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(美濃中山道の御宿場印①の続き)『美濃中山道の御宿場印_①垂井宿』【2025年11月23日】美濃国一之宮である南宮大社を参拝するために岐阜県を訪れたところ、駅で配布されていたチラシを見て、初めて知ったことがありました。…ameblo.jp江戸時代、江戸の日本橋から京都の三条大橋までを結ぶ重要な街道だったのが「中山道」。その全長530kmにも及ぶ街道の途中には69カ所の宿場町があり、その約4分の1にあたる17宿が美濃国(現在の岐阜県)にありました。現在、岐阜県内で宿場
(その7からの続き)-(関ヶ原駅-柏原駅間歩行中)-関ヶ原古戦場から旧中山道に合流し、関ヶ原の由来となった不破関を通過しました。道はさらに登りました。それほど急な坂道ではありませんでしたが。これは峠越えかな?…となると、この頂点が県境だったりするのかな??峠の頂点を通り過ぎたところで国道に合流。意外にも県境標識はなく、まだ岐阜県とのこと。まもなく次の集落にさしかかりました。国道歩いても歩道がないので、ここも左に折れて集落に入りま
国道21号線の県境の看板近くに寝物語の里と呼ばれる長久寺村があり、そこには滋賀県の県境を示す杭が立っています。その間には一尺五寸の溝が当時からありました。向かって右側には昔の近江美濃両国境を示す杭が立っています。左側には、美濃国を示す石碑が立っています。寝物語と名づけられた由来は、美濃国にあった旅籠屋の「両国屋」と近江国にあった旅籠屋「かめや」が県境を隔てて隣同士で寝ながら話ができたからだそうです。歌川広重と渓斎英泉が描いた浮世絵、木曽街道六十九次の今須宿には、江濃両国境と書か
グリーンウッド関ヶ原へ天気は薄曇りで大丈夫そうだけど風が強い、、風速5メートルはあるタープの張り方、あれこれ試してみたかったけど風も強いので、今回は冒険せず実績のあるダイヤモンド張りに落ち着く風は背面方向から吹いているので居住スペースは風が当たらず落ち着いて過ごせるキャンプ飯昼の部生ハムおから寿司お惣菜の卯の花を、ラップで軽く握って生ハム、マヨ乗せるお米も良いけど、おからもなかなか食感が楽しいラタトゥイユなす、ズッキーニ、パプリカをソースで煮るバケットと合わせ
サイクリング翌日のメニューは、JR関ヶ原駅からJR醒ヶ井駅(さめがい)までの、旧中山道の街道歩き。一日で3つの宿場を歩きます。(筋肉痛は、翌々日にピークになるので、2日目までは大丈夫なのだ)では最初からGO!JR関ヶ原駅では、30人ほどの観光客が降りていました。関ケ原合戦の史跡見学は、10年ほど前に見たことがあって、今回はパス。おひとりさま、誰も向かっていない旧中山道の方へ歩く。駅から15分程、あったあった案内板。渋滞している国道から分かれて、わずかな足の筋肉痛は気にせず、
中山道を間の宿山中の今須峠への道を、JR東海道本線をわたって坂道を上がっていきました。今須峠へ進んでいく、ここは昔はかなりの急坂の上、雪がよく積もる難所であった。今須峠には数軒の茶屋があって賑わいを見せていたという。今須峠には百万巻経碑等があるが、当時はこの高さ(現在より約4,5m上)に中山道が通っていた。今須峠の今須峠碑があり越えて道をいくと今須宿が手にとるように見えてくる。今須峠から中山道を東に戻って、間の宿山中の入口付近にある若宮八幡神社にいきました。ここから松尾山眺望地にいきましたが
間の宿山中のうぐいすが鳴く、滝を後にして道はJR東海道新幹線のガードをくぐって進んでいくと右側に常盤御前の墓があります。墓は公園を一角にあって、常盤御前乳母の千秋の墓と並んであります。その後ろに松尾芭蕉の句碑と、元竹中家の家臣の化月坊の句碑があります。常盤御前は東国に向かった牛若丸を案じ、乳母と後を追ってきたが、山中の宿で土賊に殺されたといわれています。常盤御前の墓後にして西に進んできた道は、左手に山中大師道標があり、そのすぐ先の右手に、村人が憐れに思い常盤地蔵を安置した。道は間の宿山中の
