ブログ記事9件
今回は、今川義元の墓参りです。今川義元は、桶狭間で亡くなりましたが愛知・静岡に10ヶ所墓所があります。首は首見聞があり信長のもとに、胴は今川塚に埋められたのでは。義元の首ですが、鳴海城を拠点に、織田勢と戦いを繰り広げた。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も岡部元信は抵抗し続け、信長が差し向けた部隊をことごとく撃退した。そして、岡部元信が主君・今川義元の首と引き換えに開城を申し入れたことに、織田信長はその忠義に感動して今川義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたと伝わる。首
昨日、YOUTUBEで後北条氏の合戦新作動画、山中の戦いがUPされていました。今回は、今川氏&後北条氏VS甲斐武田氏。初代の伊勢新九郎のときから付き従っていた最後の生き残りの荒木彦次郎が討ち死にしてしまいます(ノД`)シクシク…今回も見応えのある1本でした。歴史好きな方はよかったらどうぞ^ー^
『風林火山』や『おんな城主直虎』で重要人物として登場し、戦国大名今川家の家長として存在感を発揮した寿桂尼。元は中級貴族の中御門家の生まれながら夫・氏親の晩年から政務に参画、嫡男氏輝が幼少のため家長を代行し多数の文書を発給したことで「おんな大名」と『直虎』では呼ばれていました。将軍家であれば家長としての権限を振るった女性で北条政子や日野富子が知られていますが地方大名クラスでは寿桂尼が最もメジャーな存在かもしれません。氏親の母、寿桂尼にとっては姑にあたる北川殿も夫を早くに亡くし、幼い氏
松平清康が優れた武将だったのはたしかですが、『三河物語』の話は、少しだけ割り引かねばなりません。当時、東三河侵略に意欲をみせる駿河の今川家は若い当主(今川氏輝)に代替わりしたばかりで、まず国内を固める必要がありました。かつ、のちに三河を席巻する尾張の織田信秀(前回参照)にもまだ他国へ侵攻する余裕がありませんでした。その間隙をつく形で清康が三河の国衆らを服属させていたのです。ところが、天文四年(1535)一二月、思わぬ事件が清康を襲います。清康は三日、同じ松平一族
令和2年3月15日参拝賎機山の東側にやって来ました。やっぱ今川氏の菩提寺は行っとかないと!今川家に仕えた名僧の太原雪斎から英才教育を受けた徳川家康手習いの間があるお寺、程度の乏しい前知識だったもんで案内板を熟読してからレツゴー(๑⃙⃘’﹏’๑⃙⃘)ノこの仁王像は神仏分離令まで静岡浅間神社の楼門(当時は仁王門か)に安置されていたそうです。市内をまわってると浅間さまから排除された仏教色を度々目にします。はじめ本堂かと思ってた建物は檀家さんの法要が営まれる仏殿でした。新仏殿臨済寺の
本書は氏親から始まる戦国大名今川氏の成り立ちについて、氏親の家督継承が認められた文明11年(1479)から氏真が籠城していた懸川城を開城し、領国を捨てた永禄12年(1569)までの90年間の出来事を年表形式でまとめた一冊です。氏親以前の今川氏の前史や懸川城開場後の氏真の動向にも触れており、さらに事実の羅列にならないよう読み物風の叙述になるように編集が心掛けられています。今川氏は漫画『新九郎、奔る!』において主人公・伊勢新九郎盛時が終生大きな関わりを持ち続けるため、『新九郎、~
先日(10月15日)の臨済寺一般公開partIIは本堂と庭園です。座禅堂、開山堂に続いて本堂(大方丈)の拝観へ・今川の名軍師太原雪斎長老と開山した大休宗休禅師の掛け軸・本堂奥中央にはご本尊の阿弥陀如来像・今川義元公と今川氏輝公の木像/大岩地蔵・屏風絵に掛け軸、下台に古文書展示・元和2年(1616)、駿府城で病臥していた家康へ見舞いの勅使が、当寺に宿泊していた際に使用された千鳥図屏風(県指定文化財)・山岡鉄舟書東照宮守護大摩利支尊天の幟
