ブログ記事30件
人さまの布団など眺めている場合ではない。この日の主目的である。古書店「青いカバ」に立ち寄った。相変わらず質の高い品揃えだが、珍しく収穫なし。並びの東洋文庫はスルーして、巣鴨駅方向へ延びる道に入った。文京区立昭和小学校。ポストモダンの匂いがする、よく目立つ建物だけど、いくら調べても設計も施工も不明だ。さて、巨大複合施設・文京グリーンコートが近づいた頃、こんな銘板が目に入ってきた。中を窺うとこんな建物が。仁科記念財団というのは、もともとこの地にあった理化学研究所(理研)の一部をそのま
『どうして日本人は、こんなにも馬鹿になったんだろう?』司馬遼太郎”ノモンハン、書いたら死んじゃうよ”司馬遼太郎の遺産.mp4drive.google.com【映画】ナチスの原爆サイクロトロンを追え!ナチスが原爆を開発するためにサイクロトロンを追い求めた実話を基に描いています。物語は第二次世界大戦中のドイツを舞台に始まり、主人公である科学者のヴォルフガングは、核分裂の研究に取り組む天才的な才能を持っています。彼はドイツの研究施設で働いており、ナチスの要求に応じて核兵器を開発する
1月10日が命日・忌日の有名人・著名人1156年(久寿2年12月16日)61歳崩御(?)藤原泰子陛下鳥羽天皇の皇后1778年満70歳没(脳梗塞)カール・フォン・リンネさん博物学者分類学の父1922年満83歳没(胆石症)大隈重信さん第8代・17代内閣総理大臣、早稲田大学創設者1951年満60歳没(肝臓癌)仁科芳雄さん物理学者クライン=仁科の公式⇒『仁科芳雄(1890年12月6日生~1951年1月10日没、物理学者)』1967年満80歳没(?)ラダ・ビ
仁科芳雄さん仁科芳雄(にしなよしお)1890年12月6日生まれ、1951年1月10日、満60歳没。岡山県浅口郡里庄町浜中生まれの物理学者。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。日本の現代物理学の父である。主な業績:サイクロトロンの建設。クライン=仁科の公式1937年、理化学研究所(駒込)にわが国第1号(世界で第2号)のサイクロトロンを建設して、原子核・素粒子研究の基礎を築いたばかりでなく、放射性同位元素(ラジ
アメリカが原爆投下出来ない理由アメリカが六フッ化ウラン製造技術の特許出願したのは戦後の1948年だから理研は1944年1月に成功広島・長崎に落とした原爆は日本製だった昨日、友人の社本君からとんでも話を持ちかけられて、与太話と思いつつ深々と話を聞きいっていた。その後この話が本当であったとしてもなんら不思議ではないことに気付始める。今までの私の調査過程を振り返りながら感じたのは、戦争のカラクリを仕掛けた連中の立場だとしたら、考えて当然...cosmic-dance.blogs
多磨霊園(45)朝永振一郎、仁科芳雄朝永振一郎(ともながしんいちろう)1906年(明治39年)3月31日-1979年(昭和54年)7月8日物理学者東京教育大学名誉教授。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。朝永家自体は長崎県の出身。京都帝国大学理学部物理学
2月2日は岡山県瓦工事協同組合の代表として屋根瓦の採用に向けたお願い里庄町長を訪問屋根瓦が抱えている問題や今後懸念されている事象を加藤町長と懇談。岡山県浅口郡里庄町といえば原子物理学の仁科芳雄博士出生の地岡山県浅口郡里庄町浜中の生家は!伝わりませんよね。そうですね、里庄町と言えばオチャむの高校の後輩藤井風君の地元こんな人気になるとオチャむの株が勝手に上がってしまうと勘違いします
清水栄は「F研究」の「第一回の会合をこの間琵琶湖ホテルで開いた」と日記に記しているが、それは1945年7月21日のことだった。これはウラン鉱石からウラン235を分離するのに遠心分離方式を採用しようとしたのだが具体的にどうすればよいのか全く見当がついていなかったので、その解決策を模索するための会議だった。(小笠原正己『ヒロシマはどう記録されたか下』朝日文庫2014)それから半月後に広島に原爆が投下され、清水栄は京都帝大の原爆調査団の一員として8月10日に広島に入り、一発の爆弾で壊滅した
『原爆投下問題の研究』その3日本の原爆製造ひじかたすいげつ原爆の落ちた日【決定版】(PHP文庫)Amazon(アマゾン)950円日本の原爆は東京駒込の理化学研究所(理研)で開発されていた。この「駒込」は「駒込ピペット」の名に残る。日本陸軍は、1940年4月に航空技術研究所所長であった安田武雄中将が早くから核分裂に着目し、航空本部付きの鈴木辰三郎中佐にその研究を命じたことから始まったという。鈴木中佐は東大嵯峨根遼吉教授に教えを請い、19
