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荷田春満と五霊社«ブログ・三ノ宮通信比々多神社のブログ・三ノ宮通信www.hibita.jp⛩五霊神社|神奈川県伊勢原市-八百万の神神奈川県伊勢原市にある⛩五霊神社の情報(投稿写真、催し物、地図と経路、最寄の駅、最寄のバス停)がご覧いただけます。yaokami.jp11.高部屋地区:見どころ満載!!文化財巡り【LC】伊勢原ゆかりの武将(太田道灌)が開基した「幡龍山洞昌院」や「太田道灌の墓」、太田道灌と伊勢宗瑞(北条早雲)に関わる伝説が伝えられる「五霊神社」、上杉館の鎮守で
日本はどのようにして戦国時代へと向かい、太平の世が生まれたのか。それをきちんと語ろうとすると鎌倉幕府滅亡まで遡らないといけません。本書では室町幕府の関東を統括する機関として設けられた鎌倉府を中心としています。室町幕府成立の時期から関東で打ち続く内乱、将軍の分身として鎌倉に置かれた鎌倉公方とその補佐役(または監視役)である関東管領との対立である上杉禅秀の乱、そして永享の乱、結城合戦、戦国時代の嚆矢とも言われる享徳の乱に長尾景春の乱、長らく続いた室町幕府と鎌倉府の和睦である都鄙和
※こちらの記事は、令和3年3月20日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は断続的に続いている「平成28年鎌倉(かまくら)旅行シリーズ」の第8弾で、「円覚寺(えんがくじ)」について記事の初回となります。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【今までの記事】・鎌倉ですごい神社を見つけた!(甘縄神明神社)・平成28年の小町通り(1)―光輝くシラス丼と極上のクレープ・平成28年の小町通り(2)―垂涎の腸詰と宝石のようなマカロン・平成28年の小町通(3)―原点回帰
※こちらの記事は、平成30年1月31日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は1/11に始めた新シリーズ「各合戦の動員人数について」の第2弾です。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。第1弾江古田原沼袋合戦第2弾は…権現山(ごんげんやま)の戦いということで(題名に書いていますが笑)、そもそもこれがどんな戦いなのかという話ですね。永正(えいしょう)7年(1510年)に武蔵国神奈川(むさしのくに・かながわ)〔神奈川県横浜市神奈川区(かながわけん・よこはまし・か
小机城付近の散歩のレポを書いてきましたが。ここで、小机城の歴史について簡単に書きます。小机城の築城小机城は、室町時代の永享の乱(1438~1439)の頃、関東管領の上杉氏によって築城されたといわれていますが、確実な年代などは不明です。小机城がこの場所に選ばれた理由としては。・地形の特徴城のある丘陵は、北・西・東の三方を鶴見川に囲まれており、周囲の展望にも優れた要害の地であったこと。・交通の要所飯田道の陸路と、当時船着き場のあった鶴見川の水路の合流点が小机で、交通の要所であ
伊豆の国市にある韮山城跡を、国史跡指定に向けた説明会がありました。2025年度中の指定を目指しています。戦国時代の始まり、下剋上の幕開け。明応2年(1493)伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河國興国寺城から、伊豆國の堀越公方を攻め進出する。伊豆國平定した、伊勢宗瑞は韮山城を整備し本拠地とする。永正16年(1519)宗瑞没する。二代目氏綱は北条氏と改姓。相模國小田原に本拠地を移す。韮山城は小田原城の支城として、足柄城、山中城と西側を防御する重要な城となります。しかし、天正18年(15
北条早雲の名で知られている伊勢盛時ですが盛時自身は伊勢宗瑞と名乗っていて北条早雲と称されるようになったのは早雲が亡くなり嫡男の氏綱の時代になってからでした。1467年に起きた応仁の乱で駿河国守護今川義忠が上洛し伊勢貞親を訪れその時に取次ぎをしたのが早雲の父盛定。そうした縁で早雲の妹の北川殿が今川義忠の正室となります北川殿は1473年に後の今川氏親を生んでいますしかし今川義忠が襲撃で討ち死にし家督争いが起こり今川家は二分しますその時に早雲は幕府の命により調停を行い龍王丸
