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京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)は、坂本龍馬・中岡慎太郎が殺害された近江屋事件に関して「自分たちがやった」と自供したことで知られています。その今井信郎が剣術教授方として赴任していた上州高崎の岩鼻陣屋から江戸に呼び戻され、京都見廻組への編入を申し付けられたのは慶応三年(1867)五月二十二日のことでした。旅費等の支給が遅れ、実際に京都に赴任したのは同年十月初旬のことといいます。この時、今井に申し付けられたのは肝煎(きもいり)という役目で、これは市中見廻りの組を引率する隊長にあたりま
島田がお茶の聖地の一つであることの所以は、寿真庵のホームページを御覧いただきたいと思います。www4.tokai.or.jp/jushinan/sencha3daiseiti.html聖地を聖地たらしめている牧之原大茶園の開拓のドラマを語るイベントが、島田の初倉にやってきます。令和7年度県民の日特別講座「ふじのくに歴史演談in初倉」参加者募集
坂本龍馬は自分の仲間を殺した悪党だ!成敗致す!見廻組佐々木只三郎坂本龍馬は剣豪だった。めちゃくちゃ強い。誰も勝てない。相手が先輩だろうと関係なく、喧嘩を売りまくっていた。こいつらほんましょーもないわ。わしは強い。かかってこい雑魚がやったるわい。坂本龍馬がやられたあとのラストシーンがデスノートそっくり。
内職の仕事ほっぽり出して(笑)、日中ずっとAIで写真の顔入れ替えが出来るフリーサイトで遊んでました。幕末の、本人の写真が残っていなかったり、晩年の写真しかない人などの在りし日の姿を再現してみましたが、果たして似てるのかどうか。西郷隆盛有名なキヨソネ筆の肖像画を陣幕久五郎の写真と合成してみました。結構雰囲気出てると思うんですが、どうでしょう。佐々木只三郎こちらも後世になって描かれた肖像画のみが残されている京都見廻組の佐々木只三郎です。絵からちゃんと写真風
※.二条城東大手門京都見廻組の肝煎で、近江屋事件に参加した一人とされる渡辺篤。その渡辺の家が代々与力をつとめた二条城御門番組は、その名のとおり京都・二条城の城門を警備するための幕府の組織です。「門しか警備しないの?」と問われれば、実はまったくそのとおりなのですが、ここでまず江戸時代の二条城の警備体制について解説したいと思います。二条城警備組織を統括するのは定番と呼ばれる役職で、二人体制になっていました。江戸幕府の役職をまとめた『大武鑑』によれば、たとえば元治元年(
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地近江屋にて1867・11・15刺客に襲撃され絶命。土佐脱藩浪士・坂本龍馬は同郷の中岡慎太郎と近江屋で遭難、暗殺されました。実際には少し離れた場所ですがコンビニの前に石碑が建っています。長州藩・薩摩藩の両藩仲介の大役を果たしました。コンビニ入るとすぐに龍馬グッズのコーナーがありました。実際の近江屋は現在の道路上にあったと思われる、この石碑は意外と見つけにくく知らずに通る人も多いです。武器不足の長州に薩摩名義で武器を購入、薩摩には長州の米を買わ
「桂早之助」の検索ワードでのアクセス数が多く以前にアップした記事を多少画像をアップして再録します。今井信郎(いまいのぶお)の刀の鞘、襲撃時に使用したと伝えられます。龍馬の蝋人形・・桂早之助の龍馬を斬った刀・・佐々木只三郎の血染めの鎖帷子・・京都見廻組を束ねて、今井信郎や桂早之助らと近江屋に乗り込みます、龍馬暗殺から2ヶ月もたたないうちに鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で腰に銃弾を受け敗走中、和歌山の紀三井寺で亡くなりました・・慶応4年ですが明治元年にあたります。八坂神社、中岡慎太郎と坂本龍馬
