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今日庵茶道稽古場案内からの方はこちらをクリックして下さい。https://ameblo.jp/sofo-myousyukuann-ameba/entry-12462819506.html7月13日~16日こちらはお盆です。床軸五諧高島進仏画ではありませんが精神修養を感じます。五という数字と仏教は結びつきがあるそうです。五蘊(ごうん)「色」「受」「想」「行」「識」(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)色(しき)(=肉体)受(じゅ)(=感覚)想(そう)(=想像
義理の母のソフトウエアの開発が仕事だということを言った時に中々理解してもらえなかった経験がある。鉄を作っているとか、車を作っているとかとは違って、ソフトを作っているというのは、その仕組みが分からなければ中々理解し難いものである。しかしながら、ソフトを作っていることがバーチャルなら、たとえば教師のように、なにかを教えていることも情報を伝達しているだけだとするとバーチャルだし、もちろん銀行業や保険業もバーチャルだし、結局職人や農業従事者でない限り、ほとんどの人間の営みはバーチャルである。目に映
故知般若波羅蜜多それゆえ、完全なる無分別の智慧は、是大神呪是大明呪大いなる真言であり、大いなる悟りであり、是無上呪是無等等呪最高の他に比べるもののない真言であり、能除一切苦真実不虚故全ての苦しみを鎮めるものであり、偽りがなく、真実であります。それゆえ
無苦集滅道一切皆空であるから苦もなく、その原因となる業や識から老死にいたる十二因縁もなく、それを滅することももなく、滅する道を修ずることもできない。即ち全ての法は空相(諸法空相)であれば、四諦も確かなものもない。無智亦無得以無所得故新たに確かなものを観察することもなく、新しい知見を得ることもない。それゆえ、得ることがないから、菩提薩埵依般若波羅蜜多故菩薩様は、完成された無分別な智慧(般若波羅蜜多)に帰依するが故、心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃心
是故空中無色無受想行識これゆえ、空の中には、確かな、色(物質)もなく、感受もなく、認識もなく、意向もなく、意識ない無眼耳鼻舌身意、感受する上の感覚器官である、目、耳、鼻、舌、身体も、心も確かなものはない無色声香味触法感覚器官が得る対象になる、色や声や香りや味、触感、その他の心の作用も確かなものはない無眼界乃至無意識界目に広がる物理的領域から、心的な領域に至るまで、全て、確かなものは何もないのである。
是諸法空相(前節で述べたように)五蘊は皆空だから、その関係性である法(縁起)は全て有るとも無いとも言えない、無自性(空)といえる。不生不滅元々「無い」わけでないから、なにも生まれない。元々「有る」わけでないから、なにも滅しない。「無い」とか「有る」とか分別をすることができないのである。不垢不浄元々100%「汚い」わけでないから、「垢」と言えない。もともと100%「綺麗」なわけでないから、「浄」とは言えない。「垢」とか「浄」とか分別することができないのである。不増不減上
7/5/2022更新色不異空空不異色色(物質)は有るようで、いつかはなくなってしまうとすれば、ないという要素があるではないか?無い(空)と違わないといえるのでじゃないか?無いと思っているものは、実は物質など有ると思っているものと同じではないか?あると思ったものも、実は無い要素があるではないか?そう思えば、ないと思ったものも、有るとたいして変わらないのではないか?モノが「有る」とは、「有る」と「無い」の分別のない世界から、二元論的に「有る」と「無い」を分けて初めて生まれたもので
中論を終えて、改めて般若心経を解釈したくなったので、やってみることとする。Wikipediaのリンクを残してみる。観自在菩薩他人を自由自在に観じ、救い、慈悲を与えることができる仏教の伝道師が行深般若波羅蜜多時深淵な無分別の智慧(般若波羅蜜)を実践した時に、照見五蘊皆空我が認識する五つの物質的および精神的な構成要素(五蘊)すなわち、色、受、想、行、識は全て空である、あるともないとも言えない(無自性)ものであると見極めた。色とは、物質のことである。受は、物質や他人からの感受作
【觀邪見品第二十七】「誤った見解の考察」と名付けられる第27章27-27受亦復如是云何一分破一分而不破是事亦不然ある部分では、五蘊から得られる世界(受)が滅していて、ある部分では滅していないということは、無意味である。27-28若亦有無邊是二得成者非有非無邊是則亦應成無限でありまたは有限であるという二つを得ることができるなら、無限でなくかつ有限でないというその否定も得ることができるであろうここでは有限と無限の両立や、有限でないことと無限でないことの両立はできな
