの服部さんは剣菱を飲んでいたと言えますね山内容堂公の剣菱、そして江戸の日本橋を描いた浮世絵(東海道五十三次)にも剣菱印が
本日は「新選組史再考第46回遣欧使節の帰国&大坂・滝山村・昆陽駅へ」のオンライン講座ですまた、日野新選組同好会での栗塚さん追悼講演は、明日ですご参加の皆さま、よろしくお願いいたしますオンラインは28日(日)にも行います。定期受講の方以外で、ご興味ございます方はご連絡下さいませ。さて、慶応2年の近藤らが再西下した時の、近藤の帰京日の事の続きです。初回の記事は『慶応2年近藤勇帰京日について1谷三十郎日記』前回の記事にも書きましたが書こう書こうとずっと
つい先日、赤穂市の歴史研究などをされている『赤穂市文化とみどり財団』のHPで、図録や資料集などの表紙と目次を目を皿にして確認したところ、研究紀要第六号の表紙に”水戸藩の赤穂義士礼賛”の文字を見つけました。以前、一度確認したと思うのですが、そのときにはピンと来なかったようです。過去の残念な自分、”水戸藩”の三文字に引っかかって欲しかったです今回はこちらの論文で、桜田門外の変における実行部隊の指揮者といわれている関鉄之介が赤穂に立ち寄ったというお話から"水戸藩の赤穂義士礼賛"を
一昨日は「新選組史再考第46回遣欧使節の帰国&大坂・滝山村・昆陽駅へ」の対面講座でしたご参加の皆さま、ありがとうございましたオンラインは、20日(土)と28日(日)に行います。定期受講の方以外で、ご興味ございます方はご連絡下さいませ。また、日野新選組同好会での栗塚さん追悼講演は、次の日曜日ですよろしくお願い致します。さて、慶応2年の近藤らが再西下した時の、近藤の帰京日の事の続きです。初回の記事は『慶応2年近藤勇帰京日について1谷三十郎日記』前回
今日は伊東先生の191回目のお誕生日(旧暦)ですおめでとうございます🎂✨地元の皆さんを中心に、今も日本国中から敬愛されている伊東先生。聡明で文武両道……カッコ良すぎる素敵だなぁ生まれてくれて、精一杯生きてくれて、本当にありがとうございます。何をどう取っても感謝しかない……うっお祝いの気持ちが、どうぞ御霊に届きますように🙏✨
伊東甲子太郎が所持していた「遺品」の中に、不思議な石がある。事件現場を記録した篠山藩京都御留守居日録によると、"(遺体の側に)金巾の小風呂敷があり、その中には裏地が天鵞絨でできた布(袋)に包まれた『紫琥珀』があった"という。琥珀と言えば黄色〜赤めのオレンジ色を想像するが、見分時の天候や時間帯で、光に透かせば紫色のように見える琥珀だったのかもしれない。けれど、光に透かすのではなく、天鵞絨の包みの中ではっきりと紫色に見えたのだとすると、それは『アメシスト』(紫水晶)の可能性がある
昨日は本光寺さんで行われた油小路の変殉難者慰霊法要と千葉隆司先生の講演会に参加してきました。講演会は法要後に前編60分、お昼を挟んで後編90分そして資料説明と質疑応答30分というスケジュールだったのでたっぷり学ぶことができてとても良かったです水戸学だけでなく地理や特産品なども広く教えていただけたし、古い文書を近くで幾つも見せていただけて当時の温度を感じることができとても充実したあっという間の楽しい時間でした。なにより千葉先生の優しい方言混じりの語り口と志士たちへ
2025-10-25ねねの道を歩いてます御陵衛士屯所跡この前、霊山歴史館の学芸員さんの講演会で聴いた『伊東甲子太郎』は、新選組から御陵衛士にとらばーゆ転職したんだよねんここで働いてたのかぁあ、開いてる高台寺月真院なかなか開いてる時に通らないので、ちと入っとこ♪ふむふむこちらはここまでしか入れないね〜ん?神社があったんだお稲荷さんだぁ⛩️ご挨拶しときます出ました〜パチリこ〜んなに観光客が少ないねねの道は久しぶりだね〜万博終わったしね〜ゆっくり歩いて向かいますこち
凶刃に倒れた坂本龍馬の”死”を詠む和歌服部武雄の真意を探る※第5回はこちら📖(3)服部武雄の立場と真意の推測服部の政治的立場については、伊東の思想にかかわらず、所持していた会沢正志斎の「新論」から勤王であったと推測できる。一方、坂本は尊王を旗印としながらも幕府を全否定せず、攘夷か開国かという対立を超えて、平和的な政権移譲を構想した。水戸学の尊王攘夷思想に共鳴していた服部をはじめとする御陵衛士と、調和的な改革を望む龍馬とのあいだで、相容れぬ歴史的背景が存在していたのだ。
