ブログ記事78件
「蓮の動画、結構動画回数多くなってるね。」「なんかすごい反響多くてね。」蓮がイメチェンした動画は渋谷でイメチェンさせる人・ユウヤさんのyoutubeのチャンネルでも。上位の再生回数を誇り、傑作動画の一つとして数えられるようになったのだ。「ここにきてQ会での蓮さんの人気がすごいみたいで、同じQ会の講師である碧さんと人気二分してるようです。」誠は智久に適宜さまざまな情報をほぼ勝手に入れてくるのだ。実は蓮と碧は大手進学塾が運営する主にハイレベルな中高生の集まりである「Q会
天海(103)【朝鮮撤兵】『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』には、しばしば「年寄5人衆」という言葉が出てくる。普通に読めば、年寄なので「五大老」のことを言っているのだと思いがちだが、実は「五奉行」のことである。だから、蔵入地の計算書を家康、利家に提出しろと言っているのだ。五奉行の横領を防ぐためであろう。つまり「年寄=大老」ではない。だから三成ら五奉行は自分達の方が格上だと主張したようである。「三成を中心とする五奉行たちは、家康らいわゆる五大老のことを奉行
天海(67)では、五大老と呼ばれた6人を紹介しよう。まずは、徳川家康である。所領は武蔵・伊豆・相模・下総・上総・上野・下野など256万石であり、居城は江戸城である。天文11年(1542年)生まれの53歳であった。次は前田利家である。所領は加賀・越中など83万石であり、居城は金沢城である。天文7年(1538年)生まれで57歳であった。毛利輝元の所領は、安芸・周防・出雲・石見・備後・隠岐など120万石であり、居城は広島城である。天文22年(1553年)生まれの42歳
慶長3年(1598年)8月。問題山積の中、秀吉が世を去りました。秀吉というカリスマを失い、餓狼の中に置き去りにされた赤ん坊のような状況に陥った豊臣政権。狼が舌なめずりをしている中で、三成はどうすべきでしょうか。もしアナタが三成であれば、どのような選択が最善であったでしょう?秀吉とて、死後のことを考えていなかったわけではありません。彼は遺言を残していました。後事を託されたのは、著名な五大老と五奉行です。【五大老】・徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景
11月とは思えない暖かいお天気が続きましたが、いよいよ秋から冬に向かって行きそうですね。もう忘年会にクリスマスに年賀状の時期になりましたが、年の瀬に向かう大事な時期、気象変動で体調を崩すことのないように十分に気をつけたいものです前にブログでも書きましたが、今年はめずらしく大河ドラマ「どうする家康」をみています。なかなか視聴率は上がらないみたいですが、個人的にはストーリー面でも演出面でもとってもいい大河になっていると思いますし、いよいよ戦乱の世が終わって江戸時代の幕開けへとつながる、みどころ
どうする家康今回は第39・40・41回をダイジェストで。徳川家康は、京の屋敷で隠居している酒井忠次を訪ねた。酒井忠次は十八番エビ掬いを披露。エビ掬い、エビ掬い〜忠次は殿から陣触れだと鎧を纏う。登与は忠次の胴丸を力強く叩いた。*忠次の死期が近いことを登与は知っていたのかなぁ徳川家康を幼少期から支えた徳川四天王の一人が、この世を去った。農民から武士に、天下人となった豊臣秀吉が逝去。*次の天下人になるのは誰だ豊臣政権の五奉行豊臣秀吉の遺言により政権の実務を担う。石田三成・近江
慶長3年(1598)8月18日秀吉は伏見城にて病死します。秀吉は生前徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家らいわゆる「五大老」に「秀頼の事、頼み申し候」と後継者・豊臣秀頼(5歳)の行く末を衷心より依頼していました秀吉の死後、その盟友・前田利家も死ぬと、五奉行の石田三成は秀吉子飼いの家臣・加藤清正らに命を狙われた。作家の濱田浩一郎さんは「このとき三成は家康の屋敷に逃げ込んだとも言われてきたが、実際には伏見城内の自邸にこもった。家康も家臣から『これは
