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応神天皇の和風諡号からの考察が、継体天皇は「応神天皇五世の孫」でなかったという新王朝説を後押ししました。ところが、ある鏡の銘文によって話は振り出しにもどってきます。その鏡は隅田八幡神社(和歌山県橋本市)に伝わり、「癸未(みずのとひつじ)年八月」ではじまる四八文字が刻まれています。「癸未年」を西暦503年とし、銘文の「男弟王」を「ホド王」(『日本書紀』では継体の名を「をほど」と記す)と読むと、503年に百済(朝鮮)の武寧王が、当時大和の忍坂宮(奈良県桜井市)にいた継体にそ
天理市の石上神宮から山の辺の道を北へと歩いているみくるです竹林の「石上銅鐸出土地」を抜けて、次に訪れたのは「姫丸稲荷(ひめまるいなり)神社」。ここは、かつて天皇の宮殿があったとされる「宮の屋敷」という地名が残る、とても由緒ある場所でした。12月の空に映える「朱色の回廊」一歩足を踏み入れると、目に飛び込んできたのは幻想的な赤い鳥居の列。12月の冷たく澄んだ空気の中で、この朱色は驚くほど鮮やか。寒さで少し身が引き締まる感覚と、神域特有の凛とした空気感が心地よかったです。地名「宮の屋敷」
和江神社丹後国加佐郡京都府舞鶴市和江宮ノ谷122(社前に路側帯があり、そこに駐車可)■祭神五男三女神(天君穂耳尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊津久須毘命多紀理毘売命狭依毘売命多紀津毘売命)億計王(オケオウ)・弘計王(ヲケオウ)の潜伏先として伝承される社。「由良川」西岸の河口近く、穏やかな流れの畔に鎮座します。鎮座地は舞鶴市「和江(わえ)」。集落の南外れに位置しています。人口は41世帯113人(令和二年国勢調査データ)の過疎地域。◎「和江」には国分寺があったと近世の書
第二十五代武烈(ぶれつ)天皇は五世紀末の古代の天皇で仁徳天皇系最後の天皇です。御名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかささぎのみこと)。御父は仁賢天皇、御母は雄略天皇の皇女、春日大娘皇女。継体天皇の皇后で欽明天皇の母である手白香皇女、宣化天皇の皇后である橘仲皇女は同母姉妹にあたる。仁賢天皇の崩御により即位。漢風諡号のその字からもとても激しそうな感じが想像できますが、日本書紀にはその暴虐ぶりが書き連ねてあり驚きます。これは、この代で仁徳天皇系が終わってしまうためにわざと悪く書かれた
ご訪問ありがとうございます。今回の解読はわたしにとってはけっこう悩ましかったのですが(;^_^A何とかまとまった…というか、むしろいっそう「古事記」「日本書紀」に近づいた解釈になってしまいました。とりあえず「チ。」のアルベルトのように「疑いながら進んで。信じながら戻って。美しさに、煌めきに、逼り詰めてみせます」というのが、心境(^^;)しかしわたしにとってはまさにコペルニクス的転回💫でしたがwさて、大筋がつかめたので今回は残りを済ませたいと思います目次⑧中費直は誰?「紀直
7ご訪問ありがとうございます。前回に続いて「隅田八幡宮人物画像鏡」の銘文を解読します。前回は堀大介氏、石和田秀幸氏のご研究によって、ここの文字を検証しました。癸未年八月曰十大王年503年8月ヲケ大王の年次は一番問題が多い「⑤弟王」についてです。⑤弟王在意柴沙加宮時斯麻念⑥⑦遣⑧中費直穢人今州利二人⑨⑩白上同二百⑪⑫此竟・目次「⑤弟王」の解読銘文前半の人間関係斯麻は何者か?「⑤弟王」の解読ここはこれまで「男弟王」と読まれ・443年説では忍坂大中姫の兄弟の意富富杼オホホド
