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蛍の城秋月達郎:著あらすじ時は慶長5年…西暦1600年!家康と三成がどうしても味方にしたい男がいた大津城主・京極高次妹・京極龍子や妻・浅井初の尻の光で出世し“蛍大名”と嘲られていた軍略も軍才も無い弱小の男…しかし彼には戦国一の“人望”があった関ヶ原へと向かう立花宗茂ら西軍4万をわずか3千で迎え撃つ徳川家康に関ヶ原での勝利をもたらした大津籠城戦の激闘を今ここに描く私の感想「塞王の楯」を読んで京極高次と初に興味を持ちまして違う作家さんが描いたものを読んで
天海(201)政宗は「我らは先だって、上杉とは和睦したばかりである。ここで最上に援軍を出すのは信義に反する行為だ。しかしながら、我らは内府様のお味方をすると決めている。ここで援軍を出さねば、これも信義に反するであろう。」というのだ。すると片倉景綱が進み出て、「この際、最上の援軍依頼を黙殺して、上杉と最上が相争い、最上が滅んでから、伊達が上杉を討ち取るのが、最善でしょう。」というのである。そんなことを話し合っているうちに、山形城の義姫から「つべこべ言ってないで、早く来
天海(193)「関ケ原が敗れたとなれば全国に散在する西軍の諸将は必ずや大坂に向ってあつまってくるにちがひないと彼は次の合戦に大きな期待と希望をつないで、大坂にやってきたのである。しかし来てみると、今こそ戦備に汲々としていなければならない筈の大坂城は森閑となりをしずめている。へんだとは思ったが、天満橋に手兵を集結させ、すぐ城内へ使者を立てて、『立花宗茂、大津を引払ひ急ぎ駆け付け申した。-関ケ原にて軍功を樹てる機会を逃したことはまことに遺憾至極であるが、大坂籠城には是非共一
天海(183)高次自身も槍傷を受け、城内にも厭戦気分が漂っていた。それでも高次は徹底抗戦をやめなかったのである。総大将の毛利元康は高野山の高僧・木食応其上人を派遣し、降伏を勧めたが、高次は応じない。しかし、どうしても高次を救いたい立花宗茂が矢文を放った。高次は宗茂の厚情に触れ、ようやく心を開いたのであった。9月14日、高次は北政所の使者・孝蔵主を招き入れ、ついに降伏した。振り返ると、美しかった大津城は見る影もなかった。多くの家臣が死んだのだ。高次は園城寺に入ると剃髪し、
天海(182)「慶長五年九月十二日、是ヨリ先、近江・伊勢ノ西軍、美濃ニ入ルニ依リ、石田三成、東軍ト戦ワントス、長束正家・安国寺恵瓊、従ハズ、三成、諸将ノ反覆測リ難キヲ憂へ、、是日、大坂ニ在る増田長盛ニ軍状ヲ報ジ、叛将ノ質ヲ誅センコトヲ求ム、其使者、東軍ニ捕ヘラル。」(「史料綜覧」)三成は伊勢方面軍が到着したことにより、家康到着前に赤坂の福島・池田軍を攻撃しようとした。ところが、正家、恵瓊の反対により実行できなかったのである。三成はこのころ疑心暗鬼に陥っていたようで、
天海(178)京極高次は永禄6年、小谷城京極丸で生まれた。京極家は宇多源氏の名門であり、足利幕府では侍所の長官である四職家の一つであった。しかし、家臣であった浅井氏の下克上により、この頃は浅井家の居城である小谷城で庇護を受けていたのである。元亀元年(1570年)、高次は人質として信長のもとに差し出され、そのまま家臣として仕えた。本能寺の変が起きると近江にいた高次は、成り行きで光秀に仕え、長浜城を攻撃した。山崎の戦いで光秀が敗れると、秀吉の追捕をうけて、柴田勝家のもと
天海(166)「慶長五年七月十九日、徳川秀忠、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、下野宇都宮ニ陣ス。徳川家康、増田長盛ノ変報ニ接シ、之ヲ先発ノ諸将ニ告ゲシム。是ヨリ先、徳川家康、石田三成挙兵ニ備へ、越前府中ニ帰国セシム。」(「史料綜覧」)伏見城への総攻撃が始まったころ、先発の秀忠は宇都宮に進出し、家康はまだ江戸にいた。そこに続々と大坂異変の報が入ってきたのである。「慶長五年七月廿一日、徳川家康、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、武蔵鳩谷ニ泊ス。徳川家康、武蔵岩槻ニ泊ス、是ヨ