#坂本龍馬土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた#亀山社中(のちの#海援隊)を結成した。#薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。#大政奉還成立後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都河原町通蛸薬師下ルの#近江屋において暗殺された。実行犯については今井信郎による自供から、京都見廻組によるものという説が有力であるが、異説もある。
このブログは、私(鯛)の元に現れてくれた様々な偉人・神々との会話を記していくものです。現れた偉人たちは皆、口をそろえて現代の日本人に伝えたいことがあると言っています。神々には日本の行く末が見えてはいますが、あくまでも人間の意志を尊重していると言います。神々に救ってもらおうと考えるのではなく、人間が自分たちの手で社会をどう変えるかが大事なことのようです。信じる、信じないはあなた次第。一つの物語としてお楽しみください。佐々木只三郎シリーズ前回までのお話はこちらから『
渡辺吉太郎が江戸浅草の生まれだとして、それはそれで疑問がないでもありません。一番引っかかるのが今井信郎との関係です。今井が渡辺吉太郎のことを桑名藩士だと思い込んでいたとすれば、それはすなわち今井信郎と渡辺吉太郎との間に面識がなかったことを意味します。今井信郎は天保十二年(1841)生まれで渡辺吉太郎の二歳上になります。住居は湯島天神下でしたが、弟・省三の証言によれば信郎は「剣術を藤川、柔術を窪田氏に就き」修行をしたとあるのですが、この藤川というのは下谷長者町の直心影流藤川道場のことと思
渡辺吉太郎の出自に関してですが、今井信郎はたびたび「桑名藩士の渡辺吉太郎」と証言しています。先日、動画共有サイトのニコニコ動画が大規模なサイバー攻撃に遭い、サービス停止に追い込まれたことはご存知の方も多いと思いますが、そのニコニコ動画版のウィキペディアというべきニコニコ大百科というサイトがあります。このニコニコ大百科もサイバー攻撃の影響を受け、しばらく閲覧出来ない状態が続いていましたが、現在は復旧しているようです。そのニコニコ大百科の『渡辺吉太郎』に、出自に関する興味深い記述があります
近江屋事件の刺客の一人として今井信郎がその名を挙げた渡辺吉太郎もまた、謎の多い人物です。渡辺吉太郎に関してはこれまで何度が取り上げて来ましたが、今回はまとめの意味も含めて改めて記事にしたいと思います。京都見廻組の隊士で、市中見廻り部隊の隊長である肝煎を務めた渡辺吉太郎は、『戊辰東軍戦死者霊名簿』に慶応四年(1868)に二十六歳とあることなどから逆算して天保十四年(1843)生まれと考えられています。ただし『京都見廻役人名簿』には慶応三年(1867)に三十歳とあり、これだと天保九年(18
京都へ行ってきました。まず二年坂で評判のぜんざいを食べて、京都霊山護国神社(れいざんではなく、りょうぜんと読みます)の坂本龍馬と中岡慎太郎、桂小五郎・幾松のお墓にお参りした。300円を改札口に入れると、仕切りが開いてお墓に入れる仕組み。それから、霊山歴史館へ。目玉は、「龍馬を切った刀(脇差)」(42.1センチ)。刀身には、無数の傷があり、黒く錆びている。説明によると、阪本龍馬を切った刀の持ち主は、京都見廻組の桂早之助で近江屋の2階に突入した一人。天井の低い室内での戦闘を予想し、小太刀
京都見廻l組については、以前、少し、書きましたが、更に、詳しく。幕末、ペリーが浦賀に来航してから、日本国内は、「開国」「攘夷」を巡って、大きく揺れ動き、社会は乱れました。その中で、政治の舞台は、江戸から、次第に、京都に移ることになる。これは、「尊皇攘夷」の思想の元、京都の天皇や公卿が、大きな政治的発言力を持つようになったからで、この天皇、公卿の力を利用し、幕府の政治を揺るがそうという勢力が、京都で活動を活発化させることになる。尊皇攘夷過激派による「天誅」と呼ばれる暗殺事件も多発し、幕
