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「人影の石」のゼレンスキー大統領のスピーチ広島2023/05/21「ロシアを最後の侵略者に」ゼレンスキー大統領の来日した演説が注目されました。その中の原爆資料館の展示資料の1つ「人影の石」にスポットが当たり、当ブログもその掲載によりアクセスが増加しました。再び大型カメラで撮影した「人影の石」の写真を掲げます。ゼレンスキー大統領のスピーチ私は、戦争によって(※「人影の石」のように)歴史の石に影を残すのみになってしまったかもしれない国からここに参りました。ですが、
G7サミットが終了し、来日して参加したウクライナのゼレンスキー大統領の演説がありました。前回の国会でのリモート演説でもそうでしたが、同時通訳がわかりにくかったですね。これはつまり、日本にウクライナ語→日本語のプロ通訳がいないということ。ある意味これは、日本がウクライナという国をその程度にしか見ていなかったということ。演説はロシア非難と援助の要請と日本への感謝、だけでなく「この侵略戦争を人類最後のものにするべき」という人類全体を見据えたもので、侵略国ロシアのプーさんとの格の違いを見せたものでした
爆心地から東に260m。紙屋町の電車通りに住友銀行広島支店があった(現三井住友銀行広島支店)。8月6日の朝、開店を待っていたのだろうか、一人の人が銀行入口の石段に腰を下ろしていたという。原爆の熱線で石段は一瞬にして白く変質し、ちょうど人の陰になっていたところだけが黒っぽく残って、後に「人影の石」と呼ばれるようになった。今は切り取って平和記念資料館の中で見ることができる。「人影」を残した人は行方知れずで誰だったのかわからない。1971年になって自分の母ではないかと名乗り出た人がいた。爆
2019-09-28(土)広島といえば、の路面電車に乗って原爆ドーム前へ🕊韓国人原爆犠牲者慰霊碑🇰🇷中央奥に見えるのは被爆した墓石(慈仙寺跡の墓石)。白人の観光客は2、3グループ来ていたけれど日本人は見掛けませんでした…非常に残念。本川小学校平和資料館:学校の正門が閉まり月〜金開館とも書いてあってショックのあまり立ち尽くしてたら、ちょうど通り掛かった女性が開いてますヨと案内してくれました。なんと校長先生とのこと❗️さっさと諦めて帰らなくて良かった(最近土日も開くようになっ
「人影の石」薄れる影薄れさせてはならない記憶伝えていこうあの日のことを1945年8月6日平和記念資料館の「人影の石」74回目の8月6日の平和記念日を前に平和記念公園で撮影してきました。NikonD850AF-SNIKKOR24-70mmf/2.8EEDVR爆心地の東260メートル、旧住友銀行広島支店。1945年8月6日朝、原爆の熱線のため、玄関の石段に座っていた人の影のような跡が残った。石は71年に保存のため切り取られ、原爆資料館に寄
SUJIです。おはようございます。カリフォルニアは朝です。霜が降りてました。びっくり!ちょっとネットサーフをしていたら、BTS問題が起きていてびっくりしました。国連でのスピーチよかったのに。やっぱりぼろが出たのか、、とかいろいろ考えてしまいました。私はもともとアメリカの大学院の卒論で、原爆と枯葉剤とヒトゲノムも問題の関連を扱っていた経緯もあり、原爆については敏感に反応します。20歳のとき、広島で原爆の展示を見てからずっと立ち直れなかったのが、ようやく20年近くたって、ドキュメンタリ
久しぶりの更新でございます。お盆休みを早めに取って、肝心の14日から休日出勤しております。部長は率先して9連休にしてるけど、イイのです。正しい日本の労働者。仕事好きなんですʕ•̀ω•́ʔ✧キリッな〜んて、頑張ってる風をアピールしてみたけど、ホントは娘も夏期講習だし余計な電話もかからないから出社しました。テヘペロ夏休み中は娘の誕生日だったりオープンキャンパス行ったり義姉家族が来たり実家に帰省したりしてました。↑几帳面なので時系列ごと(笑)誕生日の9日、マカロン大好きな娘