『原爆投下問題の研究』その2日本の原爆製造と理化学研究所仁科研ひじかたすいげつ原爆の落ちた日【決定版】(PHP文庫)Amazon(アマゾン)950円8月14日今日は終戦の日。本当は15日ではない。第二次世界大戦の終戦は正式には9月2日であるが、日本にとっての終戦は8月14日である。9月2日は日本の敗戦の日。ポツダム宣言に署名した日である。日本の原爆は東京駒込の理化学研究所(理研)で開発されていた。この「駒込」は「駒込ピペッ
日本の研究者も、原爆の後で広島に入った人たちの不可解な症状と残留放射能の関係についてはっきりした解答を示すことはできなかった。核分裂について豊富な知識をもっていた日本の物理学者たち(その一人はサイクロトロン[加速器]を持っていた)は、広島における残留放射能を心配し、八月中旬、調査のため来広した。(ジョン・ハーシー『ヒロシマ』法政大学出版局1949)8月14日、理化学研究所の調査員が広島に入った。陸軍省広島災害調査班から放射能の調査を委嘱されたのだ。まだ戦時中。アメリカの「70(
おはようございます。2021年12月6日(月)今日はシンフォニー記念日、音の日、姉の日、ラジオアイソトープの日、聖ニコラウスの祝日、黄門忌です。http://s.webry.info/sp/isshokenmeihajimekun.at.webry.info/201501/article_341.html※シンフォニー記念日1914年の今日、ベルリンから帰国した山田耕筰が、初の日本人の作曲による交響曲『勝鬨と平和』を発表した。※音の日1877年の今日、エジソンが自ら発明した
何故、2発の原爆が落とされたのか?一般的には、「広島にはウラニウム型、長崎にはプルトニウム型と別々のタイプを投下。2種類の原子爆弾を比較するため。」と言われているが、広島に落とされた原爆は「ウラン爆弾」であり、その爆弾に使われたウラン235は「ロックフェラー=メロン」が主として製造したもの。、長崎に落とされた原爆は「プルトニウム爆弾」で、「モルガン=デュポン(ロスチャイルド系)」が主として製造したもの。ロックフェラーとロスチャイルド、両方が絡んでいた。しかも製造が遅
NHKがヒロシマ原爆の8月6日、地上波で原爆関連の特集番組を43年振りに放送しなかった。同種の番組は東京五輪による特殊編成の影響がこのようなところで現れた。黒い雨訴訟で上告断念を決断するも、「核兵器のない世界を実現」する下りを読み飛ばした菅義偉首相の演説が流れた式典の模様は中継されたが、その日の定番のはずのドキュメント番組は用意されなかった。代わりに7日深夜に入ってから、NHK総合にて2020年、1998年、2002年のNHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」「原爆投下・10
「理研の闇、日本の闇」鬼塚英明3時末に引っ越しとなり、急遽膨大な本とCDの処理に追われているのだが、売却、捨てる、とっておく、の選択に迷う。中でもこの手の本を手に取り、内容を確認していたらもうダメだ(笑)。すっかり読みふけってしまうからだ。この2冊は、多分初めて理化学研究所、通称「理研」の創設から現在に至る暗部にスポットを当てた問題作だ。理研は今の大河ドラマの主役である渋沢栄一が設立した研究機関で、日本の基礎科学に多大な貢献をしてきたのは事実。だが戦前には理研
おはようございます。2020年12月6日(日)今日は姉の日、音の日、シンフォニー記念日、ラジオアイソトープの日、聖ニコラウスの祝日、黄門忌です。http://s.webry.info/sp/isshokenmeihajimekun.at.webry.info/201501/article_341.html※「シンフォニー記念日」1914年の今日、ベルリンから帰国した山田耕筰が、初の日本人の作曲による交響曲『勝鬨と平和』を発表した。なお、1877年の今日、エジソンが自ら発明し
並んだ…オランダ🇳🇱チューリップの花が…Результатыпоискаwww.fnorio.com›ZuiderseeВсерезультатыゾイデル海の水防とローレンツ-FNの高校物理朝永振一郎著「ゾイデル海の水防とローレンツ」雑誌「自然」1960年1月号(中央公論社)https://b.hatena.ne.jp›Zuidersee[B!科学]ゾイデル海の水防とローレンツ-はてなブックマークj3672ファインマンさんのチャレンジャー事故調査に通じる
お姉ちゃんと仲良し?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようほかの記念日音の日日本オーディオ協会が1994(平成6)年に制定。1877年のこの日、エジソンが自ら発明した蓄音機で音を録音・再生することに成功した。シンフォニー記念日1914(大正3)年のこの日、ベルリンから帰国した山田耕筰が、初の日本人の作曲による交響曲『勝鬨と平和』を発表した。ラジオアイソトープの日ラジオアイソトープの製造にも使われるサイクロトロンを開発した仁科芳雄博士の1890年の誕
