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本日は、以前参禅していたご老師の称名忌(十三回忌)法要があったので、参列してきた。上野の東博に寄ったりしたものの、時間よりかなり前に大宮駅に着いたので、お寺に行く途中の水判土でバスを下車して、水波田観音慈眼寺を参拝した。仁王門&鐘楼仁王門仁王像風神雷神鐘楼手水舎観音堂山門本堂中門?寺務所鐘楼堂八百姫宮閻魔堂総門慈眼寺は、第三代天台座主慈覚大師円仁が天長3年(826)に
十年以上前の長谷寺(埼玉県富士見市)の日曜日の坐禅会(茶話会)での会話。(ご老師)「どんなことがどのようにどうおありになっても、寸分も隔たると言いますかね、兎の毛の先程も(真相から)隔たるという生活ができないんですよ、本当に。」(私)「それは素晴らしいことです。どうしたらそうなるのでしょうか?」(ご老師)「あなた、何処に目を付けておられるんですか。どうしたらって、すでにそうなっているでしょうに。」世の中は虚偽虚妄のオンパレード。全く不確実で一切当てにならない。それで、絶対確
色々な人がいる。スポーツが得意だが数学は全く不得意な人、数学が得意であるがスポーツは全く不得意な人、他に何もできないが、絵を描くのが抜群に得意な人、あるいは、上智下愚、利人鈍者、老若男女、貴賎貧富、等々。誰が一番良い、優れている、目指すべき、こうあるべき、ああなるべき、というものはない。どんな人にも、それぞれに適した役割、やるべきこと、つまり、天命がある。それに専心すればよい。本来そうであるのに、今の社会では、金儲けが得意な人、金儲けをするために役に立つ人、ただそれだけが重用され、どん
井上義寛老師ご提唱「坐禅用心記」(3−1)の続き。自分の勉強のための音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式な個人的なものということで、何卒ご容赦願いたい。-------------------------------------そういうことがこうはっきりされると面白いところですよね。何にも必要としないんですね。この音声一つにしてもね、何にも、皆さんにとって必要も不必要もないんですけれども、そういう働きをちゃんとなさって、何にも、何て言うんで
私が参禅した井上義寛老師のご提唱を、自分の勉強のために文字起こししてみる。今回は、「坐禅用心記」(2:未公開)の続き。音声録音からの文章化で、聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的なものということで、何卒ご容赦願いたい。-----------------------------------------真ん中のとこら辺で終わっていると思います。「色空」というところがあると思います。そこから始めますので、今日のところをまず読んでみます。「色空未
井上義寛老師ご提唱「坐禅用心記」(1−2)の続き。------------------------------ですから、そういうような事柄がね、ありとあらゆるその様な事柄がね、「これ、何ですか」って。全ての、こういうことがどうあるか、わかりますかって。(触れている)全ての事柄は、これは誰のことなんですか、こうやって言われている。「這箇は是、阿誰ぞ」って。そこに目が届かない限りは、いつも追うていくことばかりです。追うものがなくなりさえすれば、その時節というのは、そのもの自体になっている
井上義寛老師ご提唱「坐禅用心記」(1−1)の続き。自分の勉強のための音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式な個人的なものということで、何卒ご容赦願いたい。-------------------------------------ですから、そういう様な事柄でも、本当にみんなこう、人の見解と言われるものを持っていて、あるような気がするけれども、ころっと外れるようにできているんですよ。握っておれないんです。「迷った、迷った」といっても、「おい」っ
久しぶりに、私が参禅した井上義寛老師のご提唱を、自分の勉強のために文字起こししてみる。今回は、「坐禅用心記」(於川越市長福寺)。音声録音からの文章化で、聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的なものということで、何卒ご容赦願いたい。---------------------------------------------今日から『坐禅用心記』とありますように、話をさせていただきます。この『坐禅用心記』をお書きになられたのは、横浜の総持寺の開山であ
井上義寛老師ご提唱「弁道話」(3)の続き。自分の勉強のための音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、何卒ご容赦願いたい。---------------------------------------だから、そういう求めておられる人にどのように、今度は自ら説教をする、示すには、どうしたらいいかということが、後はある。ですから、何も知らない人でも人を説教できる。こっちの方の問題だから。向こうの問題にしていると、あの人はわかっているとかわかっていないだと
井上義寛老師ご提唱「弁道話」(2)の続き。自分の勉強のための音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、何卒ご容赦願いたい。---------------------------------------(「しかあれども、如来の正法、もとより不思議の大功徳力をそなへて、ときいたればその刹土にひろまる。人まさに正信修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり。わが朝は仁智のくににあらず、人に知解おろかなりとして、仏法を会すべからずとおもふことなかれ。いはむ