ご訪問ありがとうございます。予告どおり、今回は「隅田八幡宮人物画像鏡」についてです。この縁に沿って文字が書かれていますが、わかりますか?Wikipediaには隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵する、5世紀から6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語学における貴重な資料である。国宝に指定されている。とされています。隅田八幡宮のある和歌山県橋本市は、奈良県の五條市に隣接していて、大和から紀
第二十四代仁賢天皇、億計天皇(おけのすめらみこと)は古代、記紀の時代の天皇です。御父は市辺押磐皇子、御母は葛城はえ媛。履中天皇の孫で、仁徳天皇の曾孫でもあります。允恭天皇三十八年生。諱は大脚、字名は嶋郎(しまのいらつこ)。在位、仁賢天皇元年(488年)から仁賢天皇十一年(498年)。億計天皇は弘計(をけ)天皇(顕宗天皇)の同母兄であり、その名前から双子であった説があります。また姉の忍海部女王は二人が皇位を譲り合っていた間、天皇であったとも伝わります(飯豊天皇)。昨日は雄略天皇
台風が去ったのにまだまだ暑い🥵中、御陵めぐりに参加してきました。今回は「日本武尊」の御陵にもお参りできるコースでした。天皇に即位していなくても、神話の世界の人であってもなんとなく惹かれる「日本武尊」を楽しみに頑張って歩きました。まずは観心寺境内の中にある「後村上天皇陵」階段をかなり登りました。そして同じ境内に「楠木正成」の首塚も。いっぱい歩いたのでお昼ご飯。仁徳天皇陵の近くの「かごの里」さんで。天ぷらがうまうまでした。食後に訪れたのは「仲哀天皇陵」。「日
仁賢紀に、先帝、顕宗天皇の皇后であった難波小野が自死した記述がある。二年の秋九月に、難波なにはの小を野のの皇后きさき、宿もと、不敬ゐやなかりしことを恐りて自ら死みうせましぬ。〈弘を計けの天皇すめらみことの時に、皇太子ひつぎのみこ億計おけのみこ、宴とよのあかりに侍りたまふ。瓜うりを取りて喫くらひたまはむとするに、刀子かたな無し。弘計天皇、親みづから刀子を執とりて、其の夫人みめ小野に命おほせて伝へ進たてまつらしめたまふ。夫人、前みまへに就ゆきて、立ちながら刀子を瓜盤うりざらに置く。是の日に、更
ご訪問ありがとうございます。仁賢天皇が終われば、岩波古典文学体系本の上巻が終わります。あとちょっと頑張ろう(^ω^)5年春2月5日、全国の国・郡コオリに散って逃げた佐伯部サエキベを探し求めました。佐伯部仲子=売輪ウルワの後裔を佐伯造サエキノミヤツコとしました。佐伯部仲子は顕宗天皇紀に見えます。(市辺押羽皇子と一緒に殺され、埋められた人)佐伯部は塞サえき部だと言われてまして、国境等の警備をする部民で、多くは大和王権に恭順した蝦夷を蝦夷の国との国境に置いて守らせたものです。それを
ご訪問ありがとうございます。この前は名前からうかがえる仁賢天皇の実像を探ってみたわけですが、今回は仁賢天皇の宮と系譜を見てみようと思います。仁賢天皇元年春1月5日、皇太子は石上広高宮イソノカミヒロタカノミヤ(奈良県天理市)において即位した。或本(別伝)に云わく、仁賢天皇の宮は二箇所あった。一つ目の宮は川村(兵庫県三木市?)に、二つ目の宮は縮見の高野(兵庫県三木市)にあった。その宮殿の柱は今に至るまで、朽ちていないという。顕宗天皇の宮も、別伝で或本に云わく、(別伝)弘計天皇=顕宗天皇
ご訪問ありがとうございます。さて、いよいよ上巻最終の「仁賢天皇紀」に入ります。「古事記」の方は、物語は顕宗天皇で終わって系譜のみになるので、ここからの文献史料は「日本書紀」に「上宮記逸文」ぐらいになってしまいます。中国への派遣も小野妹子までないので、外国の史料も朝鮮半島関係だけです。そこでこの辺りの情勢はまことにつかみにくいと言えます。(百家争鳴w)さて、顕宗天皇つまりヲケ王が亡くなって、お兄さんのオケ王が即位しました。仁賢天皇です。まずは即位までの経緯を示した「即位前紀」ですが、こ
