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さて、割と不遇の土佐勢である。先ずは星5覇道者長宗我部元親さん・周囲味方攻撃強化解除・自信攻撃強化+70%・敵ラ3体物ダメ1.50無ダメ1.00敵2体時→攻+25%敵1体時→攻+50%周囲味方の強化の解除にどんな意味があるのかは知らぬが、たぶんそこまで大きな影響無し。別に強化解除分だけバフが強力になるとかもないしな……一応つけてみたデメリット感。自動で解除される心配のない攻撃強化がスキルに組み込まれているのは嬉しい。これは……正直計算式のどこがどう強化されるのかわ
10月1日、今日は雨の予報なので、雨が降る前に「笠取峠」を越えようと思い、6時に宿を出て、昨日の終了地点「長久保交差点」まで戻りました。交差点から、右の坂道を登り「長久保横町」交差点で、左折して進むと「長久保宿」です。長久保宿は、和田峠・笠取峠を控え「北国街道」への分岐もあった事から、旅籠が50軒近くある、大きな宿場でした。かって旅籠が並んだ「横町」↑です。右に「たつのや」(江戸末期)があります。宿場が繁栄した頃「贅の限りを尽くして」建てられたものです。「横町」から「旅館・
【2025年6月15日】中山道の御宿場印を手に入れるために訪れたのは、埼玉県の鴻巣市。そんな鴻巣を代表する寺院で、以前から一度立ち寄ってみたいと思っていたのが、浄土宗の寺院、勝願寺。鎌倉時代に開かれてから、約770年もの長い歴史を持つ古刹です。かつて鴻巣には徳川家康や秀忠、家光が鷹狩りの時に宿舎とした「鴻巣御殿」があった関係で、徳川家からの強い庇護を受けた勝願寺は、徳川家の家紋である三つ葉葵を使用することを許されていた数少ない寺院の一つでした。私が
『仙石秀久・小松姫・真田信重の墓をみて混乱した:勝願寺(鴻巣市)』埼玉県鴻巣市の勝願寺に、初代小諸藩主仙石秀久・真田信之正室小松姫・2代更科藩主真田信重夫妻の墓があります。この並びを見て混乱しました。明暗差で墓石が良く見…ameblo.jp勝願寺(埼玉県鴻巣市)の仙石秀久、真田信重正室、真田信重、小松姫の墓を見学して、不思議に思ったことを考えてみました。①5万石初代小諸藩主仙石秀久の宝篋印塔が一番小さい。②歴史に名を残さない信重正室の三重塔が一番大きい。③真田家は男女とも
実は秀久さんの数値が不明だが、予測値で吟味する予定……じゃないとネタが無いし、正しい数値がわかったら後日訂正すればよい。先ずは星5射撃手真田信幸さん敵全体攻撃反射1T無効敵全体物理耐性−20%前列全敵物ダメ0.85中列全敵物ダメ0.85後列全敵物ダメ0.85(列不足時多段ヒット)横列味方攻+60%×2T実は過去に吟味済み『【信長の野望20XX噺】不滅の六文銭(2)』さて、昨日『【信長の野望20XX噺】不滅の六文銭(1)(2024.12.01訂正)』別に分割する人数ではな
期間:2025/04/28〜05/08天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額射)真田信幸:信濃の獅子射)穂井田元清:第四の矢武)井伊直孝:親子鷹の賢将戦)北条氏照:陣取りの手本覇)仙石秀久:汚名返上の誓※倍率不明の為、判明次第反映星2薬)石田重家:練磨©コーエーテクモゲームス
~洲本城年表~1510年(永正7)安宅冬一が洲本城築城(説1)1519年(永正16)阿波の三好之長が淡路細川氏を滅ぼす1526年(大永6)安宅治興が洲本城築城(説2)1549年(天文18)三好長慶の弟・冬康が安宅家の養子となり、淡路水軍を掌握。以降、安宅冬康は畿内でも転戦する1564年(永禄7)冬康、謀反のかどで自害させられる子の信康が跡を継ぐ1572年(元亀3)信康、織田氏に降伏す1579年(天正7)までに毛利氏に攻められ織田方として撃退する1581年(天正9)安宅氏が毛利に