凶刃に倒れた坂本龍馬の”死”を詠む和歌服部武雄の真意を探る※第4回はこちら📖さて、既述した田中光顕談話の一節、〈伊東は月真院に帰へりて後、篠原泰之進、服部三郎兵衛に向ひ、今日の(意に介さなかった坂本の)事を談じ──〉を思い出していただきたい。これは田中の証言がなくとも、「伊東は御陵衛士である仲間たちにそれを話したはずだ」と察せられるものだ。坂本から受け取った拒絶は、伊東一人のものではなく、服部をはじめ幹部たちも同様に、胸の内で苦々しく嚙みしめたに違いない。そして、伊東
凶刃に倒れた坂本龍馬の”死”を詠む和歌服部武雄の真意を探る※第3回はこちら📖尋ぬべき人…尋ねるべき人、会うべき人。あらし…「あり+らし(推定)」と「嵐(あらし)」の掛詞。→「尋ねるべき人もあるらしい(いるようだ/いるに違いない)」+「嵐が激しい」のはげしくて…嵐が激しくて(吹き荒れて)散る花のみぞ…散る花だけが際立って。(この場合、散る花=人の死、別離、失われた命)おどろかれぬる…気づかれてしまった、目をとめられてしまった。(文脈
凶刃に倒れた坂本龍馬の”死”を詠む和歌服部武雄の真意を探る※第2回はこちら📖2.隠れた”掛詞”を辿る(1)和歌の紹介と一般的な解釈服部直筆の短冊や懐紙などは現存しない。「服部の詠んだ歌」と後年の史料に書き留められていることから、一首詠んだと伝わっている、とした。これが服部の詠んだものに間違いないのなら、御陵衛士屯所(月真院)の服部の文机か文箱にしまわれていたのだろうと想像する。服部の死亡時の所持品に、和歌が認められた文(紙)があったとは記されていない。伊東甲子太郎
凶刃に倒れた坂本龍馬の”死”を詠む和歌服部武雄の真意を探る※第1回はこちら📖坂本龍馬暗殺の史実的背景〈慶応3(1867)年6月頃からは、薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始める。土佐藩は武力討幕を避けたい考えで、その策を龍馬に求めてきた。(中略)山内容堂が15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。龍馬はその1ヶ月後の11月15日、33歳の誕生日に京都の近江屋で暗殺された。暗殺の実行犯は見廻組説が有力であるが、黒幕は
凶刃に倒れた坂本龍馬の”死”を詠む和歌服部武雄の真意を探る※こちらは、以前Twitterで発表した「エッセイ風レポート」の再掲になります。ブログへの再掲に際し、改行や表現の調整をしています。ひとつの読み物として、楽しんでいただけたなら嬉しく思います。【表記について】坂本の名を「龍馬」に統一して記述する。1.はじめに服部武雄に関する史料は、現状残念ながら少ない。天保三辰年十二月二十二日、播州赤穂に生まれる。新選組に加わり、その後、御陵衛士となり「三郎兵衛」を名乗る。
新選組に興味を持った頃、彼らが敵対していた長州藩と衝突するのは当然だと理解していました。しかし、暗殺された芹沢鴨については、伝えられているほどひどい人物ではなかったのではないか、という疑問が湧いたのです。私が幕末初心者で、多くの「歴史小説」に触れないまま芹沢鴨に出会うことができた。これは、ある意味で幸運だったのかもしれません。この疑問をきっかけに、私は日記や証言といった史料を「当時の人々の主観で書かれたもの」という感覚で見つめるようになりました。もちろん、全てが嘘や主観だと考
はじめまして。乙原(おつはら)です。あの時代に「明治維新があった」ことしか知らなかった私が、幕末の世界に飛び込んだのは、ほんの少し前のことでした。長州藩に惹かれ、気づけば新選組へ、そして転げ落ちるようにして御陵衛士に心を奪われていました。御陵衛士の伊東甲子太郎と服部武雄を中心に、幕末を駆け抜けた人々が、どのように時代を生きたのか──記録を読み解くたびに浮かび上がってきたのは、動乱の世に対する強い信念、そして人としての葛藤でした。このブログでは、書籍や史料の整理も兼ねて、その
本光寺おはようございます突然ですが、ここは事件の現場です油小路七条上ル新選組伊東甲子太郎殺害現場です所謂「油小路の変」です京都は何処もかしこもこんな感じで歴史の現場なんです「七条ふたば」から京都駅に移動中に通りました本当は昨日の夜に京都に戻る予定でしたが今朝早朝に変更、あるところに今向かっていますではでは〜
