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中山道歩き改定版草津宿から大津宿①の続きです。萩の玉川から500m程進みました。弁天池浄財弁財天参道橋弁財天鳥居弁財天覆屋弁財天が祀られ、水を司る神を祀っています。池には、中央に孤島があり、小さな社が祀ってあります。水不足の年には雨乞いや豊年祈願の祭りを行った池であろうと思われます。琵琶湖の竹生島にも弁財天が祀られています。弁財天の起源は、水の神であるので恵の雨を降らせ、豊穣をもたらす神として信仰されてきました。また、技芸運の神としても崇められています。狼川橋
8月14日神奈川からやって来た孫一家今回は末っ子の孫1人と両親の3人だけお兄ちゃんは北海道から戻らずお姉ちゃんは部活とテスト末っ子の中2女子は「絶対に行く!🤣」と言って近所の従姉妹達と約束してたようです14日未明に🚗着いてひと寝入りして朝ごはん、昼ごはんを食べて大津の名所?に出かけました娘が今「木曽義仲」にハマってるらしい「どーしても行きたい!」とじじばば含めて7人で🚗🚗💨木曽義仲の墓がある国指定史跡「義仲寺」へ!(ぎちゅうじ)湖岸道路「膳所」付近です(
プロフィールはこちら【花鳥風月の記憶】〜“今井俊満”と名字でつながる不思議なご縁〜「開運!なんでも鑑定団」通称“お宝探偵団”。画面に映ったのは金色に輝く抽象画解説の声が響きます。「これは今井俊満という戦後日本の抽象画の巨匠による作品です」「……え?今井?同じ名字⁉️」たったそれだけで私のアンテナがぴーんと反応しました。さっそく調べてみると今井俊満さんは京都生まれの画家。パリで活躍した国際派でありながら、晩年には「花鳥風月」とい
ひとはなぜ戦争をするのか~『平家物語』と『機動戦士ガンダムSEED』に描かれた戦いの理由~第4章木曽最期その3です。今井兼平、登場です。兼平くん、ほんといい子。こういう腹心の友がほしいね。*****************4.1.7言葉の矛盾から見る兼平像義仲勢は敵の軍勢の中をまっすぐに突き進んでいく。義仲はここで討ち死にする覚悟だったが、主従5騎になりながらも死に損なってしまっていた。弱気な本音を吐露した義仲に、兼平は「疲れていない」「
大津にある今井兼平墓です。元暦元年(1184年)、木曽義仲と源頼朝が遣わした派遣軍の戦いである粟津の戦いで、木曽義仲に最期まで従った家臣・今井兼平の墓。兼平自害の伝承地は横を流れる盛越川を更に上流に行った場所で、跡地に小塚が築かれていたといいます。江戸時代の寛文元年(1661年)、膳所藩8代藩主・本多俊次が初めて墓石を建て、膳所藩9代藩主・本多康将が東海道を往来する人が墓参りするのに不便であるとして東海道に面した現在地に移したと言います。現在の墓は、末裔の方が建てたものです。
今年も、我が新米を亡き母の実家へ「奉納」に。従兄夫婦が大規模な林檎園を経営していて…。お返しの美味しい林檎が目当て(笑)。いつもながら昔話で談笑・哄笑して、夕暮れ時にやっと帰途。「そうだ!兼平さんの形見石にお参りしてこう、久々だ」実家のすぐ前の諏訪神社、ここに兼平のドラマチック?な石碑が立っている。そういえば最近、今井兼平のことは、まったくブログに書いてない(反省)。幼いころ、境内でよく従兄弟たちと遊んだが兼平石のことなどまったく知らなかった。立派な神楽殿は入母屋造で鯱が
JR石山駅から数分歩いた、住宅街の一角にあります。川のほとりにある看板。裏に分かりやすいように矢印があります。木曽義仲の乳母子である今井四郎兼平のお墓や塚は、何回か移設されているようです。字がかなり薄れていました。敷地内にはいくつかの記念碑が建てられています。歌川国芳の今井兼平やっぱりこの生き様、凛々しくてかっこいいです。そんな今井四郎兼平は最後の戦いの時、大手の瀬田に800騎と共に向かいましたが敗れ、その後義仲と大津の打出の浜で再会します。琵琶湖湖岸の位置が移動した為、粟津の合
「楯親忠(たてちかただ)さんの墓碑は群馬県にあると聞いてますが…」と、佐久市正法寺の方から情報を得た。義仲四天王の一人楯親忠は、義仲とともに鎌倉軍との京都周辺での合戦で戦死した。しかし戦死の地、墓碑などは分からないままでいる、不明…。▼激戦場だった宇治川畔に立つ「宇治川先陣之碑」。義仲軍は大敗した。同じく四天王の一人で親忠の実父・根井行親(ねのいゆきちか)も京にて戦死した。従者か家臣が故郷信濃の佐久へ晒られた首級を持ち帰ったか、佐久市根々井の正法寺には妻室が立てたという墓所がある