仙石秀久の家臣森権平と阿波水軍森家と大庄屋の日下家との関係は?江戸時代、東かがわ市馬宿に住んでいた武士森家の正体は?https://bizconsul.net/2025/01/26/148104/仙石秀久の家臣森権平と阿波水軍森家と大庄屋の日下家との関係は?江戸時代、東かがわ市馬宿に住んでいた武士森家の正体は?|BIZCONSULOFFICEbizconsul.netこんにちは。トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。今回は、安土桃山時代(1568年〜1
高原のポニーがあった駐車場より小諸グランドキャッスルホテル脇の坂道を下る朱色の鳥居が見えてきた扁額には、鹿嶋神社とある一の鳥居陰に、懐古園へと続く酔月料金所紅葉の先に、地獄谷を渡る酔月橋と水の手展望台懐古園について『小諸城そして本丸!懐古神社』窓の外、目線の先はしなの鉄道小諸駅小諸城大手門、櫓門の窓からの眺めでした小諸城は、城が市街地より低い場所にある「穴城」とも言われる珍しいお城城跡の元になったも…ameblo.jp懐古園ではなくそのまま真っ直ぐに鹿嶋神社二の
仙石氏の出石城にて仙石氏初代当主・仙石秀久を久々に思い出す。地元タウン紙の連載『信州往来もののふ列伝巻39仙石秀久伝』は2012年8月。その後拙著『信州往来もののふ列伝(しなのき書房)』に載せたのは2017年。しかし以来、秀久のことはほとんど触れずに来てしまった。しかしマンガ『センゴク』で一躍脚光を浴びた仙石秀久、ぜひご一読を願わしゅう、ぜひに!▼当時、高校生が描いてくれた仙石秀久のイメージ画◆仙石秀久(せんごくひでひさ1552~1614)戦国~江戸時代初期の武将・大名
但馬国・豊岡市出石城へ。登城橋、登城門、左右の石垣が城郭の雰囲気。城は階段状、ひな壇のように山のふもとから石垣が作られているようだ。登城門をくぐると下の丸→二の丸→本丸→稲荷丸と山麓を上へと登って構成されている。樹木の葉がないと、本丸の石垣までこんなんに見えて、まさに「城」!登城橋下の谷山川が堀。登城門をくぐると、左手に二の丸を支える野面積みの石垣、正面に東櫓。出石城の最も絵になる風景か。この櫓は模擬の櫓というが唐破風・千鳥破風が施され、今や出石城の天守のごとし。二
にほんブログ村お城巡りブログランキングへ2014年に訪れた「日本100名城」の一つ、長野県の小諸城。『【日本100名城】No.28小諸城(前編)』にほんブログ村お城巡りブログランキングへ普段、旅行に出かける時は、必ず前もって計画を立てておくタイプの性格である私。しかし、今回は、出発当日の朝に突然思…ameblo.jpその「大手門」は、小諸駅から少し離れた場所にありました。本丸跡などが残る「懐古園」とは駅を挟んだ反対側、駅の西側から少し歩いていったところ
名称:小諸城別名:酔月城、穴城、白鶴城、鍋蓋城城郭:平山城遺構:大手門、三之門築城年:1554年築城主:武田信玄改修者:仙石秀久主要城主:武田氏、仙石氏、牧野氏所在地:小諸市丁311指定文化財:重要文化財(大手門、三之門)日本100名城三の門大手門石垣空堀天守台二の丸本丸黒門跡中仕切門跡鏡石眺望
もう9月半ばですが暑い・・・本日金沢の最高気温35度バイクで出かけるならまがりなりにもオイルクーラーが付いているGX750一択早めの昼めし食ったら出かけます金沢山側環状からのと里山里海街道能登島上陸しかし能登島でも空気は熱風能登島ガラス美術館到着このB29の機首みたいなデサインの建物ここで漫画家宮下英樹さんの原画展を開催中その宮下英樹さんは地元石川県の七尾市出身代表作は「センゴク」や「新生ローマ帝国三十年戦争
先ごろ、19歳のある体操選手が喫煙・飲酒行為による規律違反でオリンピックを辞退し話題になっている。問題をいろいろな視点から深掘りしたりして、社会の目は厳しいものがある。語弊があったら許されたいが、要するに彼女はしくじったのだ。しかし、ひとの人生は長い。たとえば、私はふと戦国に生きたある武将を思い出す。仙石秀久。通称、権兵衛。仙石家旧蔵資料「仙石秀久」Wikipediaより美濃の土豪の四男坊で家督も継げない厄介者であった。秀吉に仕え加藤清正や福島正則らと同じ子飼いの家来とな
