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第42回離れゆく心荒木村重信長に謀反光秀、鞆の義昭に会う第43回闇に光る樹信長、誠仁親王を二条御所へ織田・家康軍が武田勝頼を討ち取る見ていただきありがとうございます。今年はもっとソフトを使いこなして魅力あるイラストを描けるように頑張りたいと思います駒、戦国時代のキャリアウーマン、と言えるのでは。2024.1.01エンターテインメントランキング
明智秀満(105)京都所司代・村井貞勝は出家していて、春長軒と号していた。本能寺の変のおり、貞勝は自宅にいて異変を知った。「父上、既に本能寺は明智の軍勢に包囲され、近づくこともできません。」と貞成は言う。「これはいかん、裏口から出て、妙覚寺の三位中将様にお助け願おう。」と貞勝、貞成、清次の三人は妙覚寺に向かったのである。しかし敵は思いのほか大軍で、事態は深刻であった。明智軍は信長とその家臣以外は無闇に傷つけることはなく、僧侶姿の貞勝と平服の二人は怪しまれず、妙覚
本日は旧暦6月1日で、朔日、つまり新月の日となっています。旧暦では、1日は新月、15日は満月となっていて、日付で月の状態がわかりやすくなっています。このことを知ってから、国史上の事件は旧暦でみなければわからない、と思うようになりました。例えば、赤穂浪士の討ち入りは、12月14日ですが、これは吉良上野介がこの日家に確実にいるという情報が入ったのも重要ですが、この日が翌日が満月という14日の晩で明るい晩であったことも討ち入りにもってこいの日であったのだと思うのです。実際この日は良く晴れた
三宅弥平次㊼「信長公記」『七月十六日、真木島へ、信長御馬をよせられ、五ケ庄のやなぎ山に御陣を居えさせられ、則ち、宇治川乗り渡し、真木島攻め破られるべき旨、仰せ出される。誠に名も高き宇治川漲り下って、逆巻き流るゝ大河の表、渺々として冷じく、輙く打ち越すべき事大事と、各存知せられ候と雖も、御用捨てあるべき御気色これなきにおいて、引延すは、信長公御先陣なさるべきの旨に候。遁れがたき題目なり。就いては、両手を分かちて打ち越すべきの趣、仰せ出され候。』畿内の摂津国では池田知
三宅弥平次⑪しばらくは弥平次の主である光秀の話が続くので、少し掛け足で進もう。朝倉家に仕官した光秀は、どれほどの身分だったのだろう。私が考えるに、朝倉家は当時の日本を代表する「大企業」であり、その「本社機能」は一乗谷にあった。一乗谷ではCEOである朝倉義景を中心に、一族・宿老・譜代の家臣に依って組織が固められていて、いわば硬直した組織機構であった。「本社」の下には完全子会社の「朝倉販売」だの「朝倉商事」等がぶら下がっている。光秀は、その「朝倉販売」の営業所長に抜擢さ
本日は旧暦6月1日で、朔日、つまり新月の日となっていて、11:53に新月となります。旧暦では、1日は新月、15日は満月となっていて、日付で月の状態がわかりやすくなっています。このことを知ってから、国史上の事件は旧暦でみなければわからない、と思うようになりました。例えば、赤穂浪士の討ち入りは、12月14日ですが、これは吉良上野介がこの日家に確実にいるという情報が入ったのも重要ですが、この日が翌日が満月という14日の晩で明るい晩であったことも討ち入りにもってこいの日であったのだと思うので
本日は旧暦6月1日で、朔日、つまり新月の日となっています。旧暦では、1日は新月、15日は満月となっていて、日付で月の状態がわかりやすくなっています。ツキとタイヨウと暦@_NichiNichi_˙7/10(旧暦6/1)@東京[today'smoon]月出:4時17分南中:11時52分<高度79.5度>月齢:0.1<輝面比0.0%>(南中時)月没:19時24分※7月10日の10時17分が新月です。…https://t.co/CmE7l2ccN82021年07月10