近江屋襲撃グループに世良敏郎の養父吉五郎が加わっていた可能性があるを考えると、そこからまた一つ疑問点が生じてきます。それは今井信郎の供述が、果たして本当に生きている(であろう)人物を庇うために別の誰かと入れ替えたものだったのだろうかという点です。ちなみに、近江屋事件の起きた慶応三年(1867)十一月十五日の直前、同月六日付で提出された、同年十月に作成された京都見廻組の幹部名簿(『在京鳥取藩士用状』)があるのですが、それによると渡辺吉太郎は「渡辺吉三郎」、また渡辺篤(一郎)は、「渡辺鱗三
近江屋を襲撃したとされる京都見廻組隊士として、まず今井信郎が供述した今井信郎本人と、佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人が挙げられます。そして渡辺篤の告白によって、更に渡辺篤自身と世良敏郎の二人の名前が挙がるのですが、今井が二人の名前を供述しなかったことについて、菊地明先生は『龍馬暗殺最後の謎』の中で今井の刑部省における供述によると、刺客は今井のほかに、佐々木只三郎、渡辺吉太郎、桂早之助、高橋安次郎、桜井大三郎、土肥仲蔵の計七名だっ
近江屋事件に関する謎の一つに、「襲撃者はなぜ坂本龍馬の潜伏先が近江屋であると知ったのか」があります。しかも龍馬は風邪気味であったが為に、前日(慶応三年十一月十四日)に離れの土蔵から母家の二階に移ったばかりでしたがもっとも龍馬儀、旅宿二階に罷り在り、同宿の者もこれ有り候由。(今井信郎『刑部省口書』)下宿せしところは河原町三条下ル三四丁目西側、醤油屋の二階に才谷梅太郎と偽名し潜居致しおる。(渡辺篤『渡辺家由緒暦代系図履歴書』)と、単に近江屋に潜伏しているというだけでなく
明治三十三年(1900)、『近畿評論』第十七号に「坂本龍馬殺害人」と題した今井信郎の談話とされるものが発表されました。これを読んだ谷干城は激怒し、猛烈な反論を展開します。谷は事件直後に現場となった近江屋に駆けつけ、瀕死の重傷を負いながらもまだ息のあった中岡慎太郎から直接話を聞いていたのでした。以下、同年中の講演の速記録とされる『谷干城談話』より、谷の反論を抜き取ったものです。(中岡いわく)実は今夜、お前の方へ行ったが、お前が留守であったから坂本のところへ来て、二人が話している
時は流れて明治三十三年(1900)のこと。京都の小さな出版社が発行した雑誌に掲載されたある記事が元となって大きな騒動が起こりました。騒動の元となったのは『近畿評論』第十七号に掲載された「坂本龍馬殺害人」で、元京都見廻組の今井信郎が、坂本龍馬を殺害したのは自分であると告白する内容の記事だったのですが、生前の龍馬と親しく、事件直後に近江屋に駆けつけて瀕死の重傷を負った中岡慎太郎や近江屋経営者の井口新助などから直接事件の経緯を聞いていた谷干城(子爵)が、この記事を猛烈に批判したのでした。
今井信郎は更に刑部省でも取り調べを受けましたが、その供述書の中の重要な部分を意訳してみました。箱館降伏人元京都見廻組今井信郎午三十歳十月の中頃、見廻組与頭の佐々木唯三郎の旅宿へ呼び出され、私並びに渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の計六人が集められた。唯三郎によると、土佐藩の坂本龍馬に不審な行動があるという。(坂本は)昨年、伏見に於いて捕縛されそうになった時、拳銃を撃って捕り手の伏見奉行所同心二人を殺
谷干城ら、坂本龍馬や中岡慎太郎と関係の深かった土佐藩の人々は、坂本・中岡を殺害したのは新選組だと信じ、新政府軍に投降した近藤勇の首を刎ねました。同時に元新選組の大石鍬次郎を捕えるのですが、取り調べに対し大石は意外な供述をします。刑部省口書一橋家来大石捨二郎(「伜」脱か)元新選組大石鍬次郎口上年三十二歳(前略)その節、伊豆太郎(※.加納鷲雄)より相尋ね候にて、京師に於いて土州藩坂本龍馬殺害に及び候も私共の所業にこれ有るべし。その証は、場所に新選組原田左之助差料の刀鞘落
慶応三年(1867)十一月十五日の夜五つ半(午後九時)過ぎ頃、四条小橋の鳥新で軍鶏肉を購入した峰吉が河原町通蛸薬師下ルの近江屋に戻るまで、せいぜい3,4分ほどだったでしょうか。玄関の板戸を開けて中に入ると、土間に見馴れない下駄がありました。誰か来客かと思いつつ板間に上がろうとすると、突然背後から声をかける者がありました。「峰吉か。静かにせい。いま龍馬がやられた。賊はまだ二階におる」ギョッとして振り向くと、土佐藩下横目(目付配下の最下級役人。いわゆる岡っ引き)の嶋田庄作が抜刀し