5月11日に日帰りで長野県の小諸市を訪れたオヤジ。上の画像は市内から望んだ浅間山です。山の形は眺める方向によって変わります。小諸市から見ると噴火の痕跡をハッキリと確認する事が出来る。🌋JRと、しなの鉄道が乗り入れる小諸駅。駅の裏側の線路を隔てた場所に小諸城の城郭が広がります。浅間山の溶岩流の上に町の中心部が広がっているので駅前でもかなりの傾斜を感じます。そして城の標高は城下町よりも低い。つまりここは‟城下町”では無く‟城上町”と表現した方が良さそうです。
窓の外、目線の先はしなの鉄道小諸駅小諸城大手門、櫓門の窓からの眺めでした小諸城は、城が市街地より低い場所にある「穴城」とも言われる珍しいお城城跡の元になったものは信玄の軍師であったされる山本勘助の縄張りだと言い伝えられ現在のような構えとなったのは仙石秀久の改修によるものだそうだ久しぶりに、三の門より小諸城跡の懐古園を散策園内、本丸跡に鎮座する懐古神社手水舎と社殿、そしてその扁額参拝参拝後、授与所にて書置きの御朱印をいただきましたなお、同じようなもの・・・御
香川県の聖通寺山はもともと瀬戸内海に突き出た岬だったそうで、今は西に宇多津町、東に坂出市の市街が広がり、北には瀬戸大橋から岡山県までも望む標高122mの山。山頂一帯は「常磐公園」として整備されていて、北側に建つ結婚式場「サン・アンジェリーナ」からの眺望はひときわ絶景です。ここは展望台にもなっていますから、ちょっと覗いていきましょう。「聖通寺山展望台」–宇多津町観光協会:四国香川県(utazu-kanko.jp)うわー、瀬戸大橋が丸見え。瀬戸内海を隔てて本州までも望めま
耳川の合戦(天正6年:1578)で大友家の軍勢を叩き潰して以来、破竹の快進撃を続けていた薩摩の島津家は、天正14年(1586)には関白・豊臣秀吉が遣わした仙石秀久らを戸次川の戦いに撃破して九州を席巻しました。しかし天正15年(1587)4月。豊臣方の主力が到着すると攻守は逆転し、戦線は日向国(宮崎県)まで後退して、島津方は要衝・高城(高鍋町)を囲まれていました。寄手は豊臣秀吉の実弟・秀長を筆頭に小早川隆景、宇喜多秀家、黒田孝高、宮部継潤ら西国の大小名およそ10万。高城がいかに堅城
「豊後の王」こと大友宗麟は、最盛期には九州一の大大名でありました。しかし天正6年(1578)に薩摩島津家との決戦(耳川の戦い)に敗れて以降、九州制覇の勢いで北上する島津勢に抗することができず、ついに天正14年(1586)3月、自ら上洛しすでに関白となっていた天下人・豊臣秀吉に救援を懇願しました。得たりとばかりに秀吉が応えたのは、天下統一に避けて通れぬ九州平定のよき口実となったからでありましょう。同年7月。島津征伐を決定した秀吉は、まず先遣隊として土佐の長宗我部元親、讃岐の十河存保ら四
AlekAuddyによるPixabayからの画像※こちらの記事は、令和3年3月8日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第40弾として、「戸次川(へつぎがわ)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第1回今山の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第10回二俣城の合戦第11回一言坂の合戦第12回三方ヶ原の合戦第13回野田城の
横山光輝原作山岡荘八読みました。越前攻めメンバーに「仙石秀久」がいて感激🤩