中山道を関ケ原宿から間の宿山中にきた道は、壬申の乱における大友軍と大海人軍が川を挟んど激戦になった黒血川にいきました。ここから川に沿って北にいき、関ヶ原合戦において西軍の有力武将で、この地で戦死した大谷吉継墓にいきました。関ケ原特有の杉林の中の山道を大谷吉継が眠る墓が木立の中に湯浅五助を共にひっそりとありました。ここから戻って中山道を西にいくと右側の三地蔵堂が安置され、その前にはうぐいすの滝があります。むかしこの滝は今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれるそんな場所であった。高さは5m
中山道の美濃路を歩き終ったので、今度は美濃路の宿場,間の宿さらに峠等を西から東に歩くことにした。以前に今須宿を歩いたので、今回は間の宿山中から今須等を歩きます。関ケ原宿から来たは道は壬申の乱の時、この川を挟んで激戦をしたといわれる藤古川を渡って藤下の集落につきます。ここから坂道を上がっていくと国道21号線になり、ここを横断すると、今回の目的地になる中山の集落になります。国道を越えて中山に入るとすぐ先に若宮八幡神社があります。さらに西には山中間の宿跡でここに高札場跡が設けられていました
中山道の今須宿を東から車返しの坂までいきました。ここから戻って国道21号線、JR東海道本線を渡っていくと右側の芭蕉の句碑があり、過ぎると寝物語の里になります。ここが長久寺の集落で中山道は国境の間にある溝を越えると、これより近江の長久寺になります。国境を挟んで宿が2軒並んでいて、寝ながら壁越しに話すことが出来たことから「寝物語の里」といわれた。地元の人に話を聞いたところ、今は観光バスがこの狭い道止まり、多くの人々が寝物語の里碑、国境碑のところに訪れ困っていると話されたことが印象的でした。こ
今須宿の中心にある妙応寺から、西にいき金比羅大権現永大常夜灯までいきました。宿はこの辺りまでは、ほぼ真っ直ぐに近い道が、左右に家が立ち並んでいたと思われるが現在は空き地が目立つ。ただここに展望所があって、ベンチが設けられ見晴らしがいいところでになっている。すぐ下がくぼ地で田畑、前方には名神高速道路が見渡せる。大きくカーブした道を進んでいくと、左山手に車返し坂があります。都から不破の関が、板びさしから月が見えるほど荒れ果てていることを聞いた、歌の題材にと都の公家が来た。この来訪を聞いた関守
中山道の今須宿を東から門前橋、今須橋を渡って西に進んで妙応寺(曹洞宗)にいきました。この妙応寺は今須宿の門前町として発展してきた。この寺院は延文5年(1360)この地にを治めていた長江氏四代目長江八郎左衛門重景が、母妙応尼の菩提をともなう為に創建した菩提寺とした。この妙応は年貢の取り立てには大桝を、米の貸付には小桝と(異桝)を用いたことが、今須の地名由来となっている。境内の裏手には長江氏の墓(県史跡)があり、又本堂前には伊藤本陣跡(今須小学校)の庭にあった、関ヶ原の戦いの翌日、家康が腰掛けた
中山道の美濃路の一番西にある今須宿にいきました。ここは妙応寺の門前町として発展し、琵琶湖から美濃への物質流通で賑わい問屋場は7軒もあった。天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、宿内家数は464軒の内、本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠十三軒、宿内人口は1784人で幕府領(大垣藩預り領)になっていた。緩やかに曲がった宿場で長さが約十町で、小さな宿場として脇本陣が二軒あるのは中山道では珍しい。尚本陣跡は今須小学校の校庭にあり、脇本陣跡は本陣跡の隣と、もう一軒はJAにしみの今須にあったといわれ
中山道を歩いて柏原宿の西寄りにある旧柏原役場跡までいきました。ここを後にして西へ行くと柏原宿お茶屋御殿があります。江戸時代始め、将軍上洛,下向(京都、江戸間の通行)の際宿泊,休憩目的で、街道に設けられたが元禄2年(1689)に廃止された。この先には金比羅山常夜灯があります。ここから丸山橋を渡っていくと復元された柏原一里塚があります。この一里塚すぐそばの西見付け近くに中山道を挟んで北塚と南塚があったが、現在は両塚ともない。今回はこの柏原宿の1,4㎞もある宿を歩きましたが、宿内に橋が3ツ