元治元年(1864)、二十四歳の時に神奈川奉行所勤務となった今井信郎は古屋佐久左衛門という盟友と出会うことになります。ただ、古屋のことまで掘り下げてしまうと取り留めがつかなくなってしまうので割愛することにします。ただ、その古屋が仲を取り持ち婚姻を結ぶことになった妻いわのことは触れないわけにはいきません。信郎の孫である今井幸彦氏は著書『龍馬を斬った男』の中で自らの祖母に当たるいわを、まず「第七代信郎は、甲州(山梨県都留郡桂村)の豪農天野家からいわを妻に迎え」と紹介したのち、あとのページで
「では、行ってまいります」と親兄弟に別れを告げ、その武士が江戸を発ったのは慶応三年(1867)九月の中旬頃だったでしょうか。武士の名は今井信郎(いまいのぶお)といい、当時二十七歳。江戸は本郷湯島天神下に住む幕臣今井安五郎守胤の長男として天保十二年(1841)十月二日に生まれました。連れ立つ妻はいわといい、その手には生まれたばかりの赤ん坊が抱かえられていましたが、その名を”りゅう”と名付けたのは何の因果か。このりゅう、実は女の子でしたが、父信郎に万が一のことある時に備えて男として
昨日に引き続き、戊辰つながりでいきましょうか。古屋佐久左衛門のお話が読みたくて入手しました。一に衝鋒隊(古屋佐久左衛門)、二に雷神隊(桑名・立見鑑三郎)三に朱雀隊(会津・佐川官兵衛)の順で強かったんでしたっけ?昭和のドラマ、『五稜郭』でも、古屋佐久左衛門てスゲー豪傑みたいな扱いだったので興味が湧きました。副官の今井信郎もいい味出してますしね。この本は戊辰戦争で旧幕軍として戦った、ちょっとマイナーな人たちに焦点をあてた短編集。わりと冷静で解説的な描写が多
京都見廻組を知っている人は、どれくらい居るのでしょうか。あまり、メジャーじゃないですよね。新選組と同じく、幕末に、京都の治安維持を担った部隊。新選組が、浪人以下、様々な身分の者で構成されていたのに対して、見廻組は、基本的に、幕府直参家臣の中から選ばれた者で構成されていたよう。京都見廻組秘録―龍馬を斬った幕府治安部隊(歴史新書y)Amazon(アマゾン)1,123〜7,081円京都見廻組史録Amazon(アマゾン)914〜25,614円恐らく、京都見廻組を、専門
変わった人ではあったけれども、警視庁で撃剣世話掛をつとめたほどの剣客であった小泉則忠ですが、彼の剣術は果たして何流だったのでしょう。実は小泉則忠、明治十八年十月十四日に藤田五郎と試合をしているだけでなく、その後も毎年のように弥生神社の武術大会に参加しています。その中で明治二十年十一月に開催された試合の対戦表には各人の流派が記載されており、小泉則忠については板橋屯所柳剛流小泉則忠と記載されています。柳剛流は別名岡田柳剛流とも呼ばれ、心形刀流から派生した剣術流派です。脛(す
矢島昌郁は雑司が谷の六畳一間の「屋敷」に一人で住みながら、近所の子供たちに習字やそろばんを教える一方で、若者たちを集めて剣術を指導していました。流派は直心影流です。「(矢島昌郁は)とても四角張った身体で腰が曲がって、年中鉄の棒を突いたり木剣を突いて歩いておられた。下谷の榊原鍵吉の道場で仕上げた人であります」~『大鳥神社神社を中心としたる雑司谷郷土史談』(大鳥神社々務所/昭和18年)剣の腕は達人といわれ、なんでも維新後に雑司が谷に住み着いた池田某という、これも剣術の腕前には自
江戸末期、京都河原町の近江屋において坂本龍馬が殺害された事件。いわゆる近江屋事件。殺害実行犯には諸説あります。土佐藩説、薩摩藩説、紀州藩説、新選組説、はたまた中岡慎太郎説…ですが、いちばん有力な説は江戸幕府の組織であった京都見廻組によるもの。一応ここまでは、龍馬ファンのひとりとして以前から知っていた話。ですが今回、たまたま「静岡県坂本龍馬」でググってみたところ…その京都見廻組の隊士のひとりとして、実行犯に加わっていたという今井信郎の屋敷跡が、島田市の初