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こんにちは。前半三連休の最終日。ピットロード1/700日本海軍潜水艦伊-9&呂-35SPW23Amazon(アマゾン)これ以上机の上に置いておくと、大学時代から使ってるノートPCを移動させた時などに破損する恐れが出てきたため塗装しました潜水艦の実写写真集を以前地元の図書館に取り寄せてもらって眺めたんですが、そのときのイメージが鮮烈だったのでそのように塗装してます具体的には船体を軍艦色1→呉工廠色に筆で塗り、その上からブラックでハデにウォッシングして
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※度々お知らせしておりますが、当方のPCの不具合につき、皆さまの全てのアメブロ記事でタイトル部分と本文以外が欠落し表示されません。「いいね」「フォロー」をしていただいてもお返しすることも出来ません。見返りを期待して押される方は申し訳ありませんが、ご遠慮下さい。当面の間冒頭にこのお知らせを載せることにしました。ドイツ空軍V1ミサイル。パルスジェットエンジンを搭載した無人飛行爆弾。ドイツ語の「Vergeltungsw
ねこ太(中2)、吉村昭さんの「深海の使者」という本を読みました。深海の使者(文春文庫)Amazon(アマゾン)1年くらい前に、「伊号潜水艦訪欧記ーヨーロッパへの苦難の航海」という本を読んでいるのですが、AMAZONのレビューに、「吉村昭の「深海の使者」を読まれた方は、ぜひこちらも読むべし」と書いている人が複数いました。というわけで、遅れて「深海の使者」を読みました。「伊号」を先に読んでしまい順番が逆ではありますが、「深海の使者」ももちろん興味深く
旧日本海軍が建造し、太平洋戦争で活躍をした「伊号潜水艦」。この「伊号潜水艦」は、基準排水量1000トン以上の、「一等潜水艦」のこと。ちなみに、1000トン未満、500トン以上の潜水艦は「呂号潜水艦」。500トン未満の潜水艦を「波号潜水艦」と呼びます。この「呂号潜水艦」「波号潜水艦」は、「二等潜水艦」となる。当然、外洋で活躍をする主力潜水艦は「伊号潜水艦」となる。そして、この「伊号潜水艦」で、名艦長と呼ばれたのが、板倉光馬さん。その板倉艦長の戦争体験を書き記したのが、この本。
思いでリブログ(懐かしい記事編)コーナーです。懐かしい過去記事をもう一度・・・きまぐれ投稿です(-。-)y-゜゜゜今日は広島平和祈念日。広島投下原爆を運んだ軍艦の艦長は軍事裁判にかけられ、生き残った乗組員は勲章を授与されたそうです。2014年8月31日の記事より長崎県五島列島沖に戦後、アメリカ軍により沈められた旧日本海軍の「伊58」とみられる潜水艦を九州工業大学特別チームが撮影しました。伊58潜水艦は広島に落とされた
開戦して間もない昭和16年12月10日、英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは、海軍第二十二航空戦隊の九六式陸攻・一式陸攻部隊による空襲で2隻とも撃沈されました。(マレー沖海戦)昭和17年4月8日、セイロン島(現スリランカ)沖において、ハワイを空襲した後インド洋に派遣された南雲機動部隊により英空母ハーミス他、駆逐艦2隻が撃沈されました。(セイロン沖海戦)東南アジ
1944年4月ごろの戦局はと言うと、1943年9月に決定された「絶対国防圏」のほころびが見え出した頃と言えます。赤いラインで囲った内側がおおよその圏内となるわけですが、敵のウルフパックは圏内全域で活動しており、軍艦・輸送船に限らず全ての艦種に被害が出ています。2月17日にはトラック島が空襲2月23日には敵機動部隊がマリアナ諸島を空襲。友軍機140機以上がほぼ全滅。特に練度の高かった761空の