今須宿から離れ西にいき、国道やJR東海本線の踏切を渡って、右手に芭蕉のおくのほそ道碑や句碑を過ぎると、美濃国と近江国との国境になります。ここは「寝物語の里」と言われた(滋賀県米原市長久寺)の集落です。国境は50㎝ほどの細い溝になり、これを越えれば近江国になります。むかしはこの溝をはさんで両国の旅籠屋が連なっていたため、壁ごしに話すことできることから「寝物語の里」といわれた。この長久寺には美濃側に5軒、近江側に15軒ほどあった。ここを後にして山際をいきJR東海本線の野瀬踏切を横断し、すぐ右
中山道を歩いて柏原宿の、やや西寄りにある旧柏原の役場跡にいきました。ここを後にして西のいくと柏原お茶屋御殿跡があります。江戸時代始め、将軍上洛、下向(京都、江戸間の通行)な際の宿泊、休息目的で、街道に設けられたが、元禄2年(1689)廃止された。少しいくと金比羅山常夜灯があり、その脇に宿の高札場があった。ここから丸山橋を渡っていくと復元された柏原一里塚があります。この一里塚はすぐ近くの西見付け跡付近に中山道を挟んで北塚と南塚があったが、現在は両塚ともない。今回はこの柏原宿の1,4㎞も
前回【1日目-⑨】酔ヶ井(醒井)宿~柏原宿『《オフ折車&ランで行く》中山道六拾九次【1日目-⑧】酔ヶ井(醒井)宿~柏原宿』前回【1日目-⑧】番場宿~酔ヶ井(醒井)宿『《オフ折車&ランで行く》中山道六拾九次【1日目-⑦】番場宿~酔ヶ井(醒井)宿』前回【1日目-⑥】鳥居…ameblo.jpJR東海道本線・野瀬踏切を左に渡ろうとしたら20両以上編成のJR貨物が通過していきました。中山道の旅といっても鉄路はJR東海道本線ですからね。丁字路を
滋賀県米原市から、県境を越え、岐阜県関ヶ原町に入りました。上画像は「車返しの坂」。『木曽路名所圖會』によれば、車返坂長久寺の東二町許にあり。少しき坂なり。これより今須へ六町あり葺きかへて月こそもれぬ板庇とく住みあらせ不破の関守斯く讀ませられ、御車を返し給ふといふ俚諺あり。地元関ヶ原町の案内板によれば、二条義基公がこの坂道をで引き返してしまったという伝説から呼ばれるようになった地名のようです。さて、坂を下り、今須の
ゴールデンウィークは大人しくしてようと思ってたけどあまり天気が良かったので軽くツーリング、ハンターカブとダックスです旧中山道今須宿からスタートこの少し先の寝物語にも寄って柏原宿、醒ヶ井宿を通り綺麗な川の流れを堪能して摺針峠、少し道を間違えたけど何とか目的地の河内風穴に到着風穴の中は寒いくらい、結構大きな洞窟でした風穴の見学の後権現谷林道を通り五増峠へ途中良い景色を堪能して行者窟をチラッと見て150キロほどのツーリングを楽しんできました、なかなか良いコースでした
旧中山道の表示先に、中山道と書かれた石碑に、「←梓柏原宿→」道なり真っ直ぐてくてく🚶行くと、石柱が、正面は「→中山道」横裏を見ると、なんとなく裏の路が旧中山道と思って、入って行く😀久しぶりの土道獣除けのゲート開いてたどなたか?閉め忘れかと思い閉めました(絶えず閉め忘れがあると、通れ無くなると思い)しばらく歩くと、車道と合流(西国地図では、脇道入らず車道真っ直ぐでした)合流点に、右側から出て来ます。天の川源流菖蒲池跡?なんだ天の川?この辺りから「中山道」の表示が
今日は暖かくなると天気予報がいってるのでチョットツーリング目的地は琵琶湖のあのベンチ❗️ガレージからは80キロくらいかな、寄り道しても余裕で帰って来れると思って旧中山道を辿って先ずは今須宿そして近くの寝物語この細い水路が県境らしい詳しいことはこの画像を拡大してみて下さい此処から更に旧中山道を辿って柏原宿なかなかよく町並みが保存されてます懐かしいたばこ屋さん、私が小さい頃はうちの近所にもありましたあまりゆっくりしてると帰りが遅くなるので次の醒ヶ井宿はバイクを降りずにゆっくり見物し
1月10日関ヶ原駅をスタートして58番目関ヶ原宿、59番目今須宿、60番目柏原宿、61番目醒ヶ井宿を歩いて、JR醒ヶ井駅がゴール。本日の歩行ルート関ヶ原宿案内図JR名古屋駅から特別快速米原行きに乗り、関ヶ原駅を目指す。特別快速といっても、JR岐阜駅からは各駅停車になります。関ヶ原駅に到着後9時25分頃スタートします。駅前を少し歩くと国道21号、前回歩き終えた交差点から中山道を歩きます。9:31街道を少し歩いた右側に、「至道無難禅師生誕地・関ヶ原宿脇本陣