前稿につづいて、戦場で命を懸ける武士たちの姿を追う。◉鎌倉景正の場合歌舞伎役者の市川團十郎の十八番に『暫(しばらく)』がある。『暫』は、日本のヒーローものの元祖だ。超人的な力を持つスーパースターが主人公。ストーリーは単純明快な勧善懲悪ものだ。善良な男女が悪人に捕らえられて、まさに殺されようとしたときに、し~ば~ら~く~という掛け声とともに現れた正義のヒーローが現れて、大立ち回りで悪役をやっつける。ヒーローの名は鎌倉権五郎景正。鎌倉権五郎景正(1069〜?)は、平安
魔女様から万葉秀歌について、さまざま教えていただき。また奈良へ行かないとなぁ、などと思いつつ…、自分の寿命を思いつつ…。四国路をクルマを西へ走らせる。今治城、松山城も、大洲城も、あぁ宇和島城もスルーして。みな5年前の写真がなつかしいのだが…。▼今治城▼松山城▼大洲城はなんとなく松本城に似てたような。宇和島城▼みなみなもう一度行きたい城なのに、高松城も丸亀城にも寄らなかった…。ええ~い!今旅の目途は日向、薩摩、九州なんじゃ!八幡浜港から、フェリーにて豊予
大河ドラマ『どうする家康』を見つつ、ふつふつと湧いていた思いが、義仲四天王の二人、根井行親・楯親忠父子の史跡を訪ねて以来、「よぉ~し!」。約10日間、熱を込めてなんとか、やっと500字以内にまとめた!そして地元紙に投稿。待つこと3週間、今日も載らず、うーん、ボツだ…。ま、自らのブログに投稿?する場があって幸いというべきか。読んでくだされ、わがボツ原稿ゥゥゥ…。「木曽義仲四天王」にも光を大河ドラマ『どうする家康』では、家康を懸命に支える忠節の家臣団が毎回よく描かれている。
三浦三十八地蔵尊霊場、この日最後の札打ちです妙音寺から最寄バス停🚏から上宮田バス停で下車してから徒歩15分🏃🏃🏃三樹院に到着山門壁際には石仏がズラリ〜六地蔵山門本堂は階段の上の様です手水舎観音様の水屋って初めてかも…本堂浄土宗寺院の三樹院は、海東山三樹院て号しますもとは十却寺の子院で、江戸初期に観音堂として創建されました後に宝永5年(1709年)寛永6年の説もあり増上寺遍誉了海上人が再興江戸時代に創建される前、木曽義仲の忠臣で巴御前の兄今井兼平が出陣の時にここに
「あのう、すみません、『楯親忠』の碑、さがしてるんですが…」「たて?❓うー、たてろくろうかいのう?」「そうです、楯六郎、楯六郎親忠の館跡の碑を探してるんですが…」「ふーん、あれかなぁ、あれだわな、そんなら、そこの坂の道登ってくと…」炎天下で畑仕事やってるおばあさんに、おじいさん(列伝のこと)が道を聞いた。おばあさんの額は汗ダラダラ、私は車から降りて、いきなり灼熱の炎天下!「こんなに暑いに、よく仕事してすごいですね!」「な~にこんくれぇ、どっから来ただぁ?」「松本の方から
行列一行は安良居神社へ。厳かな雰囲気のなか、かぶらや披露や必勝祈願の儀が行われました。↑皆さん、かっこいいです。そして、かぶらや奉納。やはり被写体が町田さん中心になってしまった終了後、報道陣向けの写真撮影の時間がありましたがその後方スペースから撮らせていただきました。↑めちゃ楽しそう(笑)さらに、トークライブ会場には青木さんが描かれた絵が展示されていました。撮影OKだったので思わずパシャ。本当に
去る10月23日、長野県上田市まで行ってきました。お目当てはもちろん、木曽義仲挙兵武者行列!北海道から電車と飛行機を乗り継いでいきました。当日の天気は穏やか。雨で中止にならなくて本当によかったです。予定より少し遅れて行列はスタートしました。源範頼役&エヴァンゲリスト迫田孝也さん司会進行小川さなえさんこのお二人がとにかく盛り上げてくださいました。『鎌倉殿の13人』キャスト陣は行列の後半から登場しました!↑まずは木
信州上田丸子地域木曽義仲情報@shinsyumarukoこちらは武者行列当日の案内チラシです😊スケジュールや駐車場、会場案内地図など、詳細な情報が載っていますので、ご来場いただく際の参考にご活用ください‼️このチラシについては当日、各所にて配布予定です。なお、駐車場に関しては混…https://t.co/SuDzfUUzH42022年10月17日17:45いいなああああくままく@ri32022095観客「ジャイアーン!」ジャイアン「ワシは以仁王じゃ!