ご訪問ありがとうございます。今回は顕宗天皇の即位に至る事情からです。12月、百官は大々的に集まると、皇太子の億計オケは、天皇の御璽を受け、これを天皇の玉座に置いた。そして拝礼すると諸臣の席におつきになって「此の天皇の御位は、功績のある者が居るべきところです。(我らが)貴い血筋であると明かして、ここに迎えられたのは、みな弟の考えです。」とおっしゃって、天下を天皇(弘計ヲケ王)に譲られた。天皇(弘計王)は、我が身を顧みて弟であるからと、なおも即位されなかった。また、清寧天皇が先に兄(億計
ご訪問ありがとうございます。今回は話が完成されているので、まずは本文をお読みくださいませ。弘計オケ天皇(顕宗天皇)、またの名は来目稚子クメノワクゴは、大兄去來穗別オオエノイザホワケ天皇(履中天皇)の孫で、市邊押磐イチベノオシハ皇子の子である。母は荑媛ハエヒメという。「譜第カバネノツイデノフミ」に市邊押磐皇子は、蟻臣アリノオミの娘の荑媛を娶り、最終的に三男二女を生んだ。其の一人目を居夏イナツ姫といい、其の二人目を億計オケ王、またの名を嶋稚子シマノワクゴ、更に大石尊オオシノ
ご訪問ありがとうございます。今回で清寧天皇は終わりです。何かをやったということもなく、星川皇子から次代の顕宗・仁賢天皇の話と飯豊皇女のエピソードだけですがとりあえず順を追って見ていきましょう(^∇^)2年春2月、天皇は子供がないことを残念に思って、大伴室屋大連オオトモノムロヤノオオムラジを諸国に派遣し、白髮部シラガベノ舍人トネリ・白髮部膳夫カシワデ・白髮部靫負ユゲヒを置いた。形見を残して後世に名を伝えようと思われたのである。子供がないって后妃も伝わらないし、性急にも思え
第二三代顯宗天皇(けんぞう)は大和時代の天皇です。和風諡号は弘計(おけの)天皇。生年は允恭天皇三十九年(450年)。御父は履中天皇の皇子、市辺押磐皇子の第三子。御母は葛城蟻臣の女、荑媛(はえひめ)。御名は弘計王(おけのきみ)、来目稚子(くめのわくご)、オケノイワスワケノミコト(古事記)、袁奚天皇(播磨国風土記)、の異称があります。在位期間は四八五年~四八七年。安康天皇三年(四五六年)、父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺された為、兄の億計王(後の仁賢天皇)と播磨国まで
こんにちは昨日の散歩の続きどっこいさんのあとは『左下金水』の文字昔はなかった庵が出来てます。窟屋の金水いわやのきんすいここの洞窟の中に水が溜まっててひかり藻が繁殖して金色に輝くらしいです木々が伐採されてあかるくなったから最近は金水がみられるようになったという話を聴きますがもう季節が終わってましたよくわからなかったです。私洞窟は苦手なんだ前にきたときも怖かったけど今回も15年ぶりに来てみたけどやっぱりジャーン日本書紀の舞台史跡志染の石
25.05/04sun.13:06-18:33近鉄古市駅から東に向原山西琳寺本堂本尊薬師に参る欽明天皇勅願寺、竹内街道に面し広大な寺域の創建時から時を経て…五基の五輪塔、中央は鎌倉時代西大寺を中興の叡尊が、河内布教の拠点に西琳寺も復興…応仁の乱後、高屋城の土塁に埋め込まれ1957年(昭和32年)宅地開発に発見手前に、巨石東に塔、西に金堂が建つ法起寺式の伽藍塔の心礎石、径75cm・深さ40cmの柱穴に4ヵ所の添え柱の穴、仏舎利容器の穴加工…手前に、不動明王
「3歴代ノ天皇(その24)」今日は、武田信玄みなさん、おはようございます「実語教」についてもう少しご紹介します「山高きが故に貴からず樹有るを以て貴しとす人超え樽が故に貴からず智有るを以て貴しとす富は是一生の財身滅すれば即ち共に滅す智は是万代の財命終われば即ち随って行く」と続きます智は子や孫の代に続くというのですウキウキ卯月四月!素読してみましょう笑顔で楽しく國史を学び家族の教育力向上ご自身の向上にお役に立てれば幸いですコメン