所用で市内中心部に出かけたので平和公園に立ち寄りました【8月6日】に来れないことも考慮して慰霊の気持ちを持っての散策です【原爆ドーム】多くの外人さんがいろんな角度から写真を撮っている。小さな子供連れも沢山います。心のどこかにドームの姿が残り、将来の判断材料になればいい「百日紅(さるすべり)」…「元安橋」を渡ります「平和の子の像」…8月6日の式典用にテントが張り始められていた「半旗」(豪雨犠牲者を悼んで…)…「原爆死没者慰霊碑」*:..。o○☆゚・:,。
『きみはヒロシマを見たかー広島原爆資料館ー』には、石段に影を残したのは私の母ではないかと名乗り出た越智幸子さんの話を紹介している。母親のミツノさんがその日の朝早く住友銀行に行き、その後行方不明になった。銀行の前にはミツノさんの持っていた火災保険証書が落ちていたが、それ以上のことはわからない。それでも幸子さんは「人影の石」の人物は自分の母親であると信じているという。いまも時折資料館を訪れては、石段の人影と対面するが、年々影がうすくなっていくのが越智さんにとっては寂しくてたまらない。母親が
広島の原爆がさく裂の瞬間に放出した熱線は次のように説明されている。(原爆の炸裂から)〇・二秒後、火球は直径三一〇メートルに膨張する。最も大きく、明るく見える瞬間である。このときから地上での熱線の影響が出始める。この時間から二秒までの間に熱線の九〇%が放出される。(NHK広島「核・平和」プロジェクト『原爆投下・10秒の衝撃』日本放送出版協会1999)さらに、熱線が地上に影響を与えるのは爆発の0.2秒後から3秒までの間とされ、爆心直下での熱量は120カロリー/㎠と説明されている。カ
爆心地からの距離280mのところに住友銀行広島支店があった(現三井住友銀行広島支店)。原爆の強烈な熱線が入り口の石段や壁の花こう岩を焼いて白変させ、その石段に座っていた人の陰だった部分が黒っぽく残った。「人影の石」と呼ばれている。いち早く市内へ救援に入った陸軍船舶練習部第十教育隊の柴田富雄さんが「人影の石」に気づいたのは8月14日のことだった。やがてある建物(最初芸備と思いこんでいたが後日住友銀行と知った。)の入口附近の壁に、人の影が黒く鮮やかにうつっているのが目についた。何故だ
小学生のときに初めて原爆資料館(平和記念資料館)を訪れました。やけどを負い、無惨な姿で炎と瓦礫の街をさまよう人々を再現した人形、放射線により石段に人の姿が残ったと言われる人影の石など、幼いチャバシーラには恐ろし過ぎました。その晩どうしても眠ることができず、祖母の布団にもぐりこみました。「大丈夫、戦争はもう起こらないよ」そう言われてやっと眠ることができました祖母は広島の人でした(原爆投下当時には広島にはいませんでしたが)。それ以来、長い年月が流れましたが、広島にはお墓参りに行くことはあっ
千葉県市川市フラワー・カルトナージュ教室フルフローラです大阪に帰省中に広島へ足を運びましたずっと長男が見たがっていた原爆ドームと資料館現在は鉄骨で補強してありました平和の鐘です祈りを捧げるべく手を合わせました折り鶴がたくさん芸術的なものもありました昔に比べ戦争について考える機会は減ってきたけど学校や団体の寄贈個人が折り鶴を入れるボックスを見るとなんだかほっとしました記念式展をする広場思ったよりも狭いね~と奥に小さくドームが見えます資料館からみた景色平和記
現職大統領として初めて、オバマ大統領が広島にいらっしゃるということが話題になっています。私は広島県の出身ではありませんが、小学校1年~中学3年までを広島市で過ごしたので広島には沢山の思い出と思い入れがあります。今はどうなのか分かりませんが、自分が広島で学校に通っていた時分は平和教育の時間がかなり多かったように思います。中学校の文化祭では平和記念公園の模型を作って展示したことがありましたし、被爆者の方に直接インタビューして発表したクラスのグループもありま