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飛鳥寺の西側には鎌倉時代に建てられたと言われる五輪塔あります中大兄皇子に討ち取られた蘇我入鹿の首がここまで飛んで来たんだって❗️飛鳥寺は蘇我馬子が596年推古天皇の時代に建立した日本初の寺院でした釈迦如来像は日本最古の仏像です酒船石を見てから右側にある道を歩いて行くと飛鳥寺が左手に現れます
朝から良い天気の松山地方、今年度最初のクラブグランドゴルフ練習日でした。中休み時には先日の松山春まつり大名行列お姫様(岡田結実さん)の話で盛り上がりました。私は覚えていなかったのですが、横にいたカメラマンが「おとうさん大きなカメラじゃねぇ」と言ったとか!。(追記しました。)さて、きょうは東温市表川の桜と下林の花桃です。ではでは!130日、川内町から県道伊予川内線を走っていて表川橋に差し掛かると山手側の土手沿いに真っ白い綺麗な桜が見えたので立ち寄りました。オオシマザクラだと思います。
石川政康は三河石川氏の祖となる武将で、松平氏に仕えて本願寺派の本證寺を保護した。墓は菩提寺だった蓮泉寺(安城市小川町志茂)の北西にある五輪塔だが、かつては寺の境内だったのだろう。家康に仕えた数正は三河石川氏になる。
日吉大社(6)の続きです。私のフィルターを通して見えた事を書いています。最後に東本宮本殿で手を合わせると縦に五つの玉が並んであり、その一つ一つの玉の間に小さな玉が大きな五つの玉をつなげています。仏教の五輪塔を意味しているのかしら。五輪塔とは「地」「水」「火」「風」「空」の五大です。本来は五大それぞれ意味ごとの形が違いますが私がここで見えたのは全部丸い玉でした。完結、完全であり無であるのか、と、思いました。私は学ぶ事、知りたい事が沢山あって神様とのこの様な表現に触れる
宝篋山へ。常願寺コースをたどる。畔にはタンポポツクシ森の中では、沢のせせらぎの音。尖淺間、急登できつかった。登山道には、クサイチゴスミレキブシ山頂のコブシこの山の名前の由来の宝篋塔29番道標近くのコブシの木々極楽寺跡近くにニリンソウが群生アオキの花カンヒザクラかしら?五輪塔、何度か通っているのに、いつもここまで来なかった。鎌倉時代後期のもの。立派ジロボウエンゴサクモクレンが満開
クラパのけーこです結構本降りの雨の中、足の小指を骨折して靴が履けずゆっくりしか歩けない妹と四天王寺さんへお彼岸のお参りに行ってきました※画像お借りしました父も行く予定だったけど体調が優れず雨で足元も悪いので自宅待機してもらいました私も過去に足のお姉さん指を骨折した経験があるけど妹は家のリビングで犬と遊んでいて小指を家具にぶつけて骨折したらしい四天王寺さんは雨にも関わらずお彼岸なので人は多かったです六時堂で経木にご先祖様の戒名を書いていただきそして供養していただきました🙏その後は納骨
みぞれ混じりの雨が降る曇天の朝。彼岸の小鳥殺しと言われるこの時期特有の冬戻り現象で、足元には薄っすらと白いものが。ノロノロと起き出し、身支度を整えて妻と2人墓参りへ行く。雨降りなので線香も何も持たず、手を合わせてはい、終了。その後、うちの地所にある五輪塔のお参りにも行った。約200基ある五輪塔は、この山の至る所に崩れて転がっていたものを曽祖父が供養のためにと、一箇所に集めて積み直したとのこと。上から下まで一体何百往復したのだろうか。想像を絶する。だがそんな話を聞けば子孫としては無碍