※小諸城大手門公園案内板…大手門は小諸城三の丸の入口を守る門です市営駐車場がありますJR小諸駅線路敷設により、三の丸は消滅、大手門が残り、現在は公園になっています小諸城に行きました!3️⃣100名城No.28小諸城(懐古園、懐古神社)には、今回初めて行きました。小諸城は、平山城に属しますが城下?町より、低い位置に築城され、城下!町から見える、「穴城」と呼ばれる全国的にも「特殊な」城になります。武田信玄が山本勘助に命じて、武田流築城術を駆使した曲
※小諸城址の巨大な石碑小諸城に行きました!2️⃣100名城No.28小諸城(懐古園、懐古神社)には、今回初めて行きました。小諸城は、平山城に属しますが城下?町より、低い位置に築城され、城下!町から見える、「穴城」と呼ばれる全国的にも「特殊な」城になります。武田信玄が山本勘助に命じて、武田流築城術を駆使した曲輪群の遺構がほぼ完存しています。大手門(重文)、三の門(重文)が残り、三の丸がJR線路敷設により消滅し、その間が分断され
※小諸城三の門と案内板…門上の扁額には「懐古園」の書があります徳川家16代家達公の書になります三の門は、二の丸の入口を守備する巨大な櫓門です平成5年に国の重要文化財に指定されています※二の丸から見た三の門の「裏側」…当初の三の門は、武田滅亡後、織田、徳川を経て秀吉家臣「センゴク権兵衛秀久」が小田原の役の戦功により、小諸5万石の大名に「復活」したときに天守(焼失)、大手門(現存)と同時に造られた建物でしたが、洪水により損壊しました現在残る三の門は、明和2年(1765)小諸3代藩主牧野
豊臣秀吉の最古参家臣仙石秀久の墓参りです。仙石秀久とは安土桃山時代の武将。美濃国生まれ。久盛の子、通称権兵衛。千石とも書き、名も秀康、盛長ともいった。初め織田信長に仕え、1574年(天正2)近江野洲郡に1000石を得、80年淡路洲本に5万石を領した。のち豊臣秀吉に仕え、85年四国征伐の功によって讃岐を得て高松城主となる。翌年、九州島津攻略の先発となったが敗れて一時所領を没収され、高野山に謹慎した。90年家康を頼って小田原攻めに加わり、功あって信濃小諸城主となり、5万石を領した。1600
【問題】小諸城(長野県小諸市)において、慶長期に仙石秀久により建てられ、現在国の重要文化財となっているのは、次のうちどれか?【選択肢】富士見台櫓大手門二の丸御殿三十間長屋【正解】大手門【解説】小諸城の大手門は、慶長17年(1612)に仙石秀久により建てられたとされる。明治期に民間に払い下げられ、料亭などに使用されたが、平成期の解体修理により当時の姿が蘇った。
私よくYouTubeを観るんですが、城跡で検索するとそこそこの割合で「心霊系」の動画が出てくるんですよ。まあ城跡といえぱ戦乱の時代の遺跡ですし、人死にや炎上が当たり前の場所。また各地の城跡に残る怪談奇譚をあつめれば、それこそ分厚い本になる分量でしょうからネタにしやすいんでしょう。城跡の怪談といえば、特に多いキーワードが「人柱」と「井戸」。まず「人柱」ですが、例えば白河小峰城(福島県)、磐城平城(福島県)、丸岡城(福井県)、長浜城(滋賀県)、郡上八幡城(岐阜県)、米子城(鳥取県)などなど
【食育クイズ:Vol.1446】「京都府」の「寺院の梵鐘」おさらいクイズ!「安珍・清姫伝説」のある「梵鐘」がある「京都の寺院」とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}Eco&Art太陽パネル
第一次上田合戦時の真田昌幸の年齢39歳。大河の昌幸が老け過ぎだと思う…第二次上田合戦時でも54歳なので、白髪頭になるのは九度山での最晩年になるんじゃないのかね。佐藤浩市氏は昨年の上総広常が大変素晴らしかったので期待大なんだけど第一次からあの白髪頭には違和感しか無い…因みに家康は昌幸より4つ年上であるwさて、続きです。続・小諸城。水の手展望台から本丸へ戻り、地獄谷は恐ろしいのでスルーw欅の巨木推定五百年だそうです。500年前という事は小諸築城以前からでは?荒神井