関ヶ原古戦場開戦地石碑…開戦地近くに宇喜多秀家陣跡があります関ヶ原古戦場に行きました!パート3️⃣関ヶ原古戦場サイクリング③宇喜多秀家陣地跡続きです宇喜多中納言秀家陣跡宇喜多秀家の陣地跡は、現在神社の境内になっています。宇喜多秀家は、備前岡山57万石の大大名で、豊臣五大老のひとりです。関ヶ原では、17,000人の部隊を率い、西軍最大の主力として、主に福島正則隊と激しく戦いまし
歴史家・作家加来耕三さんの「歴史の英雄に学ぶ成功と失敗の本質」(大原観音寺・石田三成水汲みの井戸)「三成のような家臣が欲しい」(家康)豊臣政権下の、石田三成の手腕を一番評価したのは、意外にも敵の徳川家康でした。「三成のような家臣が欲しい」とまで言っています。そもそも五大老・五奉行の中で、実は三成と家康は一番仲が良かったのです。秀吉が亡くなったら次を狙ってくるのは家康だ、と誰もが思い、家康は政権内で嫌われていました。三成もその性格が嫌われており、
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜秀吉さん亡き後…合議制…うまくいくの?ってことで第40話の感想ぉ〜!秀吉が亡くなり、五大老五奉行による合議制が始まりました。実際、動く五奉行と力のある大名の五大老の政だね五奉行の代表と言ってもいい石田三成は朝鮮半島から引き上げてきた武将を迎えましたが…ここで大きなミス、戦ってきた加藤清正や福島正則ら武将の気持ちがわからず、逆に逆撫でする結果に…どうも三成は秀吉が持っていた『人たらし』のカケラも持っていないですね。一方、大阪城には秀
天下人秀吉が何もかもを放り出すように亡くなった後の国内での政争と天下人への道を歩む家康の姿を描いた大河ドラマ『どうする家康』の第40回「天下人家康」(10月22日放映)ウサギが転じてタヌキとなる家康、天下取りを目指して修羅となる。(NHK大河ドラマ『どうする家康』の第40回タイトル画面(C)NHK)今回のこのオープニングにある通り、ウサギの家康が老獪な”狸親父”のタヌキに転じます。(NHK大河ドラマ『どうする家康』ウサギの家康がタヌキになる!?(C)NHK)(NHK大河ドラマ
秀吉が亡くなった直後の豊臣政権は五大老と五奉行の合議制で政治を進めます。五大老登場シーンはいかにも大物登場って感じでかっこよかった。戦国武将ファンとしてはたまらないですね。今回は石田三成がどんどん味方を失っていくのがリアルに描かれていておもしろかったです。秀吉に対してはあんなに空気が読める光成君なのに、加藤清正たちの思いは全然くみ取れません。ボロボロの朝鮮帰りの武将たちに「ご苦労でござった、敗戦の責はとらぬ」たぶん自分だったらそう言って欲しいから言
遠山利景⑰「朝鮮征伐記」『天正二十年壬辰二月、加藤主計頭、小西摂津守、その外諸大将、壱岐より對馬へ渡り、順風を待ちて既に日和善ければ、一日の中に朝鮮の港に着く。朝鮮国予てより思い設けし事なれば、釜山浦のおもて数十里番船を出し、渡海の勢いを遮り止めんとす。秀吉公より、七人目付を添え遣わさる。』天正19年(1591年)8月、秀吉は「唐入り」を決断した。宇喜多秀家は賛成したが、他の武将は秀吉の怒りを恐れ渋々同意した。もっとも家康は関東に戻っていて不在であったとい
関ヶ原駅の北西にある南天満山に、関ヶ原の戦いで西軍に参加した宇喜多秀家の陣跡があります。宇喜多秀家安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。豊臣政権下の五大老の一人。元亀3年(1572年)備前國岡山城主宇喜多直家の次男として生まれる。天正9年(1581年)直家の病死後、家督を継ぐ。元服のとき、豊臣秀吉から秀の字を与えられ秀家と名乗る。秀吉の養女豪姫(前田利家の娘)を正室にする。小牧・長久手の戦い、四国攻め、九州征伐、小田原征伐に参加。秀吉から、豊臣姓(本姓)、羽柴氏(名字)を与
〖蔓延防止対策も明けましたが、まだまだ警戒しましょう〗⚫そろそろまた頑張ってみようかと、復活。⚫【戦国庵】紋次郎のオリジナルアイテム通販↓こちらから!↓【戦国庵】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞〖ケータイ国盗り合戦国盗りクイズ〗【本日の問題】若いころは、いわゆる「かぶき者」であったとされる、「槍の又左」といったら、のちの誰のこと?1.前田利家2.福島正則3.伊達政宗答え:1.前田利家【解説】「かぶき者」といえば前田慶次が有名ですが、その義理の叔父である前田利家も、若
