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5月6日が命日・忌日の有名人・著名人850年(嘉祥3年3月21日)41歳崩御(病)仁明天皇陛下第54代天皇嵯峨天皇の第二皇子1840年満48歳没(胆石)フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルさんコロンビア初代大統領1859年89歳没(自然死)アレクサンダー・フォン・フンボルトさん博物学者、探検家1910年満68歳没(心筋梗塞)エドワード7世さんイギリス王1919年62歳没(脳梗塞)ライマン・フランク・ボームさん児童文学・ファンタジー作家『オズの魔
さてさて………………【光孝天皇陵】を出発し、ここに到着するまでもやや迷子になっちゃった近くにお住まいの方に場所を聞いて、ようやく到着ーーーっまずはこの石段を上がります…………おっ見えてきたぞーーーーっ無事に到着したのは………………【文徳天皇田邑陵】京都府京都市右京区太秦三尾町この日は、先ほどの【光孝天皇陵】にて、すでに8つの『天皇陵』に参拝して通算111陵目(124陵分の)となったが、次の目的地が112陵目となる『天皇陵』に到着……………宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「太
仁明天皇は叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位した。当初、淳和天皇の皇子・恒貞親王を皇嗣に立てたが、父嵯峨天皇の崩御まもなく恒貞親王は廃せられ、代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(文徳天皇)が立太子した(承和の変)。これは父の意思が除かれ、自らの意思が反映されたもので、道康親王の伯父・藤原良房の思いでもある。藤原良房はこの頃から次第に権勢を強め、道康親王に娘・明子(アキラケイコ)を入内させ、第55代文徳天皇が即位すると、その年に産れた第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を皇
桜に覚悟を伝えようみなさん、おはようございます3月も残り2日今年度の総仕上げですよく振り返ってじっくり新年度の生き方を考えたいものです桜もそろそろ咲きそうです覚悟を決めて桜に夢を語りましょうアリガトウ「3月30日」の國史です「下関休戦条約締結」明治28年(1895年)日清戦争の勝利となります清側の全権、李鴻章と対する日本側は内閣総理大臣の伊藤博文と外務大臣の陸奥宗光が交渉します陸奥は坂本龍馬の海援隊の出身ですカミソリ大臣と呼ばれる
NHKの影響を受けて歴史に興味を持ち、小野小町👩について調べてみようと思いました。しばらく小野小町について調べてみたところ、生没年未詳などで知りたい情報はほとんど分からなかったです💦和歌の名家として有名なのは言うまでもあまりませんね😃次に持ち合わせた知識を参考に小野吉子(小野小町)について調べてみましたが、そもそも小野小町=小野吉子とされる文献が全く出てこなかったです……。(ここまで全く出てこないとは思ってもなかったー。)しばらく頑張ってみたところ次のことが判明さました。①小野吉子は
藤原仲麻呂の乱で左遷された豊成が右大臣に復帰し、息子継縄(ツグタダ)も急速に昇進した。桓武天皇が即位すると、同じ南家の従兄弟・藤原是公と共に重用され、是公の死去により太政官の筆頭の地位に就いた。継縄の妻が百済系渡来氏族出身(百済王氏)であったため、同じく百済系渡来氏族出身とされる高野新笠を母とする桓武天皇からの信頼が厚かった。百済王(クダラノコニキシ)明信を母とする乙叡(タカトシ)も桓武天皇の身近に仕え、急速に昇進した。第51代平城天皇の即位で中納言に昇進するも、その