※こちらの記事は、平成30年3月24日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「各合戦の動員人数について」シリーズの5回目で「川越(かわごえ)城の合戦」についてです。『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の長谷圭剛氏の記事を参考にしています。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。「川越城の合戦」も収録されている『関八州古戦録』に興味のある方は、下記リンクをタップしてください:『関八州古戦録』今までの記事第1弾江古田原沼袋合
※こちらの記事は、令和2年7月31日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第24弾として、「権現山(ごんげんやま)の戦い」について、ビジネス的視点で見直したいと思います。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第1回今山の合戦第2回耳川の合戦第3回沖田畷の合戦第4回小豆坂の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第7回稲葉山城の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第9回姉川の合戦第10回二
○混迷の関東、虎の目覚め◇『新九郎、奔る!』第1話プロローグより明応二年(1493年)伊豆国北条の堀越公方御所にて「室町殿奉公衆伊勢新九郎盛時、三十八歳!主命により足利茶々丸様の御首(みしるし)頂戴に参上仕った!」(ここまではやる!だがこの後のことはもう決めたぞ・・俺が決めた!思えば簡単なことではないか。明日からは俺の主は俺だ!)◇『新九郎、奔る!』紹介サイト『新九郎、奔る!』ゆうきまさみ|ビッグコミックBROS.NET(ビッグコミックブロス)|小学館ゆうきまさみ「
※こちらの記事は、平成30年2月16日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は新シリーズ「各合戦の動員人数について」の3回目で「新井(あらい)城の戦い」についてです。今回も『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の新井英生氏の記事を参考にしています。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。今までの記事第1弾江古田原沼袋合戦第2弾権現山の戦い「新井城の戦い」はどんな戦いかというと…伊豆(いず)を平定し、小田原(おだわら)城を
《令和5年11月17日更新》※こちらの記事は、令和2年9月1日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第27弾として、以前言及した「新井(あらい)城の戦い」について、ビジネス的視点で見直していこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。新井城の戦いの動員人数について知りたい方は、下記リンクをタップしてください:「各合戦の動員人数について(3)新井城の戦い」関連記事:三浦関連記事:鶴岡八幡宮を味わう(3)―源平池とゆか
韮山城まつりプレイベント講演・韮山城ガイドツアーに行きました。二年後に国指定史跡を目指すイベントのようです。手作り兜絵馬を買いました。受付で貰いました。資料韮山高、伊豆中央高、知徳高の高校生がデザインした絵馬。絵馬をデザインした高校生。静岡古城研究会会長望月保宏氏による講演。韮山を拠点にした話しなど、新たに知る事が出来ました。沼津三津から熱海網代に抜ける街道、三島から下田に抜ける街道が交わる場所が韮山であり交通の要所だったようです。韮山と言えば、蛭ヶ小島に流された源頼朝、
11月18日、伊豆の国市韮山で韮山城まつりのプレイベントがあります。講演会やガイドの説明を聞きながら韮山城巡りがあります。定員300名、参加費無料。韮山城巡りは定員60名、当日の申し込み。鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏を区別するため前者を鎌倉北条氏・執権北条氏、後者を後北条氏・小田原北条氏と呼びます。伊勢宗瑞の嫡男氏綱から北条氏を名乗ります。鎌倉北条氏→桓武平氏後北条氏→伊勢氏→桓武平氏家紋は三つ鱗伊豆の小豪族だった北条氏が鎌倉幕府執権に就き権威を奮った事に因んで、伊勢宗瑞