2025-09-20スシローでお腹を満たしたまろんご機嫌さんで八坂神社までやってきました中を通り抜けて〜ねねの道を通ります月真院御陵衛士屯所跡この前、伊東甲子太郎が斬られた本光寺に行ったね〜新選組から御陵衛士にとらばーゆ出来た人でも最後はやっぱり斬られちゃったんだね〜さ、ここまで来たらもうどこへ行こうとしているかお分かりになると思いますでんっ♪新しく展示が変わったので、行きたいと思いますが、まろん、えいざんハイクで歩いてきた後ザマスきっつぅ〜〜〜〜っまだか…はぁー
2025−08−16さて、京都タワーの下でめっちゃ満足したまろんが向かったのは〜こちら本光寺伊東甲子太郎殉難の地前に霊山歴史館で参加したセミナーのテーマがこの伊東甲子太郎クンだったんだよね〜新選組にいた伊東甲子太郎クンは、ルール的には、隊を乱したり離れようとしたら斬られるのに、無事に御陵衛士に転職出来ちゃうくらい頭の良い人って印象を持ってますご挨拶〜お寺入ってすぐのとこにあるのん奥は入ったら駄目っぽい結局さぁ〜皆、尊王は尊王なのよね〜幕府を残すか残さないかって所で、意見が
2025-05-04岡崎公園は鯉のぼりがたくさんいましたよ〜京都国立近代美術館新しいのんやってる…観ていこうか…?けど、、、今から行く霊山歴史館が終わってから時間があったら来ることにしよ…トコトコ〜知恩院観光客が多いね〜前を通り過ぎます円山公園石の上に亀さん?首がなが〜いねトコトコ〜霊山歴史館に向かいます今日はこちらのお話を聴きに来ましたあ〜この坂が難関なのよね〜よっこいしょっとぉ〜到着ぅ〜今日はこちらの建物であるみたい少し早めに来たけど、もう受付が始
御陵衛士ゆかりの高台寺月真院へ、歴史さんぽ♡伊藤甲子太郎たち御陵衛士が活動していた拠点、「御陵衛士屯所跡」に行ってきました♪御陵衛士は、高台寺の中にある月真院を拠点にしていたので、「高台寺党」とも呼ばれていたそうです。『幕末に散った想いをたどって…御陵衛士伊藤甲子太郎最期の地へ』御陵衛士・伊藤甲子太郎の最期をたどって…油小路の変、本光寺を歩く京都駅からほど近くにある「本光寺」に行ってきました🌿ここは、幕末に御陵衛士として活動してい…ameblo.jp
御陵衛士・伊藤甲子太郎の最期をたどって…油小路の変、本光寺を歩く京都駅からほど近くにある「本光寺」に行ってきました🌿ここは、幕末に御陵衛士として活動していた伊藤甲子太郎が、新撰組に襲われ命を落とした場所として知られています。『幕末の風を感じて…御陵衛士屯所跡地高台寺月真院へ』御陵衛士ゆかりの高台寺月真院へ、歴史さんぽ♡伊藤甲子太郎たち御陵衛士が活動していた拠点、「御陵衛士屯所跡」に行ってきました♪御陵衛士は、高台寺の中にある…ameblo.jp本
御寺参拝前に、戒光寺に参拝しました。戒光寺も13年ぶりの参拝です。今回の目的は、元新撰組で御陵衛士の伊東甲子太郎・藤堂平助・服部武雄・毛内有之助の墓参りです。しかし、HPで1週間前に事前予約をしないよ参拝できないとの事・・・・・その代わり、位牌を見れるとの事でお参りしました。泉涌寺総門戒光寺山門弁天社本堂写真撮ったのですが、誤って削除してしまった。Wikipedia借りました。戒光寺鎌倉時代の安貞2年(1228年)、南宋から帰朝した浄業曇照が大宮八条の東堀川の西に戒光
御本尊:三宝尊(題目宝塔、釈迦如来、多宝如来)2023年2月25日訪問。本光寺は、新選組の内部抗争である油小路事件で、御陵衛士の伊東甲子太郎が絶命した地として知られています。京都駅から徒歩7分と近く、清閑な佇まいでした。御朱印をいただきました。御朱印は御朱印帳に丁寧に直書きしていただきました。本光寺基本情報:正式名称:本光寺所在地:京都市下京区油小路町281アクセス:京都駅から徒歩7分拝観時間:8:00~17:00。ただし御朱印は13:00~16:30拝観料:
時は慶応三年十一月十八日(1867.12.13)、今から百五十年ほど前の話になるその日の午後、新選組は、孝明天皇の御陵衛士として三月に隊を脱していた伊東甲子太郎を誘い出し...油小路事件とは新選組最後の粛清のことで、この事件では、御陵衛士であった伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助等が暗殺された、、、でもなぁ...観音様の御縁日に、、御慈悲も何もあったもんじゃない、、、のちに近藤勇は、その御陵衛士の残党により変名を使っていたところを見破られ、捕縛、そして斬首という