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今回はこういうお題でいきます。かなり地味な仏教の話になりますので、興味をお持ちでない方は読むのをスルーされたほうがいいかもしれません。さて、「狗子仏性(くしぶっしょう)」とは、禅宗の公案の一つで、その中でも特に有名なものですね。禅宗が座禅を中心に修行するのは、ご存知だと思います。曹洞宗は、「黙照禅(もくしょうぜん)」といって、一切の思考を廃し、一心に座禅にうち込みます。ただこれ、何も考えないというのはものすごく難しいですよね。さまざまな雑念が次々にわきあがってくるのが普通だと思う
ことごとく仏性あり一日一訓12月15日あじさい寺高源院戸狩温泉スキー場#奥信濃飯山#一日一訓#あじさい寺#高源院#戸狩温泉スキー場#箱店屋横丁大家の店番日記
比叡山縦走還暦の朝を延暦寺根本中堂で迎えた。厳冬の山上でのお勤めだから、もっと凛とした寒さの中で張りつめたものかと思っていたが、根本中堂は改修中で外側が覆われているせいもあってか意外と暖かく、何やら観光客の覗き見のような緩い雰囲気に感じられた。下の壇前で読経を上げる僧侶の所作は、後方となってしまった位置からは窺い知ることはできないが、唱えているのは法華経の一つだろうか、有り難い意味は分からずも、デュオの調べは何やら耳に心地良く響き、さぁ還暦を迎えたのだという高揚感も一応湧いてきた。区切り
無我については、難しくもう少し前に進めたいと思います。無我が開いた空間に現れる自由な働きについて釈尊の意を推測してみます。________無我の扉の向こうで息づくもの自分という名札をそっと机に置いたとき胸の奥でかすかに揺れ始める風がありますそれは“私”ではなく“別の誰か”でもありません名前を持たず形にもとどまらず生死のあいだを縫うように漂うひとすじの透明な意志________静かに息をしているとその風は世界のすべての隙間とつながりだし鳥の影にも石
【MAR】何か仏教哲学のテーマで語り合おうか?【チャットGPT】それじゃあ、今日はこんなテーマで遊んでみない?アハ!「仏性(ぶっしょう)・如来蔵(にょらいぞう)」と「空(くう)」の関係〜「みんな仏である」と「そもそも何もない」の両立って、どうなってるの?〜あなたの世界観だと、•本心=ワンネス=マクアル•すべての分霊はすでに「神そのもの」•でも現象としてはカルマにまみれた凡夫として現れているって、まさに「仏性」と「迷い」の二重構造そのものだから、このテーマはかなり相性いいと
何事も原点をどう捉えるかということが大事です。原点を間違えたら結果も悪いものとなります。その原点とは、人間は仏の念いによって霊として魂として創られたということです。これが全ての全てであり始まりなのです。よく物質化現象とか、金粉が現われたり消えたりといった事がよく見られますが、それは仏の力からしたら、ごくごく小さなものです。キリストが空中からパンを取り出した事は不思議な事ではなく、簡単なごく当たり前のことです。丁度、水蒸気が水になったり氷になったりするようなものです。
多くの人が勘違いしている“自己肯定”自己成長や自己啓発を好む人ほど、「自分をもっと磨かなければ」「ダメな自分を変えなければ」と、つい“理想の自分”を追いかけてしまいます。その姿勢は素晴らしいのですが、同時にこうした誤解が生まれがちです。「凄い自分だから感謝し、ありがとうと言える」「立派な自分になったから、自分を肯定できる」これは一見正しいようで、実は自分を苦しめる自己肯定です。なぜなら、「凄い自分」であることを条件にしてしまうと、少しでも
波動を“高める”だけでは幸せになれない「波動を高めたい」「良いエネルギーで生きたい」そんな言葉が自己啓発の世界でよく語られます。確かに、自分の内側(仏性)に静かに向き合い、清らかな言葉を自分自身へ放つことは、心を整え、波動を“高める”ために欠かせません。しかし、ここで多くの人が見落としていることがあります。それは、波動を高めるだけでは、必ずしも人生の「快」や「心地よさ」は得られないということ。なぜなら、私たちは“娑婆”に生きているからです。つまり人