「道の駅かつらぎ」1月4日は、初の買い出し〜振る舞い「おぜんざい」をいただいてお野菜を買ってきました。白菜、椎茸、人参🥕イチゴ🍓まだお気に入りの米粉パンは無かったけれどとりあえず、お鍋野菜を買って6日から始まる週の準備です🩷『孝元天皇陵』神武天皇陵に行くとすぐ近くに綏靖天皇陵があり、また、ほどない距離のところにも安寧・懿徳天皇陵もあります。第8代孝元天皇諱大日本根子彦国牽天皇(日本書紀)…ameblo.jp「道の駅かつらぎ」の近くには「飯豊天皇陵」という史跡があり
(次田真幸.古事記(下)全訳註.講談社学術文庫,1984,2004(38刷),p.163-166)から現代語訳の全文を引用、次のとおり。天皇は、その父王イチノベノオシハノ王をお殺しになったオホハツセノ天皇(雄略天皇)を深くお恨みになって、その霊に報復しようとお思いになった。そこでそのオホハツセノ天皇の御陵を壊そうとお思いになって人をお遣わしになるとき、その同母兄オケノ命(仁賢天皇)が奏上なさって、「この御陵を破壊するのに他人を遣わしてはいけません。もっぱら私自身が行って、天皇のお考えのよ
袁奚天皇・・・第23代顕宗天皇のことで、『播磨国風土記』における表記。『日本書紀』では弘計天皇(をけのすめらみこと)、『古事記』では袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)と表記されている。父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の第21代雄略天皇)に殺害された際に、弘計王は兄の億計王(後の第24代仁賢天皇)と共に播磨国明石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首に仕えた。第22代清寧天皇の時に、二人は身分を明かし、子供のいなかった清寧天皇に迎え入れられる。清寧天皇崩御後、兄弟で皇位を譲り合
「27第二十四代仁賢天皇」美シイ國みなさん、おはようございます言葉にできない事件は起こるものとはいえ突然の知らせに絶句しました美シイ國を取り戻そうアリガトウ『開運ノ國史』「27第二十四代仁賢天皇」です第二十四代仁賢天皇(にんけん)御名、億計王おけのおう顕宗天皇‘(23代)の兄です皇后は、春日大郎女(かすがのおおいらつめ)雄略天皇(21代)の皇女です父の忍歯王を殺した雄略天皇は正統な天皇でありその皇女と結婚することで仁賢天皇も正統な天
5世紀ごろ、顕宗天皇になった弘計王子と仁賢天皇になった億計王子の兄弟が都の争乱を逃れ20余年隠れ住んだと伝えられる日本書紀ゆかりの地です。志染の石室兵庫県三木市志染町窟屋入園・駐車場無料山陽自動車道の三木東ICを降りて南へ県道85-83を南下して志染川を渡り、しばらくして左へ走ると「志染の石室」の標識がり右に入っていくと「志染の石室」の駐車場があります。なだらかな道を下っていきます。「志染の石室」の先には、石仏に囲まれたお堂があります。お堂の中には2体の仏像があるの
公式ブログをはじめました。現在は、過去記事のアーカイブをおこなっています。(2018/11/03)籠(この)神社より500メートルほど北東へゆくと麓(ふもと)神社があります。第23代・顕宗(けんぞう)天皇第24代・仁賢(にんけん)天皇というご兄弟の天皇がまだ若きころ権力争いから逃れて隠れ住んだ地だといいます。↓つづきはこちらからお願いします。京丹後めぐり7麓神社古事記・日本書紀にのこる、オケ・ヲケ兄弟を祀る神社です。のちに第23代・顕宗天