最近、パンダ国の気球が北アメリカ上空で問題になっています。日本も戦時中爆弾をつけた気球を作ってアメリカ大陸へ飛ばしていたのを知っている人はどれくらいいるでしょうか?その話は日本陸軍が主導していましたのでこのカテゴリ外なので割愛させていただきます。風船爆弾の記事です。『北九州平和資料館⑪』福岡県北九州市若松区に「北九州平和資料館」があります。戦争の悲惨な現実を後世に伝えるための展示施設です。戦時中、中国大陸や南洋諸島で家族を思いながら戦った…ameblo.jp今回の日本海
こんばんは、らうですジェガンの回でちょっと早い大掃除をしたと書きましたが、その後小さいコタツを買ってきて空いたスペースに置いてコタツでプラモを作れるようにしましためちゃくちゃ快適なのですが、快適過ぎて気がついたらほぼ毎回寝てしまっています気を付けないといつか風邪ひきそう…さて、久々の伊19です進めてはいましたが記事にするのを忘れてた…↓前回はここまでだいたい塗装しました保護索支柱と空中線は伸ばしランナーでそれっぽく作ってみたあと少しで終われそうですが、年内に完成出来るかはわか
大鯨の船体に合ったケースと残り少なくなった金属張り線を同時に発注しました。届くまでの間に94式水上偵察機と内火艇を作っておきます。ケースが届いたので早速本体をネジ止めしてから張線を行います。偵察機は張線をくぐらせるようにしてセット。作業行程が逆だったようです。その偵察機はもう2機作っていて1機を飛行機救難船に乗せてみました。もう1機は窓際に置いていてレースのカーテンを洗うため外すときに多分からまって破損。(床に転がっていて気が付いた)一緒においていた「
1942年8月7日、敵は突如としてガダルカナル島に上陸。これより泥沼の餓島攻防戦が始まります。敵は我軍が建設した飛行場をいち早く占領。航空隊を進出させました。以降餓島に輸送する兵員・物資・食料は敵の航空兵力によってことごとく妨害され、餓島に上陸した最大2万名以上の兵員をまかなう食料も届かず、飢えが友軍を襲います。一木支隊進軍経路~イル川渡河戦10月26日に行われた南太平洋海戦では、我軍は空母翔鶴が大破、空母瑞鳳が中破
最近読んだ本井上淳伊号潜水艦読了
こんばんは、らうですiPhone14の予約が開始されましたね自分はまだXSから変えるつもりは無かったのですが、よくよく思えばバッテリーの最大容量が71%と大分少ないですし、購入してから大体4年経っているので、そろそろ替え時かなぁ…となのでauのサイトから見積もりを出したら、まぁ、予想通り高かったのでやめましたそれに、別にスマホに高性能のカメラは求めてないし、iPhone14だと13やSEと同じA15Bionicチップだし…さて、今回は珍しく艦船模型ですちなみに、ブログ初めてからは大
日本海軍よもやま話第18回目。今日は元回天特別攻撃隊隊員だった伯父の34回目の終戦です。八文字焼き(北九州市・皿倉山)戦時中、回天特別攻撃隊員だった私の伯父の話です。私の伯父(父の兄)は富雄といいますのでTと言わせてもらいます。Tは私の父より11歳年上の大正7年(1917年)生まれです。生まれは現在の飯塚市(福岡県)で炭鉱で栄えた筑豊です。Tは機械いじりが好きで建築業を営んでいた父親(わたしの祖父)と喧嘩ばかりしてました。とうとうTは家を飛び出して海軍に入隊
伊号潜による敵国本土の砲撃と言うと、1942年2月23日に伊17によるエルウッド石油製油所への砲撃、6月20日の伊26によるバンクーバー島への砲撃、21日の伊25によるフォート・スティーブンスへの砲撃が良く知られていますよね。ところが、伊号潜が敵国本土を砲撃したのは米国だけではないんですね。豪州もまた標的となっています。1942年5月31日夕刻、シドニー沖まで静かに進出した5
「伊号潜水艦訪欧記ーヨーロッパへの苦難の航海」という本を読みました。伊号潜水艦訪欧記―ヨーロッパへの苦難の航海(光人社NF文庫)Amazon(アマゾン)150〜2,818円私は詳しくないので、タイトルを見て、「伊号」とは、イタリアの潜水艦なのかしらと思いましたが、イロハニのイで、日本の潜水艦でした…。第二次世界大戦中、同盟国であるドイツとの情報交換や物資の輸送、人員交流などのために潜水艦が利用されていたのだそうです。「伊号」は、無事に生還した唯一の潜水艦