【觀邪見品第二十七】「誤った見解の考察」と名付けられる第27章27-23若先五陰壞不因是五陰更生後五陰世間則有邊もし先に、五蘊(個体の構成要素)が破壊し、それに因った五蘊があり、破壊が原因で新しく作られないのであれば、すなわちこの世は有限であるということになるであろう27-24若先陰不壞亦不因是陰而生後五陰世間則無邊もし五蘊(個体の構成要素)が破壊されずに残り、それに因った五蘊があるが、既にあることで新しく作られないのであれば、すなわちこの世は無限(永遠)があるとい
【觀邪見品第二十七】「誤った見解の考察」と名付けられる第27章27-21若世間有邊云何有後世若世間無邊云何有後世もし現世に終わりがあるのであれば、どうして来世が存在するのか?もし現世に終わりがないとしても、どうして来世が存在するか?27-22五陰常相續猶如燈火炎以是故世間不應邊無邊五蘊の常に連続して続く相続は、灯りの炎の連続のごとく現れる。それゆえこの現世は終わりがあるのでもなく終わりがないものでもない。今日の内容は全くの同意である。現世が終わりがあるわけで
【觀邪見品第二十七】「誤った見解の考察」と名付けられる第27章27-5離有無身我是事為已成若謂身即我若都無有我身体に対する執着を離れて、自我が存在することはないという前提に立つと、身体への執着はすなわち自我であるということになり、身体への執着は無自性で一過性のもので有るとすれば、自我は存在しないことになる。27-6但身不為我身相生滅故云何當以受而作於受者身体への執着が自我であるということはない。なぜなら、身体は生じたり滅したりするために、執着は無自性であり、その
本日のお写経は、書き込み式ボールペン「般若心経」練習帖の15日目。無無明亦無無明尽(むむみょうやくむむみょうじん)なんだか、色々般若心経の意味を理解しようと、しているのだけれど、どうも、お釈迦さんは学者、科学者であるっぽいぞ。般若心経に書かれている中身を見ると、非常に科学的に人間や世界を分析して、そん仕組みをちゃんと、書き記している。認知科学や心理学も2500年前に、ある程度、お釈迦さんは理解しているような
観自在菩薩自在にものごとを観る菩薩様…最後の一人が救われるまで寄り添ってくれる慈悲深い菩薩様。般若心経は「観自在菩薩が深い行(瞑想)に入っていた時のこと………すべて皆空なりと、観自在菩薩は悟ったんだよ。舎利子くん。と、お釈迦様が言った。だから、増えることも減ることもなく明るいも明るくないもない。ない、ない、ない、ない……私たちが信じているものは全部、空。還ろう、還ろう、向こう岸の大きなお母さんのもとへ………」というもの。かなり簡略ですが………(笑)五蘊と
名色とは精神と肉体、すなわち主観と客観といって良い。それが生まれる前に何があるかというと、主客未分の意識、自分がいるというのが仏教の考えである。唯識ともいうが、つまり主観がベースにある。我見と身見が生まれる前に、「我」が生まれる。感覚器官からの刺激は、生理学的に見れば、「我」ができる前にあるといえばその通りである。赤子は「我」を持たなくても、感覚器官からの情報を頼りに、泣いたり、笑ったり行動を起こしているではないか?そういう意味では、「我」の前に、肉体がある、感覚器官があるという考えも正
天魔外道皆仏性(てんまげどうかいぶっしょう)四魔三障成道来(しまさんしょうじょうどうらい)魔界仏界同如理(まかいぶっかいどうにょり)一相平等無差別(いっそうびょうどうむしゃべつ)天界の魔物も仏の教えを信じない者も皆仏性を有している。四魔(五蘊魔、煩悩魔、死魔、天魔)三障(報障、業障、煩悩障)も成道より来る。魔物の世界も仏の世界もその理は同じであり、全ては平等で差別はない。人生の中で、許せないと思う人と出会ったことはありますか。人生の中で、大変な苦難に遭ったことはありますか。時
仏教における明王の一尊であり八大明王の一。本地は地蔵菩薩。サンスクリット名を「アパラージタ(Aparājita)」といい、「打ち勝つことができない」、「征服すべからざる」といった意味を持つので、これを意味訳して「無能勝明王」、「無能勝金剛(むのうしょうこんごう)」、「無能勝金剛明王(むのうしょうこんごうみょうおう)」と称する。また「阿波羅質多(あはらしった)」、「阿鉢唎市多(あはりした)」、「阿跋唎爾多(あばりじた)」などと音写する。釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたとき付き従った釈迦の