橘諸兄(モロエ)は、天然痘の流行によりいっきに太政官の主管に躍り出る。なお、弟佐為(サイ)は天然痘のため死去。諸兄政権では、遣唐使での渡唐経験がある吉備真備、玄昉や藤原氏以外の氏族を抜擢したことで、藤原氏の反感が募る。孝謙天皇(女帝)が即位すると、光明皇后の威光を背景に藤原仲麻呂(武智麻呂次男)が台頭し、子息奈良麻呂の謀反容疑もあって辞職した。奈良麻呂は諸兄の没後間もなく、藤原仲麻呂を滅ぼし天皇廃立を企てたが、密告により露見、未遂に終わった。世に言う、橘奈良麻呂の乱。以後、
好きな団子の種類は?団子といえば、色々好きですが、笹団子でしょう♪やはり笹の香りと苗場での思い出がリンクしてまして大好きですねぇさて・・・十六団子・・・「じゅうろうだんご」または「じゅうろくだんご」と読むそうです農家ではなかったので、お供えする風習はなかったですが春には豊作祈願、秋には神様のお見送りをしていたらしい。詳しくは↓十六団子ってどんな食べ物?十六団子とは、16日にお供えすることからつけられた名前で、和菓子と16の関係は9世紀の仁明天皇の時代から
2024年3月7日間もなく2年になる京都生活(仕事です)。その2年、京都からよく眺めていた【伏見桃山城】こちらから眺めているだけで、実際に行った事はまだないっ…………ってな訳で。この日は【伏見桃山城】を目指してココロはひとり歩く事としたひとり京都勉強会シリーズ、略して『京勉会』はこの2年で回数を重ね、今回が22回目となるしかしもちろんすんなり【伏見桃山城】へ行くわけではないココロが降り立ったのは、京阪電車「藤森駅」まずは、ひとつめの目的地を目指しててくてく歩き始めた……………
ムラサキシキブシソ科ムラサキシキブ属の落葉樹低木とあります。紫式部の墓所京都市北区紫野西御所田町で島津製作所の敷地の東側にありますが、一画に誰でも入れる様になっていて右側が紫式部、左側が小野篁卿のお墓も隣同士であります。紫式部ゆかりの地宇治市・越前市・大津市連携-かいまみる紫式部-|Uji-shiKyoto紫式部ゆかりの地宇治市・越前市・大津市連携-かいまみる紫式部-、京都府宇治市-「いいね!」18件·90人が話題にしています-2024年大河ドラマの主人公
ガチャは数多の種類がありますね。まさかの盆栽です。しかもプラスチック等のイミテーションではなく、種から育てる本格派ですよ。形が定まるまで時間がかかりそうです。
『愛国百人一首』の選定された24首目は尾張浜主です。ここから平安時代(前期)の歌になります。(著者所持の『愛国百人一首』の尾張浜主の絵札)翁とてわびやは居(を)らむ草も木も榮ゆる時に出でて舞ひてむこの歌は、845(承和12)年の仁明天皇時代に詠まれた歌です。歌の意(こころ)歳を取ったからとて、世をのがれて隠居しているつもりなどありません。草も木も燃え盛るめでたい御代に、私も大
世の中は短期間で目まぐるしく変わってゆく。私の親世代は、戦争経験者だ。伯父は兵隊として出征し、外地で亡くなった。彼らの十代は、明治憲法のもとの大日本帝国民であった。それが、いまではSNSや生成AIの時代になっている。戦後78年。時代が大きく変わるときは、時の流れの速さを感じるものだ。◉方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なりはるかいにしえ、平安のころ。新都造営蝦夷征伐政治改革軍事改革土地政策仏教改革781(天応元)年に即位した桓武天皇は、これだけのことを独裁的に推
2019/02/08配信<第54代仁明天皇>深草帝842年承和の変で伴健岑[とものこわみね]橘逸勢[たちばなのはやなり]が失脚