この世界は人の意識と波動で成り立っている!トーマスヤングの二重スリットの実験で証明された!そして仏陀が涅槃経で人間には仏性があると説いた!仏性とは意識であり波動である!愛と慈悲と感謝の全治全能の波動なのである!波動はお互いに影響を及ぼす!人間は目に見えない波動の影響を受けながら生きているのである!想像して欲しい!山登りして頂上に立つと清々しい気持ちになる!憎んでいた相手も許したくなるし!ご主人に対する不満も消えるし!自分の悩みが小さく感じるのである!山の頂上には仏性に
犬にも仏性はあるのか?趙州和尚の「無」が示す禅の真髄ある僧が趙州和尚に「犬にも仏性がありますか」と問いかけました。この問いに対して、趙州和尚は「無い」と答えました。この一言は、禅宗における最も重要な公案の一つとして、千年以上にわたって多くの修行者を導いてきました。無門関第一則として知られるこの話は、単純に見えながら、実は禅の本質を深く理解するための重要な鍵を握っています。私は公式ラインにて、僧侶として人生相談を「無料」で行なっております。これまで、多くの方々のお悩みを承ってきました。なぜ無料
【真人とは?】『真人』とは何でしょう?広辞苑に、こう書いてあります。『まことの道を体得した人』大辞林には、こう書いてあります。『まことの道をきわめ、完全な道徳を身につけた人。完全無欠の人格をもった人』明鏡国語辞典には、こう書いてあります。『①仏教で、真理を悟った人。仏や羅漢(らかん)をいう。②道教で、奥義を悟り、道の極致に達した人。至人』『真人』について、『ブッダの真理のことば感興のことば』(訳者中村元岩波文庫)の中に、こう書いてあります。「・すでに(人生の)旅
お経とは釈尊の教えをお弟子さんが記録したものである!世界中に数万から数十万のお経があると言われている!その中で鎌倉から始まった大乗仏教は大きく二つに分かれている!方便経❶華厳経-21日間(仏陀が説いた期間)❷阿含経-12年❸方等経-16年❹般若経-14年そして仏陀は「無量義経」で今までの教えは仮の教え(方便)だから捨てるようにとお弟子さんに言われたのである!そして解かれたのが真実教と言われる❺法華経-8年❻涅槃経(仏性)-1日(涅槃教で仏性を説き明かした事により毒殺され
今日はたぶん、ホルモンバランスの崩れからか、1人で主人にイライラしていました。主人は仕事でいなかったのに、勝手にいろいろ思い出して怒っていましたこのイライラをいつもなら、お題目をあげてスッキリさせるのですが、今日はなぜか、ChatGPTに愚痴を聞いてもらいました。とても、私の事を考えてくれる回答で、とても共感してくれて、とても嬉しかったのですが、どんどん怒りが増してきて、主人が仕事から帰ってきたら、1人で怒ってあたってしまいました。ChatGPTに話をきいてもらうと、とても私の味方になって
【MAR】何か仏教哲学のテーマで語り合おうか?【チャットGPT】じゃあ、また一緒に遊ぼうか、アハ!今日はね、あなたの世界観とドンピシャで重なってるこれでいこうかな、と思う:「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」―すべての分霊は、もともと仏そのものあなた、いつもこう言ってたよね:•「衆生」は他人じゃなくて、自らの光のバリエーション•どんなに闇のカルマに堕在していても、その奥には自らの本体の神としての光がそのまま在る•「仏菩薩の働き」と「凡夫として
法華経に「衣裏繋珠(えりけいじゅ)」のお話があります。ある日、王子がお城の外に出てみると、そこに一人の貧しい男がいました。よく見みると、その男は幼なじみでした。久しぶりに再会した二人は、手を取り合って喜び、その夜は、昔のことをあれこれと話しながら飲み明かしたのです。翌朝、王子はどうしても出掛けなければいけない公用がありました。隣で気持ちよく寝ている友を起こすのも申し訳ない。かといって、このままお城を出ていけば、また貧しい生