いよいよ臨済寺建造物に入ります。普段、入れないので撮影出来ることを確認してから撮影しました。摩利支天像太原雪斎像戦国時代の武将、政治家。臨済宗の僧侶で今川家の家臣。軍師であり、甲斐武田、相模北条、駿河今川の三国同盟を提案して実行する。甲相駿三国同盟。大休宗休像臨済宗の僧侶。今川義元公像戦国時代、駿河國・遠江國守護大名。今川氏第11代当主。海道一の弓取りと言われる。桶狭間の戦いで織田信長に敗れ落命。今川氏輝公像駿河國守護大名、今川氏第10代当主。後ろに入ると位牌が
静岡市にある、臨済宗臨済寺に行きました。毎年5月19日に特別公開されます。建造物、庭園が公開。何故かと言うと、駿河國守護大名今川義元公が桶狭間の戦いで敗れ落命した日なのです。普段は、修行寺なので公開されません。但し境内は参観出来ます。臨済寺亨禄年間(1528ー1532)に、今川氏親が出家した子・栴岳承芳(今川義元)のために太原雪斎を招き建立した善徳院が前身。今川氏輝が急逝すると、家督を巡る花倉の乱が起こる。家督を継いだ義元は、氏輝を当寺に葬る。臨済寺と改め、大休宗休を開山とす
⚫☆雨の多い季節となりますね⋯☆⚫↓♪こちらからどうぞ♪↓豊富な品揃え!!ショッピングモール☆FREEDOM☆入口↑こちらをクリック↑入口★5月のおすすめ商品★【空調服(リチウムイオンバッテリー付)】「1度着たらやめられない」空調服フード付きポリエステル製長袖ブルゾンリチウムバッ…¥18,500(税込)フード付きポリエステル製長袖ブルゾンBP-500BF空気漏れの少ないソフトな風合いのクラレ製ポリエステル生地を使用しています。ヘルメットの上からもかぶることができる
【問題】今川氏輝の死に関する説明として正しいものは次のうちどれか?【選択肢】弟の彦五郎と同じ日に死去した家督を継いだ一週間後に死去した10歳の誕生日の前日に死去した足利義輝と同日同時刻に死去した【正解】弟の彦五郎と同じ日に死去した【解説】今川氏輝は父氏親の死により14歳で家督を継承した。内政に功績を残したが、24歳の若さで死去。弟の彦五郎も同じ日に死去したため、毒殺などの陰謀説も囁かれた。
静岡市の清水寺です駿河三十三観音霊場第十九番札所です山門の所には徳川家康が馬から降りて停めたとされる松が大きくそびえ立っています静岡市の繁華街に程近い場所に隣接しているため道が細く混む場所にあります今川氏輝の命でこのお寺が建てられて第一代住職が京都の清水寺から招かれて音羽山清水寺と名付けられました以後徳川家康も参拝によく訪れていたみたいですご本尊の千手観音菩薩も徳川家康からの寄贈品とききました下記バナーのクリックにご協力よろしくお願いしますm(._.)mにほんブログ村
外伝「民の御館様」・今川氏との関係のその②です。その①はこちら⬇️その①「民の御館様」の本編はこっちだよ⬇️民の御館様・目次1526年、駿河国の今川氏親(いまがわうじちか)が亡くなり、後を継いだのは14歳の氏輝(うじてる)でした。氏輝です。若い氏輝を後見人として補佐したのが母である寿桂尼(じゅけいに)です。氏親さんの母で早雲さんの妹の北川殿(きたがわどの)は1529年に亡くなったんだ。今川氏は当主が変わった後、甲斐国の武田氏(たけだし)と和睦をしたのです。今川氏とともに武田氏
歴史連載物語「民の御館様」、本編は終了しました。こちらが目次⬇️民の御館様・目次これから外伝を少々語りたいと思います。北条早雲(ほうじょうそううん)が戦国大名になるきっかけとなったのが駿河国の今川氏(いまがわし)の家督争いを調停したことでした。早雲さんの妹・北川殿(きたがわどの)、本編では桃(もも)が今川氏に嫁いでいたんだよね。桃ちゃんの子が今川氏親(いまがわうじちか)さんだね。氏親です。叔父の早雲のおかげで今川氏の家督を継ぐことができました。北条氏と今川氏の関係は良好でした。1