嘉祥寺(かしょうじ)は嘉祥四年(851年)に、文徳天皇が先帝の仁明天皇の菩提を弔うために、陵墓の傍らに清涼殿の建物を移して寺とt。開山は真雅である。元慶二年(878年)には、定額寺となり官寺の扱いを得て、寺域も広大な大寺となったが、平安時代後期には衰微し仁和寺別院となった。そして、室町時代の応仁、文明の大乱により焼亡した。その後、寛文二年(1662年)に、深草十二帝陵の管理をしていた安楽行院を大僧正・空心律師が再興し、同院境内に聖天尊を祀り嘉祥寺も再興されたため、深草聖天と呼ばれている。
橘家(きっけ)神道「橘家神道」は「きっけ神道」とも「たちばな神道」とも言われ、垂加神道が盛んとなった近世中期の初め頃、山崎闇斎と正親町公親、春原信直に神学を学んだ玉木正英(1670~1736年)が、京都・梅宮の祠官橘家に伝来した神道の教えを継承したとするもので、その祖は奈良時代の橘諸兄(たちばなのもろえ)にまでさかのぼるとしている。『神社のいろは要語集宗教編』よりと、ここで「垂加神道って何?」と思われた方は、こちらの過去記事をご覧ください。『垂
平安時代初期に、藤原岳守(ふじわらのおかもり、808年〜851年)という貴族がいました。838年、彼は、従五位下、大宰少弐(大宰府の次官)のときに、唐の商人の貨物から『元白詩集』を見つけ、仁明天皇に献上しました。838年ですから、白居易(772年〜846年)と同時代のことです。元白とは、元稹と白居易のことです。二人は親友でした。元稹は鮮卑拓跋部の出自とされ、詩人、宰相です。白居易も亀茲の出自(つまり胡人)とされ、詩人、宰相(追贈)です。二人は、境遇も似ていたといえます。また、『長慶集』というと
連日、早朝から「蝉(せみ)のなき声」が鳴り止まない今日この頃🌿「蝉」といえば…百人一首10番の作者は「蝉丸(せみまる)」さん…という落語家さんを思わせるちょっと変わったお名前です。「蝉丸」は、歌を詠むときのペンネーム🖋です。実際、どういった人物だろう…と調べてみますと【生没年・人物像、ともに不詳】‼️なのでした💦しかし、古語辞典等の資料によりますと、「盲であり
「百人一首」を1番から順番に100番まで全て読み解けたので全部の歌を読み返してみました…👀藤原定家が何を意図して「この百首」を選んだのか…❓「各天皇の御代に起きた出来事をまとめる」以外にもナニカ、ほかに「伝えたいメッセージ」があるような気がするのです…まだそれが見えてきませんのでもう少し、時間をかけて考察していきたいと思います🍀百首、全て読み返してみて、ワ
本日は全国和菓子協会が定めた「和菓子の日」。和菓子の日|全国和菓子協会全国和菓子協会|和菓子の歴史、季節、種類、由来、食べ方、贈り方などを紹介。全国・東京の会員店へのリンクもご覧頂けます。www.wagashi.or.jpこれは、仁明天皇や後嵯峨天皇の故事に由来する嘉祥の祝いに菓子を戴き、厄や災難を避けたことから和菓子協会が定めた日です。日本の行事を知ると、本当に厄除け関係が多いですが、そうした行事の由来が天皇、皇室からということがほとんどであることもわかってきます。和菓子も
好きな和菓子は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう和菓子の日(嘉祥の日)(6月16日記念日)東京都渋谷区代々木に事務局を置き、和菓子業界の発展・向上を図る全国和菓子協会が1979年(昭和54年)に制定。西暦848年(嘉祥元年)のこの日、仁明天皇が御神託に基づいて、6月16日の16の数にちなんで16個の菓子や餅を神前に供えて、疫病退散と健康招福を祈願したという「嘉祥菓子」の故事に由来する。これが宮中行事として伝えられ、江戸時代には「嘉祥の日」として
第五三代淳和(じゅんな)天皇は平安時代初期の天皇です。生年は延歴五年(786年)。御父は平安京に遷都した桓武天皇、御母は藤原百川の娘、旅子。御名は大伴(おおとも)。即位後、大伴氏は天皇の御名と同性なのは畏れ多いと伴氏へ改姓しています。桓武天皇の第七皇子。第五一代平城(へいぜい)天皇・第五二代嵯峨天皇は異母兄弟。また、嵯峨天皇は同じ年に生まれています。大伴親王(当時)は、父帝の死を機に臣籍降下を願い出ましたが、皇太子(平城天皇)に慰留されました。というのも、皇太子と神野親王(後の嵯峨天