高野山の続きです宿坊恵光院をチェックアウトしたあとは、奥之院に向かいます奥之院入口の一の橋までは、恵光院から歩いてすぐです一の橋の先は2キロに渡って石碑、墓碑、墓石が続きますその数、すごいですよなんと!20万!!😲平坦で歩きやすい石畳を歩きます広大な墓地…なんですが、普通の墓地ではありません一の橋を越えてすぐの所に見つけました!司馬遼󠄁太郎文学碑(お墓は京都にあります)司馬作品はずいぶん読みましたここにある墓石は、五輪塔という、こんな形の石が多いです下から地水
神戸の歴史では外せない源平合戦「一ノ谷の戦い」。源平合戦(治承・寿永の乱)は、平安時代末期に起こった国内の大規模な内乱です。敦盛塚神戸市須磨区一ノ谷町5丁目4隣に駐車場がありますが有料須磨浦公園の西の端、国道2号に面したところにあります。目の前はひろ~い海!!須磨海岸があります。この塚の横には「そば処敦盛そば」があり、敦盛そばを食べることができます。平敦盛の供養のため建てられたという大きな五輪塔。北条貞時が平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれてい
気づけば東大寺の修二会も終わり春のお彼岸今年度もあと2週間また別れと出会いの時がやってきます。この数日暖かいを通りすぎて暑いそして大量の花粉にやられてます体が着いていきません土曜日は1日仕事でした。今日日曜日はお香関係の用事で都内へ。家でゆっくりしたかったけど出かけてしまえば色々勉強になり良かったです。さて13日水曜日の谷中散策続き。どこをどのように歩いたかわかりませんが霊園内を歩いていたらお寺の屋根が見えてこちらにたどり着きました。了俒
今日も、良い天気なので、散歩がてら、また、大崎へ。以前、八浜合戦の舞台だった「柳畑古戦場」を見に行きましたが、その近くには「大塚家五輪塔」と呼ばれるものがあります。このような、道しるべがあります。この道しるべに沿って、北に向かうと、墓地があります。その墓地の一角に、「大塚家五輪塔」は、あります。こちらが「大塚家五輪塔」です。右手に、説明板が、倒れていますね。この説明板によると、この「大塚家」は、元々、常山城の総門二の丸の侍大将だった国富一学という人物が、常山城落城の時に
萬福寺の境内で一服しています。ぼーっと景色を眺めていたら、右手にある宝篋印塔に目が留まりました。説明書きを読んでみると、なんとこれって直入院で見た五智如来と同じなんですね。「一切如来の全身体をその中に蔵する宝塔」と書かれています。さらに、真上から見るとセンターと四方に梵字が刻まれていて、北が不空成就如来、東が阿閦(あしゅく)如来、南が宝生如来、西が阿弥陀如来を表しているとのことです。日本の宝篋印塔は供養塔の意味合いが強いものですが、中国では現世利益を追求する為に造られている
今川義忠は駿河今川氏の第6代当主で、応仁の乱に際して東軍に属し、西軍に与した斯波氏の治める遠江に侵攻したが、この地で戦死してしまった。墓は菊川市高橋の正林寺にある五輪塔だが、一石から削り出した小さなものだった。
引馬城主、飯尾豊前守墓所3月となり、浜松まつりの準備が、各町で本格的に始まっています。浜松まつりのルーツ・・以前、引馬城主、飯尾豊前守の墓所は下池川町の天林寺だと聞いていましたが、何と成子町:東漸寺の境内にありました。成子町:東漸寺によりますと、引馬城主であった飯尾豊前守乗連が、湖西市鷲津の本興寺から日禮上人を開山として、室町時代後期の天文十二年(1543)に開創されています。『東海道を歩く』(浜松市市民部文化財課2014年)によると、元は浜松城内にあり、堀尾吉晴在城時代