二頭身から三頭身前後のキャラで格闘技漫画を描きたくなってそのネームを描いてたりします(* ̄m ̄)プッ主人公のヤンとシンカのラフです物語のあらすじは世界に五大老と呼ばれ武術の達人がありその中で最も情に厚いリクハクは後継者に悩んでいた類まれなる武術の才と底知れない内力を持った主人公ヤンはリクハクの弟子の中で一番期待できる存在だったが天然系という致命的な欠点の為、誰にも勝てない「あいつが天然でなければ、世界一の武術家になれたものを、天は何故彼
今回の動画です。秀吉の死後に崩壊した五大老五奉行制とは豊臣秀吉の死後、権力を強める徳川家康の存在を恐れた石田三成。秀吉は生前、跡取りの秀頼の支えるために五大老五奉行制をつくった。ところがこの制度が崩壊。豊臣家の家臣が分裂し、反三成派の福島正則や加藤清正といった尾張出身の武将が中心となり、家康を頼るようになってしまった。今回動画では、関ヶ原の戦いに至るまでの背景やその分岐点となった出来事を紹介する。
宇喜多家の出自宇喜多氏は百済渡来人の末裔、児島高徳の子孫などの説があります。3代宇喜多能家康は備前の守護代浦上氏に仕えましたが同僚の島村盛実に襲撃されつた、一時期宇喜多氏は没落します。その孫の宇喜多直家な権謀術数で台頭し、主家浦上家を凌ぐほどの勢力になります。直家は毛利氏の力を借りて浦上氏を滅ぼすと同時に備前、美作と備中の一部を有する大名になります。直家の死後を継いだ宇喜多秀家は豊臣秀吉に可愛がられ、後に五大老のに抜擢されます。関連書籍紹介短編集の『宇喜多の捨て嫁』がおもしろいです。
広島城天守閣毛利氏、福島氏、浅野氏と城主を変えながら広島藩の拠点となった城広島城は、1589年に豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元によって築城されたんですね!
〖コロナ終息祈願!!〗⚫涼しくなりました。未だコロナ禍ですが風邪などにも気を付けてください!⚫《ドラッグストアより格安!》〘紋次郎も愛用♪めちゃ効く!〙【第2類医薬品】フェイタスZαジクサス21枚入※セルフメディケーション税制対象商品Amazon(アマゾン)1,626〜2,640円《キリンアルカリイオン水》【Amazon.co.jp限定】キリンアルカリイオンの水PET(2L×9本)Amazon(アマゾン)1,081〜2,500円《コスモウォー
【五】摂家【藤原北家】出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』””どっちも””挑戦創価暴力団明治織田昭和徳川平成清盛令和頼朝維新ロスチャイルド藤原付記五大老出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ナビゲーションに移動検索に移動この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年8月)五大老の花押。
コロナ影響で短縮された岡山市公立校の夏休みも今日で終わりです。残暑はまだまだ続きますが、気を引き締めて学校生活を楽しく送ってほしいです。8月1日から31日迄、岡山城夜間特別開館中だったので行きました。岡山後楽園では幻想庭園を開催中ですが以前に行った事が有るので、今回は烏城灯源郷を見て廻りました。戦国大名、宇喜多秀家(豊臣家臣五大老の一人)によって築かれた岡山城。黒漆塗りの下見板が取り付けられた外観から烏城(うじょう)と呼ばれています。因みに宇喜多秀家は頭脳
〖コロナ終息祈願!!〗⚫第二波に警戒!!もう少しみんなで頑張りましょう!⚫《日焼け止め》〘楽天市場売上No.1〙楽天1位!累計販売3万本日焼け止め「海でも焼かない」NALC日焼け止めジェルひやけどめ【ナルクウォータープルーフSPF50+PA++++顔&からだ用】新技術で水/汗でクリームが流れ落ちにくい。スポーツアウトドア日焼け止めクリーム楽天市場2,729円《Abemaプレミアム》《キリンアルカリイオン水》【Amazon.c