★第五十四代仁明(にんみょう)天皇は、平安時代初期の天皇です。弘仁元年(810年)生。御名は正良(まさら)。御父、嵯峨天皇の第二皇子、御母は壇林皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)。またこの時同時に正子(まさこ)内親王が生まれていますので双子の親王と内親王でした。在位、天長十年(833年)から嘉祥三年(850年)。第五十三代淳和(じゅんな)天皇には多くの皇子がいましたが、皇太子には第五十二代嵯峨天皇である兄の皇子、正良親王を立てました。そして正良親王は、天皇から皇位を譲られて即位すると淳
本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画をやります。今回で第4弾。藤原北家の祖・房前から数えて5代目(玄孫)にあたる良房(よしふさ)を取りあげます。良房は冬嗣の次男として生まれました。長兄は、長良(ながら)。802年生まれなので、良房(804年生まれ)とは2歳差。どちらも、母は藤原美津子(藤原南家・真作の娘)なので、同母兄弟にあたります。前回は脱線してしまいましたが、今回こそ、良房が兄を差し置いて藤原氏本流になっていったのは何故なのか…について、迫って
干ばつによる不作、飢えに追われ目に見えぬ伝染病におびえる人々。病死者・餓死者の遺棄死体が都大路に散乱したという時代。図書館で借りた歴史小説。ヒロインは橘嘉智子(タチバナノカチコ)786年生~850年没檀林皇后私譜杉本苑子著神野王子(のちの嵯峨天皇)に美貌を見初められ橘嘉智子(のちの檀林皇后)は玉の輿で嫁入り815年、皇后となり嵯峨天皇とのあいだに2男5女あり息子の正良親王は、後に仁明天皇となり娘の正子内親王は、淳和天皇(嵯峨天皇の弟)の皇后となり
15君がため春の野に出(いで)て若菜つむわが衣手に雪はふりつつ光孝天皇【出典】『古今和歌集』巻一・春上・21。「仁和の帝、親王におましましける時に、人に若菜たまひける御歌」++【口語訳】(『日本古典文学全集』(小学館)より)++仁和の帝(光孝天皇)が即位なさる前に親王でいらっしゃった時に、ある人に贈られた若菜に添えてお詠みになった歌あなたに差し上げようと思って春の野に出て若菜を摘んでいると、袖には雪が降りかかりますが、それを我慢して摘んだのが
五代目はウチの先祖の吉子さんなんですが、まぁよく分からないというのが、本音です、しかし残されている手掛かりからは、石子さん以上にブイブイいわせていた事が感じられ、逆に資料として残せない様な事を沢山したんだと思います。吉子さんの一番の特徴は私も聞いている霊験譚だと思います、私は「神憑っていた」と聞いていますので、その通り神憑っていたんだろうなと思う訳ですが、じゃあどの様に、とか、誰に対して?などは全く伝承されていないのが実情です。光市の小町伝承でも触れた通り、蛭封じの和歌とか、蛙が嫌いだ
Letemplebouddhiste"Saifuku-ji"àKyoto.----------2022年11月11日撮影。鳥辺野の入口、六道の辻には昔六つの寺院があったと云われておりますが、現在は、この西福寺と六波羅蜜寺、六道珍皇寺の三寺院が残っております。本尊の土仏地蔵尊は空海作と伝わっており、これを52代嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)(檀林皇后(だんりんこうごう))が子の正良親王(まさらしんのう)、後の仁明天皇(にんみょうてんのう)の病気平癒祈願の為度々訪れた