天海(164)「ならば、南へ下り、鈴鹿関を通ってはどうか。ただ伊賀を通るので、些か不安であるが。」と庄兵衛は言う。「うむ、山道が続くが、距離はさほど変わらない。伊賀なら地理に詳しい者もいる。分かった、南に向かおう。」と利景も同意する。利景は商人になりすますと、家康に付けてもらった伊賀者と共に庄兵衛の屋敷を出ようとした。「待たれよ、伝蔵を連れて行くがよい。この者は商いに詳しく、顔も広い。きっと役に立つだろう。」と庄兵衛は案内役として伝蔵を同行させたのである。
天海(163)「慶長五年七月七日、徳川家康、陸奥会津出陣ノ期日ヲ定メ、軍令ヲ下ス。八日、徳川家康、榊原康政ヲ先鋒トシ、陸奥会津ニ出陣セシム。九日、徳川家康、尾張ノ福島正則ノ出陣ヲ褒ス。十四日、毛利輝元ノ摂津木津亭ノ留守益田元祥等、吉川広家ト議シ、徳川家康ニ輝元ノ石田三成等ノ挙兵ニ關輿セザルヲ告ゲントス、明日、輝元、大坂ニ著スルニ依リテ止ム。」(「史料綜覧」)家康は会津征伐を進める一方で、他の武将がなかなか東下してこないことに不審を覚えた。その時、広家か
今回より四日目。岡山県中心部を後にし遂に…海の上を走行中…瀬戸大橋である瀬戸内海の島々。すげぇ海の上は走ってるぜと軽く感動を覚えるwこの辺りに小島が多いのは太古は本州と陸続きだった事の名残らしい。この辺りは工場地帯らしく盛大に白煙上げてましたwさて遂に来ましたぞ…我が人生初・四国上陸距離にして約65km、1時間ほどで着。岡山から香川ってこんなに近かったのか…あれに見えるが現存十二天守のひとつ丸亀城天守。石垣の高さ合計約66m(四層曲輪の合計)日
天海(124)「ところで、私は与右衛門と天海、勘右衛門に近江衆の懐柔を頼みたいのだ。近江は三成の根拠地で地理的にも重要である。ここを三成に抑え込まれると東国との連絡が断たれ、秀忠上洛の妨げにもなる。」と家康は言うのである。近江は秀吉の知行地だったこともあり、蔵入地(23万石)が多かった。大名としては北近江佐和山に石田三成(19万4千石)、南近江大津城に京極高次(6万石)、甲賀郡水口に長束正家(5万石)、坂田郡等に新庄直忠(1万5千石)、朽木谷には朽木元綱(9千石)等がい
滋賀県には何度か訪れている。何度目かはもうわからないけど何度も来るのは好きだからであってそれは10代の頃から。。。何の縁もゆかりも無いけれど思い入れのあるところです。石山寺駅から京阪電鉄に乗り浜大津で下車。大津市は滋賀県の県庁所在地だけど街中はひっそりしていてあまり観光的な場所はない😅足を延ばせば三井寺や近江神宮日吉大社などの名所はあるけど神社仏閣の閉門は早いのでこの時間からはムリ。琵琶湖見たいだけなら浜大津駅の改札出れば見られるし比叡山、比良山にも雪がうっすら
【問題】【日本城郭検定準1級】「蛍大名」といわれた京極高次が城主になっていない城はどれか?【選択肢】小浜城膳所城大津城大溝城【正解】膳所城【解説】京極高次は、秀吉の側室・竜子の兄で、淀君の妹・初の婿であったために出世、陰で「蛍大名」と言われ、大溝、近江八幡、大津、小浜城主となっている。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
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さてさて…今村・塞王の楯を読みました。昨年、図書館で予約したら50人待ちとかで、やっと回ってきました。う~む、傑作でした。直木賞候補と書かれてますが、一昨年の直木賞受賞してます。。時は…戦国時代、、石垣作りの職人集団・穴太衆と鉄砲作りの職人集団・国友衆の宿命の戦い。両者とも近江ですね。話の主舞台は関ヶ原直前の大津城攻防戦です。これまた琵琶湖の畔、近江です。この大津城の戦いは、司馬遼太郎の関ヶ原とかで知ってた、、大津城落城が関ヶ原決戦前日で大津城攻城の西軍が関ヶ原に間