はいっ!落ちました!大河ドラマ「鎌倉殿の13人」トークライブin上田。木曽義仲さま(青木崇高さん)と家臣の今井兼平さま(町田悠宇さん)、以仁王さま(木村昴さん)と範頼さん(迫田孝也さん)が登壇されるとのことで、最近今井兼平役だった町田悠宇さんが気になっている身としては直接お目にかかれるまたとない機会でした。倍率高いのも分かっていたしあまり期待はしないようにしていたものの、いざ落選通知が届くとやっぱり悲しいですね…。久々の飛行機の距離の旅行になる予定なので当日
今回は、木曽にあります義仲の墓参りです。今井兼平今井兼平墓所今井兼平とは平安時代末期の武将。木曾の豪族中原兼遠の子。通称四郎。父は木曾義仲(→源義仲)の養父で、兼平は義仲とは乳兄弟。治承4(1180)年9月、義仲の挙兵時から側近として活躍、木曾四天王の一人に数えられた。特に寿永2(83)年、平家軍の北陸進撃には、義仲の命を受けて越中般若野にこれを撃破。2日後の倶利伽羅谷の合戦(→礪波山〈となみやま〉の戦い)を有利にし、次いで篠原の戦いでは平家軍を壊滅させた。同年7
こんばんは🌛いやー暑い日が続いてますね~😱☀️暦の上では、立秋に入ってるそうです。本当に、立秋が始まってるのか!と疑いたくなります笑なので、もっと秋よ立ってくれ~!立つんだ、秋~~(丹下団平風)立つだ秋~~(丹下団平風)秋~~(丹下団平風)明日のジョーのおやっさん風に叫んでみました。笑さて、今日は、群馬県の変わった地名を紹介します。ズバリ乙父乙母です。↑何て読むと思います?乙父(おっち)乙母(おとも)です。場所は、群馬県多野郡上野村の地名です。なんで、こん
少し前に見つけたこんな企画⬇️⬇️⬇️\GW緊急企画/木曽義仲最期の地をめぐるガイドツアー|びわ湖大津トラベルガイド大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する木曽義仲は、源範頼・義経軍と戦い、大津・粟津あわづの地にて壮絶な最期を遂げました。そこで!この度、緊急企画といたしまして、ゴールデンウィーク期間中、木曽義仲の舞台となった石山・膳所をめぐるガイドツアーをワンコインの500円にて実施致します!!事前予約制にて定[...]otsu.or.jp大河ドラマで木曾義仲を知った私(歴史知らな
木曽義高が秘かに鎌倉を抜け、逃亡する間、義高を装って屋敷で過ごした海野小太郎。ついに発覚され捕縛され、そして、義高の死を知った…。海野小太郎幸氏(1173?~1240?)源平~鎌倉時代の武将。木曽義仲の家臣・海野幸親の三男。義仲が源頼朝との和睦の証しとして嫡男・義高を鎌倉へ送った際、従者として随行。義仲・義高の死後は、幕府御家人となる。名高い弓の名手。信濃での海野一族発展の基を築く。上田市丸子御嶽堂に、ひっそりと立つ愛宕神社。義仲旗挙げの地・依田城や、樹齢八百年
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその71第16回伝説の幕開け今回は、義仲(青木崇高)四天王の一人今井兼平(町田悠宇)について義仲には、後に義仲四天王と呼ばれる猛将四人がいた。樋口兼光、今井兼平、根井(ねのい)行親、楯親忠の四人だ。中でも壮絶な最期を遂げるのが今井兼平だ。兼平は幼少期から義仲とともに成長した。兼平の父中原兼遠が義仲の乳母父だったからである。以前にも書いたが、この時代、『乳母』繋がりは親子・兄弟にも等しい間柄だったので、兼平は兄樋口兼光とともにやがて義仲側近となっ