📩◾️『ブッダが考えたこと-----仏教のはじまりを読む』(宮元啓一/角川ソフィア文庫)▪️五蘊とはゴータマ・ブッダは、初転法輪において、五比丘を相手に、まず苦楽中道を、そして四聖諦を説いた。さらに、無常観を補完するものとして五蘊非我の教えを説いた。これによって五比丘はすべてを知り、最終的な平安(涅槃、寂静)に至った。*⬇️五蘊というのは、われわれがふだん「自己」だとみなしがちなみずからの人格的個体を、五つの集まりに分析していったものである。------〜------〜---
図書館に行って健康系をたくさん借りてきました。「水をかじる」という本には神話説明や五蘊についてなど書かれていて、ちょうどお経の用紙に五蘊の解説がされてたので勉強になる。水はかなり強化してて今日はくしゃみしてたけど水飲んでたら止まりました。健康は水から。またアイテム増やすかもぉ。
お釈迦様の四苦八苦です。前回まで生老病死怨憎会苦求不得苦愛別離苦まで七つの苦しみについてご紹介させて頂きました。そして最後、五蘊盛苦です。五蘊=色受想行識からなる心身は思い通りにならない。ここまで来て、改めて思うのは生にしても老にしてもお釈迦様が教えられるように人間生きるのに自由にならないのに何とかしようすることが苦しみに繋がるようようですね。仏教の第一条思い通りにならないことを思い通りにしようとするな!一日一日を色付けせずに淡々と生きることが幸せなのかも知れませんね
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存在欲(生きていきたい)という気持ちが誰にでもあるのは、私達生き物には自我があるからなんですね。死にたく無いから、自分を守るために相手を攻撃したり憎んだりするのです。反抗できない人は自分の意見を無理矢理消去したり、自分を攻撃したりもするのです。全部「自我」があるからだと推測出来ますね。初期仏教では、私と言うものは無く、錯覚であると教えます。在るのは五蘊(ごうん)しかない。色・受・想・行・識の五つ、この身体と、言うことを聞かないわがままな心(感情)だけなのですと。難しいことは置いておいて、自
【觀如來品第二十三】「顛倒の考察」と名付けられる第23章23-5如身見五種求之不可得煩惱於垢心五求亦不得身見(自分の体が自分の一部であり、自性するという見方)持っているような、五種の感覚器官で認識されるものに煩悩を求める者にとって、実際その煩悩は幻であり、得ることはできない。五種の感覚器官から認識される煩悩は、求める者の認識であると関連付ようとしても、その煩悩を求める者が無自性なので、その煩悩は自性しない。23-6淨不淨顛倒是則無自性云何因此二而生諸煩惱浄と
能『羽衣』の演じられた能舞台には既に人影一つ無く、在るは魂に染み付いた能楽“羽衣”の影のみ…。霊人達は沈黙を守り続けている。思い巡らす過去世の“業(ごう)”を、今は霊界から遠い彼方の幻の所生に向けて深い想いに振り向けて皆反省している。見られる世界は観る者の眼(まなこ)の深さに因って広がる。演能の極限に於いて表現された“さび”の世界の“空(くう)”は宇宙の姿、自然の法則を正しく捉えて語り伝えている…と語られた地獄の学校で教鞭を執る青年が、やおら言葉を継がれた。「諸法は因縁の化生(けしょう)
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【觀如來品第二十二】「如来の考察」と名付けられる第22章22-9又所受五陰不從自性有若無自性者云何有他性五蘊に依存しているということもまた、自性しているわけではない。もし自性しているものでなければ、どうして他性していると言えようか22-10以如是義故受空受者空云何當以空而說空如來このように(五蘊に)依存するという働きも依存する者も全く空(自性も他性もしない)である。空であるものによって、空である如来がどのように説明できるであろうか?なにかに無自性なもの
【觀如來品第二十二】「如来の考察」と名付けられる第22章22-5若不因五陰先有如來者以今受陰故則說為如來もし五蘊に依存しないで先に如来(ブッダ)が存在したとして、その如来が、今に五蘊に依存して出現することがあると説く考えがあるであろう。22-6今實不受陰更無如來法若以不受無今當云何受しかしながら(22-5の考えは)今実に、如来が五蘊に依存するなしに先に存在するならば、如来は実世界には存在しないと言える。もし依存することがなくては存在しないものが、どの様に実世界に現れ
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