“豊臣秀吉”‥の辞世の句は、“露と落ち露と消えにし我が身かな浪速の事も夢のまた夢”‥というものです。でその意味は、“夢の中で夢を見ているかの様な、なんとも儚い人生だった”‥という意味でしょうか?慶長3年(1598年)、“秀吉”‥は病に倒れ自身の死を悟ります。子は6歳になる“秀頼”‥のみで、“秀吉”‥の悲劇は子宝に恵まれなかった事でした。せめて“秀頼”‥が元服でもしていたら‥と病床の“秀吉”‥は思ったかもしれません?“秀吉”‥は、“秀頼”‥の将来を少しでも確かなも
広島城の桜です🌸豊臣政権五大老の毛利輝元が築いたお城で広島市中心部にあり安土桃山時代から1945年まで現存していました🏯ですが第二次世界大戦末期に原子爆弾投下であえなく全壊しました🔥終戦後に広島復興のシンボルとして復元され現在に至ります🏯外壁が茶色の板張りで白壁のお城とは違うので新鮮さがあります💁♂️古いお城ですので、よ〜く見ると傷みもありますが造りは当時の城大工の腕の良さがよく分かります💪周りは内堀、外堀があり水面に映る櫓など城だけでなく見所も多数あります👀桜の季節でしたのでお
〖桜の季節は恋の季節〗⚫新生活が始まりましたね♪⚫「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」織田信長は本当は心優しき人だった?!↓♪こちらからどうぞ♪↓☆紋次郎SHOP☆↑こちらをクリック↑★4月のおすすめ商品★〘新生活応援キャンペーン〙【収納付きベッドフレーム】「コンセント付き!棚、引出し付き」ベッド収納付き引き出し付き木製棚付き宮付きコンセ…¥25,800(税込)【高級モダンの象徴/HighQualityModern】1:Design/洗練されたシンプル
■【きょうの人】0320上杉景勝謙信ほど有名ではないが豊臣政権の五大老の一人本日、ゆかりの人をご紹介します。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。■上杉景勝うえすぎかげかつ1556年1月8日-1623年3月20日戦国時代から江戸時代前期にかけての大名で、豊臣政権の五大老の一人です。米沢藩の初代藩主となり、上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目となります。初名は長尾顕景で、同じ長尾
「五大老・五奉行制度」というものを秀吉が創設して、その各ポストに配下の大名を指名して就任させた、といような、きっちりした官僚制を想像しておられるなら、それは全然イメージが違います。こういう仕組みというのは、たいてい、状況に応じて自然に出来上がっていくもので、それをあとからみて組織図みたいなものを書いても、それは「事実上こうなった」というだけで、「どういう意図でこういうシステムを作りあげた」ってのは、ないんです。秀吉政権はできたばかりで、しかも「いつ、秀吉は天下人に就任しました」という節目の儀
トレーナーの川上です!今回はトレーニングの5原則のお話この世界には色々な5原則や5大〇〇が有ります近代建築の5原則、賃金支払い5原則、平和5原則、ワイン🍷5大シャトー、五大老、五大湖…当然、トレーニングにもあります5原則①全面性:好きな部位ばかりトレーニングを行うのではなく、満遍なくトレーニングをする。②漸進性:同じ負荷で続けるのではなく、徐々に負荷を増やしていく。③反復性:反復し継続してトレーニングを続ける。④個別性:目的もあわせ個人に合った負荷やトレーニングを行う。⑤意識
最近登用した浪人武将です。先日の紀州遠征の人たちです。ここにはありませんが雑賀7人も登用しました。安国寺恵瓊は遠国でしたが、誰が連れてきたか忘れてしまいました。ほろほろ遠国で登用した人たち明智光秀、石田三成はさすがといったところでしょうか。この辺は史実に基づいて派遣した作戦がぴったりはまった感じです。それにしても毛利輝元の7万石でこの無能ぶりもう少し高くてもいいのでは・・・関ヶ原の戦いのせいか?となりの乃美宗勝は石高1万石で能力倍以上。圧倒的なコスパの