五月の信州の事ばかりを書き綴っていて、一月の駿遠遠征のことを書きそびれていた。駿州における目的地は主にふたつ、発掘の成果著しい駿府城と、山城の白眉・丸子城を見ることであった。丸子城には静岡駅からバスで、朝から行けたので昼過ぎには図を摂ることができた。で、zoomの「城飲み諸説あり」で度々話題に出た、丸子宿の丁子屋でトロロ飯を戴けた。オオイタでは父が秋になると山芋を掘ってよく食べた。外で食したのは初ではないか。実家では醬油だったが、ここ丁子屋では白味噌のようだ。運転する予定はないため近
伊豆の国市民有志による韮山城・伊勢宗瑞(北条早雲)の情報発信・支援を市長に要望しました。*鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏を区別するため前者を鎌倉北条氏・執権北条氏、後者を後北条氏・小田原北条氏と呼びます。伊勢宗瑞の嫡男氏綱から北条氏を名乗ります。鎌倉北条氏→桓武平氏後北条氏→伊勢氏→桓武平氏家紋は三つ鱗伊豆の小豪族だった北条氏が鎌倉幕府執権に就き権威を奮った事に因んで、伊勢宗瑞が伊豆國韮山に居城を構え氏綱が小田原に本拠地を移すと改称。後北条氏が関東の覇者として君臨します。
前ログの続きです後北条氏の旗揚げの城です伊勢宗瑞の城です【伊勢新九郎盛時】一般的には、北条早雲と言われていますが、この名前は後世の通称なので、ここでは伊勢宗瑞と呼ぶ事にします室町幕府の政所執事である伊勢氏の一族です備中荏原郷に領地を持っていたまた将軍の身辺に仕えていたらしい伊勢宗瑞は小鹿範満を討ち、竜王丸を家督にすえた功績で所領を得て、興国寺城に入ったとされているらしい?遺構はそれほどではありませんが、ここから後北条が…思うと来たいと思いました土塁と大空堀はあります
都道府県別索引へ松平氏のではなく、相模の国は伊勢原の城。岡崎城は伊勢原の駅から南に2km弱のところ、県道61号の西側に広がる丘陵地帯にある。今は無量寺周辺に数面の曲輪、それに東の方に野陣台なる曲輪を残すぐらいだが、往時は反対側にも数百メートルの範囲を丸ごと城郭に取り込んだ、かなり広大な城だったらしい。相模の名族三浦氏の一族であった四郎義実がこの地に最初の城を築いたが、当初は今より1kmほど南南西の岡崎神社の場所にあった。和田合戦などで執権北条氏と対立し敗北すると歴史の表舞台から姿を消
江川邸から、ガイドの説明を聞きながら韮山城へ行きました。戦国時代の始まり、下剋上の幕開け。明応2年(1493)伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河國興国寺城から、伊豆國の堀越公方を攻め進出する。伊豆國平定した、伊勢宗瑞は韮山城を整備し本拠地とする。永正16年(1519)宗瑞没する。二代目氏綱は北条氏と改姓。相模國小田原に本拠地を移す。韮山城は小田原城の支城として、足柄城、山中城と西側を防御する重要な城となります。しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐のさい、山中城を攻める部
伊豆の国市歴史講座に行って来ました。会館に行くと講座を受ける人が並んでいました。満員に近い人数です、人気あるんだね。講座の資料、パンフレットを受け取り席に付きました。午前中は3人の講師による、伊豆の国市の歴史文化・後北条氏の韮山城・江川家の歴史を学びました。知らない事もあり勉強になりました。終了後、アンケートに北条五代を大河ドラマに!と書きました。午後からは場所を変え、ガイドツアーに参加しました。江川邸駐車場から、それぞれ4グループに別れ出発。約50人位参加かな…自分は江川邸
伊豆の国市で、歴史講座とガイドツアーが3月12日に開催されます。歴史を辿る−戦国の動乱から近世へ−午前中は歴史講座。午後から韮山城・江川邸のガイドツアー定員は100名応募多数は抽選参加費は無料(ガイドツアー参加者は江川邸入館料550円)申し込みは、往復はがき・専用ホーム。締め切りは、往復はがき2月24日当日消印有効・専用ホームは2月24日。文化財市民講座を開催します。www.city.izunokuni.shizuoka.jp伊豆の国市は、昨年の大河ドラマ鎌倉殿の13人
阪急交通社のたびコト塾に参加しました。2/13(月)に阪急交通社のたびコト塾というものに初めて参加しました。会場は新橋駅から10分ほどのKHD東京ビルというところです。日比谷通沿いなので、すぐ分かりました。一番上の写真がビルの入口です。エレベーターで2階に上がると、上から二番目の写真の通り、オフィスの受付って感じ。ここで参加費¥500(安!)を払って、会場へ。開始15分前には着きましたが、もう十数人座っておられました。最終的には30人くらいでしょうか…会場は満席でした。一番下の写真の