12月6日は何の日?『ラジオアイソトープの日』ラジオアイソトープの製造にも使われるサイクロトロンを開発した仁科芳雄博士の1890年の誕生日。ラジオアイソトープとは放射性同位元素のことで、医療・農業・工業等幅広い分野で利用されている。【2019年12月6日(金)みこと立川店営業】●営業時間:17時〜翌5時まで●イベント:九州うまかもんフェア冬和食とスパークリングワイン!2019年1年かけて皆様にオススメしてきた第2弾は山梨スパークリングワインロゼをご用意!お食事を引き立た
皆様おはようございます。今日は12月6日金曜日です。12月6日は音の日です。発明家のエジソンの三大発明である蓄音機です。三大発明といえばその他に発熱電球や映写機がありますね。1877年、明治10年のこの日、エジソンは蓄音機による録音と再生に成功したことから日本オーディオ協会が1994年平成6年に記念日と制定しました。エジソンは自から「メリーさんのひつじ・・・・」と吹き込み再生したそうです。そして今日はシンフォニー記念日です。1914年大正13年12月6日に音楽家の山田耕筰が
○姉の日漫画家で姉妹型研究家の畑田国男さんが1992(平成4)年に提唱しました。「妹の日」の3箇月後であることと、この日が祝日の聖ニコラウスにまつわる三姉妹伝説から決められました。○音の日日本オーディオ協会が1994(平成6)年に制定しました。1877年のこの日、エジソンが自ら発明した蓄音機で音を録音・再生することに成功しました。○シンフォニー記念日1914(大正3)年のこの日、ベルリンから帰国した山田耕筰が、初の日本人の作曲による交響曲『勝鬨と平和』を発表
https://gekiokoobachan.jp/blog-entry-758.htmlこちらは上記のミラーサイトです。GHQが戦後日本人に、いろんなことを隠してきたことは、今ではもう常識になっていますね。私は焚書というのは秦の始皇帝の時代の話で、そんな野蛮なことが20世紀の、しかもれっきとした文明国である日本で行われていたことは、「覚醒」してから知りました。いやあ、日本人、舐められたもんですね。GHQが「焚書」つまり発行禁止にした本は、西尾幹二さんがライフワークとしてその復刻に
職場で開催された、きのこパーティに参加して来ました。主催者は過去に4回、自分で採ったきのこを食べて救急車で運ばれたそうです秩父で見つけたそうです。きのこだけでなく、所内に生育している植物に詳しい人がいて、杏の木の場所を教えてくれました。美味しいきのこも決まったところに生える場所があるらしいのですが、秘密だそうです。きのこづくしのお料理はおいしかったです。仁科誉もきのこによく合いましたハナビラたけと胡瓜、わかめ、プチトマトの酢の物重イオンビームを照射して改良酵母で作っ
本日も症状が再発し、神保町を徘徊する。(^^;明倫館で7冊拾い1200円の出費。ほんとうは、別の古書店で新たな出物がないかの確認だったのだが、そちらの収穫は洋書1冊(500円)のみ。なんか本末転倒な話だが、昭和23年に刊行された、ネオメンデル會編の『ルイセンコ學説』が明倫館の店頭ワゴンにころがっていれば手を伸ばさないわけにはいかない。ルイセンコ学説(1949年)Amazonまた、同店前の路上に置かれた段ボール箱の中身も(私にとっては)大豊作。ジュリアン・ハックス
日本は唯一の被爆国である。さて「原爆は誰が一番最初に作ったのか?」1938年に仁科芳雄が「完成寸前」まで作ったのだ。私は知らなかった。以前ミル・マスカラス(仮面貴族)がインタヴューで「1938年にメキシコではルチャリブレが始まったんだ。その年に日本人科学者が世界で一番始めて原爆を作ったのは知ってるかい?」と武藤敬治さんに語っていた。たしかにマスカラスは本ばかり読んでいてかなりの「インテリ」らしいが、私は正直「?????」であった。でも調べてしまうんだな私
。この工場は数か月稼働しただけで終戦になった[9]。終戦直前、理研希元素工業扶桑第806工場に、いわき市小名浜の日本水素工業株式会社[注8]から触媒用銅ウラン合金板、約10トンが入荷した。酸化ウラン換算で800キログラムを含有すると見込まれていたが、使用されることはなかった[注7]。これはメタノールの合成に用いられていたが、新しい製法に転換したことにより不要になったものである。この合金が戦後どうなったかについては資料が残されていない[9]。終戦直後の1945年10月1日、GHQのマンソン
日本の原子爆弾開発日本の原子爆弾開発(にほんのげんしばくだんかいはつ)では、第二次世界大戦中に日本で行われた原子爆弾の開発計画と、第二次世界大戦後の状況について記述する。第二次世界大戦中の原子爆弾開発編集第二次世界大戦(太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)[注1]と大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である[注2]。ニ号研究編集日本の原子爆弾の研究開発は、1940年4月陸軍