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海外からの旅行客が戻ってきた、というニュースを見ながらふと、「もう一度中国に行けるかなぁ。」とまゆが言った。「行こうか。」「今日くらいの風でも痛いし・・・」自分で言い出しておきながら、行けない要素を自分から持ち出す。すっかり弱気だ。あまり歩けなくても、美味しいもの食べて、土産物買って・・・・その程度の旅行でいい。中国や台湾なら、飛行機に乗っている時間も少ないし、費用もそれほど高くないし。行けるときに行っておこうかな。写真は1998年、トルファン近郊の交河故城です。
Don’tknowifwealreadysaidit,butUrumqiisn’tmuchforsights.So,tomakesurethatwedidn’tfeelguiltyforsimplylyingaroundthehostelinUrumqienjoyingtheWi-FiandfreeDVDs(theyhavealltheDieHards),wedecidedtotakeadayto
「奈良の世界遺産」で一番好きなのはどこ?3つの世界遺産を紹介!-Yahoo!ニュースYahoo!ニュース-Yahoo!JAPAN法隆寺は、推古天皇と聖徳太子によって607年に建てられた「世界最古の木造建築」と言われている寺院です。各お堂に安置されている仏像は、多くが国宝となってい...江別市旧町村農場の牛舎の屋根雪により陥没した状況[近代化産業遺産]【えべナビ!】江別・野幌情報ナビこの建物は近代化産業遺産群という江別市の歴史を伝える重要な歴史的建造物ですので、今
こんにちは。昨日に続き、交河古城の写真を。この地域、ウイグル族やカザフ族が多く、片言の日本語を使って土産物を売る少年は、グレーがかった瞳をしていました。ウイグル族とカザフ族、日本人の私から見ると区別がつかないのですが、言語・文化が違うようです。土産物にナイフを買おうとしていたときも、売り手のおじさん、持ち手のところを指さしながら、「これがウイグルだ、こっちの模様がカザフだ。」と教えてくれ、ウイグルのナイフを勧めてきました。おじさん、ウイグル族なのね・・・湿度が低いため
春節のウルムチ、トルファン、クチャ、カシュガルに6泊7日で行きました。所謂シルクロードです。旅行会社でオリジナルツアーを組んでもらいました。この選択は正解だったと思います。ウルムチは漢族がもう7割くらい居住しているので、地元の人も訛りはあっても割と流暢な中国語を話す人が多い印象でした。でもトルファンやクチャ、カシュガルと内陸に入っていくとどんどん中国語が通じなくなり、中国語を耳にもしなくなります。漢族の比率も下がり、カシュガルに至っては民族間の不和もあるので、中国語
水は人間にとって生命線です。これは井戸ではありません。カレーズで引いてきた水をくみ上げた穴です。カレーズはかなり手のかかる施設なので、常に補修が必要です。しかも、井戸と違って湧いていないので、カレーズが落とされると城はあっさり干上がってしまうので、この地域には篭城戦の記録がありません。日本からきた友達に、アクエリアスの粉末を持ってきてもらい規定の半量で溶かした水をがぶ飲みして過ごしたのですが交河故城のこの日は友達は脱水症状がでました。一人4リッター
長い長い遊歩道を歩いて行くとはっきりと掘り抜かれた事がわかるエリアがあります。壁に横線が入ったように溝ができているのは、風化です。ここは砂漠化したエリアに遺跡があるのですが、砂漠と言っても、砂礫に近いので、風で飛ばされた砂礫が風化を進行させます。息もつけないほどの熱風が吹きます。しかも、砂礫があたってかなり痛いです。
一般の建物が掘り抜いて作られたものに対して佛教施設は建設されたものです。イスラムが入ったところなので、徹底的に顔が破壊されています。佛教の佛像にしろ、キリスト教の聖人にしろ在地の貴族つまり寄進者の顔立ちが使われます。だからイスラムは嫌うのかな?