おはようございます。昨日は気温が上がりましたね。最高気温が30度を超す真夏日のところが10ヶ所以上ありました。そろそろ半袖が活躍しそうです。******************************************************************************************************************************************************昨日、京都新聞を見ていると、滋賀県近江八幡市安土町の沙沙
【朗読】弥助がゆく“輝け戦士”第10話、二条御所の奇跡(‟Yasuke:theBlackSamurai”historiadeunguerrero)弥助と、明智軍の、壮絶な戦いの火蓋が切られようとしている!信長を介錯をした弥助は、嫡男、織田信忠の加勢に行く。信忠は織田家臣、村井貞勝から、光秀の謀反を知った。貞勝の妙案で、信忠は妙覚寺から、信長によって築城された、二条御所に場所を移した。御所は皇太子、誠仁親王(さねひとしんのう)が暮らしている。信忠と貞勝は、そこに目を
いつも御視聴、ありがとうございます。これからの弥助がどう変貌していくか、独断と偏見ではありますが、出来る限り、弥助や信長の気持ちになって、物語を創っています。動画の中にある画像、動画ですが、物語とは別の建築物や、景色、人物、時代等、違うものも出てきますが、イメージで使用させて頂いておりますので、どうか、ご了承のほど、よろしくお願いいたします。次回、本能寺の変その2、二条御所の戦い。弥助が一人で膨大な数の、明智兵達と激しく戦います。どうぞお楽しみに。___________
読んでみると、これはずいぶんと火の玉ストレートなタイトルの本だと思いました。信長が主体的に京都と関わるようになった永禄11年から亡くなる天正10年6月2日までの在京の記録を同時代史料をベースに検証した本です。「信長在京表」には信長がいつ、どこを宿所にして、いつまで在京したか、そしてその出典は何かのみがまとめられています。それ以外では、在京していない時期の信長行動に軽く触れている程度です。著者がこの記録から信長と京都との関わり、言い換えれば信長にとって京都という都市はどんな存
本日は旧暦6月1日で、朔日、つまり新月の日となっています。旧暦では、1日は新月、15日は満月となっていて、日付で月の状態がわかりやすくなっています。このことを知ってから、国史上の事件は旧暦でみなければわからない、と思うようになりました。例えば、赤穂浪士の討ち入りは、12月14日ですが、これは吉良上野介がこの日家に確実にいるという情報が入ったのも重要ですが、この日が14日の晩で満月の明るい晩であったことも討ち入りにもってこいの日であったのだと思うのです。実際この日は良く晴れた晩だったと
玄以の出身地には尾張と美濃の両説あります。それについては「岐陽(岐阜)」出身とする南化玄興の証言を信じようと思います。玄以が京都所司代になる前の経歴もよくわかりません。かろうじて織田信長、次いで、その嫡男織田信忠に仕えていたことがわかるだけです。こうなったら、江戸時代の伝記を参考にするしかありません。幕末に編纂された『名将言行録』には天正一〇年(1580)、信長が本能寺で討たれたときの話が掲載されています。京の二条御所で明智光秀の軍勢に包囲された信忠は玄以
西郷隆盛一般社団法人歴史と自然をまもる会一般社団法人歴史と自然をまもる会。歴史と自然に関する探訪や講座、機関誌を発行し福岡や九州の歴史と自然を愛護する精神を涵養させ文化の振興に寄与します。「証券市場の歴史展」に関するアンケートJPX東京証券取引所が2017年12月26日~2018年1月25日に開催した「証券市場の歴史展」にかかるご感想やご意見をお聞かせ下さい。アンケートにご回答いただき、プレゼントの受取りをご希望された方に、もれなく「証券市場の歴史展ハンドブック(非売品)」をお送
にほんブログ村大垣城を手に入れた武田家には、上洛の道が見えていたが、織田家の力は依然強大だった。永禄3年7月。今川家の長篠城を攻めていた松平・織田連合軍だったが、松平家の部隊は撤退をしたが、織田家の丹羽長秀隊らは城の包囲に成功した。【中古】丹羽長秀信長と秀吉を補佐した「信義」の武将PHP文庫/菊池道人(著者)【中古】afb198円楽天【中古】戦国大戦/R/織田家/Ver.11560尾張の風雲児織田022[R]:丹羽長秀170円楽天<豊臣秀