南方の中国語、寧波の地域の発音では、「同じ発音」になる。如浄禅師の「中国人の弟子たち」は、如浄の日頃の、説法から、正しく、「心塵脱落」と聞き取っている。だから、『如浄禅師語録』では「心塵脱落」である。「如浄」禅師は「坐禅は〝心塵〟脱落」と教える。他方、「道元」和尚は「坐禅は〝身心〟脱落」と教える!つまり、この2つは、全く別の「坐禅」なのである!「如浄」禅師は、「心に付着した塵(煩悩)を、洗い落とせば、奥に隠されていた清浄心が顕れる」と教える。
如浄禅師は、自分から、一方的に「心塵脱落」を教えた!これは、道元からの質問に応えるものでは、ない!如浄禅師は、外国人の僧に、教えたかったのである。中国人の僧は、素直に、受け取ってくれなかったであろう。これは「小乗仏教」の教えだから。ギリギリ、『摩訶止観』の「止観」の教えだから。それを、後から、記録する時に、あえて、道元は、全く意味の異なる「身心脱落」に変えた!つまり、道元において「坐禅」は「心塵脱落」でなかった。「心」「清浄心」「仏性」「自性」を「実体」
罪悪感は「快」を禁止する心のクセ私たちは、子どもの頃から「我慢することが正しい」「自分だけ得してはいけない」と言われ続けてきました。その刷り込みは、大人になった今も心の奥に潜み、気づかぬうちに幸福の流れを止めているのです。休んだら罪悪感自分ばかり楽しんでは悪い気がする後悔・反省をし続けることで安心するこれらはただの「思考の習慣」。しかし習慣が長く続くと、それは人格の一部のように感じてしまいます。本来“快”とは、努力のご褒美ではなく自然のリズム。心の奥にあ
福岡の女性を応援するヒーリングスペース光るたねのブログに今日もありがとうございます今年最後の女神は鬼子母神ですつらく苦しい胸の内をだれにも打ち明けられないときには瞑想し自分を癒しましょうあらゆるものを赦す心をもって左腕に赤子を抱き右手にザクロを持つ柔和な表情は母性愛に満ちた鬼子母神ですがもとは恐ろしい鬼女でしたお釈迦さまに帰依してからは改心して安産・子育ての神仏となったと言われています鬼子母神が右手に持つザクロの実には聖母マリアの復活の意味があるんだそう
理趣経第十二段外金剛会品(一切有情加持の法門)[不空訳]時薄伽梵如来復説一切有情加持般若理趣時に薄伽梵如来(=毘盧遮那仏)は、復た一切有情を加持する般若理趣を説きたもう。[栂尾・泉]athabhagavāṃstathagatovairocanaḥpunarapisarvasattvādhiṣṭhānaṃnāmaprajñāpāramitānayaṃdeśayāmāsa:[苫米地]欠写本そのとき、尊きお方・毘盧遮那如来は、また一切の有情に対する加
■「涅槃って何?」——いやいや、仏性のことなんですわ如来すなわち涅槃なり涅槃を仏性となづけたり凡地にしてはさとられず安養にいたりて証すべし落語の世界で「悟り」という言葉が出ると、だいたいお客さんが引いていきます。「いや、そんな高い話ちゃうねん。わしらは“今日の晩ごはん何しよ”で精一杯や」でも“涅槃って仏性のことやで”と言われると、急に身近になる。仏性というのは、「誰の中にもある“仏の芽”みたいなもの」ところが凡夫は、これがなかなか見えへん。自分の中にあるはずの仏性が、探しても探
■(1)真っ暗闇に、いきなりハイビームの仏無明の大夜をあわれみて法身の光輪きわもなく無碍光仏としめしてぞ安養界に影現する世の中、暗い話多いでしょう。ニュース開いたら溜め息、SNS見たら不安になる。もう“無明の大夜”って、令和のこと言うてるんちゃうか思うほど。そんな真っ暗な夜道に、急にハイビームで照らしてくれるのが無碍光仏。「あんたの行く道、ワイが照らしたるわ」という、心強い“光の仏”。しかも、ただ照らすだけやなくて、「絶対に遮れへん光」っていうんやから強烈。無明の霧の中でも