交河故城はかなり早くに放棄されたのですが保存状態はかなり良い方だと思います。これは、この地域の気象状況にあまり変化がなかったからとそれとこの故城が掘り抜いて作られているからに起因します。やはり、人の手でできあがったものよりも、そこにあったもので出来上がっている方が強度が強いようです。車師國も佛教を信奉していたので、仏跡があちこちにあります。が、側までは行けず、遊歩道が整備されています。遊歩道の側にはこ
市内からバスで行ける距離にあるのが交河故城昔の「車師國」の故城遺棄されたのはわりと早くて、14世紀版築という工法がある事は以前の記事でもたびたび書いていますがここの特徴は、なんと掘り出してある事です。そうです。都市1個分くりぬいて作られたのです。発展しなかった都市なのか?欧州の地方都市とかにいくとわかるのは、都市は人口が増えて行くものだから、欧州だと教会を中心にして発展し、100年毎に城壁を拡張して作って行
神の国・淡路島は「鉄の国」だった-「邪馬台国畿内説」の“弱み”はね飛ばす鉄器工房跡発掘産経ニュース邪馬台国は畿内か九州か-。古代史永遠の謎に迫る発掘調査が今年1月、兵庫県淡路市の舟木遺跡で行われた。邪馬台国の時代にも重なる弥生時代後期(2...ラクチ遺跡Goo辞書ラクチいせき【ラクチ遺跡】とは。意味や解説、類語。《Raqchi》ペルー南部にあるインカ帝国時代の遺跡。クスコの南東約100キロメートルの町、サンペドロの近郊...エルブルホ遺跡Goo辞書エルブルホいせき【エ
火焔山ベゼクリク千仏洞ウイグル族のおじいさん。見えにくいけど奥には冠雪の天山山脈高昌故城。1,000年もの間、都として支えた城址遺跡。ウイグル族の街。ウイグル族の民家にて。ポロ。シシカバブ。ラグメン。イスラム圏なので、豚は食べない。羊さんに感謝。全く読めない文字。これが領収書ウイグル族のご夫婦と吐峡溝に住む人々の家。中国イスラム教徒のメッカ。火焔山の麓にある。交河故城世界遺産。自然の砦。夜は吐魯蕃(トルファン)の街の屋台で、シシカバブ地元、ウイグル族や
トルファンを走っていて気になった赤い山。850mの赤い岩山は火焔山。7世紀、玄奘三蔵はこの炎熱の地を通りインドへ向かい。16世紀の明の時代、それを元に書かれた伝奇小説、西遊記の中で火焔山は、辺り一面火がぼうぼうで、たとえ鉄の体を持っていてもドロドロに溶けてしまいますじゃ、と書かれている。そう思って正午に車を降りると、何となく炎熱に煽られているかのように思えてきた。いや、実際に暑い。海抜800mの高原を思わせるウルムチから下ること900m?、トルファンは世界
まちづくり事業籠田総門復元など19計画家康生誕の地、全国に発信へ/愛知毎日新聞岡崎市は今年度から10年間の計画で、徳川家康生誕の地を全国に発信するためのまちづくり事業を国の支援を受けて進める。同市が歴史まちづくり法に基づき...歴史・うんちく攻城団マンガでわかる上田城(第一次上田合戦).桝田道也先生によるマンガ「攻城団でも波瀾万城(第一次上田合戦編)」です。歴史・うんちく...中国が仕掛けるオンナの「歴史戦」に断固対抗せよPHPオンライン衆知|PHP研究所
シルクロードトルファンの観光で一番の見どころ!!交河故城トルファン近郊の観光ポイントで一番見どころとされる交河故城は、連れて行ってもらうまで知らなかったよ。行って驚きの規模だった。完璧ではないものの保存状態の良いエリアもあってここが故城だったんだ~って想像力豊かではない私でもけっこう見てて面白かった。トルファンからやはり16Km離れたところにあるのでやはり車チャーターかツアー参加だろうね。旅友がクチャからトルファン間の電車内で喧嘩してたフランス人添乗員のグループもきてた。会い
写真を整理していて、ネタとしてのつながりは無いケド、特徴があるので、個人的に『ボツにするには、惜しい感じ』の写真を集めてみました次、いつ行けるか分からんし、或いは、今回で最後になるカモしらへんし。題して、『交河故城つれづれ散歩』在りし日に思いをはせて、お楽しみ頂ければ幸いです。仏教寺院・大佛寺につながる道、両側に廃墟が連なっています。きっと、昔はメインストリートして賑わったのでしょう。縁日の日には
熱砂の荒城!~交河故城~交河故城の東門30mの崖の上に造られた城門だったようです。交河故城は、コンナ感じの天然の台地の上に築かれた、要害!マサに、難攻不落、鉄壁の要塞都市!最後の戦いは、半年に及ぶ篭城戦だったとか。最後には王家(女王サマ)の脱出をキッカケに、一気に戦線が崩壊し、歴史の中に埋もれてしまいました。精神的な支柱をなくすと、意外ともろく崩れてしまうというコトでしょうか。
熱砂の荒城!~トルファン・交河故城~その3シルクロードの要衝、交河故城、居住区には、民家がいくつも残っています。さっそく、お宅訪問!!この民家は、交河故城で特徴的な構造だそうです。部屋数は、8仏間と、古い井戸があります。おぉ、けっこう、広いではないか!カナリいい生活、してたのカモ?Σ(=°ω°=;ノ
熱砂の荒城~トルファンの交河故城~その2交河故城で最大の仏教寺院・大佛寺・・・、・・・、ネーミング、そのマンマやんけ。(@ ̄Д ̄@;)正面の門は、こちら門をくぐると、正面に塔が見えてきます。かつては、左右にも塔が在ったそうですが、今は基盤のみ。この様式は、日本の寺院建築とも関係があるンだとか。この寺院では、左右対称が基本のようで
熱砂の荒城!~トルファン・交河故城~唐時代、西域経営の中心地であった安静都護府。それがおかれた場所が、トルファンの交河故城です。入り口は、こんな感じ。全体模型が、こちら↓河が刻んだ、300m×1500mの天然の台地。その威容は、まさに陸の上の軍艦!天然の要害の上に築かれた、要塞都市。約7000人が、ここで暮らしていたそうです。寺院郡、官庁郡、居住地が計画的に配置さ