ドイツ空軍V1ミサイルパルスジェットエンジンを搭載した無人飛行爆弾。ドイツ語の「Vergeltungswaffe1(報復兵器第1号)」の頭文字を取ってこう呼ばれました。1942年6月、ドイツ空軍はィーゼラー社に対してパルスジェットを動力とする飛行爆弾の開発を命じ、開発からわずか6ヶ月で実験に成功。1945年3月までに、約22000発が発射されたが、ロンドンに到達したのは1割程度に過ぎず、その大半は対空火器・
日本海軍の潜水艦は、基準排水量1000トン以上の一等潜水艦を「伊号潜水艦」排水量500トン以上1000トン未満の二等潜水艦を「呂号潜水艦」500トン未満の潜水艦を「波号潜水艦」と、このように基準排水量のランクに応じて分けられていました。また伊号潜はその用途別でさらに分類されています。代表的なものとして『巡潜型』『海大型』『潜特型』などがあります。巡潜型は太平洋を往復できるほどの長い航続距離を有し通商破壊作戦・偵察
帝國海軍潜水艦中で撃沈隻数、トン数ともに№1の伊10潜の大活躍劇か、と思ったら、他潜水艦と合わせて5隻の元乗員によるそれぞれの回想記だった。潜水艦は死ぬときは乗員100人ほどが全員死ぬので、やられたはなしを読む機会は無い。すべてが勝利の記録だ。心によゆうをもって読み始めた。期待はずれだったといわれる日本の潜水艦部隊だが、開戦初期のインド洋、米沿岸では連合軍側の警備が手薄だったこともあり、商船相手にだいぶ撃沈トン数を稼いでいる。軍艦相手の闘いと比べると、読んでる側からはスリルが足りないし
当家一族には、沖縄戦に参加した者が3名おり、毎年4月半ばに一族を挙げて沖縄での慰霊祭を約40年開催してまいりましたが、生還者・遺族の高齢化のため7年前に終了となってしまいました。先日いとこと携帯で話してる時にその話になって、その流れから話題が祖父の事になり「お前はよくじいちゃんのケツにくっついてあちこち飛び歩いてたなぁ」と言われ、そう言えばあの時訪れた場所に関心を示さなくなって幾久しいなぁと感じていました。
日本海軍よもやま話第8回目は前回の「遣独作戦・ヨーロッパの休暇」に続き「遣独作戦・祖国を見れなかった回航員」についてです。前回は伊号第8潜水艦乗員たちのフランスでの生活のお話をしましたが、楽しい休暇は長くはありませんでした。1943年9月8日、イタリアが連合国に降伏したことを知った乗組員にはヨーロッパでの雲行に不安を感じていました。その間、乗員の電波兵器や対空機銃の講習を受け帰投準備も着々と進められました。ブンカー内の伊号第8潜水艦には20ミリ4連装対空機銃を装備し、最新のレー
日本海軍よもやま話第6回目は前回の「欧州に行った伊号潜水艦」に続き作戦成功した「第二次遣独作戦」についてです。前回は遣独潜水艦作戦の概要をお話しましたが、今回と次回は航海中の事やフランスでの生活のお話をしたいと思います。先ずはヨーロッパに到着するまでのお話です。伊号第三十潜水艦を使った第一次遣独作戦は昭和17年、フランス・ロリアンからの帰り10月13日シンガポール港にて触雷にて沈没しました。その後、第二次遣独として指定されたのが伊号第八潜水艦でした。
日本海軍よもやま話第5回目は「欧州に行った伊号潜水艦」のお話です。皆さんは潜水艦というと、海の中に潜って敵艦船に近づき、魚雷攻撃するということはご存じだと思います。太平洋戦争末期になると、太平洋の孤島に食料や武器・弾薬など補給する補給船としても使われました。しかしながら、日本の潜水艦が欧州へ行ったことは、軍事マニアや艦船模型好きの方を除いてほんの少しの人しか知られていません。今回のお話はドイツ(フランス)へ行った別名「遣独潜水艦作戦(けんどくせんすいかん