大津城:滋賀県大津市1586年(天正14年)、豊臣秀吉の命により浅野長政が築城しました。二の丸・三の丸は内陸側に、本丸は当時の琵琶湖岸に面して作られた水城です。交通の要となる大津に船が少なかったことから、浅野長政が船持ち達を集めさせて「大津百艘船」という組織を作っています。大津百艘船は課役の免除や、荷物と旅人を独占できるという特権を与えられ、大津の浦が物資の集散地となる基盤作りに役立ちました。その後、城主は「増田長盛」「新庄直頼」「京極高次」へと変遷し、16
第166回直木賞受賞作『塞王の楯』を読み終えました。全ての登場人物が生き生きとしていて、もしかして今村翔吾さんはその時生きてそばにいらっしゃったのではないかと思うくらいです。PickItem塞王の楯[今村翔吾]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}塞王の楯【電子書籍】[今村翔吾]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}石垣造りのプロ集団穴太衆(あのうしゅう)の跡取り飛田匡介は、幼い頃落城を経験した
藤堂高虎、京極高知陣跡案内板関ヶ原古戦場に行きました!パート9️⃣関ヶ原古戦場サイクリング⑨藤堂高虎、京極高知陣地跡続きです藤堂和泉守高虎陣地跡藤堂高虎は、築城の名人として有名ですね。高虎が築いた城は、高石垣上に多聞櫓を巡らして、防御力を高めています。のちに江戸城、駿府城、名古屋城、大阪城などの徳川幕府の天下普請にも関わっています。関ヶ原では伊予宇和島8万石の大名として、2,500人を率いて大谷隊と戦っています。高虎は、元
先日、今村翔吾さんの著書「塞王の楯」を読了しました。拙いですが、個人的・読書レビューを。この作品は「第166回・直木賞」受賞作。「どんな攻めをも跳ね返す石垣」・「どんな守りをも打ち破る鉄砲」。「最強の楯」と「至高の矛」の対決を描く、究極の戦国小説です。越前・一乗谷城は織田信長の手により落城。幼き匡介(きょうすけ)は、その際に父母と妹を喪い、逃げる途中に、石垣職人の源斎(げんさい)に助けられます。匡介は、源斎を頭目とする、穴太衆(あのうしゅう)(=石垣作りの職人集団)の飛田屋で育て
4/3(月)に、5回目の「青春18切符」を使って、福井県の「小浜」まで「お城巡り」に出かけました。「後瀬山城」の居館跡を見学した後、「小浜城」(福井県小浜市)へ向かって歩きました。途中「重要伝統的建造物群保存地区」や「丹後街道」沿いの昔ながらの町並みを見ながら進みました。「丹後街道」沿いの町並み「丹後街道」沿いの町並みまた、嘗ては若狭湾で取れた「鯖」を、「京都」まで運ぶ街道の「鯖街道の起点」があった場所も通過しました。「鯖街道の起点」「鯖街道MUSEUM」約2
【内容紹介】第166回直木賞受賞作どんな攻めをも、はね返す石垣。どんな守りをも、打ち破る鉄砲。「最強の楯」と「至高の矛」の対決を描く、究極の戦国小説!---------------------------------------武将ではなく石垣職人が主人公の作品。この設定でかなりユニークで以前から読みたいと思っていた作品です若干ネタバレになるかもしれませんが京極高次のキャラ設定が面白いゆるキャラであるのですが、コレこそが宰相としてのあるべき姿ではと思わなくもない。愛
今日は、比較的暖かく過ごし易かったですね!直木賞を受賞された今村翔吾さんの『塞王の楯』読みました。図書館へ予約したのが、ちょうど1年前!返却期間が2週間なので、25人待ちでした・・・・。忘れた頃に、メールで案内が。550ページもある歴史大作!期間中に読めるか、ちょっと心配・・。(2週間で3冊借ります)その心配は、全く要りませんでした!時代も、1番好きな群雄割拠・・・。『塞王』とは・・・・・?『楯』とは・・・・?非常に興味深く、面白く3日で読み