井上義寛老師ご提唱「弁道話」(1)の続き。自分の勉強のための音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、何卒ご容赦願いたい。---------------------------------------それに対して、この道元禅師ご自身がお答えになっているところですね。「わがくにの人、いまだ仁智あまねからず」ということがあるんですよ。「いふがごとし」ってということは、未だに本当にまだそういう、何て言いますか、ものを知る、理知を持って何とかということを、こ
久しぶりに、私が参禅した井上義寛老師のご提唱を、自分の勉強のために文字起こししてみる。今回は、「弁道話」(於川越市長福寺)。音声録音からの文章化で、聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的なものということで、何卒ご容赦願いたい。------------------------------------------このところ(提唱している)「弁道話」の最後ですけれども、先に通してちょっと読んでみますので、設問の十八になります。「とうていはく、西天お
現在参禅しているご老師が指導する浜松の接心に参加したついでに、付近に鎮座する遠江国式内社の曽許乃御立神社を参拝した。以下、その時の様子。一の鳥居&社号標二の鳥居御手洗池三の鳥居神木拝殿本殿接心会場のお寺から見た庄内湖(浜名湖)独参では、私が座るやいなや、「まだ、悟るとか、気づくとか、やっているのか」と老師に言われた。返す言葉が出ない。「向かわんと擬すれば即ち乖く」。これもご老師によく示される句である。そして、「まだ今以外に何かあると思
私も参禅した井上義寛老師(埼玉県長谷寺前住職、井上義衍老師御子息、井上貫道老師ご兄弟)の貴重な動画。井上義寛老師1997年5月28日「般若心経」提唱www.youtube.com井上義寛老師1998年4月17日www.youtube.com井上義寛老師年末年始攝心での提唱2012年1月2日の提唱www.youtube.com「愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。」(ダンマパダ)如来は
この世には、人は恥をかきに生まれてきたようなものである。恥をかけばかくほど、人は成長する。絶対に恥をかきたくないと思う人は、誤って人として生を受けた人である。そして、恥をかきたくないからと言って、自分の過ちを隠蔽するのは、良くない。自分の馬鹿さ加減を敢えて隠すことなく、却って茶化すことができるようになれば、人が成長したと言える。人の一生は、ほんの一瞬である。これは、単なる文学的表現、比喩ではない。文字通り、「一瞬」なのである。この世に生を受け、幼児が子供に、子供が青年に、青年が中年に、
井上義寛老師ご提唱「知足」(1)の続き。---------------------------------------ですから、そういうところが、本当にこう、述べられているというのは、釈尊や何かでも、本当にただね、ご自身のこの真相さえわかれば、それでいいんですよって言ってるだけですよ。他のこと、だって、色々勉強しなくたって、ご自身の出来栄えがどうかということだけわかれば、どこに行ったって用が足りている様子です。それがわからんから、一生懸命苦労して、色々背負い込むと言うか、仕入れよ
井上義寛老師ご提唱「知足」。音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的な勉強のためのものということで、何卒ご容赦願いたい。------------------------------------------「諸仏は是れ大人なり、大人の覚知する所なれば、所以に八大人覚と称す。此の法を覚知するを、涅槃の因と為す。我が本師釈迦牟尼仏、入涅槃したまひし夜の最後の所説なり。一つには少欲。彼の未得の五欲の法の中に於て、広く追求せざるを
井上義寛老師ご提唱「大道体寛」(1)の続き。----------------------------------------------知らずというくらい、そのままさっと、生活それ自体で、してるとかしてないんじゃなくて、そうしかないんです。で、そういうものと、必ず一如になるなんて言うんですけども、一如になるということはおかしいんです。それは、違うから、一如っていうことが出てくるわけです。そのもの自体で一如ということは絶対にあり得ないです。本当に、ものと一つになるなんて言うんだって
井上義寛老師ご提唱「大道体寛」。音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、あるいは聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的な勉強のためのものということで、何卒ご容赦願いたい。--------------------------------------「大道は体寛にして、難無く易無し。小見は狐疑す、転た急なれば転た遅し。之を執すれば度を失して、必ず邪路に入る。之を放てば自然なり、体に去住無し。性に任ずれば道に合う、逍遙として惱を絶す。」(「信心銘」)というような、こんなこ
井上義寛老師ご提唱「自己中心」(1)の続き。--------------------------------------その証明をするのはどうしたらいいかといったら、取り扱いを一切止めてごらんなさいということです、人間的な扱いを止めてごらんなさいという。だから、こういう、一々のものにおきましてもね(コツコツと扇子で書見台を叩かれる)、表現が本当はできないですね、こうだけで、言葉では。こうですって言うんだけど、「こうです」ということは、後のことですからね。もうそうしかないんですよ。こう