私は木曾義仲公の事をこの旅行までほとんど何も知りませんでした。元善光寺様に初参拝する為に泊まった秘湯の宿が木曽福島宿に近かった事でこの地が木曾義仲公の本拠地だったということを初めて知りました。お宿に戻ってからKindleで久しぶりに平家物語の「木曽殿最期」のくだりを読んだりインターネットで調べるうち、私はすっかり木曾義仲公に魅せられてしまいました。詳細は省きますが義仲公の義と忠とにとことん篤い姿勢、相手に攻められてやむを得ない時しか戦をしないという
今回の大河ドラマの義仲は青木崇高さん。地元民のイメージ通りの、まっすぐで暖かい人柄に描かれています。今日は粟津での最期が。兼平と最後の別れを惜しんでいる最中に、雑兵の矢に当たって落命。これは「鎧が重うなったるぞや」の平家物語とあまりにも違います。松林で自害するように勧めて敵を防ぐ兼平が討ち取られたのを見て、沼地に馬の足が取られて落馬、というのでなければ。とても残念。巴がどうなったかも気になります。幾多のお能にもなっているので、おいそれと鎌倉方に捕らえられても困るの
山形に息づく歴史実感源頼朝の側近・安達藤九郎盛長、ゆかりの地訪ねて山形新聞明源寺の毘沙門堂は、柏倉住職によると、落雷による火災後の1805(文化2)年に再建。再建時は寺山にあったが、明治期に同寺境内に移された。真柄十郎左衛門や佐々成政ゆかり…4城の「御城印」完成越前市味真野地区、屏風状の4連式エキサイトあわせて読みたい.福井城の御殿が現存する瑞源寺、御城印の発行スタート松平家の家紋入り、福井市·吉村知事への批判がいよいよテレビでも…NHK大河ドラマ「真田丸」で時代
第13話「幼なじみの絆」頼朝の浮気は御家人たちをも巻き込む大騒動となった。源平の激突を目前に、鎌倉に亀裂が入ろうとしていた。先週の終わりに大江広元が「一つ気になる事が…」とういう言葉を残して終わったので、そこから始まるのかと思ったのですが、先延ばしのようです。北条家の会議から始まりました。「何もかも嫌になり、伊豆へ帰る」と言って時政は帰ってしまった。義時は「鎌倉殿」の、そばで活動しているけれど、比企能員、大江広元、安達盛長というメンバーになり、平家打倒と言って旗
1184年(寿永3年)1月20日、源範頼と源義経が後白河法皇と対立した木曽義仲を討つため都を攻めます。義仲は都の防備を固めますが、すでに人望を失っていた義仲に従う兵は少なく、宇治や瀬田で大敗。たった七騎で都を落ちたのだといいます。『平家物語』によると・・・義仲が向かったのは、今井兼平が戦っている瀬田。大津の打出の浜(琵琶湖岸)で出会った義仲と兼平は、最後の一戦に臨みます。義仲が兼平の持っていた旗を掲げると、これを見つけた兵がどこからともなく馳せ集まり、三百騎ほどになったのだとか。し
木曽町の資料館「義仲館」にある木曽義仲と巴御前の像。義仲は武蔵国大蔵館(埼玉県)で生まれますが、2歳の時に父の義賢が討たれると、信濃国木曽谷の中原兼遠に育てられました。女武者として知られる巴御前は、義仲の妾だったのだといわれ、兼遠の娘とも伝えられています。☆☆☆☆☆2022年の大河ドラマ
林昌寺は、木曽義仲を育てた中原兼遠の菩提寺。義仲四天王に数えられる樋口兼光と今井兼平は兼遠の子。義仲の妾といわれる女武者・巴御前も兼遠の娘といわれます。中原兼遠の墓兼遠は、1180年(治承4年)に義仲が挙兵すると出家。翌年に死去したのだと伝えられています。義仲と巴御前(義仲館)☆☆☆☆☆2022年の大河ドラマ