土田城跡に登ります。土田城の築城など生駒三代については、昨日詳しく書きました。「土田城」は、標高172mの土田山に築かれていました。周囲絶壁で堅固な山城だったことがうかがえます。五輪塔が並んでいます。土田城ゆかりの人物のものでしょうかね?強固な岩盤に覆われた山です。しばらく歩くと本丸への登城口(大手登城口)がありましたが、かなり荒れているようで、登城禁止となっています。どんどん奥に進んでいきます。
勝間田氏は現在の牧之原市周辺を領した中世の国人領主で、勝間田城に拠って今川氏に敵対したが敗れて滅亡した。墓は牧之原市道場の清浄寺にあり、五輪塔と宝篋印塔を合体したような墓石が並んでいる。
井伊直勝は井伊直政の長男で彦根藩2代藩主となったが、病弱や家臣団の離反を理由に安中藩3万石へ移された。井伊直好は直勝の嫡男で、西尾藩から掛川藩へ移され、隠居していた直勝も同行し、掛川で亡くなった。墓は袋井市久能の可睡斎にある立派な五輪塔になる。
源朝長は平安時代末期の武将で、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の次男(頼朝の兄)になる。朝長も父と共に京から落ち延びたが、弓矢傷がもとで自害してしまう。墓は袋井市友永の積雲院にあり、3基の五輪塔が並んでいて、残りの2基は父義朝と長男義平の供養塔になる。
京都であるものの限りなく奈良に近いこの地域は、古来より南都(奈良)僧侶が修行にうちこみました。やがて僧侶のすごした庵が寺院へと姿を変え、塔頭が多く建ち並ぶ尾根に由来し、「塔尾」→「当尾」になったといわれています。そんな当尾ブラのラストを、石仏磨崖仏散策で閉めたいと思います。先ずは■たかの坊地蔵ひと際大きなこちらの地蔵さんがそうなんですかね。宝篋印塔…すかね?■西小墓地石仏群埋没や盗難などを防ぐ為、かつて周辺
前回の浄瑠璃寺に続き、岩船寺へ到着です。浄瑠璃寺もそうですが、変に観光地化されていないので参拝者もまばら。先日石仏散策に訪れた時も、道路の落ち葉を掃除する業者の方々や、ジョギングされている数名と、数組の参拝者としかすれ違いませんでした。猫ちゃんともすれ違いませんでしたしね〜今回は、前回みたいな小ボケもなく、写真多めで淡々と進めます。小ボケは本来要らない先ずは、何故そこに感有りの石風呂なになに〜看板によると、鎌倉時代に寺
今川氏は吉良氏等と共に足利氏の一門で、三河の今川荘を本貫地とした氏族だった。第6代義忠の急逝による家督争いを、伊勢新九郎の働きで勝利したのが氏親で、今川家第7代当主として駿河守護職に就任に、遠江や三河に侵出して遠江の守護職も兼務した。墓は静岡市葵区慈悲尾の増善寺にあり、覆い堂の中に3基の五輪塔が安置されていた。
阿野全成は源義朝の七男で、頼朝の弟、義経の兄になる。平治の乱で父の義朝が敗死したことで出家し全成と称した。頼朝が挙兵するとその元に馳せ参じ、北条政子の妹と結婚して駿河阿野庄を与えられたが、頼朝が死去すると嫡男の頼家と対立して謀殺された。阿野時元は全成の嫡男で、3代将軍実朝が殺害されると深山城で挙兵したが、北条氏により滅ぼされた。全成と時元の墓は、阿野氏の館跡に建つ大泉寺にあるが、墓石は五輪塔と宝篋印塔が混在していて、他の墓
宝積寺(ほうしゃくじ)呉市川尻町に建つ承平七年(937)創建と伝わる古刹本尊の霊験を知った平清盛は、宝積寺に参籠し、三日三晩に渡って平家一門の繁栄を祈願したと伝えられています。平清盛自筆と伝わる額も現存。高い場所に鎮座手前の小島は柏島奥は上蒲刈島下蒲刈島寶積寺山門本尊・十一面観世音菩薩は最澄が弘仁年(814年)川尻の東福寺を訪れた際に安置されましたが、後に大地震で寺が倒壊し、宝積寺に移されたと伝えられるもの(『宝積寺略縁起』に記載)。本尊の十一面観世音菩薩は行基
レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」405巴と山吹の五輪塔・日米神社を参拝した後見逃してしまった巴と山吹の五輪塔です。・見逃した訳です。なんと道脇に有る共同墓地の中だったんですね。・(上田市富士山(ふじやま)という地名)・左塔は、完品ですが右塔は、空風輪が後補だそうです。・一番下の方形(立方体)、その上の円形(球体)、更にその上の三角形(四角
鹿児島本線木葉駅←田原坂駅→植木駅2023年12月23日(土)に訪問した、鹿児島本線田原坂駅の画像をUPします。相対式ホーム2面2線の地上駅で、無人駅です。自動券売機は設置していません。かつては、一部の普通列車が通過していました。西安寺五輪塔群と、西南の役古戦場と、田原坂の最寄り駅です。改札口です。反対側の出入口です。田原坂の説明板です。北側の出入口です。田原坂駅の駅名標です。以上です。鹿児島本線木葉駅←田原坂駅→植木駅
鹿児島本線肥後伊倉駅←木葉駅→田原坂駅2023年12月23日(土)に訪問した、鹿児島本線木葉駅の画像をUPします。単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の、合計2面3線の地上駅です。玉東町役場と、西安寺五輪塔群と、西南の役古戦場と、プラットぎょくとうの最寄り駅です。北口です。「交流サロンこのは」が入っている合築駅舎です。南口です。改札口です。木葉駅の駅名標です。以上です。鹿児島本線肥後伊倉駅←木葉駅→田原坂駅
夫のお友達、宮本治さんの彫刻展を三重画廊さんへ観に行った。透明感のある美しい仏様、丸みのある形が優しい五輪塔。作家さんも、奥様も気さくな方で、楽しくお話。夫の大学時代の先輩にも偶然お会いした。卒業以来だから何十年ぶりだろう、と話しているのを聞いた。最終日の午後だったのでご案内できないのが残念。次の機会には早めに行ってご案内したいなあ。※リンクを貼る場合は、ご相談ください。
このところお伝えしている工事の続きです。東九条町にある来迎寺さんの境内墓地にて、大きな墓所のリフォーム工事・新規建墓工事を行なっています。かなり広い区画に、元からあった古い墓石および五輪塔を解体撤去し、新しく墓石・五輪塔・霊標・お地蔵様等を建立させていただくという仕事でして、ありがたいことです。前回までの記事で、既存石塔を撤去し、新規建立のための納骨室を作った、というところまでご紹介しておりました。本日はその続きで、石塔建立の本体作業がメインとなります。まずは納骨室の上に、新規石塔
このところ夏場が暑過ぎるせいでしょうか、今年はいわゆるお盆や秋のお彼岸の時期でもお墓を建てる方が比較的少なく、逆に例年ですと仕事の少なめな冬場が忙しくなっているように感じます。もちろん、時期を問わず仕事を頂けるのは、大変嬉しいことであります。というわけで今回もまた、大きめの工事についてご報告してまいりたいと思います。表題にありますように、新しい墓石と五輪塔を建てさせていただくのがメインの工事です。新規建墓ですね、ありがたいことです。しかしそれだけではなく、墓所のリフォーム工事を伴う
不動院(安芸安国寺)広島市唯一の国宝金堂楼門(国重要文化財)文禄三年(1594)頃の建立上層の尾椎に「朝鮮木文禄三」(1594)等の刻銘があり、文禄の役に従軍した恵瓊が当時の朝鮮から良材を持ち帰って建立したものと伝えられています金網で上手く写りません。仁王像永仁二年(1294)頃の製作戦国時代の大永年間(1521~27