10月に遅い夏休みをいただき中山道歩きに行ってきました。道中記にどうぞお付き合いくださいませ。関ケ原からスタート。なんだか名残惜しい・・・本陣跡いざ京へ!西首塚このあたりの領主竹中重門が東西2か所に首塚を作り戦死者を埋葬しました。明治以降の工事の際にはこの近辺からは人骨が多数出たそうです。このあと不破の関跡を通りました。朝早すぎて資料館見られず。矢尻の池こちらは壬申の乱の史跡。大友皇子軍の兵士が水を求めて矢じりで掘った池、と言わ
つづき垂井宿を出て関ヶ原町に入ります。間の宿野上にある七つ井戸実際に水を汲む事ができます。野上の集落を抜けてしばらく進むと松並木が現れます。旧中山道松並木松並木の途中の休憩広場にあった関ヶ原宿の案内板山内一豊陣跡旧道は現道のR21に合流すると、間もなく関ヶ原宿に入りました。関ヶ原宿は国道整備で道幅が広げられてしまった為、ほとんど当時の風情を残していませんでした。西の見附辺りにある常夜燈少し進んだ所にある西首塚こ
岐阜駅近くのホテルは3連泊だったので、チェックアウトする。次は、近江八幡駅近くのホテルへ行く。荷物はすべて背負っての歩きだ!ママは、ちと体調不良。岐阜駅での朝食も、ほぼ食べなかった!低気圧頭痛だと言っているが、台風はまだ遠いが、発生と同時に頭痛を誘発する敏感な頭らしい・・・赤坂宿から歩き出した。大河ドラマ「どうする家康」の影響だろうなぁ〜?聞いた武将の名が記されていると、ワクワクだ!青野(蒼野ヶ原)一里塚日本橋から111番目垂井一里塚日本橋から112番目垂井追分道標は、1
(続き)(58)関ヶ原宿いよいよ、関ヶ原に入りました。実はこの関ヶ原宿、宿場町の色は無く、関ヶ原の合戦関連のものがたくさんありました。消火ホースの格納場所も関ヶ原仕様となっています。松林を走ります。結構気持ちよく走れます。徳川家康の最初陣地がありました。階段を登ると・・・眺めがいい。家康もこうやって、上から合戦の様子を見ていたのかも知れませんね。街全体が関ヶ原の戦い推しとなっています。また、別の機会で古戦場巡りをしてみたいです。(59)今須宿薄暗い道を上っていきます。
2022年9月15日体調不良で、一時帰宅し少し休養して、旅に戻ってきました。たぶん鈍った身体にはハードな旅と最近の猛暑がそうとう効いたんだと思います。身体を労わり乍ら旅を続けたいと思います。前回9月10日の続きです。早朝の関ヶ原駅関ケ原宿(せきがはらじゅく)日本橋から58番目の宿場町。次の今須宿まで一里。関ケ原宿は伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地(現在でも東海道線、国道、名神高速道が集中)で軍事上の要衝だった。関ケ原は勢州路(伊勢街道)や北国脇往還(北国街道)の追分を控
今須宿を過ぎて関ヶ原宿に向かう。今須宿を過ぎてすぐに一里塚跡があった。この丘自体が「跡」ではなく一里塚なのではないかと思ったが、これはガイドブックによると復元されたもので、往時はもう少し東側にあったそうだ。一里塚跡を過ぎて、国道21号線を歩く。少し歩いたところで道路の向かい側に中山道の標柱を設置頂いているのを見つけた。ガイドブックによると、中山道はこの山に入るような道を進むようだ。このあたりに国土交通省のライブカメラがあり、昨年末はたえずそのライブカメラで歩け
前回たびを終えたのは12月で、約9ヶ月ぶりにたびを再開(^^)。この間、何度かたびに出ようと思ったが、大雪で歩くことが困難のようであったり、またプライベートでもさまざまなことがあり忙しく、なかなかたびに出ることが出来なかった(TT)。今回は、たまたま有給休暇を取ることが出来、他にもいろいろとしたいことがあるが、少しだけでも歩こうと思い、たびにやってきた。まだまだ暑く歩くのには適した季節ではないが、少しだけでも歩こうと思ったのは、ここから歩く道のりが峠越えであり、今後歩こうと思っ
街道の旅に戻ります柏原宿は建物の保存状態も、自然な感じがしましたいぶし銀のような輝きがいいですねさて、次は今須宿を目指して走ります今須宿って”いわく付き”とコメントをいただき何のことかわからずに調べてみたところ今須は、元々異升からきていると意味が分からんかもしれないので説明しよう今須の領主は年貢を徴収する際は、大きな升コメの貸し付けの際には、小さな升で計ったことから異升・・・います・・・・今須になったとかほんとうかどうかは分かりませんが領主が死