年が改まり、新たな某国法曹享海の汰毬ドラマが始まっている。『ドーズル=ザビやす』金色のMSを纏った主人公が部下に投げられ「これが若さか…」の名セリフも飛び出した。その流れで、次々回の鯛臥を予想するハッシュタグもあらわれている。ぼくは以前から司馬大人の『箱根の坂』を原作として欲しいと思っていた。伊勢新九郎の話である。ただ、司馬氏の小説がラノベであることに気付いてから歴史小説に対してアレルギーを発症している。最近の伊勢新九郎の研究を反映した作品としては『新九郎奔る
今回の「旧東海道歩き」の記事も最後となりました。沼津~三島~箱根~小田原と、天下の険・箱根を越えるのに4日も要してしまいました。やっとのことで小田原市内に入りました。箱根登山電車「箱根板橋駅」です。新幹線ガードをくぐった右側に…小田原藩主大久保家菩提寺「日蓮宗・大久寺」がありました。天正19年(1591)徳川家康の重臣であった小田原藩主大久保忠世が建立した法華宗(現在は日蓮宗)のお寺です。その後2代忠隣が政治の謀略に
動乱が続いた古代~中世の東国史を総覧する通史として全7巻が刊行されたシリーズの第6巻です。本書で扱う年代は古河公方が成立するきっかけとなった享徳の乱から伊勢宗瑞の晩年に起きた永正の乱までを対象としています。従来言われてきた伊勢宗瑞に始まるいわゆる後北条氏5代の栄枯こそが関東戦国史とする見方を見直し、東西で二分された関東の勢力図を中心にした最新研究を盛り込んだ戦国初期の関東を描いています。ところで、タイトルに反して表紙が太田道灌と伊勢宗瑞の肖像画になっていますが、当初当時の
10月11日、沼津駅南口へ。ここからバスに揺られること30分ほど、東根小屋のバス停に着。根小屋とは、城の中心の周辺に設けられた武士の屋敷があった場所。バス停横には興国寺城の石碑。当時の興国寺城池で防御を固めていました。現在の空撮写真道路を挟んでバス停周辺の南北に広がる土地は、全て三ノ丸跡です。バス停の山側三ノ丸です。山側へ登っていく。デカい土塁曲輪の段差が明瞭です。二ノ丸と本丸の境も明瞭。そしてその後方にはすごい段差が
はい!ここのところ、遊びのテーマの一つに挙げている北条の城巡り今回は北条氏初代「北条早雲」の旗揚げとなった経緯を追いながらのお散歩をしてきました。と言ってもね😓戦国の歴史は信長・秀吉・家康。他を挙げるなら、武田、上杉、あと、島津とか?北条なんてさぁ、田舎侍じゃね?…と、私は思っていたのですよ神奈川湘南で育ち、ずっと暮らしていたにも関わらずです。近年、地元というだけでなく、北条に興味を持ったきっかけの一つが「城郭考古学」という存在、そう!千田嘉博先生ですね。なんたって、楽しそうな
歴史小説北条早雲4巻を読み終えました。宗瑞の残りの人生が見え始めてきました。目標の一つ、小田原を奪還することです。西相模を支配下に置く事に成功しましたが、大切な弟・弥次郎失ってしまいました。得られるものはあるが、失うものの代償は大きいです。今後、東相模の豪族・三浦道寸の嫡男・荒次郎は宗瑞の手強い敵として立ちはだかる時が来るのでしょう。北条早雲5巻を購入しました。あらすじ権現山(ごんげんやま)での敗走、山内(やまのうち)上杉氏の内紛、身近な者との離別・・・相模統一
Cesontlesmangasausujetdel'époquedelaguerred'Ōninetsengoku"Shinkurō,Hashiru!".----------「応仁の乱」という言葉は知っていても、実際に何が起こったのかは、人間関係・勢力図が複雑すぎて分かりづらいと感じている人も多いかと思います。文献でコツコツ調べながら関係図を作っていくのもいいかもしれませんが、気軽に楽しく分かるのがやはり漫画の力。僕のオススメは「新九郎、奔る!」(しんくろう
【問題】伊勢宗瑞(北条早雲)が見たという、扇谷・山内両上杉氏を倒すことを暗示した夢とは、次のうちどれか?【選択肢】扇の内側の山の紋様が雲に変わった9人の奉行が寒冷地に左遷された伊勢海老が江戸湾で大量発生した2本の大きな杉を鼠が食い倒した【正解】2本の大きな杉を鼠が食い倒した【解説】『北条記』等によると、宗瑞は、鼠が2本の大杉の根をかじって倒し、その鼠が虎になった、という夢を見た。宗瑞はこれを、扇谷・山内両上杉氏を子年生まれの宗瑞が倒す運命だと喧伝したという。