今村翔吾さんの「塞王の楯」を読みました直木賞受賞作品主人公は、近江の国の飛田屋の匡介石垣作りの職人集団穴太衆(あのうしゅう)飛田屋の塞王と言われる頭目飛田屋源斎の後継者ときは、織田信長が浅井朝倉と戦う頃から関ヶ原の戦いの前の戦国時代石の声が聞こえる天才匡介が塞王として成長する姿を描いた長編小説飛田屋が作った石垣を持つ大津城、伏見城と様々な城での戦いを経て守りの楯の頂点の新塞王飛田匡介(きょうすけ)と攻めの矛の頂点の新砲仙国友彦九郎(げんくろう)の最終対決が関ケ原の合戦
お薦めされて、図書館で予約して読みました。『塞王の盾(さいおうのたて)』今村翔吾『塞王の楯』-集英社決して破られない石垣を作ろうとする石工の匡介。しかし、そこに立ちふさがるのは、どんな守りも打ち破るという砲--「最強の楯」と「至高の矛」の対決を描く、圧倒的戦国小説!lp.shueisha.co.jp第166回直木賞受賞作発行日:2021.10作者:今村翔吾出版社:集英社ページ数:552p価格:2000円【あらすじ】幼い頃、落城によって家族を
訪問日:2022/8/7【場所】滋賀県大津市【築城年】1586年【築城者・改修者】浅野長政【城郭様式】平城(水城)【主な城主】浅野長政、増田長盛、京極高次、戸田一西【見所】①石碑②縄張り図【廃城年】1601年【御城印の有無・販売場所】びわ湖大津プリンスホテル、大津市膳所市民センター、加藤酒店【アクセス】JR琵琶湖線大津駅下車徒歩15分、京阪電鉄浜大津駅下車すぐ【駐車場情報】【周辺観光施設】膳所城、宇佐山城京阪電鉄浜大津駅一帯にあった水城です。京阪電鉄浜大津駅出てすぐ琵琶湖
『塞王の楯』今村翔吾集英社2022年第7刷物語の発端は1573年8月の刀祢坂の戦いです。この戦で織田軍に攻め込まれた浅倉氏の城下町の領民は領主の館のある一乗谷の奥へと向かいますが、すでに領主は逃れた後で織田軍の一方的な勝利に終わります。この時の戦乱で家族とはぐれた匡介を引き取ったのが穴太衆の頭のひとり飛田源斎で、彼は塞王と呼ばれる突出した石垣積の技術を持っています。匡介は後に次代の塞王へと成長して行きます。一方鉄砲鍛冶の国友衆にも頭抜けた頭、砲仙こと国友三落がおり、やはり養子の
戦国時代の石垣をつくった穴太衆(あのうしゅう)のことを取材して書かれた小説である。ガイドとして、各地のお城を訪れることは多いが、石垣を積んだ穴太衆に興味があり、読んでみた。第166回直木賞を受けている。結果、穴太衆のみならず、鉄砲鍛冶の国友衆、甲賀衆の活躍を知ることができて面白かった。立花宗茂、京極高次ら、戦国武将たちのことも生き生きと描かれている。終わり方など、民放の二時間ドラマのようにも思われた。序:越前、一乗谷に織田軍が攻め寄せてきた時(1573年8月17〜18日)の描写。
城を観る[YouTube]今回は...(撮影2022/05/20)【城を観る+】《小浜城(若狭国)》2022〜京極高次が築城!小浜城跡を観る〜【城を観る+】《小浜城(若狭国)》2022〜京極高次が築城!小浜城跡を観る〜《小浜城(若狭国)》[読み方]おばまじょう(わかさのくに)[撮影地]福井県[撮影日]2022/05/20[撮影者]バイソン[BGM]Dreamland(writtenbyshimtone)[YouTube]城を観るhttps://www.youtube.com/c
多摩センターのイオンシネマさんへ『シン・ウルトラマン』を観に行ってきました~。感想は、ほかでもさんざん言われていると思うけど、「思ったよりもウルトラマン」というのが正直。・・・いや、ワタシゃ別にウルトラマン世代ではないのですが。再々再放送くらいは観たことある記憶がうっすらあるし、ゲームとか空想非科学大全なんかのネタになっているのを読んでへーって思ったこともあります。内容までは知らないけどゴモラが大阪城破壊するシーンもインパクト強く持っていますし、落書きが怪獣になる話は(たぶんTVの再