井上義寛老師ご提唱「自己中心」。音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的な勉強のためのものということで、何卒ご容赦願いたい。------------------------------------…思い込んだ時があるんですよ。それから、色々な事柄がどうしても出てくるんですよ。自己中心になるっていいますかね、そこから問題がこう、みんな起きてくるっていうか。ですから、さっきの話じゃないけれども、地獄とか極楽だとか、まあ言葉いっぱ
井上義寛老師ご提唱「生命」(1)の続き。---------------------------------------------皆さんの、今日までの様子を振り返ってみたって、そうです。何にも残っちゃいないです。あるような気がしてるだけです。そういう、何も、こう、そういう留めているものがないからこそね、ひょっと従前の様子なんかでも、今の上にひょっと生ずる。何にもないからですよ。そういう持ち物があって、その上には映るものじゃないですよ。そういう風に、こう、本当に始めからもう、脱体現成と
井上義寛老師ご提唱「生命」。音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、個人的な勉強のためのものであるため、何卒ご容赦願いたい。-------------------------------------------生命と言われるようなことがあると思うんですけれども、得るものは本来一つもこう、ない。得るものがないということは、失うものも一つもない。それがいわゆる、生命と言われる様子です。みんな、生命とかね、命なんて言いますとね、必ず、この道具(身体)をこ
井上義寛老師ご提唱「無始無終」(1)の続き。------------------------------------------ですから、よく言われるけれど、作り手も作られ手もないんですよ。作り手があるから作られるものと作るものというようなものが出てくると、それが邪魔になる。ですから、そういうことじゃなくて、本当に、この持ち前の、この道具で駄目だったことがあるのか。足らなかったってことがあるのかということです。それは何か、必ず運んでくるんですよ。足りているということを中心にして、
井上義寛老師ご提唱「無始無終」。音声録音からの文字起こし。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的な勉強のためのものということで、何卒ご容赦願いたい。-------------------------------------------どこからこう始まって、どこで終わるのかというようなことが、こうあるんですね。こう、始まりがあるような気がするんですけど、それはやっぱり、こう、認めたところからですよね。認識の上で認めたところから始まったことが言える
井上義寛老師ご提唱「開経偈」(1)の続き。自分の勉強のための音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、何卒ご容赦願いたい。----------------------------------------------ですから、生死の問題なんかも出てきたりするけれども、「生まれた、死んだ」って、みんな問題にするけれども、問題にしたらね、この命が保てるのか、問題にしなかったらダメになっちゃうのかというんです。この道具立てというものは、ただ縁のままに動けて、
井上義寛老師ご提唱「開経偈」。自分の勉強のための音声録音からの文章化。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的な勉強のためのものということで、何卒ご容赦願いたい。----------------------------------------------「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し。我れ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来真実の義を解せん。」(「開経偈」)今唱えた(お経は)「開経偈」というんですけれども、「無上甚深
井上義寛老師ご提唱「無条件正法也」(1)の続き。----------------------------------------ですから、そういうところに、本当にこう、お気づきになりさえすれば、どこで、どういう風なことが、どのようにどうおありになっても大安心ですよ、うん。だって、他のことを求めないからですよ。そのこと自体だけですから。転べば転んだようにって言いますか、走れば走ったように、本当にこう、行じられていることです。行ずることじゃなくて、行じられているんです、先に。そのもの
井上義寛老師ご提唱「無条件正法也」。音声録音からの文字起こし。聞き取れない部分もあり、聞き間違いもあると思うが、非公式の、あくまで個人的な勉強のためのものということで、何卒ご容赦願いたい。---------------------------------------「無条件は正法なり」という、こういう様子があるんですけどね。無条件という、そういう条件も何にもなしに、正法と言われる様子や何かでも、全く手のつけようがない、ありのままの様子を正法と、こう言うておりますけれども。本当にこ
井上義寛老師ご提唱「応物現形」(1)の続き。---------------------------------------------正しいって、本当に、手立てが一つもない。「正しいってどういうことですか」って言われたら、そのまんま、触れられている、そのこと以外ないんです。正しいという、他に、何かあるような気がするんですよね。どうしても人を尋ねる。それだから、そういうところに、どうしてもこう、なんて言いますか、人我の見というかな、それが残っている。私と言われるものが残ってるから、