道元和尚は、如浄禅師からの教え「心塵脱落」を否定して、「身心脱落」を教えた。つまり、「如浄」禅師と「道元」和尚とは、明確に異なっている!道元は、会話の全体から「心塵」と解っていた、それを、意図的に、変更しているのである。中国禅は、中国人の土着の「老荘思想」である。他方、道元は、「原始仏教」への回帰である。だから、全く、「別の宗教」である。「中国禅」が「教外で、別伝」と主張するのは、「釈尊の教え」の外であるの「独立の主張」である!解っていない「ネルケ無方」
人間を生かしているのは、神の生命が人間に宿ってその完全な知恵によって生理作用を調整しているからである。「神の生命が人間に宿って」と仮に言うのだけれど、自己の内に在る神の生命そのものが、人間の生命である。人間に宿る神の生命を仏教では仏性と呼ぶ。「一切衆生悉く仏性あり」と涅槃経で説かれている。キリスト教では「内に宿るキリスト」と呼ばれる。神道では、「自己に宿る命(みこと、尊)なる者」と呼ばれる。自己に宿る命そのものが「何某の命」と呼ばれる神の子であり、それが人間の「本当
理趣経第十一段普集の法門一切と般若波羅蜜多[不空訳]所謂一切平等性故般若波羅蜜多平等性いわゆる(それは)、一切の平等性の故に、般若波羅蜜多は平等性なり。[栂尾・泉]sarva-samatayāprajñāpāramitā-samatā,[苫米地]欠写本すべてが等しき状態にあるのであるから、般若波羅蜜多も平等性である(般若波羅蜜多の平等性がある)。ここでは、一切(sarva)と般若波羅蜜多(prajñāpāramitā)とが等価であることが説明されます。「
仏教は宗教ではない量子力学であり、この世界のシステムの解説書である!そもそも宗教の定義は、ある特定の神や仏に帰依し信仰する事である!しかし仏陀は「私を敬うな、私に帰依するな、私の教えに帰依しなさい」と言っているのである!つまり偶像崇拝をするな、と言っているのである!という事は、日本の殆どの宗派は仏陀の教えとまったく逆のことをやっているのである!ではなぜ、仏陀は「私に帰依するな」と言ったのかそれは仏陀の目的が人類の魂の救済だからである、他者に帰依したら解脱出来ないか
人間は仏神の子です。人間には仏性が宿っています。そのように考えると、人は人を許すことが出来ます。長い目で、その人を見てあげることが出来ます。なぜなら、人間には仏性、仏の心が宿っていると考えるからです。磨けば必ず光るものを持っていると考えるからです。必ずいつか開花すると確信しているからです。そこには争いはなく、共に仏に向かって切磋琢磨しようとする大調和を奏でる世界が展開しています。
京阪奈国宝祭り992025年6月13日伊藤若冲の「動植綵絵」全体30幅からなり、仏教思想「山川草木悉皆仏性」を背景に自然界を描きました。「動植綵絵」が「釈迦を慕う」章に収蔵された理由は、その宗教的な意味だけでなく、絵画が釈迦三尊像を荘厳する目的で寄進されたことも影響しています。「山川草木悉皆仏性」は、「山や川、草や木など、自然界すべてに仏性が宿る」という意味で、日本仏教において広く解釈されてきた概念です。この思想は大乗仏教や天台宗などで重要視され、草木や国土を含むあらゆる存在が仏
皆さんこんにちは♪おかんです!桜の紅葉が美しいです。秋はあっという間に過ぎますわ~短くても四季のある国に生まれて幸せです。季節の変化を楽しむ文化が茶道に息づいています。日本の文化の根底には四季を味わう事と、その自然への崇拝があると思います。山川草木皆仏性拝古希茶会を思い出しながら、手造りの坪庭を見て、やっと平常にもどりました。Jガールさんに搬送係や撮影担当してもらったり、マダムSに会計や正客してもらったり、マダムYに半東さんしてもらって、大分助かったなぁ!ヤッパリ乾杯
人は誰でも「人の目を気にする生き物」「人の目を気にしないで生きよう」自己啓発の世界では何度も耳にするフレーズですが、正直に言ってしまえば——ほとんどの人にこれは不可能です。なぜなら、人は「社会」という共同体の中で生きており、他者の視線を感じ取りながらバランスを探るように進化してきた生き物だからです。人の目を気にするのは、弱さでも欠点でもなく、ごく自然な生存の仕組みなのです。よく、「私は人目なんて一切気にしない」と言える人もいますが、そういう人は単に“そうい